2006年04月08日

モンゴメリー『アンの幸福』(掛川恭子訳、講談社)

※今回も、『アンの幸福』の内容について触れていますので、未読でその内容を知りたくない方はご遠慮ください。

『アンの幸福』は、『赤毛のアン』シリーズ第4巻であり、アンが22歳〜25歳の3年間、サマーサイド高等学校校長として活躍する様子を描いている。物語の大半は、アンが婚約者であるギルバートへ書いた手紙という形式になっている。そのためか、少し違和感があった。

この第4巻は、やたら登場人物が多い気がした。「こんな人いたかな?」などと思って前を読み返しても出てこない、実は初登場の人物だった、というようなことがたびたびあった。それにしても、主要登場人物であるレベッカ・デュー、ケイトおばさん、チャティーおばさん、エリザベス、キャサリンはもちろんのこととして、マイナーキャラであるサイラス・テイラー、ミセス・ギブソン、ノラ、ジム・アームストロング、アーネスタイン、ヘイゼル、ジェラルドとジェラルディーンという双子、フランクリン・ウエストコット、ミス・ミネルバ等々、それぞれ個性的で、いかにもいそうな人物でリアリティーがあった。

物語の中心はキャサリンとエリザベスで、ともにアンと出会うことで幸せになっていく。最後にエリザベスが父親と出会う場面など、やはり涙が出てきた。

これまでの『赤毛のアン』シリーズでもそうだが、人びとの日常生活に対するキリスト教の影響が様々に描かれているのも、日本人にとっては新鮮で面白い。寝る前のお祈りや日曜学校、聖書の内容に関する会話、などである。ちょっと聖書を勉強したくなってきた。また、お茶の習慣も描かれており、紅茶でも飲みながら読みたい気分になる。

少し調べてみると、『アンの幸福』はシリーズとしては第4巻であるが、モンゴメリーが書いた順番としては、最後から2番目で、第1巻を書いてから約30年後の作品であることが分かった。第1巻がモンゴメリー34歳頃の作品であるのに対して、この第4巻は62歳頃の作品ということになる。当初感じた違和感は、手紙形式のためだけではなくて、作者モンゴメリーの年齢も関係していたのかもしれないと思った。
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2006年03月26日

モンゴメリー『アンの愛情』(掛川恭子訳、講談社)

※今回も、『アンの愛情』の内容について触れていますので、未読でその内容を知りたくない方はご遠慮ください。

『赤毛のアン』シリーズ第三巻、『アンの愛情』を読了。18歳〜22歳のアンが描かれている。ルビー・ギリスが死ぬ第14章と、アンがギルバートへの愛を悟る第40章、読みながら泣きっぱなし。

この巻を通じて、アンのギルバートにたいする心情と態度の描写が、非常に面白い。ロイと付き合っている間も、ギルバートと、ギルバートと噂になっていたクリスティーンのことが何となく気になるアン。アンは、ロイからのプロポーズを突然断り、ギルバートの病気をきっかけに彼への愛を悟る。そして最後の第41章、アンは「愛の王国に入る」のである。

アンがロイのプロポーズを断ったということを知った病床のギルバートは、医者もビックリするくらいの回復をみせる。この辺り、認識論的にも非常に興味深い。まさしく認識=像の持つ凄まじいまでの威力が発揮されたといえそうだ。もっとも、ギルバートが病気になったのも、認識=像の影響だと思うが。

それにしても、物語の中でも、時間はあっという間に過ぎてしまう。この巻では、アンの大学での4年間が描かれているわけだが、ついこの間、11歳のアンがグリーン・ゲイブルズにやってきたばかりの感じがするのに、もう大学卒業である。アン自身も感じているように、時の経つのは速い。歴史性を持って生きられるように、もっとアンのように勉強しなければ、などと思った。
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2006年03月19日

モンゴメリー『アンの青春』(掛川恭子訳、講談社)

※今回も、『アンの青春』の内容について触れていますので、未読でその内容を知りたくない方はご遠慮ください。

『赤毛のアン』シリーズ第二巻、『アンの青春』を読了。16歳〜18歳のアンが描かれている。この二年間、アンはアヴォンリーの学校で教師をしているが、最後は大学に入るために教師を辞めることになる。アンが辞めることを知った生徒たちは、泣いて悲しむ。別れる時に泣いて悲しんでもらえるなんて、教師冥利に尽きる。こんな教師になりたいと思った。

今回の主要登場人物の中に、双子の兄妹、デイビーとドーラがいる。兄のデイビーはいたずらっ子で、問題ばかり起こしている。妹のドーラはおとなしい。問題を起こしたあとの言い訳が、小さい頃のアンにそっくりな気がした。

また、アンにいわせると「天才」のポール・アービングという少年も登場する。アンと同様、非常に想像力豊かで、普通の人から見ると「頭がおかしい」と思われるような作り話をする。しかし、アンから見ると「天才」なのだ。この第2巻『アンの青春』では、ポールとその家族が一つの大きなポイントになっていると思う。

一番感動して涙した場面は、やはり最後の結婚式で、太陽の光が差し込む場面。ゾクゾクッとした。一番壮絶な場面は、雹が降って村を破壊する場面。

第三巻以降では、いよいよアンとギルバートの関係が深まっていくはず。非常に楽しみだ。
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2006年03月12日

モンゴメリー『赤毛のアン』(掛川恭子訳、講談社)

※今回は、『赤毛のアン』の内容について触れていますので、未読でその内容を知りたくない方はご遠慮ください。

最近、DVDで世界名作劇場『赤毛のアン』を観た。非常に感動的な作品で、涙あり、笑いありのストーリーに引き込まれていった。小説と違って、映像として直接提示されているので、その物語の世界により容易に入り込むことができた。

アニメを観ると、小説の『赤毛のアン』を読み返したくなってきた。そこで、以前読んだことのある新潮文庫の村岡花子訳をもう一度読もうかと思った。しかし、よく調べてみると、この村岡花子訳には省略部分が多いということが分かった。『赤毛のアン』シリーズが完訳で読めるのは講談社版だけらしい。そこで今回は、講談社の掛川恭子訳を読むことにした。近所の図書館に、掛川訳の『赤毛のアン』シリーズ全10巻がそろっていたので、順番に読むつもりである。なお、集英社からは松本侑子訳が刊行され始めている。これは、アンのセリフ部分が、どういった古典からの引用であるかを詳しく調べた注がついているようだ。

さて、『赤毛のアン』第一巻を読み終えたわけだが、アニメを観たすぐ後だったためか、それとも、アニメより具体的に場面を想像できなかったためか、アニメを観たときほどの衝撃・感動はなかった(アニメでは、何回涙したことか)。それでも、アンの成長、アンの認識の変化は、大変興味深いものがあった。

第一巻では、11歳〜16歳のアンが描かれている。まさに思春期の真っ只中である。当初、リンドのおばさんやギルバートに赤毛のことをからかわれて激しい癇癪を起こしていたアンも、マリラやマシュー、それにミセス・アランやステイシー先生の教育を受けて、次第に社会性を身につけ、おとなしくなっていく。

アンのギルバートに対する認識の変化も面白い。アボンリーの学校に通っていた頃は、何とかギルバートを負かすために一番になりたいと、敵意をむき出しにして勉強をしていたが、クイーン学院に入った頃には、その敵意は消えていた。アンが溺れかけていたのをギルバートに助けてもらって、ギルバートが「友達になろう」と仲直りを申し出たときは、「にんじん」と赤毛をからかわれたときのシーンが、怒りの感情像としてよみがえったために、その申し出を断った。それが、アンの成長とともに、その怒りの感情も次第に薄れていくのである。

ステイシー先生の教育法も興味深いものがある。何でも、授業の前に体操をするそうだ。机に座って勉強する前に、体を動かすというのは、とてもよいことだ。アニメ版では、クイーン学院の受験当日にも、アボンリー出身の生徒がステイシー先生と一緒に体操している場面が描かれていた。ちょっと面白い場面だった。

アンは想像力豊かなだけに、アンが想像する場面がたくさん描かれている。観念的に二重化した世界で、もう一人の自分が全くの別人になって活躍しているのだが、ふとそのアンの肩に手が置かれる。それはマリラの手で、それがきっかけとなって、急に二重化した世界から現実の世界に呼び戻される、そんな場面がアニメでは描かれていた。やはり想像というのは世界の二重化なのであって、想像の世界しか見ていないわけではない。現実のマリラの手が、その想像の世界にいわば介入してくるのであるから。第27章では、マリラが様々なことを考えながらも、同時に辺りの景色を眺めている様子も描かれている。

