2010年06月14日

日本酒を楽しめるお店の条件

京都には日本酒を楽しめるお店(居酒屋)がたくさんある。関東から来られた方にうかがうと,日本酒に関しては,関東ではあり得ないくらいの充実度のお店が多いということである。十四代や東一など,全国的に有名な銘柄を揃えているお店も多いし,こだわりの地酒を置いている店や,隠しメニューを用意している店もある。このような多様な銘柄を揃えているというのは,日本酒を楽しむ際の最低条件といえるだろう。いくらおいしい地酒でも,1種類しかないとなれば飲み比べることができないので。では,それ以外に,日本酒を楽しめるお店の条件としてはどんなことが挙げられるだろうか? 個人的には,次の3つの条件はクリアーしてほしいところである。

第1に,テーブルまで瓶を持ってきて,その場で注いでくれる,ということである。これはきわめて常識的でありながら,非常に大切な点である。もし店の奥で注いで持ってくるのであれば,それが本当に注文したお酒であるかどうか,確認のしようがない。もちろん,飲み慣れているお酒であれば,味でもってその銘柄を判別することも可能である。しかし,はじめて味わうお酒であるとか,季節限定のお酒であるとかいった場合は,実際に瓶で確認しないことには本物であるかどうかしっかりと確認することができないのである。さらに,瓶に貼ってあるラベルも重要だ。「黒龍」とか「臥龍梅」とかいった銘柄名が,見事な筆さばきで書かれていれば,それだけでその酒のレベルが分かるというものである。ラベルはその酒の顔であり,杜氏や酒蔵の思想性の表現という一面を持っているのである。これを味わうためにも,テーブルまで瓶を持ってきて,その場で注ぎ,しばらく瓶をテーブルにおいていてくれるお店が理想的である。

第2に,日本酒と同時にお冷やを持ってきてくれるという点である。日本酒というものは,水と交互に飲むものなのである。なぜか? 一つには,酔わないように,酔いを穏やかにするように,するためである。特にこだわりのお店がおいている「原酒」と呼ばれる種類の日本酒は,通常の日本酒よりもアルコール度数が高く,適宜水を飲んでいかないと,すぐに酔ってしまうことになる。また,日本酒を飲む場合は,がつがつと料理を食べるというようなことはないから,余計に酔いやすい条件がある。したがって,この意味からも水を飲むことは大切だということになる。水を飲む2つ目の理由は,違う種類のお酒を飲む際に,一度舌をリセットする必要があるからである。続けて別の種類のお酒を飲んでしまうと,舌に前のお酒の余韻が残ってしまっており,後に飲んだお酒の純粋な味がよくわからなくなってしまうのである。そのために,一度水を口に含んでリセットする必要があるのである。

日本酒を楽しめるお店の条件の第3は,日本酒に関しての社員教育を徹底しており,店員が日本酒について知識を豊富に持っている,ということである。注文をとりに来る店員に,「お勧めの日本酒は?」とか,「フルーティーな感じのを飲みたいのですが」とかいった場合,「では,これがお勧めです」と自信を持っていえるようでないと,安心して日本酒を楽しめない。「ちょっと分かる者に聞いてきます」とかいわれるようでは,白けてしまう。店に置いているお酒の特徴をしっかり把握して,適切に言語表現できる,店員の1人1人がそのようなレベルのお店は,店主の教育が行き届いているといえるだろう。そのようなお店なら,店員の方と相談して,今まで飲んだことのないお酒でも安心して挑戦できるし,日本酒の奥深さ,文化の高みといったものを,新たに発見できる可能性も広がるというものである。

以上,日本酒を楽しめるお店の条件を3つ挙げた。テーブルまで瓶を持ってきて注いでくれること,お冷やを一緒に持ってきてくれること,店員が日本酒に関しての知識を十分に持ち合わせていること,の3点であった。昨日例会後に行った行きつけのお店は,見事にこの3つの条件を満たしている。何年か前に初めて行ったときには,お冷やは持ってきてくれなかったのだが,こちらからの注文ということで指摘すると,すぐに取り入れてくれたようだ。次からは,何も言わなくてもお冷やを持ってきてくれるようになった。当然,瓶はテーブルにしばらく置いていてくれるし,店員の知識も十分だ。昨日も,斉藤酒造の「やどりぎ」という,そこら辺には売っていないお酒を勧めてくれた。しかも,酵母だけ違う二種類の「やどりぎ」を飲み比べてみてはどうか,と提案してくれたのである。この2つを飲み比べることによって,酵母の違いによる特殊性と同時に,「やどりぎ」一般のイメージもヨリ広がった。その後,「やどりぎ」とは全く別の,逆系統のお酒を注文したところ,「しっかりとした味の辛口のお酒ですね」といって,「花垣」という福井のお酒を持ってきてくれた。この言葉を聞いただけで日本酒が分かっている人だと安心したことであった。案の定,初めて飲んだ「花垣」はしっかりとした味わい深いお酒だった。お漬け物などのつまみと,日本酒を計3合飲んだにもかかわらず,3000円ちょっとというかなり良心的な値段で,その点でも好感が持てた。

このお店のようなレベルのお店を他にも開拓していきたいものである。
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2010年02月01日

本物と偽物

1日2食健康法というサイトの「豆腐を食べる」というページに,豆腐の選び方が書いてあった。簡単にいうと,原材料が「大豆,にがり」だけのものを選ぶように,とのことである。「原材料に2つしか書いていなければ,その豆腐は味も品質も保証できる」ということである。

