2007年09月23日

臨床心理士指定大学院合格のための参考書

最近までしばらく、二つのブログの更新をストップしていたが、その間一体何をやっていたのかというと、大学院入試に向けての勉強に専念していたのである。

僕は将来、臨床心理士として、心の問題を抱える人々を援助することを通して、認識とは何かの謎に迫っていきたいと考えている。あるいは、既に構築されている認識論の再措定を試み、その上に何らかのオリジナルなものを積み上げていきたいと考えている。これを実現するためには、まず、臨床心理士にならなければならない。臨床心理士の資格を獲得するためには、臨床心理士の資格試験に合格しなければならず、その資格試験を受けるためには、指定大学院を修了していなければならないのである。そこでまずは、指定大学院の入学に向けて、入試を突破するために勉強していたわけである。

先日、大学院入学試験が行われ、無事合格することができた。合格できたから正直に告白するが、真剣に院試勉強をした期間は、わずか3〜4ヶ月である。しかも、仕事をしながら、である。さらにいうと、僕は心理学科出身ではないので、心理学の知識は、ごく少数の一般向けの新書と教科書をざっと通読した程度で、ほとんど皆無に近かった。一例を挙げれば、今年の4月の末の時点で、「エンカウンターグループ」といわれても、「何か聞いたことがあるような、ないような、何だったっけ?」というようなレベルだったのである。一応その場では、知ったかぶりをしておいたが(念のために述べておくと、僕は意図的に知ったかぶりをすることがある。知ったかぶりは上達論の一つの要であると思っている。詳細は後ほど)。

そんな心理学の知識ゼロから3〜4ヶ月で、それなりに難易度もあり倍率も高いとされる臨床心理士の指定大学院に合格できたのである。イヤ、何も、「俺は頭がいいだろう。はっはっは。やってやったぜ!」などという、受験秀才丸出しの自慢がしたいわけではない。そもそも、僕は自分自身のことを受験秀才だとは思っていないし、大学に入ってからは、極端にいうと、新しい知識の吸収をやめてしまって、ひたすら、弁証法・認識論の勉強に関わる範囲内の知識(中学教科書レベルなど)しか、扱ってこなかったといっていい。鈍才になるための努力とでもいおうか。

それはともかく、次回は、大学院入試の勉強を通してある程度実感できた、「短期間で特定の分野の知識を吸収する方法」を公開したいと思う。受験秀才には無用のテクニックである。鈍才の皆さんは、乞うご期待、である。

今回は、院試勉強で使った教科書・参考書などを、主なものに絞って紹介しておきたい。


<基本書>

@馬場禮子『改訂版 臨床心理学概説』(放送大学)



放送大学の教科書。
コンパクトで、臨床心理学の全体像がしっかりつかめる。


<問題集>

A山口陽弘・高橋美保『試験にでる心理学 臨床心理学編』(北大路書房)



公務員心理職向けの問題集。
非常に優れており、「ブックリスト」も参考になる。


B『臨床心理士指定大学院攻略〔専門科目編〕』(東京図書)



その名の通りの問題集。
誤答が多すぎるため、ある程度の力がついてからでないと危険。


<用語集・事典類>

C坂野雄二『臨床心理学キーワード』(有斐閣)



コンパクトだが情報量が多い。
知識の総チェックに使える。


D『臨床心理学と心理学を学ぶ人のための心理学基礎事典』(至文堂)



タイトルが非論理的だが、
内容は分かりやすく、非常に明快。


E『心理学辞典』(有斐閣)
F『心理学事典』(平凡社)



心理学を学ぶ際の基本の辞事典。
EのCD-ROM版が便利。


G『心理臨床大事典』(培風館)



いうまでもなく大学院生は必読・必携の事典。
やはり、この事典がないとカバーできない範囲がある。


<一般心理学参考書>

H鹿取廣人・杉本敏夫『心理学』(東京大学出版会)



古典的教科書の改訂版。
心理学の全体が、要領よくまとまっている。


I無藤隆ほか『心理学』(有斐閣)



比較的新しい心理学の教科書。
詳細でハイレベルだが、発達心理の部分は分かりにくい。


<研究法参考書>

J南風原朝和ほか『心理学研究法入門』(東京大学出版会)