アンの育ち方は、現代日本から見れば、一つの理想であるように思う。自然豊かで自給自足に近いアボンリーの村で育ったという点が素晴らしい。クイーン学院にトップ合格するくらいだから、アンも猛烈な受験勉強をしたことは確かだが、受験前の最後の夏休みは、教科書をトランクにしまい込み、一切勉強せずに、ひたすら外でダイアナと遊び回っている。アニメでは、裸足で浜辺を走り回る姿も描かれていた。まさに、自らの五感器官を総動員して、豊かな五感情像を育てていったのだろう。グリーン・ゲイブルズにもらわれる前は、孤児として、様々な辛い体験を重ねたが、グリーン・ゲイブルズにやってきてからは、マシューとマリラの愛情を注ぎ込まれて育つ。「心の友」ダイアナの他にも、当初は口も聞かなかったが、最後に感動的な和解に到るギルバート、口の悪いジョシー・パイなど、様々な友人関係の中で、社会というものを学んでいく。アンの成長はほほえましく、見事で、リアリティーにあふれている感じがする。

今、第二巻の『アンの青春』を読み始めている。これからのアンの活躍も、大いに楽しみである。また、英語の原文がネット上で無料で見られるので、今度は英語でも挑戦してみたい。

最後にアニメ版と小説の異同に関して少々。第8章に「子どもたちを祝福するキリスト」という絵が登場するが、原作ではこれはグリーン・ゲイブルズにあるのに対して、アニメでは牧師夫妻の家にあった。第20章の「アン、震えあがる」はアニメでは描かれていなかったように思う。アニメにあった、アンとダイアナが将来の結婚のことなどでちょっとしたケンカをする場面は、原作にはないようだ。アニメでは、マシューが子牛をアンにあげるシーンが描かれていたが、小説では第二巻『アンの青春』の冒頭部分に、回想として描かれている。その他、モンゴメリーのより自伝的な『エミリー』シリーズからとってきたエピソードも、アニメには取り入れられているそうだ。

なお、新潮文庫の村岡花子訳では、マシューの死後、マリラがアンに率直に自分の愛情を表現するシーンがカットされているほか、第12章でアンとダイアナが「心の友」の誓いを立てるときのセリフの一部もカットされていることが判明した(後者は、英語でないと意味不明になるからであろう)。その他にもカットされている所はあるような気がする。
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2006年02月22日

林健太郎『歴史の流れ』(新潮文庫)

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1年半くらい前に亡くなった林健太郎による西洋史の本。もう何回読んだか分からない。

世界史の最先端が、中世以前には、オリエント→ギリシア→ローマ、中世以後にはポルトガル→スペイン→オランダ→イギリス→……と次々と移っていく様子が分かりやすく説いてある。ある事件の背景やその影響なども論理的に説かれており、タイトル通り、まさに「歴史の流れ」がよく分かる本である。また、横のつながり、すなわち他共同体・他地域との接触による相互浸透的な発展についても分かりやすく記述されている。

このようなコンパクトで要領のよい歴史の本ができあがった事情について、林健太郎は「あとがき」で以下のように述べている。

「本書は元来一気呵成に書いたもので、格別の参考書を使った覚えはない。しかし私は昭和16年以来旧制一高で西洋史の講義をしていたので、こういった概説の輪郭は自然に頭の中に出来上がっていた。本書が西洋史の概説として比較的よくまとまっているという評を受けたのはそのためであろう。」(p.161)

ここは一般化して、教育することによって論理が洗練化されてくるのだと理解してよいと思う。僕自身も塾で英語を教えていく中で、徐々に英語の論理が整理されてくることを実感している。機会があれば、中学生に理科や社会を教えたいくらいだ。そうすれば、中学の理科や社会の内容を、論理的に捉える訓練にもなるような気がするからである。

さて、本書は「16世紀、宗教改革のあたりまでのことが比較的詳しく、それ以後のことは極めて簡単な荒筋だけになっている」ので、それ以後のことは続編的性格を持つ『世界の歩み』(上下二巻、岩波新書)を読むべきである、という主旨のことが「あとがき」に書かれている。『世界の歩み』は近世以降の西洋史が述べられているが、これも以前読んだ感じでは相当優れた著書であった。近いうちにこちらも読み返そうと思う。
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2006年02月02日

南郷継正『なんごうつぐまさが説く看護学科・心理学科学生への“夢”講義(1)』(現代社白鳳選書)



南郷継正『なんごうつぐまさが説く看護学科・心理学科学生への“夢”講義(1)』(現代社白鳳選書)が届いたので速攻で読んだ。基本的には連載そのままだが、編・章・節に見出しが付いているので、それだけでもだいぶ読みやすくなっている。これらの見出しが並んだ目次を眺めただけでも、大きな流れがイメージできる。それにしても、目次を見るだけでワクワクしてくるのは、僕だけではないだろう。

見出しが付いた以外に、本文も少し改訂されている。たとえば、p.54にある認識学の第三の柱の教材に、『ライジング!』(藤田和子、原作・氷室冴子、小学館)が追加されている。また、連載では当初「五感器官」と書いてあったところも、「五感覚器官」に統一されているようだ(p.58)。さらに、以前このブログでも取り上げた、人間とはなにかをわかるための社会と歴史の学びに関連して、『心では重すぎる』(大沢在昌、光文社)という本が具体的に挙げられている。

他にも、p.150の第三パラグラフのように、具体例が追加で挿入されて、ヨリ分かりやすくなっている箇所もある。湯浅先生による『育児の認識学』の書評に関しては、第三編第二章の最後に特別節として紹介されている。これは流れを考慮して、少し後ろに回されたようだ。

どうでもいいことをもう少し書いておくと、これは連載当時と同じであるが、p.91のウェブスター『あしながおじさん』に関して、南郷師範は「岩波文庫の遠藤寿子さんの訳のほうがとてもすばらしい」としながらも、「残念なことに旧漢字・旧カナ」であるから読者の便を考慮して、新しい谷川俊太郎訳を引用されている。しかし、岩波文庫の遠藤寿子訳にも新漢字・新カナで書かれているものもある。というか、僕が購入した岩波文庫版『あしながおじさん』は、しっかりと遠藤寿子訳だが、新漢字・新カナで書かれてある。おそらく1971年に改版されたとき、旧漢字・旧カナから新漢字・新カナに改訂されたのであろう。そして、師範が持っておられるのは、改訂以前の旧版なのであろう。

誤植も一つ発見した。これも連載当時のママだが、p.161の後ろから2行目、「第十一編」は「第一編」の誤り。まあ、誰でも気が付くだろうし、何の問題もないが。

くだらない些末なことを長々と書いてしまったが、本書を読むとどうしても、最後に登場する受験秀才の看護学科学生と自分の姿が二重写しになってしまう。これではイカン。p.159にある「認識=像の形成がうまくいくための条件」をしっかり踏まえて、弁証法・認識論の学習を進めていくこと、これが何にも増して、もっとも肝心なことであろうと思った。

最後に、自分の肝に銘じるためにも、師範の言葉を引用しておこう。

「ですから仮に『弁証法はどういう科学か』を何百回読んでも、あの書物のなかのすべての問題がなんなく解けても、専門分野の問題に立ち向かう実力が弁証法的についていなければ、なんの意味もありません。空手の修練が、受験国語のレベルで空手の本を読破することではないように、弁証法の学びも弁証法の本を読破することではありません。
 空手の学びと同じように自分の専門分野の本だけではなく、知識だけではなく、現実に存在する自分の専門に関わる事実という事実と格闘することによって初めて、弁証法が息をし、動きはじめることになるのです。」(p.206)
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2006年01月24日

『蒼天航路』(講談社)



『蒼天航路』の35巻と36巻が同時に発売された。これで完結である。早速購入して読んだ。知人がブログで紹介していたのをきっかけに、面白そうだと思って第1巻から全部購入していたマンガである。

『蒼天航路』の舞台は中国の三国時代。僕は、小学生か中学生の頃、近所の友達に、横山光輝の『三国志』を借りて全巻読んだ記憶がある。その後、PCエンジン(懐かしい!)で、横山版三国志をゲーム化したソフトが登場し、結構楽しんだものだ。その後は、PSでコーエーの三国志Xを買って、遊んだこともある。パソコンゲームでも、同じくコーエーの三国志Zも持っている、あまりやっていないが。

以上のような「三国志」は、たいてい『三国志演義』を元にして作ったものである。『三国志演義』は、明代に羅貫中が書いた小説である。蜀を正統と定め、劉備その配下の者を中心に描いている。蜀に対立する曹操は、奸雄として描かれている。

