僕の専門たる臨床心理学のマインドマップも既にできあがっているが、これを元に自己講義法で知識を定着させていく作業はまだできていない。やばいな、何やってんだ。
古代史に関して八切止夫を読んでいるが、文章下手すぎ。読んでいてイライラする(南郷師範の文章が下手だとか悪文だとかいう話を聞いたことがあるが、僕はそう思ったことは一度もない。瀬江さんの文章はうますぎるが)。『古代史入門』は何とか読了したが、『天の日本古代史研究』は途中で挫折。『野史辞典』と『庶民日本史辞典』を比較すると、明らかに後者の方が初心者向けのようだ。後者の興味深い記事を読みつつ、初期の『日本原住民史』でも読んでいこうと思っている(『野史辞典』か『庶民日本史辞典』か忘れてしまったが、「私には『○○』や『××』という名著があるが」というような記述があった。笑った。しかしその大言壮語、嫌いではない)。それにしても八切止夫、通説と全く違ったオリジナルの論を展開している。文章が下手すぎるせいか、はたまた僕の読解力不足か、イマイチどういう主張なのか、完全には把握してはいないが、通説(=学校で教わる日本史)とは全然違う、奇想天外な物語であることは確かだ。それにしても文章が下手すぎる。本当に作家か? 口述筆記でも、ここまではひどくならないだろう、とか思ってしまう。
エレナ・ポーター『少女パレアナ』(角川文庫)を読んだ。南郷師範は取り上げていないようだが、認識論の教材として、非常に面白い。端的にいえば、我々の認識というのは、脳細胞が描く像であり、もっとも弁証法性豊かな・変化性に富む・存在であるから、いかようにも変化するし、変化させることができるという論理が、「喜び探し」ゲームという形で説かれている小説である。あるいは、対象の多様性=弁証法性が、説かれているといってもいい。我々は、我々が生活している世界の断片しか捉えられていないのであって、世界は無限の広さを持っており、さらに無限の多様性を持っている。我々が捉えているのは、対象のほんの一面であって、その捉えた対象の一面=認識=像によって、我々は感情的に支配されている。アホみたいな表現でいってしまえば、対象にはマイナスの面もあればプラスの面もある、ということだ。マイナスの面しか見えていないから、悲しくもなり辛くもなるのだが、プラスの面を積極的に探すことによって、嬉しくなり楽しくなる。観念論的にいえば、世界とは我々が創り出したものであり、我々の経験とはすべて主観的経験なのである。そのようなことが、感動的な物語として説かれている。さらに、社会的認識の変化・発展という点でも興味深かった。すなわち、パレアナという個人が、一つの村(?)の社会的認識を、一変させてしまうのである。歴史を動かす個人のミニマム形態といったところか。
友人から教えてもらった幸田真音、お兄ちゃんと同じ高校出身と判明。さっそく一冊小説を注文した。一日分の酒を控えれば、文庫本一冊を余裕で買うことができることに気がついた。
コーチング。最近流行だが、バカにできない成果を残している気がする。こういった分野で説かれている内容も、弁証法・認識論的に捉え返すことによって、しっかり論理化する、自分の実力と化す、ということが重要であるように思う。「論理的に捉え返す」ということが非常に大切だ。どんな対象であっても学ぶべき点がある。
5月になったので、灼熱の砂利道ジョギング再開。既に十分すぎるほどの熱さだ。昼間は灼熱の砂利道ジョギング、夜は普通に5キロ強のジョギングを生活化したい。
『「いのちの歴史」の物語』読書会、終了。次回からは、統計学読書会。大学院では、統計学をしっかり身につけることを第一の目標として研究したい。そのような研究ができる大学院を選ぼうと思う。
佐藤琢磨がポイントゲット。かなり運もよかったが、フィジケラを抜いて8位になった時、普段は冷静沈着な僕もほんのちょっとだけ興奮してしまった。
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