今までに購入していた一丁40円程度の安い豆腐は,この基準を満たしていなかった。豆腐とはいえない代物を食べていたわけだ。日本酒でいうと,紙パックに入っているようなアルコールを,「日本酒」だと思って飲んでいたようなものだろう。これらのニセモノは確かに安いが,しかしそれらは豆腐ではないし日本酒でもない。缶コーヒーが本物の珈琲ではないのと同様である。

ニセモノの日本酒は紙パックに入っていることが多いし,缶コーヒーも缶に入っているから,現象的にも本物との違いが明確である。しかし,豆腐はニセモノでも本物でも現象的な違いはない(といってよいくらいだろう)。これはタチが悪い。「ガラスの玉は,本物の真珠をきどるとき,はじめてニセモノとなる」とは,ディーツゲンの名言だが,「大豆,にがり」以外も含めてつくった「豆腐」は,豆腐をきどらずに,「ガラスの玉」的な自称を,きちんと名乗ってほしいものだ。

恥ずかしながら豆腐に本物とニセモノがあることを知らなかったが,日本酒に関しては長年親しんでいる関係上,本物とニセモノが存在することをよく知っていた。このようなよく知っているものごとに引きつけて考えると,よく理解できる。これが論理的に考えるということの一例であろう。これからも,日本酒で一点突破的に創り上げた論理でもって,さまざまな対象の本物とニセモノを見分ける努力をしていきたい。
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2009年02月28日

大学院生活1年目

本当に久しぶりの日記。忘れないうちに大学院一年目の日常生活がどのようなものであったかを記録しておく。

後期の基本的な時間割をまずは提示する。なお,1限は9:00〜10:30,2限は10:40〜12:10,3限は13:00〜14:30,4限は14:40〜16:10,5限は16:20〜17:50である。

○月曜
 2.心理療法の授業
 3.ロールシャッハの授業
 4.臨床心理面接の授業
 5.ゼミ
 夜 某心理療法の勉強会@他大学

○火曜
 1.S1小学校での実習
 2.声・体・言葉の授業
 3.S2小学校での実習
 4.同上

○水曜
 2.情報の授業
 3.某先生のスーパーバイズ
 4.いろいろな分野の実践研究の授業
 5.ゼミの勉強会

○木曜
 1.精神医学の英語文献を読む授業
 2.ロールプレイの授業
 3.ケース・カンファレンス
 4.同上
 5.S1小学校の実習のシェア

○金曜
 1.ロールプレイ勉強会
 2.精神保健学演習の授業
 3.集団スーパーバイズ

以上,週1.5時間×21コマである(独自にやっている勉強会も入れているが)。大学院でこの授業コマ数,異常ではないか。しかもほとんど必修。授業に関しては,その日のうちに一時間以内で授業再現レポートを書いている。

土曜には会合や学会・研修会など,なんやかんやが入ってくる。学費を稼ぐためと一般教養の学び,認識論の学びのために家庭教師もやっている。

それでも土日の空いた時間や,平日の夜などには,主にレポートの作成やゼミ資料の作成を行ったり,カウンセリングや臨床心理学の本を読んだりしている。前期には心理テストの授業があって,これは毎週自分が被検者になってその心理テストを受け,それを解釈するレポートが課された。後期はロールシャッハ一本に絞られた授業であったが,2回ほどグループで発表する機会があり,その資料も作った。ゼミ資料というのは,修士論文作成のための先行研究のまとめや研究デザインの提示などである。ロールプレイの授業や勉強会では,カウンセラー役とクライエント役に分かれて模擬カウンセリングを行い,それを撮った映像をもとに逐語録をおこす。これもけっこう時間がかかる。

2月末から3月初めにかけては(つまりちょうど今頃は),授業のレポートや実習の記録のまとめが山のように課される。最高7つくらい課題がたまったこともある。またこの時期は,実際に相談にくるクライエントを,2年生から引き継ぐため,膨大な記録を読まなければならない。てんやわんやである。

何か,学部の時とは比べものにならないくらいに授業をこなすだけでいっぱいいっぱいの感じであった。

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2008年04月04日

河合栄治郎『学生に与う』(現代教養文庫)



電子書籍版


いよいよ
4月。入学のシーズンである。私が教えた生徒も大学生活への期待に胸を弾ませているに違いない。私自身もこの4月から大学院生である。再び学問に専念できることを非常にありがたく、喜ばしく思っている。入学に先立って、どのように学生生活を送ればよいかを、教え子のために(そしてもちろん自分自身のためにも)確認しておこうと思った。そこで名著・河合栄治郎『学生に与う』(現代教養文庫)を再び繙いた。脳細胞が揺さぶられるほどの強烈な感動!! 背中から頭の中までがしびれる感じである。この書に感動しない学生は、学生たる資格はないと断言できるほどの中身を、本書はもっている。


著者・河合栄治郎は
1891年生まれの経済学者。マルクス主義とファシズムを批判して自由主義の立場を貫いたため、1939年に東京大学教授の職を追われ、起訴された。教育に心血を注いでいた河合栄治郎が職を追われたときの心情は、察するにあまりある。


翌年、
2月から3月にかけての20日間あまりの時間を、当初、河合栄治郎はミル『自由論』の翻訳に充てる予定であった。しかし、「当時の私の心境は、外国書の翻訳をするにたえなかった。何か漏らしたい感慨に満たされていた」(p.4)のである。そこで出版社の人間の勧めに従って、学生向けの単行本を一気呵成に書き下ろす決心をしたのである。結果、『学生に与う』は、まさに河合栄治郎その人を反映した歴史的名著となって誕生した。


