2011年02月18日

誤字の指摘を自分の「成果」と強調する椿君

 相互浸透しないように上から目線でいこう。

 天寿堂の掲示板に自らの作文を投稿し続ける椿君。読むつもりはなかったが,たまたま目に入った箇所で面白いことを書いていた。

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「最後に、少々場違いではありますが「心に青雲」から来られた方も多くいるようなので、少しあのブログについての注意を促したいと思います。

というのも、彼は平然と「捏造」をし「他人の成果を盗む」ような人間のようなのです。以前、1月24日付け「漢字は魂を創り仮名は心を創る」の記事で、
『外国人には、「日本に来たいのなら日本語を理解できるようにしろ」で良いではないか。』
という一文が投稿された当初は「理解」が「理系」になっていました。日本語の大切さを語る内容の記事にそのような誤植があっては締りが出ませんよ、という旨のコメントを書いたのですが、そのコメントは掲載もされず、ただひっそりと誤植が訂正されていました。

そして今回の記事「感情の癌化(下)」でも「内弁慶」なる人物がコメントしていますが、どう考えても「物理系」の人間ではありません。何せ、一つ前の記事書かれている科学的な内容は科学界では「常識」であり、それを否定するような研究者はそもそも仕事が出来るレベルではない事になります。恐らく、全く物理を知らない人間が成りすまして書き込んだのかと。」

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 彼は誤字の指摘を自分の「成果」と呼んでいる。彼の「成果」とはこの低度のものらしい。また,かのブログに対して誤字を指摘する人が他にもいるのではないか,などと想像をめぐらすことは,彼の能力を超えているようだ。ブログ筆者本人が読み返して気が付く,ということも,彼にとっては思いも浮かばないことらしい。

 自分の想像力のなさを棚に上げて,自分の恥ずかしい「成果」のみを主張する彼は,滑稽を通り越してもはや哀れである。

 また彼は次のようにも書いている。

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「それから、私は私自身しっかりと「結果」を残していますよ。大した結果ではないですが、他人の批判的な目を持ってしてもそこに確かにある「結果」です。しかし、南郷学派の人間は・・・南郷先生や、愚按亭主様は、本当に「結果」を残しているのでしょうか?そもそも「結果」とはその組織や団体に所属していない人間が見て初めて判断できるものです。考えてもみてください。「私は透明人間になれるが、誰も見ていないときしか出来ない」という人間が、「結果」を残したといえるのでしょうか?

もちろん、南郷学派の出している「学城」という雑誌があるのは知っています。しかし、それを評価する他の組織や団体はあるのですか?それ以外に南郷先生自身を評価する南郷学派に所属していない人間は?」
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 実際にそういう人が登場しているにもかかわらず,先の引用部分にあるように,その人を「成りすまし」と判断している。彼には「南郷先生を評価するのは南郷学派のものだけ」という妄想が存在するため,南郷先生を評価する部外者が現れれば,事実を認めることなく,自分の妄想を大切にしてウソだと断定するわけだ。

 自分が「成りすまし」をしたり,ウソをついたりしているからこそ,相手の意図を誤解して,いわゆる下種の勘ぐりによって,相手も「成りすまし」ているのだ,ウソをついているのだ,と判断してしまうのである。認識論的にいうと,自分の自分化である。これについては,われわれ京都弁証法認識論研究会のブログにおいて説いておいた。

 あるいは,彼の頭の中では南郷先生を評価する人は自動的に南郷学派と規定されるのだろう。私は南郷先生をこの上なく尊敬し,憧れを持って学びつづけているが,玄和会会員ではない。その私も,彼から見れば南郷学派,ということになるのかもしれない。南郷先生を評価する人,すなわち南郷学派という等式が成り立つのなら,確かに「南郷先生を評価するのは南郷学派のものだけ」ということになるわけだ。面白い屁理屈だ。

 誤字を指摘するという「結果」を残して,それを誇らしげに作文に書く椿君は,私の予想では一流大学受験に失敗した上に,心機一転入会した玄和会でも挫折した(だから筋違いの恨みをもち執拗に南郷先生を否定する作文を書く)引きこもり君だろう。現実世界では誰も相手にしてくれないのに,ネット上では相手をしてくれる人物がいるものだから,ブルーバックスか何かで仕入れた知識を元に,恥知らずな作文を書き続けているものと想像される。

 おそらく,以前このブログに阿呆なことを書いてきた上に,私が否定しても私が玄和会会員であると頑なに主張していた妄想君と同一人物であろう。こういったら差別になるかもしれないが,精神病の方は自分が恥ずかしいことをしているという自覚がない。「恥ずかしい」というような社会性が欠如しているのだ。

 不快この上ない彼であったが,認識論の材料としては1つのケースとして役に立ったかもしれない。

posted by 寄筆一元 at 18:52| Comment(4) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月14日

日本酒を楽しめるお店の条件

京都には日本酒を楽しめるお店(居酒屋)がたくさんある。関東から来られた方にうかがうと,日本酒に関しては,関東ではあり得ないくらいの充実度のお店が多いということである。十四代や東一など,全国的に有名な銘柄を揃えているお店も多いし,こだわりの地酒を置いている店や,隠しメニューを用意している店もある。このような多様な銘柄を揃えているというのは,日本酒を楽しむ際の最低条件といえるだろう。いくらおいしい地酒でも,1種類しかないとなれば飲み比べることができないので。では,それ以外に,日本酒を楽しめるお店の条件としてはどんなことが挙げられるだろうか? 個人的には,次の3つの条件はクリアーしてほしいところである。

第1に,テーブルまで瓶を持ってきて,その場で注いでくれる,ということである。これはきわめて常識的でありながら,非常に大切な点である。もし店の奥で注いで持ってくるのであれば,それが本当に注文したお酒であるかどうか,確認のしようがない。もちろん,飲み慣れているお酒であれば,味でもってその銘柄を判別することも可能である。しかし,はじめて味わうお酒であるとか,季節限定のお酒であるとかいった場合は,実際に瓶で確認しないことには本物であるかどうかしっかりと確認することができないのである。さらに,瓶に貼ってあるラベルも重要だ。「黒龍」とか「臥龍梅」とかいった銘柄名が,見事な筆さばきで書かれていれば,それだけでその酒のレベルが分かるというものである。ラベルはその酒の顔であり,杜氏や酒蔵の思想性の表現という一面を持っているのである。これを味わうためにも,テーブルまで瓶を持ってきて,その場で注ぎ,しばらく瓶をテーブルにおいていてくれるお店が理想的である。

第2に,日本酒と同時にお冷やを持ってきてくれるという点である。日本酒というものは,水と交互に飲むものなのである。なぜか? 一つには,酔わないように,酔いを穏やかにするように,するためである。特にこだわりのお店がおいている「原酒」と呼ばれる種類の日本酒は,通常の日本酒よりもアルコール度数が高く,適宜水を飲んでいかないと,すぐに酔ってしまうことになる。また,日本酒を飲む場合は,がつがつと料理を食べるというようなことはないから,余計に酔いやすい条件がある。したがって,この意味からも水を飲むことは大切だということになる。水を飲む2つ目の理由は,違う種類のお酒を飲む際に,一度舌をリセットする必要があるからである。続けて別の種類のお酒を飲んでしまうと,舌に前のお酒の余韻が残ってしまっており,後に飲んだお酒の純粋な味がよくわからなくなってしまうのである。そのために,一度水を口に含んでリセットする必要があるのである。

日本酒を楽しめるお店の条件の第3は,日本酒に関しての社員教育を徹底しており,店員が日本酒について知識を豊富に持っている,ということである。注文をとりに来る店員に,「お勧めの日本酒は?」とか,「フルーティーな感じのを飲みたいのですが」とかいった場合,「では,これがお勧めです」と自信を持っていえるようでないと,安心して日本酒を楽しめない。「ちょっと分かる者に聞いてきます」とかいわれるようでは,白けてしまう。店に置いているお酒の特徴をしっかり把握して,適切に言語表現できる,店員の1人1人がそのようなレベルのお店は,店主の教育が行き届いているといえるだろう。そのようなお店なら,店員の方と相談して,今まで飲んだことのないお酒でも安心して挑戦できるし,日本酒の奥深さ,文化の高みといったものを,新たに発見できる可能性も広がるというものである。

以上,日本酒を楽しめるお店の条件を3つ挙げた。テーブルまで瓶を持ってきて注いでくれること,お冷やを一緒に持ってきてくれること,店員が日本酒に関しての知識を十分に持ち合わせていること,の3点であった。昨日例会後に行った行きつけのお店は,見事にこの3つの条件を満たしている。何年か前に初めて行ったときには,お冷やは持ってきてくれなかったのだが,こちらからの注文ということで指摘すると,すぐに取り入れてくれたようだ。次からは,何も言わなくてもお冷やを持ってきてくれるようになった。当然,瓶はテーブルにしばらく置いていてくれるし,店員の知識も十分だ。昨日も,斉藤酒造の「やどりぎ」という,そこら辺には売っていないお酒を勧めてくれた。しかも,酵母だけ違う二種類の「やどりぎ」を飲み比べてみてはどうか,と提案してくれたのである。この2つを飲み比べることによって,酵母の違いによる特殊性と同時に,「やどりぎ」一般のイメージもヨリ広がった。その後,「やどりぎ」とは全く別の,逆系統のお酒を注文したところ,「しっかりとした味の辛口のお酒ですね」といって,「花垣」という福井のお酒を持ってきてくれた。この言葉を聞いただけで日本酒が分かっている人だと安心したことであった。案の定,初めて飲んだ「花垣」はしっかりとした味わい深いお酒だった。お漬け物などのつまみと,日本酒を計3合飲んだにもかかわらず,3000円ちょっとというかなり良心的な値段で,その点でも好感が持てた。

このお店のようなレベルのお店を他にも開拓していきたいものである。
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2010年02月01日

本物と偽物

1日2食健康法というサイトの「豆腐を食べる」というページに,豆腐の選び方が書いてあった。簡単にいうと,原材料が「大豆,にがり」だけのものを選ぶように,とのことである。「原材料に2つしか書いていなければ,その豆腐は味も品質も保証できる」ということである。

今までに購入していた一丁40円程度の安い豆腐は,この基準を満たしていなかった。豆腐とはいえない代物を食べていたわけだ。日本酒でいうと,紙パックに入っているようなアルコールを,「日本酒」だと思って飲んでいたようなものだろう。これらのニセモノは確かに安いが,しかしそれらは豆腐ではないし日本酒でもない。缶コーヒーが本物の珈琲ではないのと同様である。

ニセモノの日本酒は紙パックに入っていることが多いし,缶コーヒーも缶に入っているから,現象的にも本物との違いが明確である。しかし,豆腐はニセモノでも本物でも現象的な違いはない(といってよいくらいだろう)。これはタチが悪い。「ガラスの玉は,本物の真珠をきどるとき,はじめてニセモノとなる」とは,ディーツゲンの名言だが,「大豆,にがり」以外も含めてつくった「豆腐」は,豆腐をきどらずに,「ガラスの玉」的な自称を,きちんと名乗ってほしいものだ。

恥ずかしながら豆腐に本物とニセモノがあることを知らなかったが,日本酒に関しては長年親しんでいる関係上,本物とニセモノが存在することをよく知っていた。このようなよく知っているものごとに引きつけて考えると,よく理解できる。これが論理的に考えるということの一例であろう。これからも,日本酒で一点突破的に創り上げた論理でもって,さまざまな対象の本物とニセモノを見分ける努力をしていきたい。
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2007年11月12日

弁証法・認識論の実験一つ、二つ

最近、立て続けに弁証法・認識論の実験に二つほど成功した。一つは先日このブログでも紹介した院試の合格である。もう一つはダイエットである。

まず結果をお伝えすると、一ヶ月で8kgの減量に成功した。同じ8kgといっても、元の体重しだいでその評価は大きく異なることになると思うから、大雑把な目安を言っておくと、体重が70kg台から60kg台に変化したのである。