心理学一般の研究法について。
よくまとまっていると思う。


K下山晴彦『臨床心理学研究の技法』(福村出版)



臨床心理学によく使われる研究法について。
研究計画書を書く上で、非常に役立った。


<その他>
Lかしまえりこ・神田橋條治『スクールカウンセリングモデル100例』(創元社)



スクールカウンセリングの事例が100紹介されている。
擬似的にカウンセリングを体験できる。


M丹野義彦『エビデンス臨床心理学』(日本評論社)



異常心理学の教科書。
やや高度な内容だが、非常に分かりやすい。


N倉光修『臨床心理学』(岩波書店)
O下山晴彦『よくわかる臨床心理学』(ミネルヴァ書房)



臨床心理学の教科書。
基本書を補完するために使った。


P下條信輔『サブリミナル・マインド』(中公新書)



東大教養学部での講義をまとめた内容。
認知社会心理学までをおさえており、非常に興味深い。


Q岡田尊司『子どもの「心の病」を知る』(PHP新書)



新書なのに情報量が多い精神医学入門。
索引も充実しており使いやすい。。


R久能徹・松本桂樹『図解雑学心理学入門』(ナツメ社)
S松原達哉『図解雑学臨床心理学』(ナツメ社)



解説と図解のセットで、メジャーなトピックを扱った本。
バカにできない内容で、はじめの一冊にお勧め。
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2007年09月11日

鹿島茂『勝つための論文の書き方』(文春新書)



以前チラッと紹介した鹿島茂『勝つための論文の書き方』を読了した。以前紹介したときには、以下の部分を引用しておいた。

「論文というのは、自分の頭でものを考えるために長い年月にわたって練り上げられた古典的な形式なので、ビジネスだろうと、政治だろうと、なんにでも応用がきくのです。いいかえれば、優れた論文作成能力を獲得している人は、優秀な学者になれるばかりか、優秀なビジネスマンにも、優秀な政治家にもなることができるのです。」(p.221)

今回通読してみて、確かにそういう面はあると思った。というのは、本書で一番強調されているのは、「問題の立て方」だからである。

論文というのはオリジナルな・意味のある・問題を立てて、それを考察し、論証して、最終的に解答を出すという形をとっている。そうであるならば、この形式は何も学問に限ったお話ではなくて、日常生活であれ、ビジネスであれ、応用可能な汎用性を持っているといえる。

以前テレビで、廃タイヤから出るチューブをなんとかリサイクルできないものか?との問いを立てて、ゴムの弾力性に目をつけて、ノートパソコンを入れるケースの素材として採用し、成功をおさめたケースが紹介されていた。これなどは、「廃タイヤから出るチューブをなんとかリサイクルできないものか?」という独創的な問いを立てた時点で、ほぼ勝負あったという感じである。つまり、論文でもビジネスでも、一番難しく、かつ一番重要なのは、問いの立て方なのであって、ユニークな面白い問いを立てることさえできれば、優れたものを創り出せる可能性がグッと高まるわけである。

そういう観点から、本書では問題の立て方が重視され、その解説が中心になっているといってもよい。

本書でも指摘されているが、日本の学校教育の最大の問題点は、こういった問いの立て方を教えないという点だと思う。それどころか、問題はすでに存在しており、その解答も決まっている、そういう問題を解くことのみを訓練させられるのである。それゆえ、偏差値が高い者は、自分で問題を発見するとか問いを立てるとか、そういった発想を持てなくなってしまう。これでは学問ができない。自分の専門分野の全てを学んで問うてこそ学問なのだから。

さて本書では、まず、「問いは、比較からしか生まれない」として、問いを見つける基本的方法を二つ挙げている。「縦軸に移動する」と「横軸に移動する」である。これらは言語学でいうところの通時的比較と共時的比較に対応する。次に、見つけた差異と類似を分析する方法や、仮説による検討でその問いが本質的なものかどうかをチェックする方法が説かれる。

そして最後に、未聞の問いを発想する最大のポイントとして、構造把握力を挙げている。これは丸谷才一言うところの見立て力であり、レヴィ=ストロース的にいうとブリコラージュということになる。ここに関して鹿島教授は次のようにまとめている。

「ある分野で培った見立て力=構造把握力を、他の新しい分野にも応用し、そこに共通の型を見抜いて、問題を見つける。これが、前人未踏というよりも、前人未問の問いを立てるために必要不可欠の方法です。」(p.77)