本書のテーマは、端的に言えば、「人間いかに生くべきか」である。これを教養ということを中心にして説いていく。教養とは、「自己により自己を教育する」(
p.50)ことであり、「自己が自己の人格を陶冶すること」(p.51)である。また、「現実の自我と対立して、理想の自我すなわち人格が与えられたならば、現実の自我は理想の自我たらねばならない、たるべく努力せねばならない。これが『教養』(culture, Bildung)ということである。」(p.67)とも説かれている。要するに、真・善・美の調和した理想の人格たるべく研鑽するのが人生であり、人間である、ということである。人格へ向けての自我の成長・発展、これこそが最高価値であり、全てはこの目的に収斂せねばならず、全てはこの目的から判断されるべきなのである。第一部で「価値あるもの」として自我の構成要素たる学問(その理想が真)・道徳(その理想が善)・芸術(その理想が美)などが語られたあと、第二部では「私たちの生き方」として、道徳の各論が具体的に説かれる。「読むこと」「考えること、書くこと、語ること」「講義・試験」「修養」「親子愛」「師弟愛」「学園」「社会」「職業」などである。その中から、河合栄治郎式の「毎日の生活のプラン」を紹介しておこう。少し長いが、あるべき学生生活の一例だと思う。

「毎日の生活のプランも、おのおのが自分で工夫せねばならないものだが、仮に私にいま一度、学生生活を送らせるとしたら、こんなプランで毎日を暮らしてみたいと思う。これは高等学校の寄宿舎にいるとしてのプランである。朝はなるべく早く起きる、六時か六時半である。顔を洗ってから二、三十分朝の爽やかな空気を吸いながら校庭を散歩する。朝飯を食べてから、ざっと新聞に眼を通す、ここでゆっくり読むのは無駄だと思う。授業の始まるまで約一時間、本でも読む暇ができる。学校の講義が正午に終わったら、中食を食べてから、新聞を少しくわしく読む。三時に講義が済んでから一時間か一時間半、前項に書いた復習をする。それから六時まで運動をしてぐっしょり汗をかく。戻ってから湯風呂か水風呂に飛び込んで、汗を流して夕飯につく。食後に友人と一緒にぶらりと散歩に出て買物でもする、これは三十分くらいである。そして七時から十一時まで、真剣に読書にかかり、十一時には寝床にはいって、前後不覚の眠りに落ちる。いろいろの会合や催しがあれば、その時々に変更するのは当然である。土曜の午後か夜は、映画、芝居、音楽会、展覧会等々の芸術の観照に費やし、日曜は朝から夕方まで、ひとりか友達とともに、弁当を持参してピクニックに出かける。もし雨でも降れば部屋に閉じこもって、会心の小説でも読み、夜は先生、先輩、友人などを訪問して、ゆっくりした話をする。これが一日のまた一週間のプランである。」(p.240

こんな学生生活に憧れないだろうか?


ところが、現在の大学はこの憧れを十分には満足させてくれない。大学に期待している新入生に冷や水をかけるようで申し訳ないが、現在の大学は(そして河合栄治郎が批判した当時の大学も)一般教養を無視、ないし等閑視し、知識偏重で学問の薫りはどこにもない。さらに加えて、教授の教育能力が甚だ低い。「教授」という肩書きなのに、教える仕事は片手間で、できればやりたくないくらいに考えているのではないか、というセンセイが多いように思う。そこで学生はいかにするべきか、これに対する解答が『学生に与う』である。


端的に言えば、他人からの教育に期待できないのであるから、自分で自分を教育するしかない、ということである。これが教養ということであった。何を目指して教養に取り組むのか? 人格の陶冶である。すなわち、歴史性を持つべく、昨日の自分、先月の自分、去年の自分を常に超えていくべく努力するのである。少しわかりやすくいえば、『学生に与う』の内容を、自力で説けるほどに研鑽を重ねるということである。

こうして、全てを最高善たる人格の陶冶につなげて、日々生活を送る。学問にしても、単なる知識として学ぶのではない、主体的に把握する必要がある。

「理想主義は高遠なる哲学である。しかし高遠なるが故にこそ、われわれの日常生活の隅々にまで、浸透せしめなければならない、実にわれわれのあらゆる生活場面にまで、漏らすことのなき指導の原理となりうること、ここに理想主義の哲学としての特質がなければならない。」(p.3

「少なくとも自我の構成要素たる学問、道徳、芸術に関する知識だけは、単に知識としてでなしに、これを自我にまで還元せしめ、主体的に把握せねばならない。」(p.97

要するに、河合栄治郎の精神に生きる! わけである、南郷継正師範が実践したように。新入生の諸君には、まず何よりも『学生に与う』を直に読んでいただきたい。これは以上説いたように、学生生活の送り方が説いてあるだけでなく、学問用語の基本がきちんと説いてあるので、学問の入門書としても非常に優れている。そしてできればその次に、瀬江千史『医学の復権』(現代社)も読んでほしい。血湧き、肉躍る、学問への情熱がかき立てられることまちがいなし、である。




なお、最後に私と友人が学生時代に書いた『学生に与う』の紹介文も載せておく。
Bildungという学術サークルを創ったときの新入生に向けてのメッセージである。



◇河合栄治郎『学生に与う』の紹介◇

 

 

 『学生に与う』は1940年、今から60年も前に執筆された著作です。当時の社会と比較すると、現在の社会は大きく発展しており、当然学生のあり方にも大きな変化が見られます。しかし、『学生に与う』は、その妥当性を現在も失ってはいません。それどころか、年代と共にその重要性が増しているといっても過言ではありません。ここに、私たちが「大学入学と同時に第一に読んでほしい名著」として強く推薦する理由があるのです。以下、『学生に与う』の冒頭部分の内容を、河合栄治郎自身の言葉を借りながら紹介していきたいと思います。そして、この内容は同時に私たちBildungの活動理念にも繋がっていくことになるはずです。