ではどうやって減量に成功したのか? 物理的には、食事制限と運動、これだけである。食事制限といっても食べないわけではない。食べないために食べるとでもいおうか。具体的にいえば、一日のうち一食は必ず原始長命食を中心とする食事、その他は玄米、味噌汁、野菜等のいわゆる粗食。肉や油は極力食べない。酒もほとんど飲まない。運動は、ジョギングorウォーキングと腹筋である。一ヶ月で80km走り、20km弱歩いた。走った回数は9回、一日10kmか5kmずつ走った。歩いたのは3回、距離は毎回5キロメートル強。腹筋は、一日60回を1〜2セットくらい。これだけやれば、70s台の人間は、一ヶ月で8sは減量できる。

しかし問題は、僕は人間だということである。「人間を動かすものは、すべて人間の頭脳を通過しなければならない。」(エンゲルス『フォイエルバッハ論』国民文庫、p.62)のである。すなわち、人間は目的的存在であり、自らの描いた目的像に従って行動するのである。したがって、減量とは自らの行動のコントロールの問題というよりはむしろ、認識のコントロールの問題なのである。

認識論を学んでいますという人間が、自らの認識すらもコントロールできないようでは、他人の認識をコントロールすることなど絶対にできず、ましてや認識論の再措定や認識学構築など、夢のまた夢であろう。認識論を学んでいる人間が自殺をするなんてことは、いったい何のための認識論の学びであったのか、わけが分からないというものである。簡単にいえば、認識の法則性の基礎を学べば、ダイエットくらい極簡単にできるのである。

ではその認識のコントロールとはどのようなことか? この点については、前回院試合格体験記で述べたことと論理的にはまったく同じなので、そちらを参照していただこう。要は、目標を達成したときの有様をリアルに描くということである。(念のために述べておくと、前回の院試合格体験記のエッセンスは、勉強方法自体にあるのではない。認識論の適用という点にこそ、その価値があると思っている。)

すなわち、僕の頭の中ではすでに一ヶ月前に目標を設定した段階で、もう目標は達成してしまっているのである。現実がこの目的像を後追いしただけである。したがって、「やったー!ダイエットに成功した!」とか「うれしい!」とかいう感情は、あまりないものである。院試合格のときもそうであったが、そういう感情は目標を設定した段階ですでに味わっている。もちろん、未来像として描いている場合と、直接の反映像として描いている場合とでは、やはりリアルさが違い、当然感情も違ってはくるが。

もう少し具体的に認識のコントロールについて学びたい方には、次の本を推薦しておこう。それは、原田隆史『カリスマ教師 原田隆史の夢を絶対に実現させる60日間ワークブック』(日経BP社)である。私の認識論の学びの成果と、原田隆史の言うリーチングの理論とは、結論的に同じである。したがって、原田隆史方式で院試合格やダイエットに成功したといってもよい。もっといえば、臨床心理学指定大学院の合格や、8sの減量くらいなら、この原田隆史のワークブックほど徹底しなくても、難なくクリアーできる、認識論的にエッセンスを踏まえさえすれば。

原田隆史の本の中に、マンダラートを使って目標を具体化するワークがある。これは特に有効である。たとえば僕の場合であれば、ダイエットするための方法・手段をまずは8個考える。さらにその8個について、より具体化した手段をそれぞれ8個ずつ考えるのである。合計64個の具体的な行動目標を考え出せば、もう目標は半分実現したようなものである。具体的な手段を64個も考え出せれば、できない気がしなくなる。具体的な像は現実に近いから、すぐに行動に移せるのである。

なお、変な批判を避けるために一言追加しておくと、ダイエットというのは、あくまで弁証法・認識論の実験の一つの指標として取り上げただけである。自分自身の努力によってコントロールできることであれば、目標は何でもよかったといってよい。ただ、最近太り気味であったし、太り気味ということは食生活が乱れているとか運動不足とかいう要因が考えられ、それが病気の引き金にもなりかねないので、この際きちんとした食生活を確立して適度な運動をすることによって、より健康的な生活を送ろうとしたわけである。その一つの指標として減量を考えたまでである。

もう一つ蛇足を述べておくと、上記のダイエット生活と入浴の際に粗塩で体を洗う、さらに一日1gのアスコルビン酸をとる、という実践をしたおかげで、持病であったアトピーが劇的に改善した。3年ほど医者にかかっていたにもかかわらず、まったく回復しないどころか、時によっては悪化さえしていたのだが。おそらく、酒を控えたことと長命食を中心とした健康的な食事の影響が特に大きかったように思う。当然、これも想定通りであった。まさに量質転化である。

あと一ヶ月ほどでさらに5sの減量と、アトピーの完治が次なる目標である。もう僕の頭の中では実現してしまっているが。

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2007年09月26日

短期間で特定の分野の知識を吸収する方法

今回は、前回予告しておいたように、院試勉強を通じて実感できた「短期間で特定の分野の知識を吸収する方法」をまとめておきたい。少し長いが、「1.前提」だけは読んでいただきたい。


1.前提

まず、何のために短期間で特定の分野の知識を吸収する必要があるのか、という目的が何よりも大切である。人間は必ず目的像を描いて、その描いた目的像にしたがって行動する存在だからである。目的が明確な人はぶれない(目的像を描き続ける力のことを、昔は思惟のMachtといったりもしたが、今では認識体力と規定されている)。描いた目的が明確であれば、その目的が人間を規定し、人間を動かすのである。ここを格好いい言葉で要約しておくと、「目的が過程の質を決定する」となる。

ここまでは一般論である。これだけでは使えない。要するに目的を明確にすればいいのだな、ということで、「よし!臨床心理士になるぞ! そのために大学院に合格するぞ! エイ!!」とばかりに、いくら強く念じても、それだけで目的が明確になることはあまりない。目的像とは、認識=像の一種なのであるから、認識の構造をふまえないとダメである。

認識は、五感情像ともいわれる。すなわち、人間は、5つの感覚器官をとおして外界を反映するのである。だから、認識=像は、目からの反映、耳からの反映、鼻からの反映、などなどが、いわば合成されているわけである。したがって、未来像たる目的像を明確にするときは、これも認識の一種なのであるから、例えば、視覚的な部分を明確にする、聴覚的な部分を明確にする、嗅覚的な部分を明確にする、ということをやっていけばよいのである。僕の場合でもう少し分かりやすくいえば、大学院入試に合格したときに、何が見えるか、どんな声やどんな音が聞こえるか、どんな匂いがするか、ということを、具体化していけばよいわけである。あたかも、もう実現してしまったかのようにリアルに、詳細に像を描くのである。要するに、認識=像は、五感情像であるという構造をふまえて、5つの感覚のそれぞれ(といっても、まずは代表的な視覚、聴覚を中心に。実は体性感覚というのも重要であるが)を明確化するとよい、ということである。

僕の場合は、自分が合格したときの姿をノートに詳細に書きまくった。そして、ことあるたびに読み返して、目的像を明確にするよう努力した。やってみると分かるが、確実にモチベーションが上がる。そして、描いた目的像は、描いたそのレベルで実現される。それが人間なのである。

以上のように、目的像を明確にすることが、何にもまして、一番大切なことである。極論すれば、目的像が明確にできれば、その目的はもう達成したも同然である。これは何も「短期間で特定の分野の知識を吸収する」場合のみに当てはまるのではなく、人間の行動一般に当てはまる論理である。なお、この論理は、原田隆史の長期目標設定用紙にも、「達成時の人間像」や「目標により得られる利益」という欄を設けることで、採用されている。また、伊藤真なんかも、勉強を始める前に合格体験記を書かせるという形で使っている。


2.方法

2.1.その世界にどっぷり浸る

ある分野の知識を吸収しようとする場合、その分野の世界にどっぷり浸ることが大切である。これは実際に勉強をし始める前の時期に、特に重要になってくる。勉強を始めれば、自然とその世界にどっぷり浸ることになるから、さして注意するまでもない。

僕の場合であれば、かなり以前から臨床心理学関係の本をたくさん購入した。別に読むわけでもない。せいぜいパラパラ眺める程度である。また、カウンセリングを実践されている人の話を聞いたりもした。あるいは、放送大学で臨床心理関係の番組を視聴したり、臨床心理士の人の本やウェブサイトを読んだりもした。臨床心理学を学んでいる院生にも直接出会ったり、メールのやりとりをしたりして、いろいろ教えていただいたりもした。

こういうことをすると、徐々に自分の認識がその世界的な性質を帯びるようになってきて、後に知識を吸収する際に、ヨリ効率的になるのである。簡単にいえば、認識がその世界になじんでいるから、その分野の知識と調和的になっているのである。知識の吸収ではないが、サッカーをやっている人が常にサッカーボールを持ち歩いたり、居合をやっている人が刀を抱いて寝たりするようなものである。その世界になじめばなじむだけ、知識や技を身につけるスピードが上がるといってよいだろう。

また、こういうことをすると、目的像をヨリ明確に描けるようにもなる。僕の場合であれば、院生の話を聞くことで、自分が院生として研究活動に励んでいる姿をヨリ具体的に描けるようになるし、臨床心理士の方の本を読むことで、自分の将来のありかたを、その人に重ねて、ヨリ具体的に描けるようになるわけである。


2.2.他の一切を犠牲にする

特定の分野の知識を吸収するには、それなりに時間がかかる。どれだけ時間がかかるかは当然、吸収したい分野の広さと深さ(+方法論の良し悪し)に規定される。しかし、われわれの目的は、短期間で特定の分野の知識を吸収するということである。「範囲も広いし、結構深く理解しなければならないので、2年かかります」というのでは、ダメなのである。

ではどうするか? 単純な話である。1日のうち、できるだけ多くの時間を知識の吸収のために使うのである。1日は誰にとっても24時間なので、その24時間のうち、知識の吸収以外のことを、極力やらなければいいのである。

確かに、知識の吸収に関係のないことを一切やらないということは不可能である。人間は寝なければならないし、食事をする必要もある。しかし、そういう生きていくために必要な最小限のこと以外は、一切を犠牲にしてでも、知識の吸収に努める覚悟が必要なのである。

こういった覚悟がないと、人間は絶対に「できない理由」を探してしまう。今日はどうしても見たいテレビ番組があるから勉強はちょっとお休みにしよう、とか、最近疲れ気味だから今日は早めに寝よう、とか、1週間がんばったんだから今日一日は思いっきり遊ぼう、とか、今日は人にこれを頼まれたから勉強はできないな、とか、である。いったんこういった「できない理由」を自ら認めてしまうと、連鎖的にいくつも認めてしまい、大きな時間の浪費になってしまう。絶対に「できない理由」を探さずに、短期間なのだから、他の一切を犠牲にする覚悟が必要である。

僕の友人に強者がいた。司法試験合格を目指して勉強していた彼は、「他の一切を犠牲にする」を文字通り実践した。人にも会わず、食事もすぐに済ませて、集中力がなくなったら、すぐに寝てしまうそうである。その時間に他のことをするよりも、睡眠時間の確保にあてるのだという。そして起きたら即勉強である。そうして、見事短期間で司法試験に合格したのである。念のために補足しておくと、彼は受験秀才とはほど遠い。なんせ、高校に行っていないのであるから。高校に行く必然性を感じられず、中学卒業後社会に出たものの、弁護士になりたいと思うようになって、大検、大学受験を独学でクリアーして、これまた予備校など行かずに独学で司法試験に受かったのである。確かそういう経歴だったはずだ。彼の目的意識が強烈だったことも明かであろう。

ここまでやるのは本当に理想で、僕のように仕事がある人は、最低限仕事をこなしながらになってしまうが、それでも、極力他のことは犠牲にしなければならない。また当然、例えば通勤しながらの学習のように、時間を作り出す工夫も必要である。