ここから、複数の専門分野を持つ必要性について説いていく。

これを読むと、複数の専門分野を持つ必要性というのは、われわれの立場的には一般教養の重要性ということであるし、構造把握力というのは、弁証法的な論理能力ということになると思う。われわれはある意味、未問の問いを立てるために一般教養と直接に弁証法を学んでいるといえなくもないだろう。

鹿島教授はフランス文学及びフランス文化を専門とする人文系の人であるが、この論文の書き方の本は、人文系に限らず、自然科学や心理学の論文の書き方としても、十分通用する普遍性を持っていると思う。僕も誰も立てたことのないようなオリジナルで意義のある問いを発見して、立派な論文を書きあげたいものだ。
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2007年09月09日

V.E.フランクル『夜と霧』(みすず書房)



ヴィクトル・フランクル『夜と霧』を読了。新訳も出ているが、僕は旧訳(霜山徳爾訳)の方を読んだ。いうまでもなく、アウシュヴィッツの強制収容所における一心理学者の体験記である。

参考までに書いておくと、著者のフランクルは、ウィーン生まれの精神医学者。フロイト、アドラーに師事するも、「快楽への意志」や「権力への意志」ではなく、「意味への意志」を重視し、実存分析・ロゴセラピーを提唱した。

僕がこの『夜と霧』を読んだのは、「極限状況におかれた人と人間一般と」(薄井坦子『看護学原論講義』現代社、p.90)を学ぶためである。薄井先生は、『看護学原論講義』の同じ箇所で、次のように説いておられる。

人間に働きかける職業人にとってもっとも基本的なことは、<相手の立場をどれだけ観念的に追体験できるか>ということである。人はさまざまであり、自分は自分であるから、どんな人と向かい合っても、その人をその人として見つめ、その人のその時の実像にできるだけ近いイメージを、できるだけはやく描くことができるよう、あなた自身の「直接的・間接的経験の幅と深さ」を求める学習を重ねてほしい。


その後、三つの学習課題と『精神病者の魂への道』や『夜と霧』を含むいくつかの学習文献が挙げられている。これは、心理臨床家を目指す僕にとっても、そのまま当てはまる大切な学習課題である。ということで、さっそく読んでみたわけである。知人に勧められたということもあるが。

では、本題である。本書でフランクルは、収容所生活における囚人の心理的反応を、三つの段階に区別している。最初が、収容所に収容される段階である。この段階は、「収容所ショック」と名づけられるようなものによって、特徴づけられている。過酷を極める強制労働や拷問によって、ショックを受ける段階である。

次が、本来の収容所生活の段階である。ここでは人は比較的無感動になるという。ドストエフスキーがいうがごとく、人間は「すべてに慣れ得るもの」であるから、「苦悩する者、病む者、死につつある者、死者――これらすべては数週の収容所生活の後には当たり前の眺めになってしまって、もはや人の心を動かすことができなくなるのである」(p.102)。この無感動は、「必要な心の自己防衛であった」(p.110)とフランクルは説く。

そして最後の段階が、収容所からの釈放乃至解放の段階である。この段階について、フランクルは次のように書いている。

「この心理的な極度の緊張の後に続いたのは完全な内的弛緩であった。誰かがわれわれの間に大きな喜びが漲っていただろうと考えるならばそれは大きな間違いであった。」(p.197)
「解放された仲間の体験したものは心理学的な立場からいえば著しい離人症であった。あらゆるものは非現実的であり、不確実であり、単なる夢のように思われるのである。まだ人はそれを信じることができないのである。」(pp.198-199)

以上のような極限状態におかれた人間の認識についての記述は、実験することが非常に困難であるだけに、とても貴重な資料である。

さて、僕がこの本を読んで一番感銘を受けたのは、第八章「絶望との闘い」である。ここで僕は、人間とは認識的実在であるということをしっかりと分からされた。もう少しいえば、認識=像の威力とはこれほど凄いものなのかと思い知らされたのである。

第八章の出だしはこうである。

「収容所生活が囚人にもたらした精神病理学的現象を心理療法や精神衛生の見地から治療しようとするすべての試みにおいて、収容所の中の人間に、ふたたび未来や未来の目的に目を向けさせることが内的に一層効果をもつことが指摘されているのである。また本能的に若干の囚人は自らにこの試みを行ったのであった。彼らはおおむね何か拠り所にするものを持ち、また一片の未来を問題としていた。」(p.177)