 

 「はしがき」で著者は、当時の歴史的状況を踏まえて、「祖国の難局を克服しうる精神的条件」として、「大局を達観する洞察の明、大事を貫徹せずんばやまない執拗な意志、自己の持ち場を命を賭して守る誠実と真剣さ、小異を捨てて大同につく和衷協同の心、何よりも打てば響くがごとき情熱」を挙げています。これはより一般的に、人間が困難を克服するための精神的条件である、ともいえると思います。特に最初に挙がっている「大局を達観する洞察の明」というのは、Bildungが直接にめざしているものです。学問の世界でも日常生活の上でも、小さな部分を見ただけでは正解を得られないが、より広い観点から全体を見直すと正解に到達できるという場合は、決して少なくありません。

 

 「はしがき」の次に来る「社会における学生の地位」という節では、学生の特殊性とは何か、社会における学生の地位はどのようなものであるか、といった問題が、主観的立場および客観的立場からそれぞれ論じられています。著者は、学生の特殊性として、親の仕送りで生活していること、精神労働者のいわば卵であることを挙げたあと、次のようにまとめています。

 

「要するに社会は、文化の相続と創造とを必要とする、これなくして社会の維持もできないし、いわんや社会の進歩もできないからである。ところで初等・中等の教育だけでは、この任務を負担するに足らないとすれば、社会は一群の成員をして、さらに高等の教育を修めさせねばならない。彼らと同年輩の青年が、現に労働に従事して社会の生産力を増しつつあり、さらにその方面の労働人口を増加することは、それだけ生産力を加えることにはなるが、それでは文化の維持と発展とが望まれない。ここにおいて一群の青年を労働から解放し、いかに生きるかの自然的生活の配慮から脱却せしめて、専心教育に没頭することにさせなければならない。これが学生が父兄の仕送りによって、学窓に勉強をなしうる社会的理由である。」

 

 次に著者は、「教育」について論じます。ここで、現代教育の根本的欠陥は、一般的教育と特殊的教育の乖離にあると指摘して、両者の区別と連関を正しく説いています。

 

「一般的教育とは、フィヒテのいうがごとくに、人間自身を形成すること(die Menschen selbst zu bilden)、また人間を彼自身たらしめること(die Menschen sich selbst zu machen)であり、また、パウル・ナトルプのいうがごとくに、人格を陶冶することである。」

 

「人格を構成する要素として三つのものが考えられることである。その三つとは学問、道徳、芸術である、そしてこの各々の理想が、真、善、美であるから、人格の陶冶とは真と善と美との三者の調和ともいうことができる。」

 

「特殊的教育とは一般的教育を前提として、人格の構成要素たる学問、道徳、芸術などを教授し修得せしめることをいうので、その目的は人格の各要素を捕えて、これを開発することにより、人格の陶冶に参与するにほかならない。」

 

 このように、一般的教育と特殊的教育とは立体的な関係になっているので、両者を切り離して片方だけを採ったり、平面的な関係だと考えたりしてはならないのです。この著者の現代教育批判が現在にも通じることは、受験制度一つを反省してみても分かることですし、大学の講義に出れば分かるはずのことです。

 

「ここにおいて今日の学生は、自己のうけつつある教育について、従来の謬見から脱却しなければならない。たとえ社会がなんと期待しようとも、父兄が何を意図しようとも、真正の教育観念を把握すること、それが自己に期待する社会と父兄とに、報ゆる所以であることを考えて、毫も躊躇すべきではないのである。」

 

 ところで、教育する主体としてはいろいろなものが考えられますが、その中心を担うのは「学校」における教師です。河合栄治郎も一流の教師でした。その著者が、研究者と学者と教師を、次のように区別と連関において説いています。すなわち研究者は「必ずしも学問の全体系の展望をもたなくても済みうる」が、学者は「学問の全体系における自己の専門の地位を明らかにし、隣接した専門との連関をあざやかに意識している」必要がある、さらに教師は「学者であるとともに教育者でなければならない」つまり「自己の担任した学科の全貌を要領よく展開」し「その成果に到達した方法を教えて、未来に無限の成果を生むべき創造的能力を涵養しなければならない」と説いているのです。このような文章を読むと、河合栄治郎が教壇に立って、「自己の専門の全学問における地位と、他の専門学科との連関を、さらに一歩進めては、学問の人格における意義と価値とを、学生に対して明白に説」いていた姿が、ありありと浮かんできます。

 

 翻って現在の大学に目を移してみると、河合栄治郎が指摘した通り、「今日の多くの教師は、研究者ではあるが学者ではない」という状況が見てとれます。京都大学における「全学共通科目」も一般教養課程とは名ばかりで、実際にはそれぞれの教官の狭い狭い専門分野を、ごく簡単に紹介しているだけのものが多いのです。

 

 大学がこのような状況であれば、私たち学生は一体どうすればいいのでしょうか? その答えの一つが「教養」ということなのです。教養とは「自己が自己の人格を陶冶すること」です。教育においては主体と客体とが同一ではありませんでしたが、教養においてはこれは同一であり、ともに自己自身です。人格の成長が教養の目的なのです。最後にここに関連した文章を引用して終わりたいと思います。

 

「成長のためにわれわれはどうしたらよいか。ここに生きたる教師と、死せる教師─書物─や親や友が助けになる、しかしこれも助産婦か慰安者であって、われわれの成長の代理はなしえない。成長はわれわれ自身がなさねばならない。」

 