2.3.マインドマップと自己講義で全体像を把握する

知識を吸収したい分野の全体像をアバウトでいいので把握してから、細かい知識を覚えていった方がはるかに効率がよい。論理的なつながりが知識の定着を助けるからである。

したがって、まずは全体像の把握が肝要となる。そのためには、目次がしっかりしているコンパクトな本を基本書として設定し、それを何度か読んで、全体を一枚のマインドマップにまとめる。必要であれば、さらに全体をいくつかの部分に分けて、それぞれにマインドマップをつくってもいいだろう。

その後、そのマインドマップを見ながら、その分野の内容を、自分で自分に講義するのである。やってみれば分かるが、自己講義することによって、まだ自分が理解できていない点や曖昧な点が見事に浮上する。そういった点を、すかさず基本書でチェックするのである。そしてさらに自己講義をくり返す。理解できていない点、曖昧な点は、その都度、基本書でチェックする。もちろん、必要に応じて他の参考書も参照すればいい。

まあ、自己講義を20回もくり返せば、その分野のアバウトな全体像は確実に把握できるだろう。これは書くよりも、講義形式で話す方が、時間対効果(?)的に、絶対に効率的である。また、実際に話す相手がいれば、そちらの方が臨場感があり、相手に曖昧なところを指摘してもらうこともできる。だからそういう場合は、自己講義ではなく、普通にその人相手に講義してもよいだろう。

僕の場合は、通勤で車を運転している間(片道約20分)、ずっと自己講義をしていた。運転中は本を読むことはできないが、自己講義ならできる。こうして、通勤時間もしっかり活用した。また、頭のレベルが同じくらいの弟が近くにいるので、弟相手に「臨床心理学とは何か」から講義したりもして、意味不明なところを指摘してもらったりもした。これは思った以上の効果をあげたと思う。


2.4.細かい知識は問題集・用語集・事典をくり返して暗記する

全体像が描ければ、後は細かい知識を可能なかぎり覚えればよい。その際、まずは問題集をメインにするのがいいと思う。

問題集というのは、その名の通り、問題が付いている。問題が付いていると、一体何のメリットがあるのか? 人間の認識は問いかけ的反映であり、問いかけたものしか反映しない。問題というのは問いかけの一種であるから、問題を読むことによって、頭の中に問いかけができる。そうすると、問いかけがない状態では反映しなかったものまでも、反映するようになるのである。

例えば、「心理療法の立場の違いを特徴づける軸として、『指示的−非指示的』、『過去志向−現在志向』の二つがある。これらを、具体的な心理療法名を挙げて説明せよ。」という問題があるとする。そうすると、「なるほど、心理療法は、指示的−非指示的という軸や、過去志向−現在志向という軸で分類可能なのだな」というような、メタな視点が獲得できる。それを踏まえて参考書を読むと、「この療法は指示的だな」とか「この療法は過去志向だ」とかいったことが、明確に反映するようになる。さらに、問いを中心に知識がまとまり、整理されてくる、ということもいえる。

また、一般に、ヨリ明確な問いかけでもって反映したものは、明確に反映する分、記憶として定着しやすい。だから例えば、「Q:ゲシュタルト療法の創始者は誰か? A:パールズ, F」というような単純な問題でも、普通に文章を読んで暗記するより、記憶に残る。

以上のような理由で、細かい知識はまず問題集をメインに据えて、問題集から取り組むべきであろう。

ただし問題集だけでは、必要な知識を網羅していない場合がほとんどであるから、そういった際には用語集や事典を活用すべきである。用語集や事典は、問題集よりも網羅的ではあるものの、単に知識が羅列しているだけの場合が多い。しかし、すでにその分野の全体像は頭の中に入っているのだから、その全体像に位置付けながら、用語集や事典の知識を吸収していくことができるはずである。その際、問題集の代わりに自分で、問題集を応用した問いかけをもちながら読んでいけば、効果的である。また、事典の内容を穴埋め問題形式でカード化すれば、ポータブルな問題集にもなる。こういったことはいくらでも工夫できるはずだ。

いずれにしても、暗記するためには、ある程度くり返す必要がある。問題集を一回やっただけ、用語集を一回通読しただけ、で覚えられるはずがない。塾で指導しているとよく分かるが、覚えられないと文句をいう生徒に限って、くり返しが圧倒的に少ない。頭の良し悪しの問題ではなく、量質転化の問題である。覚えるまでくり返せばいいだけである。


2.5.知ったかぶりをして、他人に説明する

その分野の全体像であれ、細かい知識であれ、機会があれば、他人に説明するとよい。そうすると、自己講義の際に説明したように、曖昧な点などがはっきりしてくる。さらにいうと、説明するという行為自体が、いわゆる「エピソード記憶」となり、それが記憶を助けもする。これまた人に教える仕事をしていると分かってくるが、自分が教えたことは、かなり強烈に覚えているものである。だからこれを逆に利用して、覚えるために他人に説明するわけである。

さて、他人に説明する内容は、当然、自分が知っていることだと思うかもしれないが、そうとは限らない。あまり知らないことでも無理やり説明するのである。その際、知ったかぶりが重要である。

「知ったかぶり」とは何か? 本当はあまり知らないのに、知っているふうに振る舞うことである。知ったかぶりをすると、知らないということと、知っている振りをしたということとの間に矛盾が起こる。認識と表現の敵対的矛盾である。こういった状態は、自分にとって不快で不安であるから、これを解消すべく行動することになる。表現はもうなされてしまって、他者に対してばれているから、今さらなかったことにはできない。そこで認識のほうを「知らない」から「知っている」に変えるべく行動するわけである。これで矛盾が解消して、問題解決である。社会心理学でいうところの認知的不協和理論である。

僕の場合、塾で生徒に雑談として、心理学の知見を紹介した。例えば、僕の言ったつまらないダジャレがすべってしまったときのこと。「人は悲しいから泣くのではない。おもしろいから笑うのではない。泣くから悲しいのだ。笑うからおもしろいのだ。ジェームズさんとランゲさんが、こういうことを主張したので、これをジェームズ−ランゲ説という。だから、今笑ってみろ。おもしろくなるから。もちろん、これに対立する説もあるが。」とか何とかいうわけである。その瞬間、「イカン、対立する説ってなんだったけ?」と頭の中では焦りながらも、冷静を装う。そして、「その対立する説って何?」とか生徒にきかれる前に、「私は、いつもハッピーな気分でいたいから、鏡の前で笑う練習をしている。やれば分かるが、本当に笑うと楽しい気分になる。」と、ちょっとキモイ話題に転換して逃げるのである。そして家に帰って、対立する説(キャノン−バード説)を確認したり、もう少し正確にそれらの説はどういうことなのか、確認するわけである。


(この節、2008.2.27追記)
2.6.身近でオリジナルな具体例とセットで覚える

抽象的な内容を暗記する際は、具体例とセットにすると覚えやすい。それも、身近な、かつオリジナルな具体例である方が記憶に残りやすい。

例えば私の場合であれば、少し上で「社会心理学でいうところの認知的不協和理論である」と書いたように、自分の行動を心理学の知見で説明してみたりした。あるいは、心理学の知見に当てはまる身近な出来事を探したりしてみたりもした。そして自己講義のときや他人に説明するときに、抽象的な内容を述べてから、「例えば」といって具体例におり、具体例が終わった後で「つまり」といって再びのぼるのである。このように認識ののぼりおりをくり返すことによって、自然と知識の定着がはかれる。

英語の文法や語法が覚えられないのであれば、自分や身近な人物が登場するおもしろい例文を自分でつくってみて、それを覚えるのも手である。私が中学生に英語を教えていたときは、当時流行っていた(?)NOVAうさぎやボブ・サップを例文に登場させたものである。

要するに、具体例が身近で馴染み深かったり、インパクトがあったりすると、それとセットで抽象的な内容もしっかり記憶できるということである。


3.その他


3.1.過去問研究

以上が「短期間で特定の分野の知識を吸収する方法」のメインである。その他、少々の補足をしておく。

まず、入試や資格試験のように、ペーパー試験に合格するのが目的の場合は、当然ながら過去問研究が欠かせない。いってみれば、試験に出るところだけ覚えるのが一番効率的だからである。出題の傾向を把握して、その対策をするのである。

僕の場合は、志望大学院の過去問を入手して、過去に出題されているテーマの周辺部分は、やや力を入れて、具体的にいうと『心理臨床大辞典』(培風館)の関連箇所を読んで、勉強した。本来なら、すべてを網羅的に勉強するのがベストなのかもしれないが、我々には時間もないし、合格することが目的なのだから、こういう場合は割り切って過去問研究をするべきだと思う。


3.2.砂利道鍛錬

先ほど、「他の一切を犠牲にする」と書いたが、もちろん、知識の吸収に間接的にでも役立ちそうなことはやるべきである。たとえば、食事時間を節約するために、インスタントラーメンばかり食べるなどは、愚の骨頂だろう。人間の体は、脳細胞も含めて、食べたもので創られるのだから、しっかりバランスのよい食事をとることは、記憶に役立つと考えるべきである。また、睡眠時間を極端に削るというようなことも、やるべきではないかもしれない。実は短期間なら、一日4時間睡眠は可能ではないかとは思うが、やはり6時間くらいは眠るべきだろう。

僕の場合は、試験勉強の合間にも、灼熱のアスファルトや砂利道を裸足で歩く例の鍛錬を行ったりもした。脳細胞を刺激することによって、頭脳活動が活発化し、暗記力も上がるのではないかと思ったからである。効果はあったのではないかと思う。初めて聞く人名などが、妙にすらすら覚えられたものである。


3.3.僕の勝因

最後に、僕が院試に合格できた要因を考察しておこう。まず、なんといっても、少ないながら僕を支援してくださった方々の存在が大きかった。目標を明確にすることや具体的な勉強の仕方なども、こういった方々から学んだことが多い。原田隆史も、最後の数パーセントは他人の力が成功か否かを分けるといっていた。僕の場合は、50%位は依存していた気がするが。

次に、今まで述べてきた方法である。同じ時間勉強すれば、優れた方法を採用している方が効率がいいに決まっている。これまで学んできた弁証法・認識論を適用した簡便ながら優れた方法を創り出し、その線に沿って迷いなく勉強できたのは、怠け者の僕にとっては大きかったと思う。

最後に英語である。ほとんどの院試には英語の試験が課され、その英語の点数が合否を分けるケースが多いと聞く。その点僕はラッキーだった。仕事で大学受験生に英語を教えているくらいだから、ある程度の英語であれば、比較的速く正確に読める自信はあった。そのため、専門用語を英語で覚える以外は、全くといっていいほど英語の勉強をしなかった。その分、臨床心理の勉強に専念することができたのである。それでも英語の試験はおそらく満点に近かったはずだ。文章の内容(当然、臨床心理学に関連するものだが)は完璧に把握できたし、和訳や内容の要約も、まあ、いってみれば得意分野である。

なお念のために書いておくと、今「ラッキー」と書いたが、これは正確ではない。というのは、そもそも院試の英語対策として、大学受験生に英語を教える仕事を選んだ、という側面もあるからである(誤解のないように書いておくと、自分だけのために仕事をしているというわけではない。塾の講師であるから、第一の目的はもちろん、生徒の実力のアップである)。相当前からの準備が、非常に功を奏したといえると思う。


4.最後に

今回の院試勉強は、僕の認識論の実験でもあった。認識の構造をふまえて目的を明確化し、その明確化した目的像に向かって努力を続けることができたわけである。このように、何事も目的意識的に実践をするということを、しっかり積み重ねて、認識論の研鑽を積み重ねると直接に、目的意識的に行動することをしっかりと技化していきたいと思う。次の目標は、来年の4月に入学する際、間違いなく院生の中でトップレベルの実力を身につけていることである。また、全然違う話になってしまうが、11月に行われるシティマラソンに参加して、10キロを50分で完走する、という当面の目標も設定した。同じように目的像を明確にして、一つずつクリアーしていきたい。
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2007年09月23日

