2008年02月09日

大学生に推薦する書

塾で指導している高校三年生から要望があったので、私が大学生に勧める書のリストを作った。ここに紹介しておこう。

【1】学問全般
大学は最高学府であるからして、大学生はすべからく学問に取り組むべし。

1.三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)
 頭のよくなりたい学生は必読。私の座右の書。
2.河合栄治郎『学生に与う』(現代教養文庫)
 あるべき学生生活を描く魂の書。
河合栄治郎の情熱が伝わってくる。
 絶版だが、
 http://www.ebookjapan.jp/shop/book.asp?sku=60007347
 で電子版が買える。
3.出隆『哲学以前』(講談社学術文庫)
 学中の学たる哲学の入門書。難解。
 戦前の学生が熱狂的に読んだ。
4.湯浅俊夫『合格小論文の書き方』(旺文社)
 大学入試用の参考書だが、
 大学でレポートや卒論を書くときにも十分使える。
 参考文献にも、是非読んでほしい本が紹介されている。
5.中学校の理科・社会の教科書
 自然科学・社会科学の基礎として。
 非常に論理的に説かれている。


【2】歴史
人類は歴史的に発展してきた存在である。
人類の壮大な歴史を学んでこそ現在が理解でき、
歴史性を把持することができる。

1.本田克也他『看護のための「いのちの歴史」の物語』(現代社)
 単細胞から人間にいたる「いのち」の変化・発展の流れ。
 あらゆるの歴史の基本として。
2.H・G・ウェルズ『世界史概観 上・下』(岩波新書)
 細かい知識にとらわれず、壮大な歴史の流れを描く。
 ウェルズ一人でまとめている点がよい。
3.林健太郎『歴史の流れ』(新潮文庫)
 絶版だが名著。西洋史の解説。
 古本屋で探すように。
4.林健太郎『世界の歩み』(岩波新書)
 これも絶版。『歴史の流れ』の続編的存在。
5.井沢元彦『逆説の日本史』シリーズ(小学館)
 歴史の裏側を面白く説いてくれている。
6.シュテーリヒ『西洋科学史T〜X』(現代教養文庫)
 科学史を学ぶのに最適の書。残念ながら絶版。


【3】小説
見事な人生やリアルな社会については小説で学べる。

1.ラファエル・サバチニ『スカラムーシュ』(創元推理文庫)
 弁護士になり損なったアンドレ・ルイ・モローの見事な生き様。
2.アンソニー・ホープ『ゼンダ城の虜』(創元推理文庫)
 『ルパン三世 カリオストロの城』の原作的小説。
3.クローニン『城砦』(三笠書房)
 絶版。情熱が青年医師を駆り立てる。
4.菊池寛『藤十郎の恋・恩讐の彼方に』(新潮文庫)
 「恩讐の彼方に」を読もう。
5.モンゴメリ『赤毛のアン』(新潮文庫)
 講談社からは「赤毛のアン」シリーズ全8巻が出ている。
 最終の第8巻が個人的には一番の傑作だと思う。
6.大沢在昌『心では重すぎる 上・下』(文春文庫)
 近頃の病んでいる青少年の心を描く。
7.松本清張・高木彬光・森村誠一の社会派推理小説
 社会の心を学ぶ。
8.内田康夫の旅情ミステリー
 名探偵・浅見光彦が活躍。
 観念的に日本の各地を旅行できる。
9.夏目漱石の小説
 人の心を学ぶ。
10.ポオ『黒猫・モルグ街の殺人事件』(岩波文庫)
 この中の『モルグ街の殺人事件』と『盗まれた手紙』は
 弁証法文学の傑作。
11.アガサ・クリスティの探偵小説
 特に、名探偵ミス・マープルものがお勧め。
12.ジョセフィン・テイ『時の娘』(ハヤカワ文庫)
 歴史ミステリかつベット・ディテクティブ。
 先に高木彬光『邪馬台国の秘密』(光文社文庫)を読もう。
13.その他、岩波文庫に入っている代表的な小説


【4】私の尊敬する理論家・実践家
ほぼ全著作を読んでいる私の師的存在。

1.三浦つとむ(みうら・つとむ)
 世界に冠たる弁証法学者。
 学歴と頭のよさは全く関係がないということがよく分かる。
2.南郷継正(なんごう・つぐまさ)
 私の最も尊敬する偉大なる哲学者。
 三浦つとむに学んだからこその実力らしい。
3.薄井坦子(うすい・ひろこ)
 宮崎県立看護大学学長。
 日本が生み出した偉大なる看護学者。
4.瀬江千史(せごう・ちふみ)
 科学的医学体系の創出を目指す医学者。
 その著作は超論理的で、非常に読みやすく、超お勧め。
5.原田隆史(はらだ・たかし)
 元中学のカリスマ体育教師。
 私はこの人の方法論で、大学院合格とダイエットに成功した。


【5】その他
1.マーク・ピーターセン『日本人の英語』(岩波新書)
 ロングセラーだけのことはある。英語に興味がある人へ。
2.美内すずえ『ガラスの仮面』(白泉社)
 面白い少女漫画。認識論の教材でもある。
3.シュリーマン『古代への情熱』(岩波文庫他)
 トロヤ遺跡発見の物語。情熱が偉業を可能ならしめる。
4.シング『狼に育てられた子』(福村出版)
 人間は人間として育てられて初めて人間となれる。
5.李登輝『「武士道」解題』(小学館文庫)
 前台湾総統・李登輝による新渡戸稲造『武士道』の解説本。
 旧制高校の知的雰囲気が味わえる。
6.森信三『修身教授録』(到知出版社)
 戦前教育の貴重な遺産。
7.齋藤孝『読書力』(岩波新書)
 この人はいろいろと優れた本を紹介してくれる。
8.下條信輔『サブリミナル・マインド』(中公新書)
 魅力的な心理学入門講義。
9.『綜合看護』(現代社)
10.『学城』(現代社)
 2冊とも、南郷継正先生の連載論文が読める雑誌。
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2007年11月19日

マラソン完走

シティマラソンに参加した。10kmの距離で、目標は50分だったが、結果は48分台で見事達成できた。

実は一ヶ月ほど前に、走っている途中、突然ひざに激痛が走り、全く走ることができなくなったことがあった。一週間ほど前のリハーサルのときも、3kmくらい走ったところで同じ症状が出て、走れなくなった。本番でもこのひざの激痛だけが問題だった。

本番では、走り始めたときから少しひざに違和感があり、1kmくらい走ったところで痛みが出はじめた。「やばい!」と思ったが、少し走り方を変えてみると痛みは引いた。が、またしばらくすると痛み出し、またおさまるといったことをくり返した。ペースを落として4kmくらい走ると、痛みは消えていった。

ペースアップしようかとも思ったが、例の激痛が走るともう走ることもできなくなるので、そのままのペースで走った。8〜9km付近で、もう大丈夫だと判断して、ペースアップ。競技場に入ってからはさらに加速して、ゴールイン。目標を達成できたので、少し嬉しかった。

実は一年前から友人にマラソンを誘われていたのだが、そのときはとても10kmも走れる気がしなかった。今年になってから、初めて5kmのジョギングを始めた。最初は走れずに、その後、何とか走れるようになり、次第次第に、5kmくらいなら平気で走れるようになった。院試で少し中断したが、その後10kmにも挑戦し、60〜70分前後では走れるようになっていた。

そして本番。はっきりいってひざの心配さえなければ、10kmなんてなんでもないと思えるまで認識が変化していたし、実際に走ってみても、ほとんど疲れていない自分を発見した。

一応50分に目標を設定したが、速く走ること自体はそれほど重視していなかった。それでも、同じくらいの年の女性や、60を越えているのではないかというくらいのお年寄りに次々と抜かれていって、もう少し速く走れたほうがいいかもしれない、とは思った。

終了後、駐車場に向かって歩いている途中に、例の激痛が走って、しばらく歩けなくなった。ランナーズニーとかいうらしいが、ふくらはぎや太ももの筋力を鍛えるといいらしい。ちょっと筋トレでもやってみようかと思う。
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2007年11月14日

『弁証法はどういう科学か』読書会のレポート

先日行った『弁証法はどういう科学か』読書会のレポートをS君が書いてくれたので、ここに紹介したい。




京都弁証法認識論研究会(仮称)

2007年11月4日の学習会で出された論点についてのレポート



2007年11月9日 S



目次



〈出された論点について〉



1、「ヘーゲル弁証法の改作」(64ページ)に関連して:「弁証法性」と「弁証法」を区別する意味とは何か?

2、歴史観に関連して:

(1)「鳥がまた卵をうむように、新しい社会のあとにはまた古い社会があらわれる」(51ページ)という結論があやまっていることをどうすれば説得力がある形で説明できるか?

(2)「資本主義の成立の必然性」をあきらかにすることが同時に資本主義の没落の必然性をあきらかにすることでもある(69ページ)というのはなぜか?

3、古代ギリシアにおける「弁証法」(ディアレクティク)はどういう意味で大切か?

4、フランスで機械的な唯物論が発達しドイツで観念論と弁証法が発達したのはなぜか? また、大陸で合理論が、イギリスで経験論が発展したのはなぜか? 当時の社会状況全般とのかかわりではどうなのだろうか? 

5、世界観の発展と弁証法の発展の関連について:

(1)世界観は大きく唯物論と観念論に分けられるが、「弁証法的世界観」とはどういう世界観なのだろうか?

(2)「思惟法則としての弁証法」とは何か?――次回学習会での課題として問いを立てる

(3)世界観の発展と弁証法自体の発展は、どのように関連しているのか?




〈感想〉



・・・・・・・



〈出された論点について〉



1、「ヘーゲル弁証法の改作」(64ページ)に関連して:「弁証法性」と「弁証法」を区別する意味とは何か?



 弁証法性と弁証法の関係は、法則性と法則の関係である。法則性とは対象の持つ基本的・普遍的・必然的な関係のことであり、法則とはそれを認識の中にすくいあげたものである。弁証法性とはこの世界のあらゆる事物・事象が持っている性質であるのにたいして、弁証法とはこの弁証法性を認識の中にすくいあげたものである。

 弁証法はもともとこの世界に存在しているものではない。現実の世界には、ただ運動・変化する事物・事象が存在しているだけである。人間が自らの頭の中に、対象の運動・変化するという性質を反映させて、意識的に創りだしたものが弁証法である。弁証法を創ることによって人間はより的確に対象の運動・変化をとらえられるようになり、その結果として、より的確に対象に働きかけることができるようになる。弁証法性から弁証法を学ぶとともに、弁証法から弁証法性へと適用する、ということを繰り返しながら、現実に役立てることができるような弁証法を自分の頭の中に創っていかなければならない。

 もともとこの世界に存在する運動・変化という性質としての弁証法性と、人間の頭の中に新たに創りださなければならない弁証法とは、きちんと区別しなければならない。この世界の部分として存在する事物・事象についてきちんと起源を確定するのが唯物論の立場であるし、人間性のすべてにわたって創って使うという論理構造がつらぬかれているというのが唯物論の立場である。





2、歴史観に関連して:

(1)「鳥がまた卵をうむように、新しい社会のあとにはまた古い社会があらわれる」(51ページ)という結論があやまっていることをどうすれば説得力がある形で説明できるか?



 「直観的に大づかみに全体の一面をとらえた」レベルにとどまっていれば、「古い社会から新しい社会への発展」も「卵から鳥がうまれる」のも同じようにみえてしまう。この結論が間違っていることをあきらかにするためには、ただ全体の一面をとらえるだけでなく、個々の物ごとのありかたの研究が必要である。古い社会から新しい社会への発展がなぜおきるのか、それはどのような過程的構造のもとにおいておこなわれるのか、対象の持つ構造に分け入って、卵から鳥がうまれるのとはどう違うのかを論じなければならない。

 鳥は卵をうみ、その卵からまた鳥がうまれるが、親としての鳥と子としての鳥は、まったく別の個体として存在する。社会の場合はそうではない。古い社会そのものが新しい社会に変わっていくのであって、古い社会からもう一つ別個の新しい社会がうまれてくるわけではない。古い社会から新しい社会への発展は、あくまでも一つの大きな流れである。古い社会での文化の蓄積をすべてふまえて、その蓄積の上に立って新しい社会が築かれるのである。歴史が流れれば必ず文化は蓄積していくのだから、そうした文化の蓄積をすべてなかったことにしてしまって、また古い社会に戻ります、とはならない。



(2)「資本主義の成立の必然性」をあきらかにすることが同時に資本主義の没落の必然性をあきらかにすることでもある(69ページ)というのはなぜか?



 歴史の流れのなかで新しいものが生成してくるにはそれだけの理由がある。それ以前に存在していたものでは解決できない問題が生じるからこそ、新しいものがうまれてくるのである。これが生成の必然性である。しかし、その新しいものが解決すべきであった問題が解決されることが、同時にまたさらに新しい問題を生みだすのであり、そのさらに新しい問題を解決するために、またさらに新しいものがうまれてくる必然性があるのである。

 つまり、歴史の大きな流れのなかで見ると、ある発展段階は、いわばある特定の問題の解決を託されているとみることができる。ところが、その問題を解決することが、同時に、その発展段階では解決できないさらに新しい問題を生み出すことを意味しているのであるから、新たな問題の発生とともに、その発展段階は歴史的な存在意義を失って没落していかざるをえない。

 したがって、大きな歴史の流れのなかで、ある発展段階がどういう問題の解決を託されて登場したかをあきらかにすることが、その成立の必然性と同時に没落の必然性をあきらかにすることにほかならないのである。資本主義についていえば、マルクスは、生産力を飛躍的に発展させて世界中の人々を文明化していくところに資本主義の歴史的な存在意義をみた。マルクスの立場からすれば、生産の社会化と生産手段の私的所有という根本矛盾を持った資本主義的な生産のしくみは、この課題を達成すると同時に、格差と貧困の拡大や恐慌による労働者大衆の生活破壊という新たな問題を引き起こすのであり、この問題を解決できない資本主義は、その歴史的な使命をはたしおえて没落していく必然性があるということになる。





3、古代ギリシアにおける「弁証法」(ディアレクティク)はどういう意味で大切か?



 対話・問答こそが弁証法の原点である。古代ギリシアにおいて、言葉でのコミュニケーション自体がままならず、相手が何を言いたいのかということのみならず自分が何を言いたいのかということすら定かではなかった状態から、しだいしだいに自分の言いたいことと相手の言いたいことのどこが同じでどこが違うかが明確になっていく中で、これまたしだいしだいに論点が整理されていくという過程をたどって、きちんとした討論ができるようになっていったのである。その結果として、「討論することが真理に到達する一番よい方法であることを知って、これを重要視しました」ということになったのである。

 人間の認識は問いかけ的反映であるから、たとえ同じ対象を反映しても、各人は自分のそれまでの経験をふまえて、それぞれなりに異なった感情をともなった像として描いてしまう。反映像と過去の経験による像とが合成されて一つの感情像として描かれるから、事実とその解釈の区別をきちんとつけることもできがたくなる。複数の人間の間で討論をおこない、おたがいの認識を交通させることでこそ、こうした個々人の認識のもつ限界を突破することが可能になる。同じ対象についてのそれぞれに異なる問いかけ的反映の像を交流することは、その対象をより的確に把握することを可能にするのである。「革命運動の指導者たちは、ロシアあるいは中国にあってマルクス、エンゲルスの著作を全面的に手に入れることができず、手に入った著作をさえ徹底的に研究し討論する条件にめぐまれていなかったために、原理的な把握に不充分なところがありました」とあるように、討論しなければ、原理的な把握が不充分なものにとどまってしまうのである。まさに「討論することが真理に到達する一番よい方法」なのである。

 認識ほどに運動・変化するものはないから、その激しく運動している認識どうしを交通させることほどに、認識を大きく発展させることはない。討論のなかで、問題を提起しそれを解決するということを繰り返すことで、認識と認識のあいだで劇的な相互浸透的発展がおこなわれうるのである。

  



5、フランスで機械的な唯物論が発達しドイツで観念論と弁証法が発達したのはなぜか? また、大陸で合理論が、イギリスで経験論が発展したのはなぜか? 当時の社会状況全般とのかかわりではどうなのだろうか?



 言語の問題、宗教の問題、気候風土の問題など、いろいろと理由は考えられる。こうした問いに答えていくためには、学問の歴史をたんに学問の歴史だけから見るのではなくて、大きな歴史の流れの一つの部分としてとらえていく必要がある。こうした問いかけをもって、『歴史の流れ』『世界の歩み』『世界史概観』『世界の思想史』などを読んでいくと、答えにつながるヒントが見出せるかもしれない。ともかく、このような大きな問いを創っておくことそのものが、とても大切なことである。



*「世界歴史とは弁証法的一般性レベルでは、人類の社会としての認識(戦争・商業・政治・文化をすべてふくんでの社会的労働)の発展の歴史である」(南郷継正「武道哲学講義〔T〕PART3」『学城 第2号』223ページ)。





6、世界観の発展と弁証法の発展の関連について

(1)世界観は大きく唯物論と観念論に分けられるが、「弁証法的世界観」とはどういう世界観なのだろうか?



 世界観というからには、世界全体のありかたをどう見るかというレベルの問題である。世界観における最も根本的な対立は、世界の起源をどう見るのかという対立であり、世界の創造を認めるのが観念論、世界の創造を認めないのが唯物論である。弁証的世界観と形而上学的世界観の対立は、世界の起源をめぐる対立ではなくて、世界のあらゆる事物・事象が絶えず運動・変化していると見るのか、そうは見ないのか、という対立である。

 実際には、世界のあらゆる事物・事象は絶えず運動・変化しているのだから、すなおに、ありのままにこの世界を眺めるならば、弁証法的な世界観になる。これに対して、形而上学的な世界観は、個々の物事の研究の飛躍的な発展を前提としなければ成立しない。直観的に大づかみに全体をとらえているだけでは、個々の物事を研究することはできないから、自然科学の発達は、自然の全体のつながりから部分をきりはなし、運動を静止においてとらえ、変化しているものを固定したかたちにおいてしらべるという形而上学的な方法によってこそなしとげられた。このような個々の物事の研究のしかたが、世界全体のみかたにまでもちこまれて成立したのが、形而上学的な世界観である。



(2)思惟法則としての弁証法とは何か?――次回学習会での課題として問いを立てる



 南郷継正は、新・旧二つの弁証法という言い方をしている。古代ギリシアにおける「弁証の方法」としての弁証法と、エンゲルスによって創始された「科学としての弁証法」である。それでは、この中間段階にあるカントやヘーゲルの弁証法は、弁証法の歴史のなかではどのような位置づけになるのであろうか? 三浦つとむは、カントやヘーゲルが弁証法を「思惟法則として理論化」したとして「弁証法の復活」という見出しをつけている(59ページ)が、この復活した弁証法は、新・旧二つの弁証法とはそれぞれどういう関係にあるのだろうか?



(3)世界観の発展と弁証法自体の発展は、どのように関連しているのか?



 (1)と(2)を踏まえて初めて、「弁証法的世界観→形而上学的世界観→弁証法的世界観」という世界観の発展と、「弁証の方法→思惟法則としての弁証法→科学としての弁証法」という弁証法自体の発展が、どのように関連しているのかという問題を考察することができる。





〈感想〉



 前回の学習会は、短時間でしたが、かなり深い討論ができたのではないかと思います。

 このレポートをまとめてみて、現実の世界の事物・事象の発展過程が問題の提起とその解決の過程としてとらえられるということを明確にすることができたことにより、なぜ弁証法の原点が問答・対話であるのかということについて、より深く認識することができました。根本的に言えば、「世界が過程の複合体であり、それぞれの過程が矛盾を原動力として発展していることは、とりもなおさず世界が矛盾の複合体であり、世界に多種多様の特殊性が発生し消滅するのはそれぞれ特殊の条件によって特殊な矛盾が発生し消滅していることを意味します」(『弁証法はどういう科学か』290ページ)ということなのでしょう。

 また、学習会後の飲み会の席で話題になった、偉大な人物はほぼ同時代・同地域に登場する(ドイツ観念論哲学におけるカント、フュヒテ、シェリング、ヘーゲルや、江戸時代中期の京都における伊藤若冲、円山応挙、曾我蕭白など)ということも、認識どうしの交通ほど認識を大きく発展させるものはない、ということにかかわっているのでしょう。

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2007年11月12日

弁証法・認識論の実験一つ、二つ

最近、立て続けに弁証法・認識論の実験に二つほど成功した。一つは先日このブログでも紹介した院試の合格である。もう一つはダイエットである。

まず結果をお伝えすると、一ヶ月で8kgの減量に成功した。同じ8kgといっても、元の体重しだいでその評価は大きく異なることになると思うから、大雑把な目安を言っておくと、体重が70kg台から60kg台に変化したのである。

ではどうやって減量に成功したのか? 物理的には、食事制限と運動、これだけである。食事制限といっても食べないわけではない。食べないために食べるとでもいおうか。具体的にいえば、一日のうち一食は必ず原始長命食を中心とする食事、その他は玄米、味噌汁、野菜等のいわゆる粗食。肉や油は極力食べない。酒もほとんど飲まない。運動は、ジョギングorウォーキングと腹筋である。一ヶ月で80km走り、20km弱歩いた。走った回数は9回、一日10kmか5kmずつ走った。歩いたのは3回、距離は毎回5キロメートル強。腹筋は、一日60回を1〜2セットくらい。これだけやれば、70s台の人間は、一ヶ月で8sは減量できる。

しかし問題は、僕は人間だということである。「人間を動かすものは、すべて人間の頭脳を通過しなければならない。」(エンゲルス『フォイエルバッハ論』国民文庫、p.62)のである。すなわち、人間は目的的存在であり、自らの描いた目的像に従って行動するのである。したがって、減量とは自らの行動のコントロールの問題というよりはむしろ、認識のコントロールの問題なのである。

認識論を学んでいますという人間が、自らの認識すらもコントロールできないようでは、他人の認識をコントロールすることなど絶対にできず、ましてや認識論の再措定や認識学構築など、夢のまた夢であろう。認識論を学んでいる人間が自殺をするなんてことは、いったい何のための認識論の学びであったのか、わけが分からないというものである。簡単にいえば、認識の法則性の基礎を学べば、ダイエットくらい極簡単にできるのである。

ではその認識のコントロールとはどのようなことか? この点については、前回院試合格体験記で述べたことと論理的にはまったく同じなので、そちらを参照していただこう。要は、目標を達成したときの有様をリアルに描くということである。(念のために述べておくと、前回の院試合格体験記のエッセンスは、勉強方法自体にあるのではない。認識論の適用という点にこそ、その価値があると思っている。)