「ゲーテのいうがごとく、『人は努力すればするほど過ちに陥る』。飛ぶ鳥は落ちるが飛ばざる鳥は落ちない。過ちのないことを求めるならば、何事もなさないに限る、その代わりに人格の成長は停止する。」

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2008年03月25日

D・カーネギー『人を動かす』(創元社)

  


1.読もうと思ったきっかけ

 

南郷継正師範も推薦されたことのある人間関係に関する名著だと聞いたので、4月からの新しい人間関係に応用できると思ったから。



2.内容の要約

 

目次がこの本のエッセンスの8割を語っていると思う。目次を、論旨を明確にした形に多少アレンジしたものを掲載する。そのほか、重要箇所を抜粋する。



PART1
 人を動かす3原則

 

1.批判・非難をせず苦情も言わない

2.率直で誠実な評価を与え重要感を持たせる

3.人の立場に身を置き強い欲求を起こさせる



PART2
 人に好かれる6原則

 

1.誠実な関心を寄せる

2.笑顔を忘れない

3.名前を覚える

4.聞き手にまわる

5.相手の関心のありかを見ぬいて話題にする

6.心からほめて重要感を与える



PART3
 人を説得する12原則
 

1.議論に勝つために議論をさける

2.相手の意見に敬意を払い誤りを指摘しない

3.自分の誤りをただちにこころよく認める

4.おだやかに話す

5.“イエス”と答えられる問題を選ぶ

6.相手にしゃべらせる

7.相手に思いつかせる

8.人の身になってまず相手を理解する

9.相手の考え・要望に同情を持つ

10.美しい心情に呼びかける

11.演出を考える

12.対抗意識・負けじ魂を刺激する

 

 

PART4 人を変える9原則

 

1.まずほめる

2.遠まわしに注意を与える

3.自分の誤りを話してから相手に注意する

4.命令せず質問の形で意見を求める

5.顔をたてる

6.わずかなことでも具体的にほめる

7.期待をかけできたことにする

8.激励し能力に自信を持たせる

9.喜んで協力させる

 

 

付 幸福な家庭を作る7原則

 

1.口やかましくいわない

2.長所を認める

3.あら探しをしない

4.ほめる

5.ささやかな心づくしを怠らない

6.礼儀を守る

7.正しい性の知識を持つ

  

「他人の欠点を直してやろうという気持は、たしかに立派であり賞賛に値する。だが、どうしてまず自分の欠点を改めようとしないのだろう? 他人を矯正するよりも、自分を直すほうがよほど得であり、危険も少ない。」(1-1p.25

 

「人を非難するかわりに、相手を理解するように努めようではないか。どういうわけで、相手がそんなことをしでかすに至ったか、よく考えてみようではないか。そのほうがよほど得策でもあり、また、おもしろくもある。そうすれば、同情、寛容、好意も、おのずと生まれて出てくる。」(1-1p.32

 

「人を動かす秘訣は、まちがいなく、ひとつしかないのである。すなわち、みずから動きたくなる気持を起こさせること――これが、秘訣だ。」(1-2p.33

 

「ところで、仮に家族や使用人に、六日間も食べ物を与えないでおいたとすると、われわれは一種の罪悪感を覚えるだろう。それでいて、食べ物と同じくらいにだれもが渇望している心のこもった讃辞となると、六日間はおろか六週間も、ときには六年間も与えないままほったらかしておくのだ。」(1-2p.44

 

「成功に秘訣というものがあるとすれば、それは、他人の立場を理解し、自分の立場と同時に、他人の立場からも物事を見ることのできる能力である。」(1-3p.57

 

「友を得るには、相手の関心を引こうとするよりも、相手に純粋に関心を寄せることだ。」(2-1p.74

 

「友をつくりたいなら、まず人のためにつくすことだ。――人のために自分の時間と労力をささげ、思慮ある没我的な努力をおこなうことだ。」(2-1p.83

 

「われわれは、自分に関心を寄せてくれる人々に関心を寄せる。」(2-1p.88

 

「家から出るときは、いつでもあごを引いて頭をまっすぐに立て、できるかぎり大きく呼吸をすること。日光を吸いこむのだ。友人には笑顔をもって接し、握手には心をこめる。……すべての物ごとは願望から生まれ、心からの願いはすべてかなえられる。人間は、心がけたとおりになるものである。」(2-2p.100

 

「話し上手になりたければ、聞き上手になることだ。興味を持たせるためには、まず、こちらが興味を持たなければならない。

 相手が喜んで答えられるような質問をすることだ。相手自身のことや、得意にしていることを話させるように仕むけるのだ。」(2-4pp.128-129

 

「人間の行為に関して、重要な法則がひとつある。この法則にしたがうならば、たいていの紛争は避けられる。これを守りさえすれば、友はかぎりなくふえ、常に幸福が味わえる。だが、この法則を破ったとなると、たちまち、はてしない紛争に巻きこまれる。この法則とは――

『常に相手に重要感を持たせること』。」(2-6p.139

 

「……ていねいな思いやりのあることばづかいは、単調な日常生活の歯車にさす潤滑油の働きをし、同時に、育ちのよさを証明する。」(2-6pp.141-142

 

「議論は、ほとんど例外なく、双方に、自説をますます正しいと確信させて終わるものだ。……議論に負けても、その人の意見は変わらない」(3-1p.159

 

"腹を立ててはいけない"――何に腹を立てるか、それで人間の大きさが決まってくる。」(3-1p.165

 

「人を判断する場合、わたしはその人自身の主義・主張によって判断することにしている――わたし自身の主義・主張によってではなく」(3-2p.181

 

「どんなばかでも過ちのいいのがれぐらいはできる。事実、ばかはたいていこれをやる。自己の過失を認めることは、その人間の値打ちを引きあげ、自分でも何か高潔な感じがしてうれしくなるものだ。」(3-3p.189

 

"一ガロンの苦汁よりも一滴の蜂蜜のほうが多くの蠅がとれる"」(3-4p.196

 

「相手をやっつけるよりも、相手に好かれるほうが、よほど愉快である。」(3-9p.239

 

「彼はいつも自主的に仕事をやらせる機会を与えたのだ。決して命令はせず、自主的にやらせる。そして、失敗によって学ばせた。

 こういうやり方をすると、相手は自分のあやまちが直しやすくなる。また、相手の自尊心を傷つけず、重要感を与えてやることにもなり、反感のかわりに協力の気持を起こさせる。」(4-4p.287

 

「ほめことばは、人間にふりそそぐ日光のようなものだ。それなしには、花開くことも成長することもできない。われわれは、事あるごとに批判の冷たい風を人に吹きつけるが、ほめことばというあたたかい日光を人にそそごうとはなかなかしない。」(4-6pp.295-296

 

「要するに、相手をある点について矯正したいと思えば、その点について彼はすでに人よりも長じているといってやることだ。『徳はなくても、徳あるごとくふるまえ』とはシェークスピアのことばだ。相手に美点を発揮させたければ、彼がその美点をそなえていることにして、公然とそのように扱ってやるがよい。よい評判を立ててやると、その人間はあなたの期待を裏切らないようにつとめるだろう。」(4-7p.303



3.自分の意見・感想

 

さすがに世界的ロングセラーであり、邦訳だけでも440万部以上を売り上げている著書だけのことはある。上の抜粋部分だけでも読めば分かるが、万人必読の名著中の名著である。新大学生・新社会人、人間関係に悩んでいる人には特に読んでほしい名著である。

 

訳者のあとがきに、「この本は、一朝一夕に頭だけで書かれたものではない。十五年にわたるカーネギーの指導の現場から生まれてきたもので、著者の説は、すべて実験ずみのものばかりなのである。」とあるように、一つの原則に対して、これでもか、これでもか、というくらい具体例を示して、たたみかけてくる。豊富な事実に裏打ちされているから、非常に説得力がある。具体例は、原則を踏まえた場合の成功例とともに、原則を守らなかった場合の失敗例も挙げている。

 

本書は、カーネギーの挙げる具体例に導かれながら、自分自身の経験を重ねる形で読んでいくことができる。そして、その自分の経験の意味を教えてくれるのである。「ああ、あのとき、失敗したのは、この原則を守らなかったからだな」とか、「あの人が好かれるのは、このためだったのか」とか、である。

 

本書を読んで、人を動かす一番のキーポイントとして強調されていることは、「重要感を与える」ということだと思った。相手の自尊心を傷つけず、相手がいかに重要であるかというメッセージを与える方法を、具体的に説いたのが本書であろう。「笑顔で接する」「名前を覚える」「誤りを指摘しない」「まずほめる」など、少し心がければすぐにできそうなものから、「相手の立場に立つ」「相手の関心を見抜いて話題にする」「相手に思いつかせる」「演出を考える」「遠回しに注意を与える」など、実行するにはそれなりの修練が必要なものまで、様々な方法が提示されている。が、ともかく、こういった著書は読むだけでは意味がない。即座に実行するべきである。

 

本書で説かれている人を動かす原則は、子どもの指導やカウンセリングにも使えるものだと思った。もう少し前に読んでいれば、この原則を生かして、よりよい指導が塾でできたのに、と残念でならない。が、今後、さまざまな場面で人を指導することもあろうし、臨床心理士としてカウンセリングをおこなうこともあろうから、これらの原則は技化しておく必要がある。原田隆史なんかは、すべて技化している印象がある。

 

あまり熱心に学んではいないのだが、臨床心理学でいわれているようなカウンセリングの技法は、本書ですべて説かれているのではないか、という気がする。ビジネスの世界で、実践上の必要性に迫られて鍛えられた「原則」は、高尚な「学問」の遙か先を行っているのだろう。経営学が経済学の遙か先を進んでいるのと、似た関係である気がする。

 

私としても、いわばハウツーレベルで説かれた本書の内容を、学的に、科学的認識論から説ける実力を付けていかねばならないと痛感した。例えば、「重要感とは何か」「自尊心とは何か」ということから、「コミュニケーションとは何か」「特にノンバーバル・コミュニケーションはいかに認識を表現しているか」「それは相手にどのように伝わるか」等々、きちんと認識の本質と構造を踏まえて、過程として説けるように研鑽しなければならない。

 

そのためにも、何はともあれ実践である。全く新しい人間関係ができるこの時期だからこそ、実験にはもってこいである。いくらかはできていると思われる原則もあるので、「笑顔で接する」や「おだやかに話す」といった全く実践できていなかった原則を特に意識的に実行していきたい。

 

なお、本書にはオーディオ・ブック版もあり、英語版のほうは比較的安いので、英語の勉強をかねて買ってみようかとも思っている。

 
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2008年03月12日

携帯、マラソン、服、メガネ、歯医者、あーんど大学受験

ここ2、3ヶ月の出来事を振り返っておこう。

1月の終わりか2月の初め頃に、携帯電話の機種変更を行った。2年以上前の前機種に比べると、機能が格段に進化している。便利そうな機能を列挙してみよう。

@音楽再生機能
マイクロSDカードを含めると、おそろしく大量のデータを入れられる。iPodとか、いらないのじゃないかと思ってしまう。ちなみに入れている音楽は「ゆず」(ウソ)。