これに対して『蒼天航路』は、同じ三国志でも、陳寿の書いた正史『三国志』を元にしている。ここでは三国の中で魏を正統の王朝として扱っている。いわば、曹操が主人公である。その通りに、『蒼天航路』でも曹操の活躍が中心に描かれている。曹操の中国文化に及ぼした影響などがよく伝わってくる。かなり壮大なスケールの作品である。

『蒼天航路』を読むと、いろいろな意味で、この三国時代が、中国にとって大きな結節点であったことがよく分かる。『三国志演義』の世界に慣れている者にとっては、多少の違和感がある世界であるが、三国時代の英雄の新しい人物像や、時代に対する新しい解釈を見出すことができ、それがまた楽しみの一つにもなる。

また読み返して、壮大なスケールを再び味わいたいと思っている。
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2006年01月21日

岩橋文吉『人はなぜ勉強するのか――千秋の人 吉田松陰』(モラロジー研究所)



塾で教えていると、生徒に「なぜ勉強をしなければならないのか」ということを説かねばならないことが多い。その際の参考にしようと思って、本書を読んでみた。

「人はなぜ勉強するのか」に対する本書の答えを端的にまとめていうならば、夢を見付け、そしてそれを社会と調和する志に変え、その志を遂げるために、人は勉強するのである、ということになる。その実例として吉田松陰の他に、興味深い人物が紹介されている。松陰の弟子の中で一番長生きしたという天野清三郎である。

松陰の死後、天野は高杉晋作の下で勤王倒幕の政治運動に参加する。しかし、自分には政治運動は不向きだと悟る。そんな時、松陰がかつて、ペリー来航の時に語った言葉を思い出すのである。それは、「お前たちの中で黒船を造る者はおらんか。あれを造らなければ日本は植民地にされてしまう」という言葉である。この言葉を思い出し、「船造りなろう!」と決意した彼は、上海からロンドンに渡り、そこで造船術を学ぶのである。これは、松陰が鎖国の禁を犯してまで海外に出ようとした志を、まさにそのまま受け継いだ壮挙といえる出来事であった。天野はその後アメリカに渡り、そこでも血を吐くほどの苦しい思いをしながら勉強を続けたという。そして、1874年に帰国。明治政府の要人となっていた松下村塾の同輩の計らいで、明治新政府の工部省に入り、長崎造船所の建設に尽力して、世界に冠たる日本造船業界の草分けの偉業を成し遂げたということである。

天野の決死の勉学を支え続けたのが彼の立志であり、また彼の志を遂げさせたのが決死の勉学であったわけである。松陰は「凡そ空理を玩び実事を忽せにするは学者の通病なり」と当時の学者を批判しているが、松陰に批判された当時の学者と、天野あるいは松陰との決定的な違いは、「立志」にあったのである。

天野や松陰の生涯から学ぶことを一般化していえば、知識というものは「〜したい!」という夢・志・目標があってこそ真に自分のものとなり活用できるものとなるということであり、端的に言えば、論理能力の核は大志であるいうことである。松陰の教育はまさに大志を育てる教育だったのであり、大志を育て得たからこそ、短期間にすばらしい教育的効果を生み出し、明治維新の原動力となる多くの若者を輩出することができたのであろう。

吉田松陰の偉大さを再確認させてくれる、なかなかいい本であった。「あとがき」には、一般の書店では入手不可能な『脚注解説 吉田松陰撰集』(松風会)の案内もある。またいずれ、吉田松陰を読んでみようと思った。
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2006年01月20日

呉智英『読書家の新技術』(朝日文庫)



本書は1982年、呉が30代半ばの頃書いた読書論。第1部が「知の篇」、第2部が「技術篇」、第3部が「ガイド篇」となっている。

第1部「知の篇」では、当時の知の状況が解説され、当時メジャーであった読書論が批判的に検討されている。具体的には、谷沢永一と山本七平の読書論である。ここは僕の問題意識とあまりかみ合っていないので、さらっと読んでしまった。

僕の問題意識と一番合致していたのは第2部「技術篇」である。自然と線を引く量も増えてた。ここではまず、「何を読むか」として、読むべき本を見付ける方法が紹介されている。中心となるのが新聞書評である。書評に表れている評者の真意を的確に読み取る方法が説かれている。これは結構参考になった。今後は積極的に新聞書評を読んでいこうと思った。

しかし、その後に紹介されている「探書手帳」の作り方などは、時代を感じさせるものがある。新聞書評から得たデータを、手帳にまとめておいて、その手帳を元に書店や古本屋で本を探すというものだ。しかし、現在のようにインターネットが普及した時代にあっては、本を探すのにそんな手間をかける必要は全くない。パソコンに入力すれば、一発である。便利な時代に生まれたものだとつくづく思う。

「何を読むか」の次には、「どう読むか」が説かれていた。出だしに面白いことが書いてあったので引用しておこう。

「私の経験では、本は、500冊読むと新しい世界を展望できるようになる。つまり、500冊の蓄積ごとに、読書の“段位”というものが昇段する。そして、昇段するごとに、本を読む速度が早くなる。」(p.131)

「しかも、私が速読に自信を持ってからも、柳田国男の著作は速読できなかった。速読しにくい文章なのである。
 いずれにしても、速読は、その時期が来れば自然に速読するようになるものであるし、速読に適さない本も存在するのである。」(p.133)

これを読んで安心した。呉は当時でさえ、「岩波文庫の特に厚くない本は、私は、三、四時間から、七、八時間ぐらいで読む」(p.141)という人物である。これは僕にとっては超人的な速さである。大学に入るまで、本など片手で数えられるくらいしか読んでこなかった僕は、読書スピードが遅いことに悩み続けてきた。それで、速読関係の本を読んだり、様々な工夫をしたりして、何とか速く読む努力を重ねてきたが、呉にこう言われて、このまま読み続ければよいのだと、妙に安心感が出てきたのである。

閑話休題、呉は(岩波文庫の白帯・青帯にあるような)基礎文献の読み方に関して、辞書と入門書を利用してキーワードやタームをよく理解した上で、アクセントをつけながら読むべきであるとしている。こうすれば速読もできるし、内容もしっかり理解できるという。また、一冊を一週間も10日もかけて読むと、著者の思考の流れが分かりにくくなるから、時間のあるときに半日ぐらいかけて速読するのがいいとしている。

第2部「技術篇」の最後は、「本を吸収する」方法についてである。ここでは、読書カードから項目カードを作る方法が詳しく紹介されている。読書カードは、本の要約ではなく、一枚のカードでその本の全体像と覚えておきたいことが分かる、そういうカードである。本のいわば「地図」である。これを作っておくと、本に書いてある内容を忘れることがなくなるという。忘れたら、カードを元にして、本を読み返せばいいのだから。この読書カードがある程度の量になったら、今度は項目カードを作る。この項目カードは、「読書カードに記載した事項を、小さなテーマごとにまとめた、いわば、自分の頭の最終索引である」(p.170)という。「自分用の百科事典を作る作業」(同)ともいわれている。たとえば、「天皇」という項目カードを作る場合には、今まで読んできた本の中で、「天皇」に関連することが書いてあった本と、その内容を、その項目カードに書き込むわけである。

これは非常にやってみようという気にさせる方法である。しかし、よく考えてみたら、改訂作業が面倒な、紙ベースのカードではなくて、マインドマップやマンダラートの作成ソフトなどを使って、パソコン上で、ある項目に関連する情報を整理していった方がいいのではないかという気がした。読書しながら、必要な情報をマンダラートにまとめていくという手法は、以前考えたことがあるので、今度やってみようかと思う。

第3部「ガイド篇」は書籍の紹介である。ふつうの単行本から、全集やシリーズもの、文庫や新書、それに辞書・辞典に至るまで、様々な書籍が紹介されている。さすがにもう古くなっている情報もあるが、それでも買ってみようと思うものがたくさんあった。中でも、ある全集は、古本屋で調べると2万円くらいで買えそうなので、本気で購入を考えている。

まあ、この手の評論家の著作もたまにはいいかなと思った。
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2006年01月18日

吉田たかよし『最強の勉強法』『最強の勉強法―究極の鉄則編』(PHP文庫)



タイトル通り、勉強法の本。著者・吉田たかよしは、日本初のNHKアナウンサー出身の医師で、加藤紘一衆議院議員の公設第一秘書として、科学技術政策の立案にも携わったという異色の人物。この経歴からも分かるように、NHKの入社試験や医学部の入試、医師国家試験や国会議員政策担当秘書の資格試験に合格している。他にも、東京大学大学院工学系研究科に在籍中に、国家公務員試験T種経済職に、二年連続で合格したり、東京大学大学院医学博士課程に合格したりしている。こうした難関試験に挑む中で編み出してきた勉強法が、この二冊の本にまとめられている。

今回は、いつものように齋藤孝式に、三色ボールペンで重要箇所や面白い箇所に三色の線を引きながら読むだけでなく、数々の勉強テクニックを付箋にまとめながら読んでいった。その付箋の数は計45枚になった。どれも非常に具体的で、すぐにでも始めることができ、またすぐに効果が実感できそうなものばかりである。基礎思考ではなく、実践思考による産物という感じがする。

たとえば、「お気に召すまま勉強法」である。これは、テキストを初めから読んでいくのではなく、自分が興味を持てるところからランダムに読んでいく方法である。本は始めから終わりまですべて読む必要などないということは分かっていても、案外通読にこだわってしまうものである。しかし、通読しようとすると結構大変な本もあるし、初めの部分が面白くなければ、その本を読むのをあきらめてしまいかねない。これではもったいない。そこでこの勉強法である。せめて面白そうなところだけでも読んで、本の代金分くらいは情報を得たいところである。

また、暗記対策としては「ベットでごろ寝勉強法」というのが紹介されている。これは寝る準備を整えた上で、暗記用のメモを使ってベットで寝ながら勉強するというものである。眠たくなったら寝ればよく、眠くならなかったら、そのまま勉強を続けるのである。

さらに、詳しくは紹介しないが、記憶したいことを映像化することによって脳細胞を総動員して、記憶の効率化を図るというユニークな方法なども数多く説明されている。

著者が医師であるため、こういった勉強法には医学的裏付けもされている。「お気に召すまま勉強法」に関していうと、興味を持つと活性化する脳の扁桃体という部分と、記憶を司る海馬が割と近くにあるために、扁桃体が活性化されれば、海馬もそれにつられて刺激される。したがって、興味を持って勉強すれば、記憶の能率も上がるという。逆に、興味が湧かない内容を嫌々勉強しても、はなはだ効率が悪い。

あるいは「ベットでごろ寝勉強法」では、睡眠と記憶の関係について説かれている(もっとも、これは既に一般常識化しているともいえるが)。寝る直前に海馬に記憶された短期記憶は、眠りの浅いノンレム睡眠の間に整理され、大脳に移されて長期記憶となる。したがって、寝る直前には暗記物の学習が効率的なのである。実験的に英単語の暗記でもやってみようかと思った。

塾での教育に活用できそうなテクニックもあった。たとえば、眠そうな生徒の眠気を覚ます方法。深呼吸やうそアクビによって体内から二酸化炭素を追い出すと頭がスッキリして眠気が吹っ飛ぶらしい。また、光を見ると、睡眠を誘発するメラトニンから脳を活性化させるセロトニンに、ホルモンが切り替わるという。大声を出すことも眠気を飛ばすのに効果的なようだ。塾で眠そうにしている生徒がいたら、光を直視しながら深呼吸させ、大声で英語短文でも読ませてみようか。

二冊の本を通して、進化の過程を踏まえて説かれている箇所がいくつかあったのも興味深かった。たとえば、ライバルの必要性を説いている箇所では、次のように述べられている。

「スピードスケートの選手が、二人で滑って初めて、よい記録が出せるのは、ライバルとの競争を敵との生存競争に置き換えているためです。敵と争うときは、能力を最大限まで発揮しやすい。……
 ライバルがいれば学習がはかどるのも、まったく同じ仕組みです。長い進化の歴史の中で、脳を最も活性化させなければならなかった瞬間。それは、やはり、外敵と戦うときや獲物を追うときでした。」(『究極の勉強法』p.60)

他にも、先の尖ったものを見ると集中できるのはなぜかとか、興味というものがどのような役割を果たしてきたかとかが、進化の過程を踏まえて説かれている。

さて、本は読み終わった。しかし、こういった勉強法の本は、読むだけでは何の意味もない。実際に実践しないとダメだ。既に、「キッチンタイマー勉強法」など、いくつかは実践し始めている。そして効果も実感できている。今後も、45個あるユニークな方法をどんどん自分で使ったり、教え子に使わせたりしていきたい。そして勉強が効率的になるように、吉田たかよしと同じように工夫し続けていきたいと思う。
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2006年01月17日

シュテーリヒ『西洋科学史』全5巻(現代教養文庫)

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以前にも少し紹介したシュテーリヒ『西洋科学史』を通読した。人類の認識の発展が、自然科学・社会科学・精神科学の発展史として、分かりやすく説かれている。とにかく壮大なスケールである。

科学の発展史の大まかな流れを掴むために、各巻の副題と各章のタイトルを列挙してみよう。

●第1巻 揺籃期の科学◎ギリシア・ヘレニズム・イスラム
第1章 科学史の意義
第2章 基本概念――方法序論
第3章 予備条件、発端、あけぼの――史的序章
第4章 ギリシア科学の誕生
第5章 最初の継承者――ヘレニズムの科学とローマの寄与
第6章 もう一つの遺産――イスラムの科学

●第2巻 保存と復興◎中世の秋とルネサンス
第7章 保存と潜伏――西欧中世の科学
第8章 大復興――近代科学の開始

●第3巻 理性の時代◎数学的世界像の形成と啓蒙主義
第9章 普遍数学――17世紀の科学
第10章 自然と摂理――18世紀の科学

●第4巻 科学の大転回◎物理的世界像の形成と進化思想
第11章 進化――19世紀の自然科学

●第5巻 歴史と人間◎ドイツ歴史学派の興隆と精神分析学
第12章 精神と歴史――19世紀の精神科学


本来ならこうして目次を眺めた時点で、人類の認識の発展が、たとえ漫画ちっくであっても像として、頭の中でサーッと流れないといけない。しかし、まだまだその域には達していない。当面はそれぞれの時代精神を代表するような科学者に着目して、各時代の大まかな特徴をしっかりと把握するとともに、時代ごとのつながり、すなわち発展の流れも、アバウトに描けるようにしていきたい。そのために、もう一度読み返しながら、時代の特徴を端的に表している箇所に赤線を引いたり、大雑把な内容をノートに纏めたりしていきたい。もちろん、通常の世界史と重ね合わせながら学習することが大切だと思っている。

(ちなみに、『西洋科学史』の概要と各巻の詳しい目次は、Logic Board ―どう考えるのが正しいかで紹介されている。)

ところで、僕は本書のドイツ語原典も持っている。

kagakusigen.JPG

日本語訳を読んでいて、時々、論理的につながらない、おかしいと感じた時があった。そのような場合は、できるだけ原典を参照した。日本語訳で、いくつか誤訳・誤植を発見したので紹介しておこう。

・第1巻p.230 l.13
 「250倍」→「20倍」 原文はzwanzigmal
・第3巻目次
 第9章の「T数学」の最後に「c ライプニッツ」が抜けている
・第4巻p.225 l.15
 「生活物質」→「生命物質」 原文はder lebenden Substanz
・第4巻p.275 l.9
 「近代科学」→「近代外科学」 原文はder modernen Chirurgie
・第5巻p.286 l.6
 「知覚」→「視覚」 原文はdem Gesicht

気付いたのは以上であるが、おそらく他にもたくさんあるだろう。もっとも、些末なことだが。

なお、本書には、商工出版社版もある。

kagakusisho.JPG

学生時代には、大学の図書館にこの商工出版社版しかなく、現代教養文庫版はまだ入手できていなかったので、専ら商工出版社版を読んでいた。現代教養文庫版は、商工出版社版の再版である。訳がところどころ改訂されているほかに、図表や写真が豊富に取り入れられている。また、文庫サイズと手軽になっている。読むなら現代教養文庫版の方がいいだろう。
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2006年01月16日

思想の科学研究会編『新版 哲学・論理用語辞典』(三一書房)



辞書・事典は何かと重宝する。最近はネット上で使用可能な辞書も増えてきたし、電子辞書もかなり普及してきた。僕は両方ともかなりお世話になっている。ネット上では、Yahoo!辞書を頻繁に使う。電子辞書としては、パソコンにインストールしている平凡社の百科事典はたいていのことを調べられる。また、シャープの携帯用電子辞書も常に持ち歩いている。これには、英語関係の辞書がたくさん入っており、塾の授業にも手軽に持って行けるので、大変役立っている。

紙の辞書としては、南郷師範お薦めの国語辞典『例解国語事典』(三省堂)や瀬江先生お薦めの医学事典『暮らしの医学』(大門出版)の他、英語関係の辞書(15冊くらいある)、それに心理学系の辞書(2,3冊。うち1冊は電子辞書としてパソコンにも入っている)などを活用している。

ところが、学問用語というか哲学用語というか、そういうもののごく基本的な意味を調べるときは、所持している辞典類では少し不十分だと感じていた。『広辞苑』のような辞典では、ごく簡潔に説明してあるためか、非常にイメージしにくくなっているし、百科事典にしても、哲学専門家が書いているためか、チンプンカンプンのことが多い。

そこで今回、哲学辞典としては異色で、とにかく分かりやすいという定評のある思想の科学研究会編『哲学・論理用語辞典』(三一書房)を購入してみた。そして前書きとか付録とか、いくつかの項目の解説を読んでみた。思った以上にいい感じである。

まず、執筆者の中にアカデミズムの中で哲学を専門としている人間が一人もいない点がいい。大学の先生には哲学を習わないというのが僕の信条である。そして評判通り分かりやすい。原稿を高校生に読んでもらって、分かるまで書き直したということである。哲学者は不要だが、哲学そのものは今日ますますその必要性を増しているとして、哲学のシロウトにも分かるように説かれている。

もちろん、この辞書の概念規定でもって、三浦つとむや南郷継正を読んでいこうとしているわけでは断じてない。そんなことは不毛だし無駄である。三浦つとむを理解するには三浦つとむの論理で読まねばならないし、南郷継正を理解するには南郷継正の論理で読まなければならない。要するに再措定するしかないのである。

しかし、再措定の端緒として、辞書の定義が役立たないこともない。概念は、まずは使える形でやさしい定義をしておく必要がある。その際、辞書の定義が役立つこともあるのである。あとは実践によって、その定義を豊富化し、厳密化し、洗練化していく、つまり量質転化を待つだけである。一応の柔らかい外枠を辞書の定義によってシンプルに創っておき、その中身を、自らの五感器官を通した反映によって埋めていくと直接に、その外枠を精密化・概念化していくというようなイメージで理解している。

ともかく、再措定に際しては、まず、やさしい定義が必要である(そうでないと使えない、したがって再措定などできない)から、その最初の定義には、結構使えそうな辞書であるといえる。

また、自称哲学者や哲学専攻の学生がいっていることの意味がまったく分からないままでは癪に障るので、そういったことを調べる際にも活用したい。どうせ本物の哲学は、アリストテレス→カント→ヘーゲルという人類最高の認識の発展史の中からしか、あるいは同じことであるが、南郷継正からしか学べないのであるから。現代の自称哲学者のいっていることなど、せいぜいこの辞書レベルで理解しておけば十分であろう、などと勝手に判断している。

さて、実はこの辞書の『新版』の他に、旧版にあたる『増補改訂』版も古本で入手した。両者の違いについて、ネット上でもあまり情報がないので、ここで紹介しておこう。

@『新版』のまえがきによると、旧版の項目の60%はほぼそのまま『新版』に受け継がれているという。逆から言うと、40%は新たに追加されたり、全面的に改定されているということになる。

A『新版』は、旧版読者が、旧版に対する不満を解消するために執筆したものである。そのため、特にマルクス主義理論に係わっては、大幅な書きかえがなされている。

B活字が『新版』では大きくなっている。したがって、ページ数も増えているものの、情報量は同じくらいであると思われる。

C旧版にあった「哲学名著百選(および主要哲学者紹介)」と「哲学系統図」、それに欧文索引が、『新版』ではカットされている。それに伴って、旧版には登場していたディーツゲンが、『新版』には登場しない。
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2005年12月16日

現代社新刊情報

現代社に新刊の発行時期について問い合わせたところ、以下の回答をいただいた。

『“夢”講義(1)』 来年2月頃の発行予定です
『教育講座(1)』 まだ原稿をいただいていないため未定(来年中)
『いのちの歴史』 まだ原稿をいただいていないため未定(来年中)


南郷師範の『“夢”講義』が2月ということで、非常に楽しみだ。また新たな気持ちで読み返したい。

そういえば、季節社の『三浦つとむ文庫』はどうなっているのだろう? 0巻の予告もなされているが、なかなか刊行されない。今度、3年ぶりくらいに問い合わせてみようか。以前聞いたときには、ディーツゲンの著作の訳も、既に原稿はできあがっているということだったが、やはり出版は難しいのだろうか。
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2005年11月29日

内田康夫『博多殺人事件』(講談社文庫)



1991年に発表された内田康夫の旅情ミステリー。「自作解説」で本人が説いているように、「旅情ミステリー」というよりは「社会派」と呼ぶにふさわしい内容となっていて、大変楽しめた。

そもそも僕が内田康夫を読み始めたのは、例によって南郷継正師範が触れられていたからである。

「これはあまり関係ありませんが、一年にわたる私の執筆の苦しみを慰めてくれた二人の方に『ありがとう』の言葉を述べます。一人は私と同じ三流出身の浅見光彦さん(内田康夫作品中の名探偵)です。武道修業中の私に代って、諸国の旅をしてもらえました(と思っています)。楽しく夢の旅を味わえて助かりました。」(『武道講義入門 弁証法・認識論への道』pp.235-236)

ちなみに「執筆の苦しみを慰めてくれた」もう一人は、北島マヤさん(美内すずえ『ガラスの仮面』のヒロイン)である。もちろん、僕は『ガラスの仮面』を全巻持っている。こんなに面白いマンガはめったにない!! 初めて読んだときは、夢中になって、気が付けば12時間が経過していたことであった。

閑話休題、名探偵浅見光彦には不可思議な能力がある。一つは「予知能力」というべきものである。これは直観力が優れているといえそうだ。そしてもう一つが、「他人の視点に意識を入り込ませる」能力である。これは、弁証法・認識論の用語でいうならば、優れた観念的二重化能力=自分の他人化能力である。

「もう一つは、これも不思議なのだが、他人の視点に意識を入り込ませる――とでもいうような能力があるらしい。たとえば、田舎の駅で線路脇の農家の庭先にニワトリが遊んでいるのを列車の窓から見ていたとする。その次の瞬間、浅見は農家の土間に立つ老人の視点で、庭先の風景を見ているのである。こちらからは死角になっている垣根の下に咲くタンポポの花が、あざやかに見えたりする。早い話、御供所町の公園の穴に、全裸の死体を埋めたときの、犯人の視点にだって、立つことができたのだ。黒々とした夜のしじまの底で、ひときわ暗い公園の、さらに深い闇の底の穴に死体を落とし込んだときの、犯人のおぞましい心の動きさえも、疑似体験できたのである。」(『博多殺人事件』pp.93-94)

俳優北島マヤも持っているこの優れた能力を、浅見光彦は事件を解決する武器として活用する。他人の視点に立つことによって、これまで見えていなかったモノが見えてくる、繋がらなかったことが繋がってくるのである。

もちろん、警察による犯罪捜査においても、犯人の立場に立つことなど常識的に行われているだろう。しかし、浅見のこの観念的二重化能力は、一般人のそれと較べて、桁外れに優れている。つまり、精度が極めて高いのである。一般人のそれが自分の自分化レベルであるのに対して、浅見のそれは自分の他人化レベルである。だから、他の者が気付かないような盲点に気付き、それを事件解決の糸口にすることができるのである。『博多殺人事件』でも、浅見のこの能力によって、事件解決の糸口の一つが得られる。

さて、ミステリーの内容をここで紹介するわけにはいかないので、最後に一つだけ、内容とは無関係のことに触れておきたい。それは、「自作解説」の中に井沢元彦が登場することである。なんでも、博多取材の際に、「作家仲間の井沢元彦氏」が便宜を図ってくれたということらしい。この二人につながりがあったとは知らなかった。「井沢氏は現在、日本推理作家協会の理事ですが、いずれ理事長になる器にちがいありません。」(p.381)と内田康夫が井沢元彦を高く評価している点も、印象に残った。
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2005年11月20日

『綜合看護』2005年4号(現代社)

今回は新刊情報がいくつか載っていた。まず、これは『学城第二号』でも案内されていたが、『南郷継正 武道哲学 著作・講義全集 第六巻』である。これは雑誌の最後の「近刊案内」に書かれてあった。しかし「頁数未定」とのこと。ということはまだ製本されていないのか? しかし「第1版 2005年」とあるから、年内には出るのだろう。内容は「『全集』読者への挨拶〔W〕」、「〔全集版〕武道への道」、それに「武道哲学講義〔V〕」である。「武道哲学講義〔V〕」は、「日本弁証法論理学研究会2003年冬期ゼミ合宿『講義録』」で、「第一部 『精神現象学 序論』を読めるためには」である。最近の講義であり、非常に楽しみだ。(そういえば、『全集』にはかなり新しめの講義が採用されているようだが、古い講義録を出す計画は頓挫してしまったのだろうか?)