そして、自分自身の場合について、次のように書いている。

「私のあらゆる思考が毎日毎時苦しめられざるを得ないこの残酷な脅迫に対する嫌悪の念に私はもう耐えられなくなった。そこで私は一つのトリックを用いるのであった。突然私自身は明るく照らされた美しくて暖い大きな講演会場の演壇に立っていた。私の前にはゆったりとしたクッションの椅子に興味深く耳を傾けている聴衆がいた。…そして私は語り、強制収容所の心理学についてある講演をしたのだった。そして私をかくも苦しめ抑圧するすべてのものは客観化され、科学性のより高い見地から見られ描かれるのであった。――このトリックでもって私は自分を何らかの形で現在の環境、現在の苦悩の上に置くことができ、またあたかもそれがすでに過去のことであるかのようにみることが可能になり、また苦悩する私自身を心理学的、科学的探究の対象であるかのように見ることができたのである。」(p.178)

われわれ人間が悩み苦しむのは、われわれを悩み苦しませる外的環境・状況のためではない。その環境なり状況なりを反映した認識=像が、もっといえば、その認識=像につながっている不快な未来像が、人間を悩ませ苦しめるのである。したがって、その不快な像を観念的に自分から切りはなし、いわば直接性を切りはなして媒介関係に置くことができるならば、悩みや苦しみは軽減するのである。

フランクルは、聴衆の前で収容所生活について語っている未来の自分を想像=創像することによって、この切りはなしに成功した。現在の不快な認識=像を、観念的に対象化し、客観化できたのである。もう一人の自分を創りだし、別な立場から現在の自分を眺めることができたのである。

フランクルにとってこれは、その時の苦しみをやわらげただけではない。この苦しかった体験も、将来は自分自身の研究対象となり、そのおかげで立派な業績を上げられるのだという未来像が、フランクルに目的を与え、生きる力を与えたのだと思う。

「これに対して一つの未来を、彼自身の未来を信ずることのできなかった人間は収容所で滅亡して行った。未来を失うとともに彼はそのよりどころを失い、内的に崩壊し身体的にも心理的にも転落したのであった。」(p.179)

端的にいえば、人間の体力とか、肉体的な健康さといったものではなく、人間の描いていた認識=像によって、収容所での生死が決まったのである。

認識とは対象の反映であり、像である。しかし、認識と対象は相対的に独立しており、最高の弁証法性を孕んでいる認識という存在は、訓練次第でいかようにも変化させることができるようになる。一流の認識論者を志す僕としては、フランクルの事例に倣って、自己の認識のコントロールに努めていきたい。唯一直接見える認識は、自分の認識しかないのだから。
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2007年09月07日

そこに山があるから、ではない

山に登った。日本一高い富士山の三分の一強の高さの山である。なぜ登ったのか? そこに山があるから、ではない。直接の理由は、友人に誘われたからだが、それに加えて、ちょっとした運動をしたかったのと、存在する山に登ること自体でも、それも日本一の三分の一程度の山に登ることでさえも、それなりにたいへんなのだという実感を持ちたかったからである(念のために述べておくと、僕の念頭にあるのは学の山である)。

最初は、それほどきついとは思わずに、僕が先頭になって、ハイペースで登っていった。しかし、1合目までたどり着くのに、非常に疲れてしまった。さらに、3合目にたどり着くまでに、貧血というか酸欠というか、そんなくらくらする、血の気の引いた状態に陥ってしまって、他の二人に非常に迷惑をかけることになった。

この時点で、「もう絶対頂上までなんて無理だ」と思ったが、そこは集団力でもって、何とか自分を叱咤して登り続けた。途中、三人のうち僕だけがふくらはぎをつってしまい、なおかつ、最後の方では、全く二人のペースについていけず、かなり後れをとってしまった。非常に情けない思いをしたものの、何とか頂上までたどり着けた。