臨床心理士指定大学院合格のための参考書

最近までしばらく、二つのブログの更新をストップしていたが、その間一体何をやっていたのかというと、大学院入試に向けての勉強に専念していたのである。

僕は将来、臨床心理士として、心の問題を抱える人々を援助することを通して、認識とは何かの謎に迫っていきたいと考えている。あるいは、既に構築されている認識論の再措定を試み、その上に何らかのオリジナルなものを積み上げていきたいと考えている。これを実現するためには、まず、臨床心理士にならなければならない。臨床心理士の資格を獲得するためには、臨床心理士の資格試験に合格しなければならず、その資格試験を受けるためには、指定大学院を修了していなければならないのである。そこでまずは、指定大学院の入学に向けて、入試を突破するために勉強していたわけである。

先日、大学院入学試験が行われ、無事合格することができた。合格できたから正直に告白するが、真剣に院試勉強をした期間は、わずか3〜4ヶ月である。しかも、仕事をしながら、である。さらにいうと、僕は心理学科出身ではないので、心理学の知識は、ごく少数の一般向けの新書と教科書をざっと通読した程度で、ほとんど皆無に近かった。一例を挙げれば、今年の4月の末の時点で、「エンカウンターグループ」といわれても、「何か聞いたことがあるような、ないような、何だったっけ?」というようなレベルだったのである。一応その場では、知ったかぶりをしておいたが(念のために述べておくと、僕は意図的に知ったかぶりをすることがある。知ったかぶりは上達論の一つの要であると思っている。詳細は後ほど)。

そんな心理学の知識ゼロから3〜4ヶ月で、それなりに難易度もあり倍率も高いとされる臨床心理士の指定大学院に合格できたのである。イヤ、何も、「俺は頭がいいだろう。はっはっは。やってやったぜ!」などという、受験秀才丸出しの自慢がしたいわけではない。そもそも、僕は自分自身のことを受験秀才だとは思っていないし、大学に入ってからは、極端にいうと、新しい知識の吸収をやめてしまって、ひたすら、弁証法・認識論の勉強に関わる範囲内の知識(中学教科書レベルなど)しか、扱ってこなかったといっていい。鈍才になるための努力とでもいおうか。

それはともかく、次回は、大学院入試の勉強を通してある程度実感できた、「短期間で特定の分野の知識を吸収する方法」を公開したいと思う。受験秀才には無用のテクニックである。鈍才の皆さんは、乞うご期待、である。

今回は、院試勉強で使った教科書・参考書などを、主なものに絞って紹介しておきたい。


<基本書>

@馬場禮子『改訂版 臨床心理学概説』(放送大学)



放送大学の教科書。
コンパクトで、臨床心理学の全体像がしっかりつかめる。


<問題集>

A山口陽弘・高橋美保『試験にでる心理学 臨床心理学編』(北大路書房)



公務員心理職向けの問題集。
非常に優れており、「ブックリスト」も参考になる。


B『臨床心理士指定大学院攻略〔専門科目編〕』(東京図書)



その名の通りの問題集。
誤答が多すぎるため、ある程度の力がついてからでないと危険。


<用語集・事典類>

C坂野雄二『臨床心理学キーワード』(有斐閣)



コンパクトだが情報量が多い。
知識の総チェックに使える。


D『臨床心理学と心理学を学ぶ人のための心理学基礎事典』(至文堂)



タイトルが非論理的だが、
内容は分かりやすく、非常に明快。


E『心理学辞典』(有斐閣)
F『心理学事典』(平凡社)



心理学を学ぶ際の基本の辞事典。
EのCD-ROM版が便利。


G『心理臨床大事典』(培風館)



いうまでもなく大学院生は必読・必携の事典。
やはり、この事典がないとカバーできない範囲がある。


<一般心理学参考書>

H鹿取廣人・杉本敏夫『心理学』(東京大学出版会)



古典的教科書の改訂版。
心理学の全体が、要領よくまとまっている。


I無藤隆ほか『心理学』(有斐閣)



比較的新しい心理学の教科書。
詳細でハイレベルだが、発達心理の部分は分かりにくい。


<研究法参考書>

J南風原朝和ほか『心理学研究法入門』(東京大学出版会)



心理学一般の研究法について。
よくまとまっていると思う。


K下山晴彦『臨床心理学研究の技法』(福村出版)



臨床心理学によく使われる研究法について。
研究計画書を書く上で、非常に役立った。


<その他>
Lかしまえりこ・神田橋條治『スクールカウンセリングモデル100例』(創元社)



スクールカウンセリングの事例が100紹介されている。
擬似的にカウンセリングを体験できる。


M丹野義彦『エビデンス臨床心理学』(日本評論社)



異常心理学の教科書。
やや高度な内容だが、非常に分かりやすい。


N倉光修『臨床心理学』(岩波書店)
O下山晴彦『よくわかる臨床心理学』(ミネルヴァ書房)



臨床心理学の教科書。
基本書を補完するために使った。


P下條信輔『サブリミナル・マインド』(中公新書)



東大教養学部での講義をまとめた内容。
認知社会心理学までをおさえており、非常に興味深い。


Q岡田尊司『子どもの「心の病」を知る』(PHP新書)



新書なのに情報量が多い精神医学入門。
索引も充実しており使いやすい。。


R久能徹・松本桂樹『図解雑学心理学入門』(ナツメ社)
S松原達哉『図解雑学臨床心理学』(ナツメ社)



解説と図解のセットで、メジャーなトピックを扱った本。
バカにできない内容で、はじめの一冊にお勧め。
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2006年09月08日

真空なんて存在するのか?

今日、近所の図書館に行って、雑誌『ニュートン』2005年8月号の「真空」に関する記事を読んだ。現在では、「真空」の中で素粒子が生成したり消滅したりする現象が確認されているという。

全くの当てずっぽうで、適当な思いつきに過ぎないのだが、本当の真空、つまり何も存在しない空間なんて、存在しないのではないか? 空間、真空、エーテル、ダークマター(暗黒物質)、これらはすべて同じもので、いわば物質の原基形態とでもいえるようなものなのではないか? つまり、一般常識的には何も存在しないとされている空間=「真空」自体が一つの物質であるのではないか? そして、この空間=「真空」が量質転化して素粒子や原子(あるいは目に見える物質)になるのではないか?

そんなことがふと頭をよぎった。
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2006年04月30日

魂を揺さぶる名言

全く認知されていないし、認知させるつもりもない僕のHPで紹介してきた「魂の名言」を、ここでも紹介しよう。


三浦つとむの名言

「政治の分野であろうと学問の分野であろうと、革命的な仕事にたずさわる人たちは道のないところを進んでいく。時にはほこりだらけや泥だらけの野原を横切り、あるいは沼地や密林をとおりぬけていく。あやまった方向へ行きかけて仲間に注意されることもあれば、つまずいて倒れたために傷をこしらえることもあろう。これらは大なり小なり、誰もがさけられないことである。真の革命家はそれをすこしも恐れなかった。われわれも恐れてはならない。ほこりだらけになったり、靴をよごしたり、傷を受けたりすることをいやがる者は、道に志すのをやめるがよい。」(『レーニン批判の時代』勁草書房、p.206)

「孤独を恐れ孤独を拒否してはならない。名誉ある孤独、誇るべき孤独のなかでたたかうとき、そこに訪れてくる味方との間にこそ、もっとも深くもっともかたいむすびつきと協力が生まれるであろう。また、一時の孤独をもおそれず、孤独の苦しみに耐える力を与えてくれるものは、自分のとらえたものが深い真実でありこの真実が万人のために奉仕するという確信であり、さらにこの真実を受けとって自分の正しさを理解し自分の味方になってくれる人間がかならずあらわれるにちがいないという確信である。」(『新しいものの見方考え方』季節社、p.85)

「けれどもこの<自己本位>の生きかたは、人間としての果たすべき義務と正しく調和するものであってはじめて、正しい生きかたといえるのだと私は思う。私はそのような一生を曲がりなりにもおくって来たのだから、人生の終わりが近づいてもすこしも後悔することがないし悲しいこともない。学問の仕事はここまで行けばそれで完了するというものではなく、九十歳になろうが百歳生きようがまだまださきの仕事が控えているから、私のできなかった仕事はあとの人びとに期待しなければならないし、それらの人びとにできるだけ協力することも私の現在の仕事の一つのありかたである。」(「若さがゆえに可能性があるか」、『現実・弁証法・言語』国文社、pp.62-63)

「くだらない人間やよくない人間が生まれたのにもそれなりの理由があって、その理解は、自分が知らずに同じ道を進むのを防ぐのに役立ちます。彼らの一面にはまじめさも善良さもありますから、それを見のがして不当に評価しない心がまえも必要です。善悪を問わず具体的な人間から学ぶのは、たいへん興味深く、またたいへん役に立つことなのです。」(『生きる・学ぶ』季節社、p.32)

「精神のありかたの安らかなことを、ひいては自己のありかたの安らかなことをのぞんでいる人びとは、自己の精神に敵対的矛盾をつくり出しその安らかさが攪乱されることを嫌って、疑惑を持つまい、他の人間が疑惑を持っても自分はそれをとりあげまいとする。つまりなまけ者は疑惑それ自体をのぞましくないものと思うようになる。」(『認識と言語の理論 第一部』勁草書房、p.81)

「完全な真理というのは、真理をつかんだ人間が自分の実践をとおしてその正しいことを証明し、自分の身につけて、いつでも実践の指針として役立てられる状態におかれている真理であり、宙に浮いて逆立ちしている真理というのは、ことばで教えられ本で読んで頭の中にうつしかえられただけの真理、真理をつかんだ人間の実践とむすびつかずにまだ身についていない真理である。」(『人生――人間のありかたと生きかた』青春新書、pp.68-69)


南郷継正の名言

「いかなる道にせよ、怠け者にたやすく学べるものは存在しない。特にそれが価値あるものであればある程、必死の努力を必要とするものである。武道とて例外ではないのである。武道のための王道はありえても、それは怠け者のための王道では絶対にないのである。そういった意味からは、如何に精神力を強調の上に強調しても、強調しすぎるということはないのである。
 だが、われわれはまた次のことをも知らねばならないのである。ものごとの上達は、ただ精神力を強調するだけでは決してまともな上達は望みえないものであると。」(『武道の理論』三一新書、p.110)

「自分に魂レベルの認識があるのかどうか、つまり、認識のなかで魂レベルに育ったものがあるのかどうか、魂を賭けて何事かを実行できるのか、魂を賭けられるなにかがあるのか。もっといえば、自分の意志で魂を賭ける存在に自らをなしえているのか、をつねに問わなければならない。そのためには目的意識的に己が人生をとらえかえし、そこから自己の人生のありかたを反省し、その上で己が魂を賭けた人生を創造すべく魂をこめて人生の設計図を措定し、その措定した設計図にもとづいて、魂を賭けて実行するなかで己が魂をより見事なものとして再措定していくという過程の絶えざる発展過程こそが、自らの願った一流への道の人生過程であるということを自覚しつづけなければならないのである。」(『武道と弁証法の理論』三一書房、pp.320-321)

「私は今の人々が、人を育てることにあまり喜びを感じていないのを不思議に思う。人類は過去の文化遺産を受けつぐことによって伸びていく。それをやらない人は独善におちいって徒花を咲かせて散りゆくのみである。徒花となるのが嫌ならば、先達の文化遺産を受けつぎ、もし能力があるならば、何程かを加えて後輩へ伝えなければならない。自分がまともになってから育てようでは日暮れて道なお遠しである。要は自分が学ぶかたわらで学んだことを教えていき、その過程で自分もまた深く学びなおすことの努力が必要である。教えることのなかには、自分を見直すということが、自分の教えていることの正否を確かめることが当然に含まれてくるから、二重の意味で自分の理解が深くなっていくものである。」(『武道の理論』三一新書、pp.23-24)