二つ目は、今回の南郷師範の連載論文で予告された、『なんごう つぐまさが説く 看護学科・心理学科学生への“夢”講義――看護と武道の認識論――』第1巻である。つまり、『綜合看護』での連載論文を単行本として出版するということである。第1巻とあるのは、今までの連載を単行本化するとなると、最低でも3巻以上になるから、とのことである。僕の弟はつい最近、この師範の連載論文が読みたくて、わざわざ『綜合看護』を7年分くらい購入したのだが、もう少し待っていれば単行本で読むことができたわけだ。もっとも、下手をすればあと2、3年は待つ必要があるかもしれないし、師範の連載論文以外にも読むべき論文が多数載っているので、購入した意義はあると思う。なお、内容・順序は連載そのまま(説明不足の箇所は補足されるが)で、タイトルが一字だけ訂正してあるとのことである。どこが訂正されたかお気付きだろうか?

最後は、『看護学生・医学生のためのいのちの歴史の物語』(仮題、現代社)である。これは瀬江先生の「脳の話」で触れられていた。これも『綜合看護』に連載されていた論文の単行本化である。連載終了時に単行本になることが予告されてから2、3年たつが、もうそろそろ出していただけるのだろうか。「近く刊行される予定」とある。内容はもちろん、「地球上に誕生した生命現象が実体化して単細胞となり、ついには人間にまで発展するに至った、生命体の生成発展の歴史を論理的に措定した『生命の歴史』」(p.27)を物語風にやさしく説いたものである。もちろん連載論文は何度も読んだが、単行本の場合は、『統計学という名の魔法の杖』の例からも分かるように、大幅な再構成・加筆が行われる可能性がある(それ故に、なかなか出版されないのかも)ので、非常に楽しみである。

さて、今回読んだ論文に対して、簡単なコメントを記しておきたい。


神庭純子「初学者のための『看護覚書』・7」

「人間は育てられて人間になる」という人間の一般性を、もっと構造に立ち入って深く理解すれば、「人間は育てられることによって、育てられたように育つ、いいかえれば、育てられてこなかったことは育てられてこなかったように育っている」ということになる。これを高齢者の発達段階におきかえてみると、もともともっていた身体の各機能が、「使われていれば使われているように使い続けることができる、しかし逆に、使われていなければ、使われなかったように衰えていく」ということである。したがって、「使われないことによって使えなくなっている機能がある、それが障害として現象していることを見抜くこと、現象している障害(症状)のなかには病気や障害そのものではなく、看護されないことによって日々の生活のなかで家族や本人、医師や看護師の手によってつくられてしまった障害(症状)というものがある」ということを見抜くことが大切である。


瀬江千史「脳の話・19」

「生命の歴史」のサルの前後の過程的段階において、「問いかけ的認識」の芽生えが如何にして生じだしたのかが説かれている。ここには「木に登るための四肢の運動形態」が大きく関わっているようだ。それにしても、相変わらず瀬江先生の論文は読みやすい。読んでいて気持ちがいい。


瀬江千史・本田克也他「次代を担う看護学生・医学生への医学概論教育講座・11」

今回で第一部「医師とは何か」が終了。次回から始まる第二部は、第一部をきちんと踏まえていなければ実力化できないので、今回は第一部の復習に充てられている。いつものように最後に載っている医学生の文章が興味深い。これは、『看護学と医学』に説かれている論理のおかげで、この医学生の気付き力がアップしているというか、事実を事実として見ることができるようになっているというか、そんな例だと僕には思えた。そして、また、論理の学び方の例だとも思った。


南郷継正「なんごうつぐまさが説く看護学科・心理学科学生への“夢”講義・28」

はじめに、先ほど紹介した『なんごう つぐまさが説く 看護学科・心理学科学生への“夢”講義――看護と武道の認識論――』第1巻の目次が載っている。目次を見るだけでもワクワクしてくる。その後は、今回も弁証法の講義。弁証法の駆使を自動車の運転に喩えて説かれているのが、非常に分かりやすい。カントとヘーゲルと三浦つとむの弁証法の実力の違いが、この喩えを使って説かれているのも興味深い。ワクワクしながら読み進めていく。師範の論文はどれもそうだが、おもしろくて仕方がない。読んでいる最中に、自然と笑みがこぼれてくる。ニヤニヤしているといった方が正確かもしれない。図書館や電車など、他人がいる場所で読んでいたら、きっと変な人だと思われるにちがいない。
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2005年11月16日

田邊元『哲学入門 哲学の根本問題』(筑摩書房)

本書は、昭和23年に小学校の教員に対しておこなわれた一連の講義をまとめたものである。この講義という形態について、「後記」の中で唐木順三が次のように書いているのは興味深い。

「かつてヘーゲルの『歴史哲学講義』を編集したガンスは、講義するものは講述という機会を通じて、これに著書では持ちえないところの生命を吹きこむ。若い聴講者にじきじきに語る場合、おのずからそこに脱線、敷衍、くりかえし、類例の挿入等が行われ、はじめから体系的な厳密さをもって書かれる著書ではとうていもちえない長所をもつという意味のことを言っています。そうしてまた『歴史哲学講義』は、ヘーゲル哲学への最も容易な入門書となるだろうとも書いています。」

また、帯にもいいことが書いてある。

「優れた入門書は真の大家をまって初めて可能となる。深い学殖と多年の講壇の体験に裏打ちされて、明快な論理と平易な用語で、読者を哲学の本質的な問題へと導く本書こそ、今日望みうる最良の哲学の入門書である。」

本書の内容としては、哲学概論の限界=無意味性と哲学史を学ぶことの重要性の指摘、ゼノンの運動否定論やマルクス『資本論』に見られる弁証法について、そして唯物弁証法の限界について、などである。特に興味深かったのは哲学史についてである。

田邊元は、「哲学史を研究するときには、ただ漠然と時代から時代へと記録してあるところの哲学の思想の変遷を見るだけでなく、それの環境、時代にたち入って、そしてそれを最後の完成にまで到達せしめているところの哲学者というものを通して哲学史を研究するということが必要であります。」(pp.96-97)と述べた上で、哲学史上最小限の古典として次のものを挙げている。

@プラトン『国家篇』
Aアリストテレス『形而上学』
B新約聖書
Cアウグスティヌス『告白』
Dエックハルトの説教書
Eデカルト『省察録』
Fスピノザ『倫理学』
Gライプニッツ『単子論』
Hカント『純粋理性批判』
Iヘーゲル『精神現象学』
Jマルクス『資本論』

これらが、「西洋の哲学者のすぐれた人々に手を引張ってもらって自分で哲学の山を踏査しようというときに、ぜひ登ってみなければならない峰の最小限」(p.99)ということである。この中で読んだのは『資本論』だけだ。いつかは他のものも読んでみたい。

最後に、哲学に関する田邊元の言葉を二つばかり紹介しておこうと思う。引用ばかりになってしまうが、やはりまだまだ哲学を語れる実力はないため、田邊本人に語ってもらった次第である。

「しかし、今日、最後に申したいことは、哲学史は自身が哲学するときの、哲学的探求の手引であって、哲学史が自身の哲学の代わりにはならないということであります。このことを特に強く念頭においていただきたい。歩くにはやはり、いかにそれが細い、力の無い足でも、自分の足で歩かなければならない。どんなに偉い人といえども私を歩かせることはできない。歩くのは私です。ただ手を引いて、躓いたり転がりそうになるとき、そうならないように、無駄な骨を折らないように、常に励まし慰めてくれる力は先達が与えてくれるが、歩くのは私です。歩くのはあなたがた自身です。」(pp.100-101)

「われわれはすぐれた大きな思想の前に立てば、いかにも自分の惨めさを感じて自分の努力の不甲斐なさを感じさせられるのは当然なことです。しかし、すぐれた思想の中に入ってそこで満足し、それで陶然として酔うという状態になったら、もはやそれは哲学ではない。芸術的な鑑賞であります。哲学は自分が汗水垂らして血涙を流して常に自分を捨てては新しくなり、新しくするというところに成立つのですから、楽に、貰ってきたものの上に乗っておればいいというわけにはゆかない。」(pp.102-103)
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2005年11月07日

滝村隆一+芹沢俊介『世紀末「時代」を読む』(春秋社)

滝村隆一氏と芹沢俊介氏による対談本。『国家論大綱』が出るまでは、滝村氏の著作としては2番目に新しかった(といっても、1992年末の発刊だが)。盛田昭夫・石原慎太郎『「NO」と言える日本』、かわぐちかいじ『沈黙の艦隊』、大前研一の「日本国家解体論」、それに柄谷行人・岩井克人『終わりなき世界』などを批判的に取り上げながら、「日米関係」「マルクス主義」「現代思想」について論じていく。その中で滝村国家論のエッセンスも語られている。

対談本ということもあって、普通の論文よりも滝村氏の人柄がにじみ出ているような気がして、興味深かった。また同じ理由から、滝村氏の著作にしては分かりやすい内容となっているともいえる。

思い出話になってしまうが、僕が初めて滝村氏の著作を読んだのが大学一回生の頃で、読んだのは、というより、読もうとしたのは『増補マルクス主義国家論』だった。初めの数ページで、早くも挫折してしまった。何が書いてあるのかさっぱり分からない。あれは衝撃だった。そのころ僕はマルクス『資本論』も読み進めていたが、『資本論』の方がまだ分かる、というくらいだった。それくらい滝村氏の著作は難解で、慣れていないとなかなか読み進められないのだが、この『世紀末「時代」を読む』は違う。滝村国家論の初学者でも、それなりに読めるだろう。

閑話休題、対談相手の芹沢氏だが、どうも少しかみ合わない発言をしているところが多かったように思われる。そのためか、滝村氏が「あとがき」でも述べているように、この種の対談本は「同一テーマを論文にしたばあいと較べて、移し換えられる理論的な容量は、せいぜい三割程度」である。すなわち、齋藤孝的にいうと意味の含有率が低い。それでも興味深い発言が数多くあった。そのうちいくつかを紹介したい。

「田中美知太郎という人はやっぱりすごいですね。……田中美知太郎に次ぐのが福田恆存。あのへんがやっぱり、賛成反対はべつとして、対抗するのにそうとう骨が折れますよ。それぐらいの力をもっています。石原・江藤・渡辺昇一といった人たちは軽く切れのいいぶんだけ打ち破りがたいような重厚さというのはない。」(pp.49-50)

「規範論は要するに経済学における価値論にあたるものなんです。」(pp.143-144)


なるほどね!

「なにも社会的事象にかぎらず対象の本質を対象が十分に発展開花した段階に即して把握しておけば、未発展な段階における対象の多様な特殊性を、いわば応用問題的に解決できるんです。ところが未発展な段階で対象の内的特質を把えようとしてもなかなかむずかしいから、むりしてそれをやると、たいていその未発展な段階だけの多様な特殊性のいくつかが対象の本質として不当に押し出される。もちろんそんな代物は科学としての理論的な普遍性はもたないです。」(p.170)

ここは、マルクス的にいうと、「人間の解剖は猿の解剖のための一つの鍵である」という内容であるし、滝村氏の「世界史」概念の内容でもある。

「信じられないかもしれないけれど、羽仁五郎だって当時(戦前――寄筆註)はまあまあのものを出していましたし、戦後はなんといっても石母田正、かなり落ちて永原慶二と太田秀通。もうひとつ落ちて芝原拓自、熊野聡、原秀三郎かな。別格としては原口清。……特に、『明治前期政治史研究』は、マルクスの『ブリュメール十八日』や『革命のスペイン』と比べても遜色ないほどの傑作だと思います。経済学でいうと、宇野弘蔵なんかじゃなくて、たとえば河上肇とか、櫛田民蔵とか、そのへんはかなりおもしろいんです。」(p.178)

原口氏の著作は『明治前期地方政治史研究』だと思うが、凄まじいまでの絶賛だ。経済学で評価されている人物は、三浦つとむの評価する人物と重なっている。

「あれ(林健太郎の『史学概論』――寄筆註)は水準が高いです。……彼は<世界史>を個別歴史に解消していない。個別歴史じゃないといっています。」(p.180)

「ぼくは経済学はド素人なんです。『資本論』もきちんと読んでいないし、政治学に関する万分の一の研鑽もしていないけれども、それがみても、ちょっと読んでられない。」(p.210)


おそるべき科学者魂! 世界一の経済学者を目指している友人の話によると、『国家論大綱』におけるケインズ理論のまとめはなかなかいいということだし、滝村読者にとっては「『資本論』もきちんと読んでいない」なんて発言は、ビックリ仰天ものだ。それくらい、専門たる政治学の研鑽は凄まじいということだろう。

「対象の内的特質〔本質〕を把握するためには、まずその直接の現象上の多様に錯綜した具体的な諸形態や諸態様を可能なかぎりおさえながら、それら個別的、特殊的諸契機の背後の、直接眼にはみえない内的な論理的連関を探り、統一的な論理構造としての把握を踏まえた、構造論的な把握と抽象を通じて、本質規定〔概念〕を導きだすわけです。ですから本質規定というのは、対象の構造論的な把握と抽象を通じて絞りだされた、いわばエキスのような代物であって、それ自体をふり回しても、ほとんど意味はありません。たとえ偉大な先人・大家のものを借りてきても、自分でつくったものでないから、とくに応用的な問題をつきつけられれば、まったく対処するすべがありません。
 さてこうして本質概念に到達すれば、つぎには人々にそれを伝えねばなりませんから、これを叙述するという作業がまっています。……対象の単なる外面的な特徴や実相をたんねんに拾いあげ、つぎにはそれらを内的深部で規定している構造論的諸契機へと、だんだんに分析を深めていく、研究主体としての人間の認識の進展過程とはちょうど逆の順序で、いわば結論から、つまりもっとも本質的で一般的かつ抽象的な諸概念から、より具体的で特殊的、個別的な諸概念へと論理的に移行していくという順序で、叙述していくことになります。これがいわゆる上向法とか上向的論理展開といわれるものです。」(pp.249-250)


前半部分は、構造論がなければ科学的学問体系とはいえないとする瀬江千史氏の論と、同じことをいっているような気がする。ともかく学問とは自分で創るものだ、という点が非常に大切だ。後半の「上向法」に関する説明は、簡潔で分かりやすい。略した部分には、なぜ上向法で叙述しなければならないかが説かれている。

「その無知とずうずうしさをみると、気の弱いおれなんか、ほとんど眼が点になっちゃうよ。」(p.261)

こういうの好き。

「ぼくは二十五年ほど前の六六年の暮れに『歴史哲学』をみてわかったんです。」(p.266)

22歳前後でヘーゲル『歴史哲学』を理解できたということ。

「『資本論』が<商品>→<貨幣>→<資本>という論理的な展開と構成をとったこと、とりわけ原基形態Elementarformとしての<商品>から出発したことが、……」(p.269)

やっぱり『資本論』ちゃんと読んでるし。それはともかく「原基形態」という言葉、滝村氏も使っていたのは知らなかった。

長くなってしまったが、滝村国家論の初学者は、この本も十分読みやすいが、どちらかといえば対談本ではない、しかし一般向けの著作である『ニッポン政治の解体学』の方が、より適しているような気がする。
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2005年10月28日

中谷巌『痛快!経済学』『痛快!経済学2』



小渕内閣の「経済戦略会議」議長代理も務めた中谷巌による経済(学)の解説書。ミクロ経済学とマクロ経済学の基本が、高校の「政治・経済」の参考書より詳しく、分かりやすく解説されている。内容はかなり重複しているが、大雑把に分けると、『痛快!経済学』の方が基礎理論、『2』の方がその基礎理論の現実への適用・応用となっている。時事問題の理解に必須の経済知識を求める社会人や、一般教養として経済学を学びたい大学生、経済学部への入学を希望している高校生などには最適の入門書であるといえる。

『2』の帯には、本書で取り上げられている「生き残りへのキーワード」として次のものが挙げられている。これらを知らない人は速攻で購入して読むべきだろう。

情報の非対称性、中国経済、IT革命の真意、ワンツーワン・マーケティング、カスタマイゼーション、労働市場のモジュール化、水平分業、ロジスティック革命、アカウンタビリティ、ガバナビリティ、厚生経済学の命題、拡大EU、暗黙知、プロフェッショナリズム、アウトソーシング、FTA、貯蓄率の劇的低下


『2』のみで扱われている大きなテーマとしては、「情報の非対称性」「IT革命」「FTA」「貯蓄率の低下」などが挙げられる。この中で、「情報の非対称性」とは、「需要側と供給側の情報の質や量の差」のことである。これがあるために、しばしば市場は失敗する。しかし、IT革命によって情報の非対称性が急速に解消されつつあり、アマゾンやデルに見られるように、ITを活用した「顧客データ」の蓄積と分析、そしてその情報を利用した「ワンツーワン・マーケティング」によって、急成長する企業も誕生している。このような議論がなされている。

どちらか一冊だけ買うとしたら、『2』ではなく元祖『痛快!経済学』の方がいいような気がする。文庫ということもあって、コストパフォーマンスにすぐれている。『2』の方は、282ページ中、約36ページほど意味不明な写真や絵が占めており、これだけはどうにかならなかったものかと思えてくる。ちょっと詐欺に近いものを感じる。また、元祖の方が基礎理論を詳しく説いているので、経済「学」を学びたい人にはこちらの方がよかろう。

最後に、『2』の方をマインド・マップにまとめたので、それを載せておこう。

keizaigaku2.JPG
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2005年10月21日

原田隆史『夢を絶対に実現させる方法!』(日経BP社)



原田隆史氏の最新の著作。DVDによる講義+紙面による解説編という構成になっている。文句なく素晴らしい!!

まず、60分のDVD。原田式目標達成の極意と、それを可能にする「長期目標設定用紙」の書き方が、映像で、原田氏の肉声で、解説される。コンパクトに、簡潔にポイントが説かれており、原田メソッドの全体像が短時間で分かるようになっている。実は原田氏の講義・講演では、笑いをとるための冗談・ユーモアがたくさん登場するのだが、残念ながらこのDVDではカットされている。なお、原田氏自身もこのDVDを見て、「なかなかいいこと言っているな」などと感心しつつ、メモをとりながら熱心に聴いた(笑)ということである。

次に15回にわたる解説編。基本的には、長期目標設定用紙の実例とともに、各欄の意味と書き方が解説されている。以前の著作よりもかなり内容が整理されており、洗練化されてきているように感じた。毎回の解説の最後に、その回のポイントがレジュメふうにまとめられており、復習にも最適。

長期目標設定用紙自体も進化している。一目で各欄の意味が分かるように、背景にイメージが印刷されている。またルーティン目標欄は、優先順位を意識できるように、徐々に字が薄くなっている。こういった工夫を積み重ねられるところも、一流の人物である証左である。

ただ、「PDCA」ならぬ「P+C、DSS」の中身が、『成功の教科書』とは少し違っているのが気になった。たとえば、奉仕活動・清掃活動で心をきれいにする、というのは、『成功の教科書』では目次上はSHAREのところに入っているが、本書ではCHECKのところに分類されている。複数の意味があるということか? また、長期目標設定用紙には、「向上ルーティン」「切り捨てルーティン」、それに「目標のために欲しい支援者と具体的な支援内容」という三つの欄が削られているのも少し気になった。「初級コース」には不要ということか? 過去の著作を読み返して、自分なりに整理するとともに、今後の著作を待ちたいと思う。

本書を読んで痛感したのは、塾での僕の教育実践にはストロークがあまりにも不足している、という点である。ストロークとは「人と人とが関わり、相手の心に元気を与えること」(p.105)である。教える内容や技術も大切である。しかし、生徒一人一人のことに気を配って、生徒の小さな変化に気づいて声かけをする、ルールを守らない生徒にはルールの意味を教えてルールを守っている自分をイメージさせた上でしっかり実践させる、テストでいい点数をとったらしっかり誉める、等々のストロークの方もかなり重要である。思えば生徒から人気のある先生は確かにストロークが多かった。また、生徒の様子を反省してみても、ストロークを欲しているような感じがする。

原田メソッドは、抽象度の高い、厳密な意味での理論体系というのではなく、表象レベルの体系といえると思う。したがって使いやすい。これからも自分の実践に引きつけて、自分の実践を反省し改善している材料として、原田氏の著作に学んでいきたい。
posted by 寄筆一元 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(1) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月19日

小室直樹『数学を使わない数学の講義』(WAC)、『数学嫌いな人のための数学』(東洋経済新報社)



どちらも小室直樹の数学関係の著作。後者には「数学原論」という副題が付けられている。重複するテーマも多い。存在問題、必要条件・十分条件、背理法、対偶、合成の誤謬、資本主義的私的所有、等々。後者は特に形式論理学が全面に押し出されている。

小室直樹の著作は、一般的にかなり教育的配慮が施されている。くり返しを厭わず諄々と説かれており(特に『数学嫌いな人のための数学』)、難解な言葉を使用しつつもその言葉の意味を( )内で説明している。また、難しい漢字にはルビが振ってある。こういった配慮は非常にありがたい。

また、小室直樹の博識ぶりがいかんなく発揮されている。この二著にも、数学はもちろん、論理学、経済学、社会学、心理学、そして宗教や歴史に関する知見が豊富に盛り込まれており、非常に知的好奇心をそそる面白い内容となっている。

二つの著作でともに取り上げられている、資本主義的私的所有の絶対性と抽象性という指摘は特に興味深い。絶対性とは、「所有者は所有物についてどのようなこともなし得る」ということである。それに対して抽象性とは、「所有(possession)と占有(occupation)の分離」ということであり、分かりやすくいえば「所有とは、所有権のことであって、実際に手に持っているかとか、実際に監督できるとかとは関係がない」ということである。

以上のように、近代における所有の一般的性質を明らかにした上で、小室は、日本における所有は、絶対性と抽象性という特徴を持つ資本主義的私的所有とは対極にある中世的所有であると述べている。そして、貞永式目における「悔い還し権」や江戸時代の棄損、闕所、お断り、御用金、あるいは『日本人の法意識』における川島武宜の指摘などを例に挙げながら、そのことを諄々と説いていくのである。

『数学嫌いな人のための数学』の方で説かれている古典派経済学とケインズ理論の比較も面白い。ケインズ理論の有効需要の原理(需要が供給を作る)は、Y=C+Iという数式で表現できる(Yは国民生産すなわち国民総供給。Cは国民総消費、Iは国民総投資だから、C+Iは有効需要、すなわち国民総需要になる)。これは、需要と供給とが等しくなる市場の均衡を表す式だから方程式であると説かれている。ところが、この式を、Y≡C+Iというように恒等式にしたとする。そうすると、古典派のセイの法則(供給が需要を作る)になるというのである。なぜなら、この式が恒等式であれば、「均衡であろうとなかろうと恒に成立していることを示す」のであるから、「今、国民生産Yが供給されれば、均衡であってもなくても、是が非でも、何がなんでも需要C+Iは必ずその数値に等しくなってしまう」からである。

古典派とケインズ理論の違いを、恒等式と方程式の違いとして示すこの議論は、なかなか面白いと思った。一般的にもいわれていることなのだろうか。

その後、C=aY(aは限界消費性向)という消費関数と、投資は定数であるという投資関数を示し、Y=C+Iとこの二つの関数をあわせて、最単純ケインズ模型であるとする。これは相互連関関係を説明していることになる。YとCは相互に規定しており、さらにYをIが規定しているわけである。ここから投資(I)が変化したとき、国民生産(Y)がどれだけ変わるかを説明する乗数理論を説明している。限界消費性向が0.8だとすると、Iが1兆円増えれば、波及効果によって、最終的にYは5兆円増える。直接効果が1兆円であるのに対して、波及効果による間接効果が4兆円。ちょっと驚いてしまう。(実は同様のことが以前読んだ『経済学のエッセンス』にも説かれていた。)

他にも、論理とは論争の技術であるとか、論争によって論理学が発達するとか、カントも触れているような不完全帰納法についてだとか、仏教が弁証法的であるとか、様々なテーマが説かれている。

以上のように大変興味深いことがたくさん書かれているのだが、形式論理学を全面に押し出しているため、あまり小室の考えに引きずられてしまうと、ただでさえ自然成長的に形而上学的に育ってきている僕のアタマが、ますます形而上学的になってしまいそうで怖い。

また、ロバチョフスキーによる非ユークリッド幾何学の発見によって、「公理とは自明のことではなく、仮説に過ぎない」という重大な事実が明らかにされた、そのため科学的研究の態度は、真理の発見から模型構築(model building)へとコペルニクス的転換を成し遂げた、とする小室の主張は、面白いがなかなか納得できるものではない。小室は次のようにいっている。

「公理主義のおかげで、学問とはすべて仮説であるという考え方が徹底した……。
(中略)
 他の自然科学や社会科学においてもまったく同じことで、科学は、科学者が仮説を要請するところから始まる、とされるようになった。
 この仮説とは、方法論的には公理と同じものであるから、そこから論理的に導き出された科学的知識とは、実体的、絶対的なものではない。あくまで科学者が要請した仮説のうえに立つ、仮の知識でしかないのである。」(『数学を使わない数学の講義』pp.202-203)

そうなの? という感じである。

しかしともかく面白いし、僕に欠けている政治・経済的な知識を吸収するためにも、今後も小室直樹を読んでいきたいと思う。
posted by 寄筆一元 at 21:55| Comment(0) | TrackBack(1) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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