山頂はあいにく雲に覆われていて、5メートル先も見えない状態だったが、充実した達成感を味わえた。昼食を食べて、一時間くらい休憩したあと、来た道を下っていった。

下りは非常に速いペースで進んで行けた。登りは3時間かかったが、下りは1時間半だった。なお、下りでも僕だけが太ももをつってしまった。日頃の運動不足が身にしみた。

自然の山道を登り下りするのは気持ちがいいし、足腰を鍛えるのに非常にいい運動になると思うので、雪が積もるまでに、是非もう2回くらいは登ってみたい。今回の一番の失敗は、ペース配分を考えずに初めに飛ばしすぎたことにあると思う。だから次回は、もうちょっと慎重に、ゆっくりとしたペースで登りたい。
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2007年06月20日

スカイプ

最近、スカイプをはじめた。無料のインターネット電話である。インターネットに接続できる環境にあれば、あとはマイクとイヤホンのみで、無料で、世界中のスカイプユーザーに電話ができるのである。カメラがあれば、テレビ電話にもなる。また、チャット機能や、同時に複数の人と会話できる機能などもある。

英語学習のために、英語を話す知らない人と会話することも可能である。私の場合は主に、普段メールでやりとりしている知人と会話するために使っている。スカイプを使えば、メールでやりとりするより、数倍効率がよい。もちろん、二人の時間を調整しなければならないというようなデメリットもあるが。

僕はスカイプ用にヘッドセットを買った。



耳にかけるタイプで、長時間つけていてもそれほど問題はない。相手の声も、普通の電話以上にクリアーに聞こえるし、マイクも雑音をカットする機能までついている。手元で音量調節と、マイクのオン−オフの切り替えができる。もっと安いのであれば、1000円くらいで買える。

まだ使っておられない方は、是非どうぞ。
posted by 寄筆一元 at 16:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月08日

細野真宏『経済のニュースがよくわかる本』(小学館)



数学を教える予備校講師の書いた経済の本。「日本経済編」「世界経済編」「銀行・郵貯・生命保険編」の三つがあるが、今回は初めの二つを読んだ。「そりゃ、売れるわ」というのが第一印象。

実はこの著者の本は、この二冊以前に『世界一わかりやすい株の本』(文藝春秋)を読んでいた。この株の本は、確かに分かりやすいものの、非常に薄っぺらで、あまり得るものがなかった。1000円を返せと言いたい。正直、株の本なら、もっといい入門書がある。それだけに、この『経済のニュースがよくわかる本』もそれほど期待はしていなかった。

しかし、友人の薦めもあって今回読んでみると、いい意味で大きく期待を裏切られた。まず、株の本と違って内容がそこそこ深い。特に「世界経済編」は、戦後の国際通貨体制から始まって、ヘッジファンドがデリバティブを使っていかにポンド危機・アジア通貨危機を起こしたか、ロシア危機ではいかなる誤算があったのか、などが説かれていて、初めて知ったことも多かった。

中でも興味深かったのは、ロシア危機のところで説かれていたブラック・ショールズの方程式である。これは、デリバティブの一つであるオプション取引の価格を求めるための式である。フィッシャー・ブラックとマイロン・ショールズの二人によって創られ、ロバート・マートンによって「数学的に正しい式」だと証明された。ガンで死亡したフィッシャー・ブラックを除いた二人は、この功績でノーベル経済学賞を受賞している。この式によってオプション取引が大きく普及したのみならず、デリバティブに関する研究も飛躍的に発展したらしい。

この式の何が興味深いかというと、実はこの式は「正規分布に従う」という前提のもとでつくられているのだ。この前提のもと、ロシア危機後に起こった「パニック状態」が起こる確率を求めると、「1兆年に1度も起こらない」ということになってしまうという。今統計を勉強している最中なので、後々、この式のどこに不備があったのかを論理的に説けるようになりたいものだ。一つ、宿題ができた。

さて、この細野本の最大の特徴は、なんといってもその分かりやすさにある。円高・円安や日銀の仕事といった経済の非常に初歩的なところから、今触れた国際通貨体制やデリバティブといった内容までを、非常に分かりやすく、それこそ小学生にも理解できるように説いてある。これはなかなかできないことである。おそらく出来の悪い受験生を指導する中で、誰にでも分かりやすく説明する術を実力と化していったのであろう。

なぜ分かりやすいのか? それは、本書がクマ(?)のコロちゃんとの対話編になっているからである、ということもいえなくもないが、最大の理由は別にある。それは、いたるところに「例えば」といって具体例が登場するからである。しかもその具体例がシンプルで、またマンガを効果的に使っているため、否が応でも理解させられてしまうのである。