「教育というものの何たるかを知らぬ教育学者を見るにつけ、やはり彼らは、教育を学ぶ者でしかなく、しかも、他人の成果を学ぶ者でしかないと思うのである。学校教育における第一義は認識能力を育てる事にある。教えて育てる必要をさほど感じない人々を教えて育てたつもりになって、(そんな人々は放っておいても、そこまでは育つのだ)本当に教え育てなければならない人々は、彼等には才能がないという一言で片付けて、それで教育は終わりである。これは、ほとんどの教授に当てはまると私は思っている。マイクの講義が教育で、それで人間がまともに育つものならば、教師は、すべてロボット化した方がよいにきまっている。また、そういった意見もないわけではない。だが、そういった考えは、大きな欠点を含んでいるのである。人間が人を教えるということは、その知識を教え授けることにとどまるのではなく、その知識と直接に、その人間をも教え授けるのである。」(『武道の理論』三一新書、pp.66-67)

「それは、同じことのくり返しを絶対に馬鹿にしてはならず、絶対にいやがってはならず、どんなに阿呆らしきかぎりと思いに思えても絶対に尊重しすぎるくらいに尊重しきってともかくも心をこめて、心をこめぬいてくり返すことがなによりもまして、なんとしても大事だということなのである。」(『武道と弁証法の理論』三一書房、p.266)

「そもそも人格はその人の生き方が創り上げるものであり、その人の人間性そのものの表現である。すなわち、人格は自分の責任で創ったものであるからこそ尊敬されるのであって、生まれつき備わっているものには、誰も尊敬の念を抱きはしないものである」(『武道の復権』三一新書、pp.246-247)

「本質的にいって人間はすべてにわたって教育されてはじめて<人間>となりうるのであり、ここに動物との類的区別が存在する。志も論理も直観にまかせてまともに育つわけはなく、落ち行く先は小人的君子である。
 それゆえ論理能力は無理としても、せめて大志をまともに育む基盤くらいはほしい。それに役立つのが、『個としての大いなる生きざまを描いた文学』であり、こまかい事象に囚われない『壮大なる人類の流れを説いた歴史』である。しかしながらこれすら見事に与えうる教師を必要としよう。」(『武道への道』三一新書、扉)

「現状に満足する事なく、常に理想を目的意識的に追って実践していけてこそ人間なのであり、そうであるからには、かくのごとき存在をより目的意識的に把えてかかる事が、より人間的なあり方なのである。もっとはっきり述べるならば、人間の目的意識的存在であるかかる事実を目的意識的に把えなおして、より見事なる目的意識を持つ事によってより目的意識的に生きよう、生きられる存在になろうとする事が見事なるほどに人間としてレベルが高くなり得る基盤であるという事である。」(『武道修行の道』三一新書、pp.274-275)

「論理も一流のレベルを目指すには、一流の人物たらんとする〈野心・野望・情熱・根性・努力〉といったとうてい並の人物では計り得ないような一流の志を要請されるものである。敢えて言えば、空想家・ホラ吹きと言われるくらいの大野心・大野望を常に持っている必要があるのである。これは歴史上名をなした人物の若輩の頃の一般的言動であるのは当然である事実を見れば、すぐに納得のいく事が可能である程度の常識である。」(『武道修行の道』三一新書、p.286)

「私は先述の『弁証法はどういう科学か』を、それこそ、何十回も何十回も、くり返しの上の、くり返しを重ねて読みに読んで読み抜くこと十年近くにわたったことである。朝に、昼に、夜に、食事中といえどもこの書を手元から離したことがなく、電車のなかでも読まなかったことがなくといった状態を十年近くつづけて、『弁証法はどういう科学か』を何冊も買ってはボロボロにしてまた買った上に学んできたのであり、その間、具体的な対象として空手を選び、空手的なすべてにわたって、弁証法的に考え、とらえするなかで、『弁証法はどういう科学か』のすべての頁を、すべての行を空手的に読みこむ修行を十数年にわたってなしとげたのである。」(『武道講義第四巻 武道と弁証法の理論』三一書房、p.276)

「後世、達人・名人と評価されうるほどの人物たらんとの目的をもつばあいには、けっして前出の高校生のごとき模範解答的な上達をしてはならない……。極言すれば、簡単に強くなってはならないということである。努力が少なくて上達する方法は、と考えてはならないのである。これにも理由は二つある。その一は上達が早いほどに、身につく技が薄っぺらに仕上ってしまうからである。……その二は、基本技を基本技として見事に創出する時間をもつほどに、逆から説けば、なかなか上達しがたい時期を意図的にもつほどに、その上達の構造が門を開けてくれる、つまり見事なる上達のしかたをする。もっといえば、魂が見事に仕上っていく、というより仕上らざるをえないので、結果として真の武道レベルの負けじ魂ができることになるということである。」(『武道と認識の理論U』三一書房、pp.66-69)

「そもそも一流を目指さない人間などあっていいわけがないのです。四十歳を過ぎてどうしようもなくなった人間ならば、ともかくです。歳をとってそこにハッと気がついたときには人生の黄昏が迫ってきているのです。気がついてみたら青春時代に掲げた目的の半分も達成できなかったことを嘆くのみとなります。だから世界一を目指していないと三流にもなれないのです。」(『武道哲学 著作・講義全集 第二巻』現代社、p.187)

「一流への人生の歩みは他人に頼ったのでは、まず無理だということです。つまり、受験勉強などのように『予備校や学習塾に行ったり、誰かに手とり足とり手伝ってもらったり、もしくは理解できないことがあると他人にすぐに教わったり』では、残念ながら不可能です。……一流への道も学問としての弁証法・認識論への道も、他人に直接教わるものではなく、すなわち、誰かの直接の門下生になったり、研究会にはいったりするのではなく、必死の覚悟をもって日夜自分自身の努力でなすものです。」(『武道哲学 著作・講義全集 第二巻』現代社、pp.11-12)


河合栄治郎の名言

「学生諸君、私は祖国の精神的弛緩に直面して、何ものかに訴えずにはいられない本能を感じる、だが諸君に訴えずして何に訴えるものがあろう。諸君は青年である、若芽のような清新と純真とに富んでいる、まだ悪ずれのしない諸君には、私の弧衷に聞くパトスがあろう。
 諸君は教育の途中にある、そして教育というものこそ、あの精神的弛緩を救う唯一のものである。人はあるいはいうかもしれない、今日の学生に期待するならば、それが祖国に役立つには、遠い将来を俟たねばならないと。確かにそうである、しかし精神的再建は一朝にして成るものではない。早急に効果を期待するものは、精神的弛緩の何ものであるか、その治療がいかに困難であるかを知らざるものである。将来の日本は泡立つ浅瀬の中からは生まれない、物凄いほど静かに澄んだ深淵の底からのみ生まれてくる。それには永い歳月を俟たねばならないのである、だがわれわれの祖国のためにはこれは俟つに値する。諸君が成育して日本を指導する時は、少なくとも今から三十年はかかるだろう、だがこの使命は学生諸君を措いて、他にこれを担うべきものが見出されない。」(『学生に与う』現代教養文庫、p.15)

「成長のためにわれわれはどうしたらよいか。ここに生きたる教師と、死せる教師─書物─や親や友が助けになる、しかしこれも助産婦か慰安者であって、われわれの成長の代理はなしえない。成長はわれわれ自身がなさねばならない。」(『学生に与う』現代教養文庫、p.71)

「ゲーテのいうがごとく、『人は努力すればするほど過ちに陥る』。飛ぶ鳥は落ちるが飛ばざる鳥は落ちない。過ちのないことを求めるならば、何事もなさないに限る、その代わりに人格の成長は停止する。」(『学生に与う』現代教養文庫、pp.74-75)


出隆の名言

「ある共通の根本的仮定(独断的の信条とか憲章とか)の上に安立している当の社会の意識やその指導者から見れば、その神聖な祭壇下に坑道を通じてこれを破壊せんとする懐疑的、批判的な哲学心を危険視するのも当然である。今までよしとしまことと信じてきたものの価値が根本的に顛倒されることは古きを愛する人情としても忍びがたいことであろう。しかし真の愛は寛容であるが柔弱ではない。もし仮定に過ぎないならば、彼から絶対という迷妄を取り除くだけの真摯な愛がなくてはならない。もし全くの虚偽なりと確信する場合には、断固としてこれを破棄し去るの勇気が必要である。ある誤った仮定の破壊が、従来一般に愛好されていた思想の失墜を結果するとか、教会の所説に背反するとか、自己自党の利益を害するとか、あるいは社会国家の現状を変革するとか思って躊躇している限り、哲学的精神は駄目である。眼前の利害をのみ顧慮し、実利実用のみを口にし、現状との関係いかんをのみ意としている限り哲学は育たず真理は消える。」(『哲学以前』講談社学術文庫、pp.42-43)

「真理の価値は、一般多数が現に承認しているかいなか(すなわち多数決)によって決せられるものではない。真理は必ず万人の承認すべきものである。したがって、真理はその時代の人々に認められないこともある、のみならず認められないところに真価の決せられる場合が多い。それゆえに哲学者も時代一般に単に順応するのみをこととせず、時代において時代に生き、時代に接しながら時代を超越した理想の火をかかげ、これによって時代を照らし導くものである。これがためには時代の覇者や俗衆と戦う勇気、すなわち理想的真理への愛と現実のために――プラトンの理想国における統治者のように、しばらく現実の世に降って――反理想的なる一切と争うところの理想主義者の愛が、勇気が、必要である。」(『哲学以前』講談社学術文庫、pp.43-44)


ヘーゲルの名言

「まず第一に、諸君が何よりも学問に対する信頼と自分自身に対する信頼とをもつことを切望してやまない。真理の勇気、精神の力に対する信念が哲学の第一条件である。人間は精神であるから、最高者にふさわしく自分自身を尊敬してよいし、また尊敬すべきである。人間の精神の偉大さと力とについては、いくら大きく考えても、すぎるということはないのである。またこの信念をもってすれば、人間に自分を開かないほどに冷淡なもの、頑固なものはないだろう。最初は隠され、閉ざされている宇宙の本質も、認識の勇気に抗し得る何らの力ももたない。この勇気の前には、その宇宙の本質は必ず自らを開き、その富と深底とを、その人の眼前に現わして、享受に委ねるにちがいない。」(『哲学史 上巻』岩波書店、pp.19-20)


その他の名言

「人間社会は、その内に含む競争関係が原動力となって発展してきたのであり、歴史を進める原動力の指導的存在になった人物は、競争関係の中で辛酸をなめ、それをバネにして力をつけていった人々である。世に言う『偉人』と呼ばれる人々の過去は、たいてい『いじめ』に合いつつも、それに『偉大に』耐えた時期をもつ。『大志』『情熱』『冒険心』などの認識は、そのような競争関係の中でこそ育まれるものだからである。」(布施裕二「精神医学とは何か」第7回(『綜合看護』1987年2号))

「男だったら一つにかける、かけてもつれた謎を解く。」(TV映画『銭形平次』主題歌、作詞:関沢新一)

「一流大学を出て、一流企業に入社したような連中は、ある意味では成功体験ばかりを繰り返してきた連中だ。こういう人たちは、何か物事を起こそうとするにあたって、常にまずそれが成功するかどうかを考える。成功の確率はどれくらいあるかを、さまざまなデータを駆使して考える。始める前に、結果を考えてしまうのだ。そして、さまざまなマイナス要因を探して、確率が低いとなると、したり顔で計画の中止を訴えるのだ。確かにこれは安全な方法には違いない。しかし、データというのは過去の情報の集積なのであって、それをいかに多く集めてきたとしても未来の扉は開けない。世界をあっと驚かすような新技術や新製品の開発は望めないのである。むしろ、『成功の確率は低くてもいい。それでも一発当ててやろう』といったチャレンジ精神が大きな扉を開くことになるのである。それは、軟弱な頭脳ばかりが並べたがる安全性への道を、ブルドーザーのような強力な力で突破する力を持っている。成功はデータではなく、執念でもぎ取るのだ。」(中村修二『考える力、やり抜く力 私の方法』、三笠書房、p.100)