すなわち、僕の頭の中ではすでに一ヶ月前に目標を設定した段階で、もう目標は達成してしまっているのである。現実がこの目的像を後追いしただけである。したがって、「やったー!ダイエットに成功した!」とか「うれしい!」とかいう感情は、あまりないものである。院試合格のときもそうであったが、そういう感情は目標を設定した段階ですでに味わっている。もちろん、未来像として描いている場合と、直接の反映像として描いている場合とでは、やはりリアルさが違い、当然感情も違ってはくるが。

もう少し具体的に認識のコントロールについて学びたい方には、次の本を推薦しておこう。それは、原田隆史『カリスマ教師 原田隆史の夢を絶対に実現させる60日間ワークブック』(日経BP社)である。私の認識論の学びの成果と、原田隆史の言うリーチングの理論とは、結論的に同じである。したがって、原田隆史方式で院試合格やダイエットに成功したといってもよい。もっといえば、臨床心理学指定大学院の合格や、8sの減量くらいなら、この原田隆史のワークブックほど徹底しなくても、難なくクリアーできる、認識論的にエッセンスを踏まえさえすれば。

原田隆史の本の中に、マンダラートを使って目標を具体化するワークがある。これは特に有効である。たとえば僕の場合であれば、ダイエットするための方法・手段をまずは8個考える。さらにその8個について、より具体化した手段をそれぞれ8個ずつ考えるのである。合計64個の具体的な行動目標を考え出せば、もう目標は半分実現したようなものである。具体的な手段を64個も考え出せれば、できない気がしなくなる。具体的な像は現実に近いから、すぐに行動に移せるのである。

なお、変な批判を避けるために一言追加しておくと、ダイエットというのは、あくまで弁証法・認識論の実験の一つの指標として取り上げただけである。自分自身の努力によってコントロールできることであれば、目標は何でもよかったといってよい。ただ、最近太り気味であったし、太り気味ということは食生活が乱れているとか運動不足とかいう要因が考えられ、それが病気の引き金にもなりかねないので、この際きちんとした食生活を確立して適度な運動をすることによって、より健康的な生活を送ろうとしたわけである。その一つの指標として減量を考えたまでである。

もう一つ蛇足を述べておくと、上記のダイエット生活と入浴の際に粗塩で体を洗う、さらに一日1gのアスコルビン酸をとる、という実践をしたおかげで、持病であったアトピーが劇的に改善した。3年ほど医者にかかっていたにもかかわらず、まったく回復しないどころか、時によっては悪化さえしていたのだが。おそらく、酒を控えたことと長命食を中心とした健康的な食事の影響が特に大きかったように思う。当然、これも想定通りであった。まさに量質転化である。

あと一ヶ月ほどでさらに5sの減量と、アトピーの完治が次なる目標である。もう僕の頭の中では実現してしまっているが。

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2007年11月11日

『弁証法はどういう科学か』第2章

先日、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)の第二章「弁証法はどのように発展してきたか」を読書会で扱った。レジュメ担当は僕だったので、そのときにつくった「要約」と「重要用語解説」、それに「重要哲学者解説」を載せておく。なお、「〜解説」は、ほぼ参考文献からの引用になっている点をお断りしておく。



要 約

<1>古代ギリシアからヘーゲルまで

原始的で素朴だが正しい世界観


 古代の人たちは、世界をすなおに、ありのままにとらえた。全てのものは運動し互いにつながり合っているという、原始的で素朴だが、本質的に正しい世界観を持っていた。しかし、この世界観は直観的に大づかみに全体の一面をとらえただけであるから、それだけでは部分のありかたを正しく説明するには不充分であった。
 とはいっても、古代ギリシアの学者は個々の物ごとのあり方も研究して、量的な変化が質的な変化をもたらすという事実にも注目していた。


ゼノンの詭弁

 古代ギリシアの哲学者ゼノンは、運動に関する難問を提出した。そこでは、可能性と現実性とのつながり、連続と非連続との統一、限界を越えることによって反対物に転化すること、運動は矛盾であることなど、現実の持つ重要な性格を問題にしていた。しかし、これらの運動の認識も、科学が未発達の時代には研究の方法としては役立つものとなりえなかった。
 ただ、古代ギリシアの哲学者たちは、二つの相いれない意見がたたかわされるというかたちで、矛盾が思惟において発生することを注目し、この思惟における矛盾をあばきだし、討論することが真理に到達するいちばんよい方法であることを知って、これを重要視した。そして矛盾を克服することによって真理に到達する技術を「弁証法」と呼んだ。
 この思惟の矛盾が外的世界の矛盾とのつながりにおいて正しく理解され、弁証法が現実の矛盾を研究する科学となるまでには、二千年にわたる自然科学と哲学との発展が必要だった。


形而上学的な見かたの妥当性

 変化しているものを一応変わらないものとして、つながっているものを一応別のものとして扱う見かたを、形而上学的な見かたという。形而上学的な見かたは、世界をせまい範囲で・短期において・見るときには妥当である。しかし、世界を広い範囲で・長期にわたって・見るときには、弁証法的な見かたが必要となってくる。


形而上学的な世界観の成立

 自然科学の研究は、形而上学的な方法で行われた。そのためこの方法を、世界全体の研究に持ちこんだり、この一面的な世界のありかたを世界全体のありかたとして考えたりするような傾向が生まれてきた。こうして18世紀の古典力学が完成した時代には、形而上学的な世界観がつくりあげられた。


弁証法の復活

 18世紀フランスの進歩的な思想家は、機械的な唯物論の立場に立っていた。これに対して、反動的なドイツでは、唯物論が排撃されたために、また、機械的に形而上学的に解釈するのでは人間の認識を正しく説明できないために、哲学は観念論の方向へ進むとともに、弁証法をふたたびとりあげ、これを思惟法則として理論化した。
 ドイツの哲学者カントは、二律背反を論じて、それが認識にとって必然的なものであることを主張した。ただカントは、この二律背反が客観的な矛盾に原因があるとは考えずに、何の性質も持っていない物自体に認識が諸性質を与えるのが原因であると解釈した。


ヘーゲル哲学の特徴

 ドイツの哲学は、カントからフィヒテ、シェリングを通ってヘーゲルにおいて完結する。ヘーゲルはカントの物自体論を反駁し、いわゆる「二律背反」は世界自体の持っている性質であると主張した。そして、客観的な矛盾が運動の原動力であることを見やぶった。かくして、世界全体を一つの過程として理解するとともに、その運動の内部のつながりを明らかにしようとする努力がなされた。
 しかしヘーゲルは観念論者であったために、努力があやまった方向へ持っていかれた。ヘーゲルは、個々の人間の精神に対する自然の先行を認めつつ、その背後に、それをうみだす精神として「絶対理念」の存在を主張したのである。そして、「絶対理念」→自然→人間→精神→「絶対理念」という精神の自己発展が弁証法であるとした。


<2>ヘーゲルからマルクスへ――唯物弁証法の成立

ヘーゲル学徒から唯物論者へ


 1840年代になると、ドイツでも宗教と封建制度に対する闘いが公然化した。ヘーゲル学徒は、宗教との闘いの中で唯物論の側へ導かれた。そしてフォイエルバッハ『キリスト教の本質』があらわれたが、これはヘーゲル哲学を廃棄していたため、内容的にはヘーゲルから後退していた。


ヘーゲル弁証法の改作

 ヘーゲル学派から生まれたマルクス・エンゲルスは、ヘーゲルを破りすてずに、その弁証法をとりあげ、これを唯物論の立場からつくりかえた。
 ヘーゲルのいわゆる「客観的弁証法」は、実は弁証法ではなく、全自然がそれ自身として持っている法則的な性格である。ここを批判し訂正することによって、弁証法は運動の一般的法則に関する科学にまで還元されたのである。こうして観念論的な弁証法が唯物弁証法に改作された。
 唯物弁証法は、マルクス・エンゲルス、それにヘーゲルとさえも無関係に、ディーツゲンによっても発見された。


唯物史観の確立

 マルクス学派は唯物弁証法を武器として、フォイエルバッハでは不可能だった、唯物論の立場から社会についての科学的な理論をつくりあげる仕事をし、唯物論的な歴史観が確立した。
 唯物論は物質的な生活が精神的な生活の土台であることを教え、弁証法は人間のありかたを一つのダイナミックな過程としてとらえることを教える。動物は自然から与えられているものを消費するだけであるが、人間は生活資料を生産しそれを消費することによって人間自身を生産するのである。この物質的な生活の生産の過程こそ、歴史を動かす原動力であり、現実の生きた人間を理解する基礎であることを唯物史観は主張する。


科学的社会主義

 資本主義的生産様式を廃棄することを目的とした社会主義運動は古くからあったが、資本主義そのものの深い分析なしにはこの運動も空想的なものに終わってしまう。マルクスは唯物弁証法を使って経済学を研究し、経済学の革命をもたらすと共に社会主義を科学としてうちたてた。


弁証法的世界観の復活

 19世紀になると、自然科学からうみだされた形而上学的な世界観は、自然科学そのものの前進によって個々の分野から崩されはじめ、ついに全自然がやむことのない運動の中に存在するという新しい自然観に実証的に到達した。これは弁証法的な世界観のヨリ高い段階における復活である。マルクス学派は、2000年来哲学者の獲得してきた貴重な成果を正しくうけつぎ、弁証法を方法としてのみ理論的な困難を突破できることを論じ、自然・社会・精神の各分野を科学的に結びつけて具体的な統一された世界観をまとめあげた。これは人間の思想の歴史が新しい段階にはいったことを意味する。


<3>現在はどうなっているか

観念論との闘争


 哲学一般はヘーゲルと共に終結する。唯物論はもはや哲学ではなく科学的な世界観となったからだ。しかし古い哲学もまだ生きのこっている。これらの観念論哲学と、マルクス学派の世界観および弁証法との間には、公然のあるいは隠然の闘いが続けられている。


マルクス主義の前進と後退

 マルクス、エンゲルス以後、唯物弁証法とその応用になる社会科学は、一方では目覚しい前進が見られると同時に、他方では停滞もあれば原理的な後退もあるという、不均衡的な発展を示している。革命運動の指導者たちはマルクス、エンゲルスの著作を徹底的に研究し討論する条件にめぐまれていなかったために、原理的な把握に不充分なところがあった。しかし、革命の功労者であった彼らのことばは絶対化されてしまい、その原理的な後退がほとんど指摘されていない。
 マルクス、エンゲルスの唯物弁証法を正しく理解できないために、マルクス以前の唯物論やヘーゲルと同じような弁証法を説く人もいる。あるいは原理的な修正を行ったり弁証法を否定したりする人もいる。


形而上学を否定する傾向

 マルクス主義では、弁証法も形而上学もあれもこれも必要だが、弁証法のほうがはるかに役立つのだと主張する。しかしソ連や中国ではこの形而上学の妥当性を一切認めない傾向がある。これもマルクス主義の修正の一つである。



付録1:重要用語解説

@弁証法
 新、旧二つの弁証法がある。旧弁証法は、古代ギリシャ時代に姿を現した「弁証の方法」である。弁証の術、哲学的問答法などとも呼ばれる。これは、弁論すなわち問答・議論・討論・論争を通じて相手の論の欠陥を暴きだし、自分の論の正しさの証をたてること、すなわち、弁じて証明することであった。新弁証法は、エンゲルスが創始した「科学としての弁証法」である。

Aゼノンの詭弁
 学的には「ゼノンの絶対矛盾」というべきもの。ゼノンは、学的=弁証法的論理で森羅万象=万物=世界の運動を止めてみせた。これが「飛んでいる矢は止まっている」の学的構造論であり、ここを理解できた学者は、歴史上ヘーゲルくらいとされる。

B形而上学
 エンゲルス→三浦つとむの流れにおいては、この言葉はアリストテレスの代表作たる『形而上学』に直接関わることはない、エンゲルスの、いわば哲学上の概念。事物を静的・固定的・絶対的にとらえる見かた・考えかたを形而上学的という。つまり、「形而上学的」とは対象を変化しない静止したものとしてのみ考えるのであり、「弁証法的」の対義語である。

C二律背反
 あることを証明するのに、一方ではAと証明でき、他方では非Aと証明できるといったぐあいに、正反対のことが同一のことでしっかりとまちがいなく証明できることをいう。律とは法則レベルのことであり、正しいもの同士が相反しているので二律背反なのである。
 弁証法ではこれを対立物の統一として解決できるのであるが、カントはそこが及ばず、結果として<物自体論>までいって観念論レベルで解くことになる。

D物自体
 カントは二律背反に悩んだあげく、二律が相反するのは、対象のゆえではなく自分の観念、すなわち頭脳活動のゆえとした。つまり、対象が二律になるのは、対象の性質が無なるがために、頭脳のはたらきで、どちらにもなる、としたのである。対象の性質は吾人の認識が与えるのであり、物自体の本質は無としたのである。

E絶対理念
 訳者によっては絶対精神、絶対概念などその人によって異なる。この「絶対精神」はヘーゲル哲学の本質そのものといってよい。「絶対精神」とは、ヘーゲルにあっては宇宙の根源であり、かつ、直接に全世界そのものである。自然の歴史も人類の歴史もすべて絶対精神自身の発展段階なのである。
 絶対精神は自らの内に発展の契機をはらんでおり、やがて自己転生して自然となり、また社会、そして精神へと転生して後、当初の絶対精神へと大いなる回帰をする。これが絶対精神の自己運動である。絶対精神の自己運動がヘーゲル哲学の根源であり、大道であり、歴史そのものである。


付録2:重要哲学者解説

@ヘラクレイトス(B.C.535頃-475頃)
 「万物は流転する」という金言を残した哲学者。彼は「有と非有とは同一のものである、すべてのものは有ると共に無い」といった。ヘーゲルは彼を讃え、「ヘラクレイトスの命題で、わたしの論理学にとりいれられなかったものはない」とまでいっている。万物の変化を論理的に否定する人々(パルメニデスなどのエレア派の人々)がいたからこそ、逆に変化を本質的なものとするヘラクレイトスの考え方が生まれた。

Aゼノン(B.C.490頃-430頃)
 エレア派の哲学者でパルメニデスの高弟。論理的な思索を得意とし、師の「すべての存在は一へ収斂する」「モノが運動することは不可能である」という説を擁護して、師の考えを否定すると、不合理な帰結が生じることを示すために四つのパラドックスを提出したとされる。ある命題を仮定し、そこから生じてくる矛盾を指摘することにより、相手を反駁する方法は弁証法の先駆として名高い。すなわち、ディアレクティケーの創出者はゼノンであり、かつ、カントの「二律背反」はこのゼノンが先駆者である、とヘーゲルは説く(ヘーゲル『哲学史』)。

Bカント(1724-1804)
 ドイツ観念論の創始者。自然哲学者として出立、太陽系の生成を説明した星雲説を発表。その後イギリス経験論やルソーの思想などをとりいれ、近代自然科学を基礎とした独自の哲学を樹立。

Cフィヒテ(1762-1814)
 カント哲学に感動し、論文をカントに贈呈して認められ、それを無署名で発表するや、カント自身のものと誤解され名声を得る。後に、カント哲学の徹底化を試み、またフランス革命の理念化と社会秩序の再構成をめざす。1806年ナポレオン軍の占領下で、祖国への情熱をもって『ドイツ国民に告ぐ』を講演し、ドイツ国民の士気を高揚させた。

Dシェリング(1775-1854)
 その大著『学問論』の中で、学問構築、哲学構築に弁証論(弁証法)の必須性をはっきり強調した。しかし、同時に哲学を「知識に向かう愛」のように説いて、ヘーゲルに批判されることとなる。

Eヘーゲル(1770-1831)
 ドイツ観念論哲学の完成者というより、人類史上初の学問としての哲学の完成間近まで到達した、世界最高の哲学者。全世界を絶対精神の自己発展から説く学問としての哲学体系を創る。

Fエンゲルス(1820-1895)
 従来の弁証法を、法則レベルの「科学としての弁証法」すなわち、弁証法の三法則に仕上げた創始者。

Gディーツゲン(1828-1888)
 ドイツの哲学者。独学により独特の弁証法的唯物論哲学を創造した。エンゲルスに「唯物論的弁証法」の発見者の一人と賞讃される。

H西田幾多郎(1870-1945)
 西洋哲学の「有」の立場を批判して「無」の哲学を説き、いわゆる「西田哲学」として、わが国の哲学界に大きな影響を与えた。観念論哲学を説いたとされるが、彼の論文は、哲学というよりは学問的には「認識論」としての構造をもつ。

I田辺元(1885-1962)
 日本における学問的レベルでの哲学の実力があるとされる唯一の哲学者。『哲学の方向』において、大哲学者カントの「二律背反」を見事に駆使して、哲学と科学の構造を論じきった。

<参考文献>
南郷継正『武道講義第四巻 武道と弁証法の理論』(三一書房)
南郷継正『武道哲学 著作・講義全集』第一巻、第二巻、第六巻(現代社)
加藤幸信「学問の発達の歴史」(『綜合看護』1996年3号所収)

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2007年10月18日

新パソコン購入

新しいパソコンを購入した。FMV-BIBLO MG75XNである。ワンセグチューナーを付けたためか、注文してから届くまで、一ヶ月くらいかかってしまった。

このモデルは、メインノートとしても使えるハイスペックと、モバイルノートとして使える携帯性の矛盾を調和的に解決している。ディスプレイは14.1インチで、普通のノートパソコンよりちょっとだけ小さいくらいである。それでいて、重さは1.7sくらい。バッテリも、5時間くらいはもつ。メモリも2GBに増設したから、Vistaでも非常に快適である。なんせ今まで使っていたノートパソコンは、6〜7年くらい前のものだから、それと比べると、飛躍的に速い。

この古いパソコンから新しいパソコンにデータやソフトを移行するのに丸二日以上かかってしまった。なかにはVistaでは使えないソフトもあって、ちょっと残念だ。ただ、このモデル自体に小中学生向けの学習事典が入っていたり、ビジュアル百科事典も入っており、これから活用していこうと思っている。

インターネットエクスプローラーだけは何とかしてほしい。単語登録した語句も、変換できない。マイクロソフトのサイトから修正ファイルをダウンロードしたらその問題は解決したが、今度は、インターネットエクスプローラー上で、たとえばこのブログの更新をしようとすると、3回に1回くらいの割合で、キータッチが反応しない。ナンダコリャ。他にもすでにいくつか問題が発生している。そのため、別のフリーのブラウザを使うことにした。

指紋認証の機能も、かなり便利である。ネット上でパスワードなんかが要求されるときがあるが、こういった場合、さっと指をかざすだけで自動的にパスワードを打ってくれる。スリープモードから復帰するときも、指をかざすだけでいい。便利になったものだ。

僕が買ったのはカスタムモデルだが、そうでないモデル(ワンセグやターボメモリ、Bluetoothがついていないモデル)なら、価格がすでに15万をきっている。非常にお買い得だ。ノートパソコンの購入を考えておられる方は、選択肢の一つにどうぞ。
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2007年09月26日

短期間で特定の分野の知識を吸収する方法

今回は、前回予告しておいたように、院試勉強を通じて実感できた「短期間で特定の分野の知識を吸収する方法」をまとめておきたい。少し長いが、「1.前提」だけは読んでいただきたい。


1.前提

まず、何のために短期間で特定の分野の知識を吸収する必要があるのか、という目的が何よりも大切である。人間は必ず目的像を描いて、その描いた目的像にしたがって行動する存在だからである。目的が明確な人はぶれない(目的像を描き続ける力のことを、昔は思惟のMachtといったりもしたが、今では認識体力と規定されている)。描いた目的が明確であれば、その目的が人間を規定し、人間を動かすのである。ここを格好いい言葉で要約しておくと、「目的が過程の質を決定する」となる。

ここまでは一般論である。これだけでは使えない。要するに目的を明確にすればいいのだな、ということで、「よし!臨床心理士になるぞ! そのために大学院に合格するぞ! エイ!!」とばかりに、いくら強く念じても、それだけで目的が明確になることはあまりない。目的像とは、認識=像の一種なのであるから、認識の構造をふまえないとダメである。

認識は、五感情像ともいわれる。すなわち、人間は、5つの感覚器官をとおして外界を反映するのである。だから、認識=像は、目からの反映、耳からの反映、鼻からの反映、などなどが、いわば合成されているわけである。したがって、未来像たる目的像を明確にするときは、これも認識の一種なのであるから、例えば、視覚的な部分を明確にする、聴覚的な部分を明確にする、嗅覚的な部分を明確にする、ということをやっていけばよいのである。僕の場合でもう少し分かりやすくいえば、大学院入試に合格したときに、何が見えるか、どんな声やどんな音が聞こえるか、どんな匂いがするか、ということを、具体化していけばよいわけである。あたかも、もう実現してしまったかのようにリアルに、詳細に像を描くのである。要するに、認識=像は、五感情像であるという構造をふまえて、5つの感覚のそれぞれ(といっても、まずは代表的な視覚、聴覚を中心に。実は体性感覚というのも重要であるが)を明確化するとよい、ということである。

僕の場合は、自分が合格したときの姿をノートに詳細に書きまくった。そして、ことあるたびに読み返して、目的像を明確にするよう努力した。やってみると分かるが、確実にモチベーションが上がる。そして、描いた目的像は、描いたそのレベルで実現される。それが人間なのである。

以上のように、目的像を明確にすることが、何にもまして、一番大切なことである。極論すれば、目的像が明確にできれば、その目的はもう達成したも同然である。これは何も「短期間で特定の分野の知識を吸収する」場合のみに当てはまるのではなく、人間の行動一般に当てはまる論理である。なお、この論理は、原田隆史の長期目標設定用紙にも、「達成時の人間像」や「目標により得られる利益」という欄を設けることで、採用されている。また、伊藤真なんかも、勉強を始める前に合格体験記を書かせるという形で使っている。


2.方法

2.1.その世界にどっぷり浸る

ある分野の知識を吸収しようとする場合、その分野の世界にどっぷり浸ることが大切である。これは実際に勉強をし始める前の時期に、特に重要になってくる。勉強を始めれば、自然とその世界にどっぷり浸ることになるから、さして注意するまでもない。

僕の場合であれば、かなり以前から臨床心理学関係の本をたくさん購入した。別に読むわけでもない。せいぜいパラパラ眺める程度である。また、カウンセリングを実践されている人の話を聞いたりもした。あるいは、放送大学で臨床心理関係の番組を視聴したり、臨床心理士の人の本やウェブサイトを読んだりもした。臨床心理学を学んでいる院生にも直接出会ったり、メールのやりとりをしたりして、いろいろ教えていただいたりもした。

こういうことをすると、徐々に自分の認識がその世界的な性質を帯びるようになってきて、後に知識を吸収する際に、ヨリ効率的になるのである。簡単にいえば、認識がその世界になじんでいるから、その分野の知識と調和的になっているのである。知識の吸収ではないが、サッカーをやっている人が常にサッカーボールを持ち歩いたり、居合をやっている人が刀を抱いて寝たりするようなものである。その世界になじめばなじむだけ、知識や技を身につけるスピードが上がるといってよいだろう。

また、こういうことをすると、目的像をヨリ明確に描けるようにもなる。僕の場合であれば、院生の話を聞くことで、自分が院生として研究活動に励んでいる姿をヨリ具体的に描けるようになるし、臨床心理士の方の本を読むことで、自分の将来のありかたを、その人に重ねて、ヨリ具体的に描けるようになるわけである。


2.2.他の一切を犠牲にする

特定の分野の知識を吸収するには、それなりに時間がかかる。どれだけ時間がかかるかは当然、吸収したい分野の広さと深さ(+方法論の良し悪し)に規定される。しかし、われわれの目的は、短期間で特定の分野の知識を吸収するということである。「範囲も広いし、結構深く理解しなければならないので、2年かかります」というのでは、ダメなのである。

ではどうするか? 単純な話である。1日のうち、できるだけ多くの時間を知識の吸収のために使うのである。1日は誰にとっても24時間なので、その24時間のうち、知識の吸収以外のことを、極力やらなければいいのである。

確かに、知識の吸収に関係のないことを一切やらないということは不可能である。人間は寝なければならないし、食事をする必要もある。しかし、そういう生きていくために必要な最小限のこと以外は、一切を犠牲にしてでも、知識の吸収に努める覚悟が必要なのである。

こういった覚悟がないと、人間は絶対に「できない理由」を探してしまう。今日はどうしても見たいテレビ番組があるから勉強はちょっとお休みにしよう、とか、最近疲れ気味だから今日は早めに寝よう、とか、1週間がんばったんだから今日一日は思いっきり遊ぼう、とか、今日は人にこれを頼まれたから勉強はできないな、とか、である。いったんこういった「できない理由」を自ら認めてしまうと、連鎖的にいくつも認めてしまい、大きな時間の浪費になってしまう。絶対に「できない理由」を探さずに、短期間なのだから、他の一切を犠牲にする覚悟が必要である。

僕の友人に強者がいた。司法試験合格を目指して勉強していた彼は、「他の一切を犠牲にする」を文字通り実践した。人にも会わず、食事もすぐに済ませて、集中力がなくなったら、すぐに寝てしまうそうである。その時間に他のことをするよりも、睡眠時間の確保にあてるのだという。そして起きたら即勉強である。そうして、見事短期間で司法試験に合格したのである。念のために補足しておくと、彼は受験秀才とはほど遠い。なんせ、高校に行っていないのであるから。高校に行く必然性を感じられず、中学卒業後社会に出たものの、弁護士になりたいと思うようになって、大検、大学受験を独学でクリアーして、これまた予備校など行かずに独学で司法試験に受かったのである。確かそういう経歴だったはずだ。彼の目的意識が強烈だったことも明かであろう。

ここまでやるのは本当に理想で、僕のように仕事がある人は、最低限仕事をこなしながらになってしまうが、それでも、極力他のことは犠牲にしなければならない。また当然、例えば通勤しながらの学習のように、時間を作り出す工夫も必要である。


2.3.マインドマップと自己講義で全体像を把握する

知識を吸収したい分野の全体像をアバウトでいいので把握してから、細かい知識を覚えていった方がはるかに効率がよい。論理的なつながりが知識の定着を助けるからである。

したがって、まずは全体像の把握が肝要となる。そのためには、目次がしっかりしているコンパクトな本を基本書として設定し、それを何度か読んで、全体を一枚のマインドマップにまとめる。必要であれば、さらに全体をいくつかの部分に分けて、それぞれにマインドマップをつくってもいいだろう。

その後、そのマインドマップを見ながら、その分野の内容を、自分で自分に講義するのである。やってみれば分かるが、自己講義することによって、まだ自分が理解できていない点や曖昧な点が見事に浮上する。そういった点を、すかさず基本書でチェックするのである。そしてさらに自己講義をくり返す。理解できていない点、曖昧な点は、その都度、基本書でチェックする。もちろん、必要に応じて他の参考書も参照すればいい。

まあ、自己講義を20回もくり返せば、その分野のアバウトな全体像は確実に把握できるだろう。これは書くよりも、講義形式で話す方が、時間対効果(?)的に、絶対に効率的である。また、実際に話す相手がいれば、そちらの方が臨場感があり、相手に曖昧なところを指摘してもらうこともできる。だからそういう場合は、自己講義ではなく、普通にその人相手に講義してもよいだろう。

僕の場合は、通勤で車を運転している間(片道約20分)、ずっと自己講義をしていた。運転中は本を読むことはできないが、自己講義ならできる。こうして、通勤時間もしっかり活用した。また、頭のレベルが同じくらいの弟が近くにいるので、弟相手に「臨床心理学とは何か」から講義したりもして、意味不明なところを指摘してもらったりもした。これは思った以上の効果をあげたと思う。


2.4.細かい知識は問題集・用語集・事典をくり返して暗記する

全体像が描ければ、後は細かい知識を可能なかぎり覚えればよい。その際、まずは問題集をメインにするのがいいと思う。

問題集というのは、その名の通り、問題が付いている。問題が付いていると、一体何のメリットがあるのか? 人間の認識は問いかけ的反映であり、問いかけたものしか反映しない。問題というのは問いかけの一種であるから、問題を読むことによって、頭の中に問いかけができる。そうすると、問いかけがない状態では反映しなかったものまでも、反映するようになるのである。

例えば、「心理療法の立場の違いを特徴づける軸として、『指示的−非指示的』、『過去志向−現在志向』の二つがある。これらを、具体的な心理療法名を挙げて説明せよ。」という問題があるとする。そうすると、「なるほど、心理療法は、指示的−非指示的という軸や、過去志向−現在志向という軸で分類可能なのだな」というような、メタな視点が獲得できる。それを踏まえて参考書を読むと、「この療法は指示的だな」とか「この療法は過去志向だ」とかいったことが、明確に反映するようになる。さらに、問いを中心に知識がまとまり、整理されてくる、ということもいえる。

また、一般に、ヨリ明確な問いかけでもって反映したものは、明確に反映する分、記憶として定着しやすい。だから例えば、「Q:ゲシュタルト療法の創始者は誰か? A:パールズ, F」というような単純な問題でも、普通に文章を読んで暗記するより、記憶に残る。

以上のような理由で、細かい知識はまず問題集をメインに据えて、問題集から取り組むべきであろう。

ただし問題集だけでは、必要な知識を網羅していない場合がほとんどであるから、そういった際には用語集や事典を活用すべきである。用語集や事典は、問題集よりも網羅的ではあるものの、単に知識が羅列しているだけの場合が多い。しかし、すでにその分野の全体像は頭の中に入っているのだから、その全体像に位置付けながら、用語集や事典の知識を吸収していくことができるはずである。その際、問題集の代わりに自分で、問題集を応用した問いかけをもちながら読んでいけば、効果的である。また、事典の内容を穴埋め問題形式でカード化すれば、ポータブルな問題集にもなる。こういったことはいくらでも工夫できるはずだ。

いずれにしても、暗記するためには、ある程度くり返す必要がある。問題集を一回やっただけ、用語集を一回通読しただけ、で覚えられるはずがない。塾で指導しているとよく分かるが、覚えられないと文句をいう生徒に限って、くり返しが圧倒的に少ない。頭の良し悪しの問題ではなく、量質転化の問題である。覚えるまでくり返せばいいだけである。


2.5.知ったかぶりをして、他人に説明する

その分野の全体像であれ、細かい知識であれ、機会があれば、他人に説明するとよい。そうすると、自己講義の際に説明したように、曖昧な点などがはっきりしてくる。さらにいうと、説明するという行為自体が、いわゆる「エピソード記憶」となり、それが記憶を助けもする。これまた人に教える仕事をしていると分かってくるが、自分が教えたことは、かなり強烈に覚えているものである。だからこれを逆に利用して、覚えるために他人に説明するわけである。

さて、他人に説明する内容は、当然、自分が知っていることだと思うかもしれないが、そうとは限らない。あまり知らないことでも無理やり説明するのである。その際、知ったかぶりが重要である。

「知ったかぶり」とは何か? 本当はあまり知らないのに、知っているふうに振る舞うことである。知ったかぶりをすると、知らないということと、知っている振りをしたということとの間に矛盾が起こる。認識と表現の敵対的矛盾である。こういった状態は、自分にとって不快で不安であるから、これを解消すべく行動することになる。表現はもうなされてしまって、他者に対してばれているから、今さらなかったことにはできない。そこで認識のほうを「知らない」から「知っている」に変えるべく行動するわけである。これで矛盾が解消して、問題解決である。社会心理学でいうところの認知的不協和理論である。

僕の場合、塾で生徒に雑談として、心理学の知見を紹介した。例えば、僕の言ったつまらないダジャレがすべってしまったときのこと。「人は悲しいから泣くのではない。おもしろいから笑うのではない。泣くから悲しいのだ。笑うからおもしろいのだ。ジェームズさんとランゲさんが、こういうことを主張したので、これをジェームズ−ランゲ説という。だから、今笑ってみろ。おもしろくなるから。もちろん、これに対立する説もあるが。」とか何とかいうわけである。その瞬間、「イカン、対立する説ってなんだったけ?」と頭の中では焦りながらも、冷静を装う。そして、「その対立する説って何?」とか生徒にきかれる前に、「私は、いつもハッピーな気分でいたいから、鏡の前で笑う練習をしている。やれば分かるが、本当に笑うと楽しい気分になる。」と、ちょっとキモイ話題に転換して逃げるのである。そして家に帰って、対立する説(キャノン−バード説)を確認したり、もう少し正確にそれらの説はどういうことなのか、確認するわけである。


(この節、2008.2.27追記)
2.6.身近でオリジナルな具体例とセットで覚える

抽象的な内容を暗記する際は、具体例とセットにすると覚えやすい。それも、身近な、かつオリジナルな具体例である方が記憶に残りやすい。

例えば私の場合であれば、少し上で「社会心理学でいうところの認知的不協和理論である」と書いたように、自分の行動を心理学の知見で説明してみたりした。あるいは、心理学の知見に当てはまる身近な出来事を探したりしてみたりもした。そして自己講義のときや他人に説明するときに、抽象的な内容を述べてから、「例えば」といって具体例におり、具体例が終わった後で「つまり」といって再びのぼるのである。このように認識ののぼりおりをくり返すことによって、自然と知識の定着がはかれる。

英語の文法や語法が覚えられないのであれば、自分や身近な人物が登場するおもしろい例文を自分でつくってみて、それを覚えるのも手である。私が中学生に英語を教えていたときは、当時流行っていた(?)NOVAうさぎやボブ・サップを例文に登場させたものである。

要するに、具体例が身近で馴染み深かったり、インパクトがあったりすると、それとセットで抽象的な内容もしっかり記憶できるということである。


3.その他


3.1.過去問研究

以上が「短期間で特定の分野の知識を吸収する方法」のメインである。その他、少々の補足をしておく。

まず、入試や資格試験のように、ペーパー試験に合格するのが目的の場合は、当然ながら過去問研究が欠かせない。いってみれば、試験に出るところだけ覚えるのが一番効率的だからである。出題の傾向を把握して、その対策をするのである。

僕の場合は、志望大学院の過去問を入手して、過去に出題されているテーマの周辺部分は、やや力を入れて、具体的にいうと『心理臨床大辞典』(培風館)の関連箇所を読んで、勉強した。本来なら、すべてを網羅的に勉強するのがベストなのかもしれないが、我々には時間もないし、合格することが目的なのだから、こういう場合は割り切って過去問研究をするべきだと思う。


3.2.砂利道鍛錬

先ほど、「他の一切を犠牲にする」と書いたが、もちろん、知識の吸収に間接的にでも役立ちそうなことはやるべきである。たとえば、食事時間を節約するために、インスタントラーメンばかり食べるなどは、愚の骨頂だろう。人間の体は、脳細胞も含めて、食べたもので創られるのだから、しっかりバランスのよい食事をとることは、記憶に役立つと考えるべきである。また、睡眠時間を極端に削るというようなことも、やるべきではないかもしれない。実は短期間なら、一日4時間睡眠は可能ではないかとは思うが、やはり6時間くらいは眠るべきだろう。

僕の場合は、試験勉強の合間にも、灼熱のアスファルトや砂利道を裸足で歩く例の鍛錬を行ったりもした。脳細胞を刺激することによって、頭脳活動が活発化し、暗記力も上がるのではないかと思ったからである。効果はあったのではないかと思う。初めて聞く人名などが、妙にすらすら覚えられたものである。


3.3.僕の勝因

最後に、僕が院試に合格できた要因を考察しておこう。まず、なんといっても、少ないながら僕を支援してくださった方々の存在が大きかった。目標を明確にすることや具体的な勉強の仕方なども、こういった方々から学んだことが多い。原田隆史も、最後の数パーセントは他人の力が成功か否かを分けるといっていた。僕の場合は、50%位は依存していた気がするが。

次に、今まで述べてきた方法である。同じ時間勉強すれば、優れた方法を採用している方が効率がいいに決まっている。これまで学んできた弁証法・認識論を適用した簡便ながら優れた方法を創り出し、その線に沿って迷いなく勉強できたのは、怠け者の僕にとっては大きかったと思う。

最後に英語である。ほとんどの院試には英語の試験が課され、その英語の点数が合否を分けるケースが多いと聞く。その点僕はラッキーだった。仕事で大学受験生に英語を教えているくらいだから、ある程度の英語であれば、比較的速く正確に読める自信はあった。そのため、専門用語を英語で覚える以外は、全くといっていいほど英語の勉強をしなかった。その分、臨床心理の勉強に専念することができたのである。それでも英語の試験はおそらく満点に近かったはずだ。文章の内容(当然、臨床心理学に関連するものだが)は完璧に把握できたし、和訳や内容の要約も、まあ、いってみれば得意分野である。

なお念のために書いておくと、今「ラッキー」と書いたが、これは正確ではない。というのは、そもそも院試の英語対策として、大学受験生に英語を教える仕事を選んだ、という側面もあるからである(誤解のないように書いておくと、自分だけのために仕事をしているというわけではない。塾の講師であるから、第一の目的はもちろん、生徒の実力のアップである)。相当前からの準備が、非常に功を奏したといえると思う。


4.最後に

今回の院試勉強は、僕の認識論の実験でもあった。認識の構造をふまえて目的を明確化し、その明確化した目的像に向かって努力を続けることができたわけである。このように、何事も目的意識的に実践をするということを、しっかり積み重ねて、認識論の研鑽を積み重ねると直接に、目的意識的に行動することをしっかりと技化していきたいと思う。次の目標は、来年の4月に入学する際、間違いなく院生の中でトップレベルの実力を身につけていることである。また、全然違う話になってしまうが、11月に行われるシティマラソンに参加して、10キロを50分で完走する、という当面の目標も設定した。同じように目的像を明確にして、一つずつクリアーしていきたい。
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