Aボイスレコーダー機能
これまた大量に録音できる。運転中にひらめいたアイデアややるべきことリストなどは、メモ帳に打つよりも録音する方が危険性が少ない。また、研究会や講義の録音もできそうだ。今度試してみようか。

Bデジカメ機能
500万画素、オートフォーカス、顔認識。2、3年前のデジカメより高性能なんじゃないか? 着ている服がカワイイ姪(甥だったかな?)の写真をいっぱい撮ってやった。

Cテキストビューア機能
ワード、エクセル、パワーポイントファイルを入れて、携帯画面で閲覧できる。ワードファイルの場合、フォントサイズを22くらいにしたファイルを入れて、閲覧画面で二段階くらい拡大すると、ちょうど余白もなく、それなりに見られるサイズになる。玄和会員ではないが、毎回のゼミ、合宿、研究会の際にはレポートを書いているので、そのデータを全部携帯に入れてやった。これで携帯さえあれば、いつでも復習できる。

Dワンセグ機能
ほとんど使わないが、たいがいどこでもテレビが見られる。

E電話、メール機能
当たり前か。

1月末から2月の初めにかけて、携帯のアドレスを設定し直すのを忘れていたので、そのくらいの時期にメールを送ったのに返信がないという方がいらっしゃれば、お手数ですがもう一度お送りください(って、今頃遅いか)。

またマラソン大会出場した。兄夫婦が住んでいるところで開催されたマラソン大会だが、参加費が1000円くらいと安かった。その割に、参加賞で500円分の図書券やらタオルやらグラスやら何やらをばらまいていた。絶対赤字だな。10キロで46分。まずまずかな。これ以上速く走る必要はない気がする。

兄夫婦の家に遊びに行ったついでに、服とメガネを買った。私服を買うのは3年ぶりくらいか。ズボンと靴なんて、8年くらいずっと同じものを使っているくらいだから。4月からは学生に戻るので、それ用に私服(上着、ズボン、靴)を買った。アウトレットショップでそれなりに安く買えた気がする。また、恥ずかしながら目が悪いので、メガネも買った。視力回復のためにお風呂で眼球運動を毎日しているのだが、ほとんど効果がないようだ。どなたか、視力回復の科学的方法をご存じの方がいらっしゃれば、教えてください。兄と出会うと必ずといっていいほど激しい口論になるのだが、今回は珍しく穏やかだった。

恥ずかしながら、歯も悪いので、歯医者に行った。少なくとも15年ぶりくらいだ。しかし高い。ちょこちょこっと治療(?)するだけで2000円とか3000円とかする。これで3割負担だから、歯科医はどれだけ儲けているのか。どうでもいいが、私を担当した歯科医はアトピーがおそろしくひどい人だった。最近私の皮膚状態はひどくよい。原始長命食と玄米を毎日食べ、ビタミンCを毎日とり、ルイボス茶を毎日飲み、塩で体を洗っていると、アトピーが劇的にカイゼンする。こんなに治っていいのか、というくらいだ。本でも出そうか。この歯科医にも教えてやろうかと思ったが、どうせ実践しないだろうからやめておいた。

大学受験は、もう後期日程も終わる頃だ。塾で教えていた生徒はどうなったのか? 心配で夜も眠れない。実は11月頃から一人、家庭教師もしていた(もちろん、塾の生徒ではない)。この子はその時まで全く英語の勉強をしておらず、センター模試でも6割とれればいい方だった。そこから週2回、一回2時間、英語と国語の家庭教師をやったのだが、英語に関しては驚くほど上達した。センター試験では9割近くとれた。2〜3ヶ月でここまで伸びるというのはすごいことだと思う。センターの点数は全体的には第一志望の大学を目指すには不十分だったが、その子は思い切って挑戦した。しかし、残念ながら前期日程では不合格となってしまった。後期日程では英語が出題されないので、前期日程が終わった時点で家庭教師は終了したが、最後に『弁証法はどういう科学か』をプレゼントした。風の噂では、後期の準備もせずに読んでいたらしい。後期が終わってからプレゼントすべきだったか。なお、恥ずかしながら私は頭も悪いので、弁証法を勉強している。
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2008年02月18日

D.シュルツ『現代心理学の歴史』(培風館)

D.シュルツ『現代心理学の歴史』(培風館)

1.読もうと思ったきっかけ

大学院で臨床心理学を専門的に勉強するに先立って、心理学の全体像をアバウトに把握しておこうと思っていた。そこで、新書や文庫レベルの、一人の著者が書いた心理学の概説書を何冊か読んだ。それと平行して、過程も含めて全体であるから、心理学史も学ぼうと思った。そこで何かいい本はないかと探していたところ、『試験に出る心理学 一般心理学編』(北大路書房)で紹介されていた本書を発見。アマゾンで検索したところ、以下の紹介文があって、その中の「時代精神」に惹かれて購入、読むことにした。

「100年をこえた科学としての心理学の歴史を、客観的な見地からまとめた書である。従来他の学史などに多くみられた、人物が時代をつくるという人物中心のアプローチをとらず、時代が人物を育て方向づけるという時代精神を強調する立場で書かれているところに本書の特色がある。実験心理学に対する精神分析理論や人間性心理学など、第2次大戦以後発展してきた新しい流れの記述もバランスよくとりいれ、現時点における心理学の姿を正面からとりあげている。心理学の歴史的展開に関係のある社会的な出来事や個人的エピソードなども随所にもりこまれ、親しみやすく平易に叙述されている。」


2.内容の要約

現代心理学は、哲学における機械論的な時代精神と、ドイツの生理学の影響を受けて19世紀末に誕生した。

現代心理学の創始者であるヴントは、当時の物理学の影響を受けて、心を構成要素に還元し、内観を通した実験によって研究した(構成主義)。構成主義はティチェナーが完成させた。ヴントと同時代の心理学者としては、記憶研究のエビングハウス、色彩研究のミュラー、後のゲシュタルト心理学や人間性心理学に影響を与えたブレンターノ、現象学を発展させたフッサールの師匠であるシュトゥムプ、無心像思考を立証したキュルペなどがいる。

これに対して、ダーウィンの進化論やゴールトンの個人差研究に影響を受けて、心の実体ではなく、その機能を研究しようという運動がアメリカで発展していった。心理学の知見を実用・応用しようとする機能主義の運動である。プラグマティズムで知られるジェームズが機能主義を先取りし、ホールやキャッテルが開拓した後、シカゴ学派のデューイ、エンジェル、カーによって正式な発展を見た。

さらに、この機能主義の立場を踏襲した上で、内観というような主観的な方法に頼るのではなく、客観的に観察可能な刺激(S)とそれに対する反応(R)のみをデータとして動物や人間の行動を説明しようとする行動主義が、ワトソンによって打ち立てられた。ソーンダイクやパブロフの動物実験がその前触れであったが、客観性を求める時代精神の反映でもあった。行動主義においては、動物や人間の行動を、細かなS−R要素に還元するので、還元主義という点では構成主義と同じである。行動主義は、トールマン、ハル、スキナーらの新行動主義へと継承されていく。

一方ドイツでは、構成主義が要素に還元した上で心を捉えようとする微視的なアプローチであることを批判して、より巨視的なアプローチをとるゲシュタルト心理学が成立した。全体は部分の総計ではないというのが、ゲシュタルト心理学の基本的立場である。これは物理学における「力の場」という考え(時代精神)の反映でもあった。ゲシュタルト心理学の運動はヴェルトハイマー、コフカ、ケーラーの三人によって進められた。レヴィンの場理論もこの系列に位置づけることができる。

以上のようなアカデミックな心理学とは相対的に独立した形で、精神病理の研究から、フロイトは精神分析を開発した。精神分析においては、心理学では無視されてきた無意識の動機づけに焦点が当てられた。その後、フロイトの定式化を修正する理論家が次々に現れた。個人的無意識と普遍的無意識を区別したユングや、人間の生物学的側面ではなく社会的側面を重視したアードラー、ホーナイ、フロムらである。

近年、物理学における「自然の推移を、これを妨げることなく観察することはできない」という時代精神に対応した認知革命が、心理学を席巻し始めている。この認知革命を反映したのが、バンデューラの社会的学習理論である。また、精神分析の近年の発展としては、オールポートから始まるパーソナリティ研究がある。TATの構成に影響を与えたマレーや、生涯にわたる人格発達の理論を創ったエリクソンも、この系列に入る。さらに、人間は無意識や外的な刺激によって支配されているとする精神分析や行動主義の決定論・脱人間性への抵抗として、心理学の第三勢力が現れた。これが人間性心理学である。欲求階層説を唱えたマズローやクライエント中心療法を創始したロジャーズがその代表者である。



3.自分の意見・感想

心理学の歴史はたかだか100年ちょっとだが、相当膨大な研究がなされてきている。普通、心理学というとフロイトを連想しそうだが、本書でフロイトを扱っているのは、15章中1章だけである。割とマイナーだと思われる機能主義に3章分も費やしているにもかかわらず、である。しかも、フロイトの精神分析は、その起源からすると、相当な異端である。異端というより、心理学とは別物といった方が正確だ。

さらに、本書で心理学の研究分野がすべて網羅されているわけではない。社会心理学もちょこっと触れられているだけであるし、発達心理学、認知心理学、臨床心理学なんてものは、全く触れられていないに等しい。それでもこれだけの膨大な研究の歴史があるのかと、ちょっとだけ驚いた。

さて、科学的認識論の立場からすれば、心理学史上の様々な学派というのは、認識のある側面を強調して捉えた一面的なものに過ぎない、という気がしてくる。例えば構成主義というのは、典型的な機械的反映論であって、素朴な感性的認識だけを問題にしているように思う。また行動主義は、対象→認識→表現という媒介的なつながりを無視して、対象→表現と直結している。確かに刺激(対象)と反応(表現)はつながっているが、それはあくまでも認識を媒介としてのつながりである。それなのに、客観性という名のもと、認識を無視しているのである。素直に考えればこれのどこが「心」理学なのか、と思ってしまう。ゲシュタルト心理学は認識の能動性に着目した学派であろう。問いかけ像(論理)があるからこそ像を結ぶということに、それなりに気づいていたような気がする。精神分析は、蓄積された過去像の威力の凄まじさやその実体への影響に着目した学派だと思った。

本書は、その前に読んだ『心理学史への招待』(サイエンス社)よりも遙かに心理学の発展の流れがよく分かる良書だと思う。しかし、大上段に「時代精神を強調する立場」などといっている割には、哲学といってもデカルト以来の機械論やイギリス経験論の連合主義くらいしか登場せず、ほとんど物理学が時代精神を代表しているかのような口吻である。確かに、現代心理学は自然科学としての物理学を理想として、その影響の下で発展してきたというのは事実であろう。しかし、それを「時代精神」なんて大仰な言葉でわざわざ言う必要はなかろう。

やはり心理学がなぜ19世紀末になって誕生したのかというような謎に関しては、最近の南郷師範の論文に学ばないと絶対に理解できないだろうと思った。南郷師範に学べば、まさに時代精神と心理学の関係がはっきりしてくると思う。南郷師範の論文に関しては、また別の機会に書いてみたい。
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