「あらゆる理論の実際的の効果は、我々をしてその理論の対象の体系と方法とに精通させ、従って成果の予測をもって世の中で働きうるようにするところにある。経験は確かにそのための前提にはなるものであるが、しかし経験だけでは足らない。経験から発展した理論、すなわち科学によってはじめて我々は偶然のたわむれから免れることができる。科学によって我々は意識的に事物を支配し、絶対に確実に処理することができる。」(ディーツゲン『人間の頭脳活動の本質』、岩波文庫、p.14)

「2年間よ! 2年の間あなたを待っているわ。いいこと! 途中でくじけたりしたらわたし…あなたを許さなくてよ…!もし棄権なんてマネをしたらわたしあなたを軽蔑するわよ! いいわね。2年よ! あなたはきっとわたしと『紅天女』を競うのよ!」(美内すずえ『ガラスの仮面第12巻』、白泉社文庫、p.250)
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2006年04月21日

弁証法の学び方――これからの自分のために



真新しい『弁証法はどういう科学か』(三浦つとむ著、講談社現代新書)を、本革製のブックカバーで覆って、新しい気持ちで読み返した。やはり、見事! の一言である。何としてでも三浦つとむの弁証法の実力をモノにしたいと、改めて思ったことである。そのために、弁証法の学び方を今一度、確認しておきたいと思う。なお、いうまでもないことであるが、僕がいう弁証法というのは、『弁証法はどういう科学か』に説かれている弁証法のことであり、それ以外では決してない。したがって、僕のいう弁証法の学び方というのは、三浦つとむに一歩でも近づく方法であり、あわよくば三浦つとむを超える方法であって、それ以外ではない。

まず、一番重要なことは、この弁証法の基本書の内容を、丸ごと受け入れる、ということである。自分的な解釈をせずに、三浦の論理で読むのである。僕の印象からいうと、99%の人がこのような読み方はできない。「弁証法を三法則に還元しているところがおかしい」などと戯けたことをいう学生、「労働者が資本家と相互浸透するなんてことはあり得ない」などとのたまう自称マルクス主義者、こういう連中は、自分が読んだことのある他の哲学本や弁証法の解説書に引きずられて、三浦を解釈しているのである。三浦を他の哲学者の論理で読めるわけがない。ひどいのになると、「弁証法ははたして科学だろうか? いや実は発想法だ」などと、タイトルに真っ向から疑義をはさんでいる者もいる。三浦つとむが『弁証法はどういう科学か』という本を書き、「弁証法は科学だ」といっているのだから、まずはそれを丸ごと受け入れなければならない。未熟な頭でゴチャゴチャ解釈しても、珍妙な結論になるだけで、決して三浦つとむに近づくことにはならないはずだ。珍妙な結論を「オリジナル」などと呼んで、自己満足に陥るだけである。

では、どうすれば丸ごと受け入れられるのか? 南郷上達論を踏まえれば、まずは形から、ということになろう。まずは技の正確な形をとらなければならないのである。これを弁証法という技の学びに適用すると、基本書に書いてあることを、そのまま音読したり、筆写したり、あるいは他人に説いたりするわけである。「そのまま」という点がポイントである。これ以上正確な形はない。自分の中に「違和感」があっても、そこは「分かったこと」にしておいて、決して自分的な解釈を入れてはいけない。

初心者は往々にして、自分的な間違った解釈をしてしまう。僕が高校一年生に初めて文型や品詞を教えた時に、I can speak English.という表現のEnglishの品詞を、副詞だと言い張った生徒がいた。その少し前に「副詞とは、主に動詞を修飾する語」と教えていたのだが、彼は「英語を話す」というふうに日本語で考えた上で、「英語を」は「話す」という動詞を修飾しているではないか、というわけである。英語の論理を学んでいる時に、慣れ親しんだ日本語の論理に引きずられて、間違った解釈をしてしまった例である(念のために正解を書いておくと、主語になることができるから、Englishは名詞。主語になれるものは名詞だと、最初に教えてある)。これと同じように、弁証法を学んでいるのに、慣れ親しんできた形而上学的論理でもって、弁証法を解釈しようとするのが、初心者の一般的傾向といってよかろう。だから違和感があっても(というより、当然違和感はある。これまで自然成長的に身につけてきた論理とは、全く違うものを学んでいるのだから)、そこはそのまま、丸ごと受け入れようとしないと、一歩も先に進めないのである。

さて、音読・筆写のくり返しにより、ある程度正確な形がとれるようになってきたら、次は主体的にその形をとれるようにしなければならないという気がする。つまり、音読や筆写は、三浦つとむによって正しい形をとらされているだけである。これでも多少の三浦つとむ的認識の軌跡らしきモノは、頭の中に残るであろう。しかし、それだけでは弱すぎる。次は、自ら主体的に、その技の形をとる努力が要求されるはずだ。この第一歩としては、『弁証法はどういう科学か』の要約が効果的であろう。「科学的な方法への要求」から始まって、「健康な懐疑精神を持とう」までの126項目を、それぞれ400字で要約していくのである。実際にやってみれば分かるはずだが、これはかなりの難業である。各項目で三浦つとむがいおうとしていることを、コンパクトにまとめる必要があるのだから、何としてでも三浦つとむに二重化しようとの必死の努力が要請される。もちろん、各項目ごとの要約を終えれば、次は各節ごと、その次は各章ごと、そして最後に『弁証法はどういう科学か』丸々一冊を、400字で要約するのである。こうすることによって、自己の頭の中に、最初はアバウトに、そして徐々に明確に、弁証法の全体像が創られていくことになる。

要約の後に、あるいは要約と並行して、弁証法の「論理をわかるだけの事実を……創らなければならない」(南郷継正『全集第二巻』p.218)。「論理をわかるだけの事実を創る」とはどういうことか? そもそも論理とは、対象とする事物・事象の性質の共通性を一般性レベルで把握したものであるから、一つの抽象的認識である。だから、論理をモノにするためには、その抽象化の過程を自分で辿らなければならないのである。三浦つとむが事実から引き出した論理が『弁証法はどういう科学か』に説いてあるわけだが、その結果としての論理を、われわれは直接に受け取ることはできない。われわれが受け取れるのは、単なる知識である。その薄っぺらな知識が事実を媒介として、厚みのある、豊富な具体像を止揚したところの論理へと転化する。かつて三浦つとむが行ったような抽象化の過程を、自分自身も辿ってみなければ、三浦つとむの論理を受け取ることはできないのである(再措定)。したがって例えば「量質転化」をモノにしたければ、自分の専門分野で量質転化の実験を行い、実際に量質転化を起こしてみる、「ああ、確かに量的な積み重ねが質的な変化をもたらしたな」といえる事実を、くり返しくり返し創っていくのである。あるいは中学校の教科書を、論理的に捉える訓練をする。換言すれば、例えば量質転化の例として中学校の社会の教科書から、いくつもいくつも具体例が出せるように、『弁証法はどういう科学か』的に事実を捉える訓練を積み重ねるのである。

弁証法をモノにできるか否かの分水嶺は、この修行をいかに徹底的に、くり返しの上にくり返し行えるかどうかにあると思う。くり返せばくり返すだけ、ヨリ厚みのある・ヨリ実力ある像が創られていくのである。僕は、相手の弁証法像がどれくらい厚みのあるものか、どのくらいの実力があるものか、何となくわかる気がしている。友人と討論していても、「おっ、こいつ、ここをそう捉えるか。なかなかやるな。弁証法的実力がついてきているな」などと思って刺激を受けることがあるし、達人レベルの言説に触れると、その実力に圧倒され感動するとともに、思わずニヤッとしてしまう。したがって、三浦つとむの著作はもちろん、南郷継正師範や瀬江千史先生、薄井坦子先生などの著作を読んでいる時は、偉大なる実力に対して感動を味わい続けることになる(背筋がゾクゾクッと寒くなることも多い)し、ニヤニヤし続けて、事情を知らない人に見られたらやばいヤツだと思われてしまうこと間違いないだろう。

閑話休題、くり返しの実験によって、弁証法像が科学的認識として成立すれば、あるいは成立する少し前からでも、実際に弁証法を使って当面する問題を解決する実践をしていく必要があると思う。こうして「問題を解決するための武器」としての弁証法が鍛えられていき、その実力がますます高まっていくことになるだろう。

最後に、弁証法の別の一面も確認しておきたい。南郷師範は次のように書いておられる。

「……『科学としての弁証法』を説いた『弁証法はどういう科学か』を中心に、一般教養レベルの諸学問を、ただひたすらに二十年もかけて学んだ……。私はこの著作一冊を、人類の全文化遺産である諸々の著作を学びとる武器として、ここまでやってきたのです。」(『全集第二巻』p.274)

文化遺産を学びとる武器としての『弁証法はどういう科学か』!! 私もこの著作を中心にして、ただただこの著作のみを武器として、人類の文化遺産を学んでいこうと思っている。
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2006年01月15日

社会派推理小説を読む目的――森村誠一『棟居刑事の「人間の海」』(角川文庫)



久しぶりに森村誠一を読んだ。やはり森村は「社会派」という感じだ。非常に興味深かった。

そもそも僕が社会派推理小説を読むのには、理由がある。読む目的があるのである。それは、端的に言えば、観念的二重化の能力を涵養するためである。相手の立場に立てる実力を育てるためである。

相手の立場に立つこと、相手の気持ちを理解することは、学問的には観念的二重化そのものである。三浦つとむによると、観念的二重化とは、世界の二重化と自分の二重化がセットになっている。しかし、論理的には世界の二重化が自分の二重化に先行するはずだと僕は理解している。簡単にいえば、相手が生活している世界がどのようなものかが描けて初めて、その相手の気持ち(=認識)を追体験することができる、ということである。

これは、僕が国語の授業で、小学生・中学生に物語・小説の読解方法を教えていたときに発見したことである。物語・小説においては、登場人物の気持ちを問う問題が必ずといっていいほどある。その登場人物の気持ちを把握するプロセスは、一般的に次のように解説されている。すなわち、場面設定の把握→出来事の把握→登場人物の気持ちの把握、である。これはつまり、登場人物の置かれている世界を把握して(まずはマクロ的に、その後ミクロ的に)、初めてその人物の気持ちが把握できるということを意味している。すなわち、世界の相手化→自分の(認識の)相手化、という順序である。

これはよく考えてみると当たり前である。認識の論理的な位置というのは、「対象→認識→表現」であるから、対象、すなわち自分の置かれている世界から(その反映として)認識が誕生するのである。登場人物の気持ちを理解したいのなら、その人物が置かれている世界をまずは描くことである。そうすれば自然と、その立場に置かれたときの気持ち=認識が分かってくるというものである。だから物語・小説の読解においては、まずはマクロ的に小説の世界全体を把握して(これが場面設定の把握)、次にミクロ的に、どんな出来事が起こってそれに対して登場人物はどのような反応を示したのかを把握する(ここが出来事の把握)、そうすればその人物の気持ちも分かる、と指導されるのである。最初の二つを統一して、世界の二重化と捉えてよいと思う。このように相手の世界を描くことができれば、その世界の反映として成立する登場人物の気持ち=認識も、自然に分かるはずである。

以上のようなことは何も小説の登場人物の理解に限らず、現実に存在する人間を理解する際にもいえることである。生徒の気持ちを理解するには、その生徒がどんな世界で生活しているかをしっかり把握しなければならない。たとえば、家庭生活はどうか、両親との関係はどうか、兄弟姉妹はいるのか、学校ではどうか、どのような友人関係を持っているのか、先生との関係はどうか、等々である。これを本人から直接聞いたり、周りの人間からきいたり、実際に家庭訪問をしてみたり、生徒の机に座って教室を眺めたりすることによって、その生徒の世界を描いていくのである。これがしっかり描ければ、その生徒の認識も追体験できる、その生徒に二重化できるわけである。

しかし、である。相手の世界を描こうにも、自分の個人的経験にだけ基づいていては限界がある。『あしながおじさん』の主人公である想像力豊かなジルーシャでさえ、一度も足を踏み入れたことのないふつうの家の中が想像できなかったのである。

個人的経験だけでは限界があるのなら、他人の経験に頼ってその限界を突破すればいい。ここで役立つのが小説なのである。特に社会派推理小説は、現代日本に存在する様々な世界を、生き生きと描いてくれている。こういうものをコツコツと読むことによって、次第次第にどんな世界でも描ける柔軟な想像力、実力ある厚い認識が育っていくと思っているのである。長くなってしまったが、これが僕が社会派推理小説を読む理由である。

以上は僕の理解でしかないが、学問的には既に次のように指摘されている。

「人間とは何かをわかるための社会と歴史の学びは、学校の教科書とか副読本とか参考書とかを合わせた程度では大きく不足しているのです。何が大きく不足するのかといえば時代の心、社会の心、人の心です。そのための学びとしては三つあります。
 一つは、歴史を題材とした時代小説です。日本のでいえば、『大仏開眼』とか『新平家物語』とか『大菩薩峠』とかのような時代が大きく主人公になっている小説です。二つは、人間の心を主題にしている小説です。舟橋聖一や丹羽文雄や夏目漱石などの小説です。三つは、社会派とされている推理小説です。松本清張や高木彬光や森村誠一などです。……
 こういった小説にしっかり、時代の心とか社会の心とか人間の心とかいったモノを学び続けて力を養ってこそ、相手の立場に立てる自分の心ができあがってくるのです。」(南郷継正「なんごうつぐまさが説く看護学科・心理学科学生への“夢”講義・4」、『綜合看護』1999年4号、p.97)

実は、ここで南郷師範が森村誠一の名をあげておられるので読み始めた、というのが実際なのである。しかし、それではあまりにも主体性がないので、自分を納得させるためにも、自分なりにこういった小説を読む意味を考え続けてきた。そして到達した一応の結論が、上で書いた内容なのである。

最後に『棟居刑事の「人間の海」』に戻って、その「解説」に書かれていた興味深いお話を紹介しておこう(有名な話なのかもしれないが)。森村誠一は、特注のガラスペンで執筆しているということである。本人談によると、「私のペンは特注のガラスペンで、総体二グラム。今は生産中止で、二万本特注し、年間消費量約六百本、すでに一万二千本を消費して、残り八千本は銀行の貸金庫に保管しています」とのこと。面白いこだわりだと思った。
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2005年12月01日

書くことの意味――湯浅俊夫『合格小論文の書き方』他



目的は過程の質を決定する。これは人間の実践一般に当てはまる命題である。したがって、何かことを行う場合、目的を明確にして、目的意識的に行わないと、思い通りの成果が上がらないことにもなってしまう。

では、人間は何のために「書く」のであろうか? 「書く」ことにどんな意味があるのだろうか? 僕もこのブログやノートに自分の考えを書いているわけだが、その目的は一体何か? これを明確にして、常にその目的を意識しつつ、「書く」という作業を行わなければならない。

このブログの目的は、最初の記事でも書いたように「文章修行を通して、事実を事実として見る目を養うこと、論理能力を鍛えていくこと」である。しかし、これではやや抽象的であるから、今回は今まで読んできた本の中で、「書くことの意味」について触れられている箇所を抜粋しつつ、何のために書くのか、という目的を再確認しておきたい。それによってこの目的的像がより厚みのある像になるはずである。

まず初め紹介したいのは、湯浅俊夫『合格小論文の書き方』(旺文社)である。これは大学受験用の小論文の参考書であるが、大学の卒業論文執筆にも十分役立つ。論文の書き方の基本書といってもよい。蛇足だが、僕はこの本の著者である湯浅先生に、直接小論文の指導・添削をしていただいたことがある。『合格小論文の書き方』の中には、その時に僕が書いた文章が解答例として載っている。湯浅先生によって多少手直しされてはいるが。

『合格小論文の書き方』では、一章を設けて「日常のトレーニング方法」が説かれている。そこには次のように書かれている。

「『書き続けること』、『考え続けること』、『書きながら考え続けること』。それらを日常生活の一部としてこなすことが、自分の考えをより精密にし、想像力を強化させる有力な方法である。頭の中だけで考えているというのでは不十分なのだ。その考えがどのような形であれ表現されることによってはじめて意味を持ってくる。考えは形をとることではじめて明確なものになるのだ。」(pp.164-165)

ここで述べられているのは、書くことは考えることであるという考え方である。しかも、書くことを、朝食を食べたり歯を磨いたりお風呂に入ったりするのと同じように、生活化するべきだと説かれている。そのための手段として「書き慣れノート」なるものが紹介されている。つまり、何でもかんでも書き込んでいくノートである。本の感想や、他人から受けた印象、時事問題に関するコメント、ちょっとした気付き・発見、等々を、どんどん書き込んでいくのである。もちろん、僕も実践している。

次に、「書くことは考えることである」ということを明確に説いている本があるので、それを紹介したい。南郷継正監修『空手道綱要』(三一新書)である。これは玄和会の教科書であるが、その最後の章は「指導者の論文はいかにあるべきか」というタイトルになっている。その部分から一部抜粋してみる。

「まず一つのテーゼをあげておこう。

《書くことはすなわち考えることである》

 このテーゼは正確には、次のごとく読むべきであろう。すなわち、発表するべき状態におくべく、まっとうに書くことは、まっとうに思考することにつながるのであり、単に真剣に思考する、苦しんで考えるというレベルのみの頭脳を活動させることでは、まっとうなる思考には育たないものである。
(中略)
 いずれにせよ、〈書く〉ためには、自らの思想をとりわけ整理・吟味してかからなければならない。これは別の観点から見れば、自らの思想を整理することによって、認識の精緻なる改造が着実に行われていることが明らかになる。」(pp.232-234)


つまり、書くことと考えることを対立物の統一として、弁証法的に捉えているわけである。さらに補足しておくと、《書くことはすなわち考えることである》というテーゼは、その対立物たる《考えることはすなわち書くことである》というテーゼと、統一して考える必要があろう。このように、書くと直接に考える、考えると直接に書く、というプロセスを経て、認識の発展がもたらされるのである。

さて、以下しばらくは、論文の書き方関係の本から抜粋し、それに関するちょっとしたコメントを書いてみたい。

「文章が論理をドライブするとは、文章を書いている内に、新しい論理を思いつく、論理の筋が見えてくる、という現象が書き手の頭の中で起きて、その結果、そうして見えてきた論理が実際の文章として書かれる、ということである。文章を書くことによってそれまではっきりとは見えていなかった論理が見えてくるのである。」(伊丹敬之『創造的論文の書き方』(有斐閣)pp.216-217)

この『創造的論文の書き方』は、帯に「新・学問のすすめ」とあるように、論文の書き方に限定されておらず、大学での研究の方法が詳しく、分かりやすい比喩を多用して説かれている。ここで述べられている「文章が論理をドライブする」という現象は、それなりに考えながら文章を書いたことのある人なら、だれもが体験しているであろう。

「論文を書くというのは、実は『論証』を行うことなのだ。論証のない文章は、いくら新発見であっても、論文にはならないのだ。そして、論証があるからこそ、その発見は、多くの人が共有できる知識となる。要するに、論文を書くこととは、知の共有に至る道なのである。」(山内志朗『ぎりぎり合格への論文マニュアル』(平凡社新書)pp.30-31)

「ぎりぎり合格への」といいつつ、けっこうハードルが高い。このマニュアルに書いていることをすべてクリアーできたら、大学の卒業論文は文句なく「優」がもらえるはずだ(僕の卒業論文「三浦つとむの規範論」の場合は、このマニュアルを全然クリアーできなかったためか、「良」だった)。ちなみにこの本はかなり面白い。知的好奇心を刺激する、とかそういう高尚な面白さではなく、単純にギャグが面白い。本当に声を出して笑ってしまう。これも、電車や図書館などでは読むべきではない本の一つだ。

「でも、考えるというのは、やってみるとわかりますが、なかなかに幸い。ニーチェは人は同じことを五分と続けては考えられない、とどこかで言っていますが、ニーチェがそう言っている以上、我々はまあ、一分続けて同じことを考えられるのか、これは難しい、と思ったほうがいい。
 たとえば、ピクルスの瓶のふた、特に外国のもの、これ、開きませんよね。ウーン、と渾身の力を込めて、一回。ダメ。もう一度ウーン、とやって、こりゃだめだわ、と僕たちは匙を投げます。渾身の力をこめるというのは、五秒と続けられないものだ、ということがわかるでしょう。考えるというのも、このピクルスの瓶開けと似ています。ウーン、もう一度、ウーン、こりゃだめだわ。ぎりぎりのところで僕たちの考えというのは、そういう汗かきの仕事になります。書くというのは、そういうところまで、考えるということをもっていく、一つの場です。何か読んでいたら村上春樹氏が自分は書かないと何も考えられない、と言っていました。でも、ものを書くようになる人というのは、頭がいいから、書くんじゃ決してないんです。考えるために書かないといけない、という面倒なサイクルを自分の身体に引き込んでしまった人が、考えるために書く。僕もそうです。考えるために書く。書いてみると、どこまで自分がわかっていて、どこからわからないのか、わかる。なぜわかるか。書けなくなるから。あるいは調子に乗って書いていて急に自分が馬鹿に思えてきて、その先を続けられなくなるから。
(中略)
 ですから、皆さんは、書けなくなると、そこでやめるかも知れないけれども、僕などは、書けなくなると、そこから書くという仕事がはじまる。書けなくなるところまで行くため、勉強して、もう勉強じゃダメ、という八合目から、山頂めがけ登るんです。
 売文業というのは、ですから、なかなか大変です。でも、書くことがそうなんです。いいですか、知っていることを書く、んじゃないんですよ。書くことを通じて何事かを知る、んです。ここを間違わないようにして下さい。」(加藤典洋『言語表現法講義』(岩波書店)pp.12-13)


少し長いが、なかなか興味深い内容だ。

「論文を書くためには,二桁×二桁の暗算に必要な情報量よりもはるかに多い情報を処理しなくてはいけない.だから,論文で用いる全情報を一どきに頭の中(作業記憶領域)で操って,全体の論理性を確かめることなどできるはずもない.結局,少しずつ小出しにして考えていくことになる.しかしこれでは,この部分を考えていたら,あっちの部分はどういうことだったっけとなってしまう.つまり,頭がこんがらがる.だから,頭の中だけで,論文で主張したいことを体系立てて整理するのは所詮無理なのだ.二桁×二桁の掛け算も,紙に書いて計算すれば簡単にできる.紙に書けば,作業記憶にそれほど多くの情報を保持しなくてすむからだ.同様に,論文を書くときも,全体の道筋を流れ図に描いてみる.そしてそれを見てみる.それを文章にしてみる.そしてそれを読んでみる.全体の道筋(論理の流れ)を確かめるには,頭の中で考えていることを直接吟味するのではなく,考えを読める(見える)形にし,そちらを使って吟味することである.そうすればきっと,自分が考えていたことについてずいぶんと気づくことがあると思う.『この論理の流れはおかしい,こう直すべきだ.』『こういうことも主張できるのではないか.』このように,書くことは,研究成果の質を高めることにつながる.」(酒井聡樹『これから論文を書く若者のために』(共立出版)pp.8-9)

この続きには、論文を書くことのもう一つの効用についても触れられている。それは、自分自身を変えるということ、すなわち「データがあって、それを論文にまとめる」という思考から、「書きたい論文があって、そのために必要なデータは何かを考える」という思考への転換である、とされている。

「論文というのは、自分の頭でものを考えるために長い年月にわたって練り上げられた古典的な形式なので、ビジネスだろうと、政治だろうと、なんにでも応用がきくのです。いいかえれば、優れた論文作成能力を獲得している人は、優秀な学者になれるばかりか、優秀なビジネスマンにも、優秀な政治家にもなることができるのです。」(鹿島茂『勝つための論文の書き方』(文春新書)p.221)

論文の生成発展の過程を踏まえている点が興味深い。

ここから三冊は、直接論文の書き方の本ではないが、同じようなことが書いてある。

「考えたことを文字にしていく場合、いい加減であいまいなままの考えでは、なかなか文章になりません。何となくわかっていることでも、話し言葉でなら、『何となく』のニュアンスを残したまま相手に伝えることも不可能ではありません。それに対して、書き言葉の場合には、その『何となく』はまったく伝わらない場合が多いのです。身振り手振りも使えません。顔の表情だって、読み手には伝わりません。それだけ、あいまいではなく、はっきりと考えを定着させることが求められるのです。そのような意味で、書くという行為は、もやもやしたアイデアに明確なことばを与えていくことであり、だからこそ、書くことで考える力もついていくのです。」(苅谷剛彦『知的複眼思考法』(講談社+α文庫)pp.130-131)

この本は名著だ。大学生必読の本であると思う。僕がこの本の存在を知ったときには単行本でしか刊行されていなかったが、今では文庫で手に入る。

「ところが『発見の手帳』の原理は、そういうの(そらで文章をくみたてること――寄筆)とは、まったく反対である。なにごとも、徹底的に文章にして、かいてしまうのである。ちいさな発見、かすかなひらめきをも、にがさないで、きちんと文字にしてしまおうというやりかたである。
 このやりかたは、すこし努力を必要とするので、そらで数や文章をあつかうようなたのしさはない。しかし、それだけに、暗算では気のつかなかった、おおくの問題に注意をはらうようになる。『発見の手帳』をたゆまずつけつづけたことは、観察を正確にし、思考を精密にするうえに、ひじょうによい訓練法であったと、わたしはおもっている。」(梅棹忠夫『知的生産の技術』(岩波新書)pp.26-27)


この「発見の手帳」が湯浅先生の「書き慣れノート」の原形だと思う。梅棹氏は、どんな些細なことでもノートにメモしたというレオナルド・ダ・ヴィンチを真似て「発見の手帳」をつけはじめたのだ。これにちなんで、湯浅先生は以前この「発見の手帳」のことを「レオナルドの手帳」と呼ばれていた。「書き慣れノート」や「発見の手帳」より「レオナルドの手帳」の方が、どことなく格好いい。梅棹氏自身は、京大型カードに辿り着くと、この「発見の手帳」もカードで代用させたそうである。僕も京大型カードは、たとえば塾で教える英文法の情報を一項目ずつカードに書き込むなどして利用しているが、この「発見の手帳」=「書き慣れノート」は、A5のノートを利用している。

「人は『考えたことを書く』のではなく,いわば,『考えるために書く』のである.書くということを通じてこそ,人は自分の考えを進めたり,新しい考えを出したりできる.逆に言うと,考えがまとまらないとか,進まないというときには,書いてみるのがいちばんなのである.
(中略)
 じつは,これは書くことだけに限ったことではない.一般に,『表現する』というのは,心の中にすでにあるものを外に表すことだととらえられているようだが,じつは,表現するという行為を通して心の中にあるものが変化していくのである.それは,自分でももやもやとしていたことがらが形をなしてくるということもあるし,思いもかけなかったような新しいアイデアに思い至るということもある.作曲にしても,絵画にしても,研究発表にしても,その制作過程を通じて自分自身が変化していくことを感じることができるし,それがまた表現することの醍醐味なのである.」(市川伸一『勉強法が変わる本』(岩波ジュニア新書)p.186)


有名な心理学者による勉強法の本。高校生向け。途中に挿入されている文献紹介も役に立つ。

さて、書くといっても、以上見てきたように論文、あるいは文章という形で書くとは限らない。最初に引用した湯浅先生の言葉にもあるように、ある考えは「どのような形であれ表現されることによってはじめて意味を持ってくる」のであるから、逆にいうと、文章という形にこだわる必要はない。ここでは、文章以外の形式を二つ取り上げたい。

一つ目はマンダラートである。3×3の9つのマス(マンダラ)の中心にテーマを書き、その周りの8つのマスにテーマに関連することを書き出していくのである。超シンプルな方法である。しかし、開発者の今泉氏は断言する。

「考えるとは、マンダラをつくってみることだ。」(今泉浩晃『「成功」を呼び込む9つのマス』(ぜんにち)p.169)

このシンプルさがいい。もちろん、僕の「書き慣れノート」にはたくさんのマンダラートが書かれている。

次は、たびたびこのブログにも登場しているマインドマップである。最新刊のトニー・ブザン他『ザ・マインドマップ』(ダイヤモンド社)から引用してみよう。

「マインドマップは放射思考を外面化したものであり、脳の自然な働きを表したものである。脳の潜在能力を解き放つ鍵となる強力な視覚的手法で、誰もが身につけることができる。あらゆる用途に使用でき、学習能力を高めたり、考えを明らかにしたりするのに役立ち、生産性の向上が可能になる。
(中略)
 マインドマップは思考を直線形式(1次元)から一歩前進させ、平面(2次元)、そして放射的で多次元的なものへと進化させる。」(pp.59-60)


伊丹氏の表現を借りるなら、「マインドマップは思考をドライブする」という感じか。マンダラートとマインドマップに共通するのは、文章とは違ってノンリニアな形式であるという点である。最近、個人的にはマンダラートの方に親しみを覚えて、何かと活用している。開発者が日本人であることに関係しているのかもしれない。

書くことの大切さといえば忘れてはならないのが原田隆史先生である。原田先生は、実践的認識論を独自に創出されていると僕は思っているのだが、次の部分などは、認識論的にも非常に興味深い。

「実は、オリンピックの金メダリスト、偉人、成功者がやっていたのほ、ただ思うことだけではありませんでした。『成功のプロ』はみんな、思い描いていたことを書いて≠「たのです。
 なぜ、思っているだけでは十分ではなくて、書かなければならないのでしょうか。それは書くことにはイメージを強化する効果があるからです。
 書くということについて考えてみましょう。
 頭の中で考えていなければ、文字に表すことはできません。書いた文字は思考の表れなのです。そして、思考の量と文字数は正比例します。たくさん考えている人は、たくさん書けます。あまり考えてない人は少ししか書けません。つまり、イメージが具体的かつ鮮明になっているかどうかは、文章にしてみれば一目瞭然で分かるのです。
 そして、何度も書くことによって、セルフイメージはどんどん高められ、強化されていくのです。イメージを文章化した後で読み返してみると、あれが足りない、これが足りないということに必ず気づきます。そこでもう一度考えて書く。さらに考えて書く。これを繰り返すたびに、イメージは前よりも具体的かつ鮮明になり、潜在意識の中にたたき込まれていくようになります。
 『よく考えることで文字数が増える。すると、足りないものに気づく力が高まる。そこでものごとに気づく力が高まれば、行動の質が高まっていく』。原田塾ではこのサイクルを『意識の高まり』と呼び、書くことを重視した指導を行っています。『成功の技術』を作動させるための長期目標設定用紙や日誌も、書くことの大切さに気づいた結果取り入れたものなのです。」(原田隆史『成功の教科書』(小学館)pp.40-41)


書くという必死の労働によって、自己の認識が厚みのあるものに育っていく。厚みのある認識=像は強烈に自己を駆り立てる原動力にもなるし、他の人は気付かないようなことまで気付かせてくれる問いかけ像にもなる。そういった内容が説かれているのだと判断した。

以上、いささかしつこいくらいに見てきたように、書くことの意味に関して、様々な人が同じようなことを主張している。以上のようなことを常に念頭において、目的意識的に書くという実践をこれからも行っていきたいと思う。最後に、やはり湯浅先生の魂を揺さぶる文章を紹介して纏めとしたい。

「書くことはおそろしい。あいまいさ・貧しさも含めて書き手の思考のすべてを明らかにしてしまうからだ。『そんなことを言われれば何も書けなくなってしまいます』という弱々しい抗議の声がどこからか聞こえてきそうだ。だが、はやまらないでほしい。私には、君の書くことを抑圧しようなどという意図は毛頭ない。ただ私は君に、書いてしまった言葉をよくみつめながら、〈書くこと〉の〈スリル〉と〈効用〉について考え抜いておくべきだ、と言いたいだけだ。
 そのためには、書くことのおもしろさについても触れておこう。『書くことはおそろしい。あいまいさ・貧しさも含めて書き手の思考のすべてを明らかにしてしまう』と書いた。だがそれは言い換えれば、書くことによって自分の貧困を対象化し、脱ぎ捨てることが可能だ、人は書くことによって今までの自分から脱出できる、少なくともその可能性を持っている、ということと同義でもある。
 書くという行為は自分の思考を外化し、対象化することだ。自分がここにいて、すでに書きあげてしまった文章がそこにある。それはちょうど鏡を見ることに似ている。人間は自分で自分自身の姿を直截は眺めることはできないが、鏡という媒介物を通じてなら、自分の姿を映してみることができる。他人の目の位置から、自分自身を客観的に眺めることが可能になる。文章もまったく同じ事なのだ。われわれは文章という鏡に、自分の考えを映してみてはじめて、自分の考えを対象化し客観視することができる。その時、文章のこちら側にそれを対象化するもうひとりの自分がいる、ということこそが大切なことだ。その、もうひとりの自分とは、文章を今まで書き続けていた自分とつながりをもちながらも、すでにほんの少しだけ異なっている自分、今までの自分から離脱し始めている〈新しい自分〉であるはずなのだ。
 そのとき生まれてくる〈未知の自分〉を信じよう。まだ何者ともわからないが、自分が書きあげてしまったものを見つめて、すでにそこに〈物足りなさを感じている自分〉、今までとは〈ほんの数ミリ突出した自分〉にかけてみよう。〈書くこと〉の効用とは、自分の分身としての文章とそれを見つめている自分、この分裂した二つの自分がつくりあげる、往復運動から生まれる緊張(スリル)とそれゆえの生産性(可能性)のことを言うのだ。
 書け! 書き続けよ! 書くことによって絶えず自分の考えを対象化し、今までの自分を乗り越え続けよ。とりあえずそれだけが、自分自身の〈貧困の現在〉から抜け出すもっとも効果的な方法なのだ。」(湯浅俊夫『小論文の料理法』(旺文社)pp.94-94)


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2005年04月19日

マインド・マップとマンダラート

効果的なノートの取り方として、学生時代からマインド・マップを使っている。こんな感じのノートだ。

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従来のリニアなノートとは違って、中心のテーマから放射線状にキーワードを書いていくのである。これは『記憶する技術』という本を読んだあとに書いた読書ノートであるが、このように情報を整理するときだけでなく、発想法の道具としても使える。詳しくは、考案者のトニー・ブザン氏の本を参照。

マインド・マップの本

マインド・マップをもっとシンプルにしたような整理法・発想法として、マンダラートというのもある。これは、3×3=9つのマスの中央にテーマを書き、その周辺の8つのマスにテーマから連想されるものを書き込んでいくものである。最近、結構使っている。

このマンダラートには、パソコンで使えるソフトが存在している(マンダラート・ウィンドウズ版 v.2.3J)。以前、試用版で使ってみて非常によかったので、今回購入することに決めた。15000円とやや高価だが、紙上では再現しにくい階層化が容易にできるので、情報を整理するためのツールとして非常に役立ちそうだ。

そういえば、マインド・マップにも、パソコン上で使えるソフトが存在したな、と思って、調べてみると、フリーのFreeMindというソフトを見付けた。Gon's BLOGMindMapというカテゴリを参考にして、ダウンロードしてみた。なかなか使えそうだ。シェアウェアもあるが、マインド・マップは手書きを基本にしようと思っているので、このフリーのソフトで十分だ。

試しに『成功の教科書』をFreeMindを使ってまとめてみた。

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posted by 寄筆一元 at 02:39| Comment(0) | TrackBack(1) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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