論理的にいえば、表象の使い方がうまいのである。表象というのは、抽象的認識と具体的認識を媒介する過渡的な段階である。だから表象を駆使して説かれると、認識ののぼりおりがしやすくなり、「分かった!」となるのである。

また、論理に飛躍がない。「日本の景気が悪い時には、円安に進む(可能性が高い)」といわれれば、「まあ、そうだろう」とか普通思ってしまうが、なぜそうなるのかということを、これでもかというくらい詳しく、具体的に説明するのである。これは大学の先生にはできがたいことであろう。こういったことは、単に本を読んで抽象的に理解しているだけでは決してできないことである。真に経済という対象を理解している、もう少していねいにいえば、具体的な経済現象から、自分自身で抽象化の道を一度辿っている、といえるのではないか。

もちろん、経済学を体系的に説いているというようなことは全くないが、対象を理解しているのであれば、最低限、この程度のわかりやすさで説けるはずだといういいお手本になるような気がする。

本書は、高校生くらいが経済の初歩的な知識を吸収するのに非常によい教科書になると思う。「日本経済編」で獲得した知識(=基礎)を、「世界経済編」で応用して知恵(=使える知識)に変えようと意図されているので、この順番で読むのがいいだろう。大学生や社会人にとっては、「日本経済編」で説かれているバブル経済や、その崩壊、不良債権問題など、「何を今さら」という感じがするであろうが、先述した通り、解説法の勉強をするのだと思って、こちらから読んでもらいたいものだ。案外、自分の理解が曖昧であったことが判明したりするかもしれない。

引き続いて「銀行・郵貯・生命保険編」も読んでみようと思う。さらに「世界経済編」で予告されていた「日本の財政問題とアメリカ・ヨーロッパ・中国経済編」も出たら読んでみたい。
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2007年05月24日

ZA-KHEMじゃない『学城』(第四号)

『学城』の最新号が届いた。嬉しくて死にそうだ。

今朝、現代社のHPで、昨日『学城』が出たことを知った。昨日出たのだから、ひょっとして今日届くのではないかとの期待を抱いた。それにしても、ZA-KHEMの文字が消えているのが気になった。

そうこうしているうちに、午前中に届いた。実物を見てみると、やはりZA−KHEMの文字がない。表紙には、「学城」という文字の背景にDAS REICH VON WISSEN SCHAFT(「学問の王国」という意味か?)の文字が。

悠季真理氏による「編集後記」によると、「『弁証法はもやは常識』として次のレベルに昇っていくことにした」とある。つまり、弁証法の発展史としてのZA−KHEM=ゼノン・アリストテレス−カント・ヘーゲル・エンゲルス・三浦つとむはもう卒業ということだろう。それにしても、一度もZA−KHEMの意味を説かないのはいかがなものか、とか思ってしまわなくもない。熱心な南郷信者なら、わざわざ説かなくても分かるだろう、との思惑か?

パラパラと眺めてみると、p.70の「図2」、やはりそう来たかという感じだ。瀬江千史、畏るべし。僕が南郷学派で南郷継正を超える可能性が一番あると思っている、語学の達人と論理能力の達人の媒介的統一(?)たる悠季真理、実は僕が勝手に設定した、僕の最大のライバルである。すなわち、僕はやはり、どうしても哲学への憧れが捨てられない。

前から分かっていたが、南郷継正、弁証法の復興者=カントや、弁証法の達人=ヘーゲル・マルクス・エンゲルス・三浦つとむをはるかに凌駕している。学派を総括ならぬ統括している様は、見事としかいいようがない。ちなみに、僕は岩波書店の古代ギリシャ関係の誤訳を読んだことがない(念のためにいっておくと、岩波書店の翻訳文が誤訳ではない、などと主張しているのではなくて、そもそも岩波書店の翻訳文を読んだことがない、というだけのこと)。全集第7巻は、もう既に原稿ができているようだが、第3巻の上梓を強く望む。


P.S.

どうでもいい(ということもないが)が、『弁証法はどういう科学か』は絶版になるのか? 現行の講談社現代新書版より、初版の方がいいのか?
posted by 寄筆一元 at 23:21| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする