2006年10月23日

三浦つとむ本が二冊復刊

恥ずかしながら、三浦つとむの本が二冊復刊されていることに、たった今気がついた。『1たす1は2にならない』と『こころとことば』である。



ともに、明石書店から出ている。つい最近まで、この二冊は、それぞれ国土社と季節社刊のものが、普通に入手できたのだが、版権を明石書店に譲ったのだろうか?

内容は当然変わっていないはずだが、横須賀壽子氏の「復刊によせて」が読んでみたい。これを読むためだけに買ってみようか。既に購入済みで、内容をご存じの方がいらっしゃれば、お教えください。
posted by 寄筆一元 at 02:01| Comment(4) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月23日

シュテーリヒ『世界の思想史』上・下巻(白水社)





シュテーリヒ『世界の思想史』を読了。数多い哲学史の入門書から本書を選んだのは、もちろん『西洋科学史』の著者シュテーリヒが書いた哲学史の本だから、というより『西洋科学史』の姉妹本だから、である。科学の歴史に関しては絶賛に価する内容を書けるのに、哲学の歴史に関しては全くダメ、なんてことはないだろうと判断して、選んだわけである。

2段組、上下巻で600ページを超える分量(『西洋科学史』全五巻の60%くらいの分量)だが、哲学史のおおよその流れはイメージできたように思う。

他の哲学史の本、例えば、波多野精一『西洋哲学史要』(玉川大学出版部)、田中美知太郎編『哲学の歴史』(人文書院)、シュベーグラー『西洋哲学史』(岩波文庫)、デュラント『哲学物語』(平凡社)などと比較して、『世界の思想史』の長所と短所を挙げておこう。

長所
・東洋の哲学から現代哲学までを網羅している
・しかも、一人の著者が書いている
・哲学者の肖像・写真が載っている
・索引付きである
・同じ著者であるため『西洋科学史』の記述と調和的である
・ヘラクレイトスの調和的矛盾にも触れている

短所
・やや分量が多いか?
・その割にドイツ観念論の扱いがやや小さい
・引用の出典が訳されていない(原著にはある)
・訳者間で訳語の統一がなされていない

まあ、短所の下2つは訳書の問題であって、シュテーリヒには何の責任もない。

それにしてもこのシュテーリヒ、『西洋科学史』と『世界の思想史』を独力でまとめ上げる実力は、凄まじいの一言である。『世界の思想史』だけに限っても、長所の初めに挙げたように、古代インド哲学などの東洋思想から、生の哲学、現象学、実存主義といった20世紀の思想までを、射程に入れているのである。しかも、ヘラクレイトスの調和する矛盾をしっかり取り上げている(シュベーグラーは取り上げていない)ことから判断しても、内容は信頼できそうである。

なお、本書には旧版と新装版の二種類が存在する。上の白い方が新装版、下のソクラテスとサルトルのアップが旧版(の函)である。

shisoushi1.JPG

shisoushi2.JPG

最後に、参考までに3種類の目次を載せておく。詳細版を見れば、本書の壮大なスケールが分かると思う。

『世界の思想史』目次(簡略版).txt
『世界の思想史』目次(中間版).txt
『世界の思想史』目次(詳細版).txt
posted by 寄筆一元 at 20:46| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月29日

南郷継正「武道哲学講義〔T〕」PART1,2,3

南郷継正師範の「武道哲学講義〔T〕」PART1,2,3(それぞれ『全集』第四巻、『学城』第一号、第二号所収)を読み返した。正直、「こんなことまで説いてあったのか!」との思いがしきりである。やはり、数回読んだくらいでは、読んだことにならないと痛感した。

一番驚いたのは、論理学と哲学の区別と連関が見事に説かれていること、そして論理学=学一般の構造論が示されていることである。まずは、論理学と哲学の区別と連関に関する記述を引用しておこう。

「一から生成発展してきた世界全体を丸ごととらえ、そこからとりだした論理を体系化した論理学、およびそれを駆使の体系においた学問体系としての哲学」(『全集』第四巻p.319)


「論理学とは実体としての世界の論理構造を観念体の論理構造として体系的に把握したものであり、哲学とは論理学を『駆使の体系』におくこと、つまり論理学の体系的論理構造を用いて世界を説(解)ききることである」(同上p.336)


実はこの内容は、『武道講義第二巻 武道と認識の理論U』で既に説かれていた。しかしこれだけでは、「像のない言葉としてしか理解することができなかったであろう」として、この講義では「その論理学=学一般の像を、運動性=弁証法性をもって、浮かびあがらせた」(同上p.361)ということである。

それでは、論理学=学一般の構造論とは何か。どうやら三本柱であるようだ。曰く、自然の弁証法的解明(「生命の歴史」)、社会の弁証法的解明(「人類の歴史」。ヘーゲルが『歴史哲学』において明らかにしようとした「世界史」に匹敵するもの)、そして精神の弁証法的解明(「学問の歴史」。ヘーゲルが『哲学史』において明らかにしたかった内容に匹敵するもの)、である。日本弁証法論理学研究会では既に自然の弁証法的解明はほぼ終了しており、現在は社会および精神の弁証法的解明が正面にすえられているという。

解明済みの「生命の歴史」については、以下のように説かれている。

「宇宙の誕生から、太陽系の誕生、そのなかの地球の特殊なありかたからの生命現象の誕生、そして地球との相互浸透による生命現象から単細胞生命体への転化、さらにそこから、カイメン、クラゲ、魚類、両棲類、哺乳類を経て、サルから人間への発展の一本の大きな道筋と、その時々の全宇宙的相互浸透のありかたが、すべてにわたって解明されているのであり、自然に関して、ここから解けない問題は現在ではなに一つない。」(同上p.356)


凄まじい内容だ。この「生命の歴史」は、以前『綜合看護』に「看護のための『いのちの歴史の物語』」として連載されていたものが、近々(年内といわれている)単行本として出版されることになっている。絶対に買いである。

その後、「学問としての『世界史』を理解する鍵は『地球の歴史』にあり」として、その二重構造が説かれていく。しかし、ここでどうしても納得できないというか、「編集のミスでは?」と思われるような展開がある。それは、この二重構造が、まず『全集』第四巻のp.357のl.8から「一つは」として説かれ、次にp.358のl.5からは「もう一つの構造」として説かれているのに、p.360のl.7ではまた「もう一つの構造」が説かれ始める点である。

同じことは、PART2の初めの部分で、PART1の内容が要約されている部分についてもいえる。『学城』第一号p.219の「弁証法とは」の図のすぐ後に、「次に『世界史』を理解する鍵は『地球の歴史』にあり、のもう一つの構造は」として説かれるのであるが、それはたった今まで説かれてきたことではないのか? つまり、p.217の上段から下段にかけて、「次に『世界史』を理解する鍵は『地球の歴史』にあり、のもう一つの構造は」と全く同じ文言があり、そこからp.219までそのことが説いてあるのである。

僕は、初めてこのPART2を読んだ時から、「あれ?何かおかしいぞ」と思っていた。今回読み返してもやはりおかしい。一体どういう論理展開になっているのか。おそらくおかしいのは僕のアタマの方であろうから、どこをどう勘違いしているのか、分かる方がいらっしゃったらご教授ください。

さて、問題の二重構造であるが、その一つ目が、まさに目からウロコであった。「自然の生成発展の論理構造、すなわち自然の弁証法性は、社会および精神の生成発展の論理構造、すなわち社会の弁証法性、精神の弁証性と同一の構造を有する」として、具体的には以下のように説かれている。

「世界史は地球の歴史である。地球の歴史をみることによって、人類の歴史をアバウトにみることができる。これが弁証法すなわち一般的な運動の法則性である。人類の歴史とは、地球の生成発展の一般性がちょっと形を変えただけである。地球の歴史、すなわち太陽系の物質としての生成発展の一般性をみれば、生命体の歴史の一般性がわかる。
 両者はアバウトにみると同じで、生命体の歴史は、地球の歴史のちょっと歪んだ形でしかない。同じように、地球の歴史の一般性が、ある程度構造づけてわかれば、人類の歴史の一般性もアバウトにわかることになるのである。こういう効用を他の学者たちはわからなかったのである。」(『全集』第四巻pp.357-358)


「人類の歴史とは、地球の生成発展の一般性がちょっと形を変えただけである」の部分を読んだ時、「なるほど! 弁証法的にはこのようにとらえられるのか!! 弁証法にはこのような効用もあるのか!!」と心躍ったものである。

PART2では、弁証法でいう発展の論理構造の核心を、格言レベルで表現したものとして、"change of the place, change of the brain"という言葉が紹介されている。これが、「生命の歴史」で一番学ばなければならないことであるという。この自然で解明した弁証法性を導きの糸として、社会の弁証法性の解明に進まなければならないと説かれている。

PART3では、「学問としての『世界歴史』とはなにか」として、社会の弁証法性について説かれているといってよいと思う。ここでは、弁証法的唯物論の立場から説く本来の「世界歴史」とは、「人類(として)の社会的認識=社会的労働の発展形態の歴史である」と規定されている。また、この概念規定に至るまでの学問的系譜として、カント・ヘーゲル・マルクス・滝村隆一の説く「世界歴史」についても触れられている。

PART3で一番感動したのは、「学問としての『世界歴史』物語のサワリの概略」として説かれた、「劇画レベル」の解説である。非常にイメージが湧きやすい。像が流れる感じである。"change of the place, change of the brain"の表象像として位置付けたい感じである。

今回読み返して、やはり師範の説かれる内容は、私が高校の時以来憧れつづけている哲学そのものである!との思いが強まったことである。超壮大なスケールである。今後とも、この素晴らしい論文を味わっていきたい。特に、新旧二つの弁証法に関しては、まだまだ知識レベルの理解すら曖昧だということが判明したので、『全集』第二巻を何度も読み返そうと思った。
posted by 寄筆一元 at 03:33| Comment(2) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月16日

『綜合看護』2006年3号(現代社)

ここ2回ほどは、『綜合看護』の読了後の要約・感想を書いていなかったので、今回は書いておこう。ちなみに僕は、知人からお借りしているものも含めると、『綜合看護』は1988年2号から全て所有している。この1988年2号というのは、瀬江千史先生の「現代医学を問う」と海保静子先生の「こどもの認識の論理を求めて」の連載が開始された号である。

(この知人には、交換にディーツゲンの何らかの著作(改造文庫)をお貸ししたはずだが、もはや何をお貸ししたのか忘れてしまった。)

さて、一読後の要約・感想的なメモを、読んだ順に記しておこう。


[連載]
  なんごう つぐまさ が説く看護学科 ・心理学科学生への
  “夢” 講義(31) ―看護と武道と認識論 /南郷継正

「足のウラのヤケド、ヤケドの連続の夏の鍛錬」は是非やりたいと思った。『武道講義第4巻 武道と弁証法の理論』のあとがきを読んだ時は意義が分からなかったが、ようやく分かってきた気がする。それにしても「意義」と「意味」はどう使い分けられているのだろうか? 三浦つとむ的使い分けではないような気がする。

魚類の脳の統括について4つ挙げられている。

1.食事をとるための運動能力
2.食事のための内蔵の運動(消化・吸収活動)
3.脳を含めた体全体の生理面の構造的統括
4.以上の三つを永続的にしっかりと保持するための睡眠の統括

さらに、動物のばあいは本能によって統括されているが、人間のばあいは大きく二つに分けなければならない、とされている。その二つとは、以下である。

1.脳自身をも含めた体全体の運動的活動と生理的活動の統括
2.脳が自身の中に描く像である認識活動の統括

うーん、まだまだ脳の統括について、自分の中で整理できていない。今後、瀬江先生の論文なども含めて読み返し、整理しておく必要があろう。

なお、8年前の連載開始時から登場している看護学生Dさんは、本年からある大学の看護学科の正式の講師になられたようである。師範の連載が始まってからもう8年も経つのかと思うと、かなり焦らなければならない。


[新連載]
  ナイチンゲールの思想に立脚した精神看護学教育のため
  の課題と提言 (1)
  ―ナイチンゲールの人間観の継承・発展と精神看護学の
  カリキュラム構築 /高橋美紀

FN(ナイチンゲール)から受け継ぐべき内容として、FNの人間観、FNの健康観・疾病観、FNのとった研究方法(科学的抽象法)の三つに焦点をあて、順に説いていく。今回は、FNの人間観についてである。

FNの人間観として継承すべき具体的な内容としては、以下の三つが挙げられている。

1.人間のからだ(実体)とこころ(認識)をつながっているものとして捉えること
2.人間のこころ(認識)とそのととのえについて唯物論の立場から考えること
3.社会関係の中でつくりつくられる存在として人間を捉えること

看護学生にこれらの内容を説く際には、同じようなことが論じられている一般向けの書籍から抜粋して解説するそうである。そうすると、自然と薄井先生の「人間とは」のモデルにつながっていくという。「精神看護学担当という立場だし、特に特定の看護理論を教えるということは基本的にはしていない」が、「実体の一部である脳と、認識とのつながりに関する講義をうまく運用してしまえば、伝えたい看護理論の伝えたい本質は伝わるのである」という記述は、興味深い。真理は一つということか。

それにしてもこの論文で一番面白いのは前半部分である。高橋先生のこころにをつけた「優れ過ぎていた」教師たる薄井先生の話や、「(実は)フロイド著作集を愛読し、(密かに)タロット占いを趣味としている」という高橋先生の私生活に関する話などは、高橋先生の意地とユーモアが読み取れる。以前、「意地」が如何に大切かを教えてくださったのも高橋先生であったが、その高橋先生自身も、強烈な意地の持ち主であるのがよく分かった。

薄井先生の『看護学原論講義』を「対象の性質を見抜く力」、すなわち科学的抽象の能力を修得させるためのテキストとして読み直したという話や、人間が「社会関係のなかで互いにつくりつくられる」存在であるという点について、FNがどのように考えていたのかという問いをもって『ナイチンゲール著作集』を読み返したという話は、読書論として参考になる。やはり、このような強烈な問題意識を持って著書を読み返すと、得るものが非常に大きく、新たな発見もあるのだろう。アホみたいに、漫然と、のっぺらぼうに読む僕の読み方を大いに反省させられた。


脳の話(22・最終回) ―[連載] 看護のための生理学・22
  /瀬江千史

脳を鍛える「計算ドリル」や「音読ドリル」は、ほとんどなんの役にも立たないことが、弁証法と認識論に基づいた科学的脳論から説かれている。

脳の統括については、それぞれがどういう関係になっているのかまだ理解できていないのだが、次の4つが挙げられていた。

1.内界の統括(代謝)
2.いうなれば外界の統括(感覚と運動)
3.それぞれの器官を維持するための統括(血液循環、睡眠など)
4.脳自身の統括(像の形成)

また、人間の特殊性として、「人間の脳は、外界からの反映と内界からの反映を統合して、合成像をつくる過程までは、だいたい魚類と同じといってもよいのですが、人間のばあいには、その像を原基形態として、そこからその像とは相対的独立(思いこみをまぜたり)に、時には絶対的独立(完全なつくり話)といってよいほどに、それらの像を無限的に発展させることができるようになっていった」とか、「人間のみが、関わっていく外界および内界の反映像を原基形態としながらも、それとは相対的に独立に、時には絶対的独立といってよいほどに、像=認識を発展させることができ、その像=認識によって、外界へはたらきかけ、外界を変化させることができるようになった」とかいうようにまとめられている。ここもしっかり押さえておかなければ。

しかし、今回一番衝撃的だったのが、以下の記述である。以前からいだいていた疑問に対する、明確な解答になっていたからである。

「…いかなる対象でも原基形態から完成形態へ、完成形態から原基形態へと、何回も辿りかえすことによって、ようやく対象の構造が究明されていくことを、しっかりとわかっておいてほしいと思います。」

なるほどね!!


次代を担う看護学生・医学生への医学概論教育 講座(14)
  ―[連載] 第2部・第3回 /瀬江千史・本田克也・他

前回、人間は、自然的外界および社会的外界と二重の相互浸透をすることによって生きて、生活しているということが、〔図1〕として示された。これは非常にイメージが湧きやすい、優れた図だ。

「人間の病気」は、この図に描かれている社会との相互浸透で日々つくられていく人間の個性的な認識によって、正常な生理構造が歪んでいく過程であるという。したがって、人間の病気がわかるためには、人間社会とは何かが、一般的に、また構造的、具体的にわからなければならない。それを教えるのが、本来の教養課程の社会・人文科学のそれぞれの科目なのである。この図の社会の中身を、具体的でイキイキとした像で埋めていくのが、本来の教養課程の科目でなければならない、ということである。なるほど。

フリーター医師は絶対に医師としての実力がつかないと説かれている部分は、僕にとっては耳が痛かった。「医師は、患者に全的に責任をもちつづけることによって、初めて実力がつくのです」という文章の、「医師」を「教師」や「カウンセラー」に、「患者」を「教え子」や「クライエント」に置きかえても、当然同じことがいえるだろう。


「新連載・器官レベルでの病態の把握」 について
  /薄井坦子

関山先生の論文も読んでみようかと思った。


[連載]
  初学者のための 『看護覚え書』 (10) /神庭純子
  ―看護の現在をナイチンゲールの原点に問う

神庭純子氏は高校教師をやめて看護大学へと転進されたようだ。南郷継正師範をして、「弁証法の達人」といわしめる神庭氏であるから、弁証法関連の記述を引用しておこう。

「過程というものは弁証法的に説けば、生成発展という中身、プロセスであり、文章でいえば起承転結です。
 なぜかというと、過程というものは、あるものが別のものへと変化する途中段階だからです。もっといいますと、『あるもの』から『別のもの』へという途中の段階は、『あるもの』でもなければ、『別のもの』でもないということです。より正確には、『あるもの』がしだいしだいに『別のもの』へと変わる途中ですので、『あるものでもあり、かといってあるものではない』段階と『別のものでもなく別のものでもある』という段階を内に含む(過程的構造といいます)ものです。これが弁証法的にいう過程なのだとわかることが大切です。」


[看護教育者の眼] 大学教育が担うもの(1)
  /三瓶眞貴子

「看護教育制度の充実の歴史的構造」と「教育制度の充実を支えたもの」が説かれている。
posted by 寄筆一元 at 19:08| Comment(0) | TrackBack(1) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月15日

日本弁証法論理学研究会編『学城 ZA-KHEM,sp』第三号

未来を見せてくれる、僕にとっての憧れである学問誌『学城 ZA-KHEM,sp』第三号を読了。興奮醒めやらぬうちに、一読後の要約や感想を記しておきたい。もちろん、今後読み込んでいく予定である。

それにしても、これだけのメンバーが学的交流・学的討論をしながらの研鑽ということになると、凄まじいレベルの相互浸透的発展が進行しているのだろう。全体的な印象としては、南郷継正師範が全体を統括されており、論理的に一貫しているという感じがした。


◎南郷継正  巻 頭 言
        ―学問を志す初学者たちに

学問レベルの論文執筆の「大本の目的」は「学問の形成、すなわち学問体系をモノすること」と説かれてある。一般常識的には、すでに出来上がった知見があって、それを公表するのが論文であるとされているはずだ。僕も以前はそうだと思っていた。もちろん、そういう側面もある。しかし、南郷師範は、例えば「この“夢”講義で培った実力」というようないい方をされることが多い。つまり、論文執筆というのは実力養成の一つのあり方であり、まさに「書くことは考えることであり、考えることは書くことである」の実践なのだ。論文を書くことが直接に実力の養成なのである。そのようなものとして論文を書かなければ、つまり「一号よりは二号、二号よりは三号の論文の質の向上」がなければ、学問創出など不可能だという。まさに、自分自身が弁証法の権化であるが如く、変化・発展していかなければならないということであろう。


◎悠季真理  編集後記

『学城』は「年二回の発刊をと願っている」とのことである。それが遅れている理由として、第一に「学問的研鑽の内実を筆にする困難さから」、第二に「学問的レベルでの弁証法の構造をもっての理論性の頭脳活動を創出しながらの論文執筆を要求しているから」と説かれている。僕としては、やはり年二回くらい出していただけると、非常にありがたい。

なお、日本弁証法論理学研究会は、今年の6月で33周年を迎えたらしい。


◎南郷継正  欧州版 『武道の理論』
  悠季真理 ―科学的武道論への招待

『武道の理論』執筆にいたる過程が紹介されており、興味深い。1969年の冬に、南郷師範が三浦さんを訪ねた際、三浦さんのすすめにしたがって『試行』への執筆が開始されたという。この時南郷師範は36歳。うーん、僕がその年になるのはあと何年後だ? 焦ってしまう。

『武道の理論』は数社の出版社から翻訳権がほしいとの話があったようであるが、訳出不可能として打ち切られたという。ところが今回、南郷師範の弟子悠季真理氏が翻訳を試みたいというので、まず「まえがき」からということで欧州版の開始となったらしい。

英訳、ドイツ語訳、ギリシャ語訳であるが、英訳とドイツ語訳の一部しか読んでいない。日本語のまえがきにはないような内容が、欧州人向けに追加されている。英訳は、音読・筆写の教材に使おうと思う。


◎南郷継正  東京大学学生に語る 「学問への道」(1)
        ―平成十六年、夏期東京大学合宿講義

来た来た来た!!! 目次を見るだけでも非常に興奮し、ワクワクする。今回の目次を紹介しておこう。

第一章 真の東京大学の復権に向かって、何をいかに学ぶべきか
 第一節 弁証法と武道空手の学びの同一性について
 第二節 農学とは何か――歴史における農業のおこり
 第三節 武術の歴史上の登場について

次回以降にも、「学問一般としての哲学」「アリストテレスとヘーゲルを学ぶ理由」「社会にはそれを統括する指導者が必要である」「論理学とはなにか」など、非常に面白そうな内容が並んでいる。

こういった内容がさらりと説けるのが本物の実力という感じがする。並大抵の一般教養の実力ではない(当たり前だが)。学生時代に一般教養の学びに精出しておられたことも説かれている。また、空手を始めて一週間目で弟子をとり、ファーブル同様、「毎日、毎日相手に対して教えなければならないことを必死になって学び続けていった」そうだ。私も『昆虫記』(岩波文庫)を読まねばならない、そして、もっと必死で厳しい学びの過程を持たねばならないと痛感した。

それにしても、南郷師範が説かれる一般教養的な内容は、非常に面白い。このような内容の講義録を、是非とも出していただきたいと願っている。哲学史上の名人・達人たる大哲学者の代表的著作を採点されるという『哲学・論理学への道』も、かれこれ8年くらい待っているだけに、非常に楽しみである。


◎悠季真理  古代ギリシャの学問とは何か(3)
 
◎悠季真理  古代ギリシャ哲学、その学び方への招待(3)
        ―ポリス社会が誕生するまでのギリシャ小史

「古代ギリシャの学問とは何か」では、今回から二回にわたってタレスが取り上げられる。「この時代のギリシャはオリエントの文化をどのように学んでいたのか、そしてタレスらの実力は学問的にみて本当はいかなるレベルであったのかを論じる」とある。

当時の時代状況やオリエントからギリシャへの文化の流れが、非常にいきいきと説かれており、分かりやすい。古代ギリシャがいかにオリエントから学び続けていたのか、非常に説得的に説かれている。ここに関してのヘーゲル批判もある。

また、マルクスのアジア的社会措定に関する批判もある。

「学者たるものが世界歴史としてのアジア的社会を論理的に措定する場合の史料としては、あくまでも古代社会(ギリシャ、ローマ)に先行したオリエント社会のものに限定して用いなければならないはずであり、間違ってもそれ以降のインド(しかもイギリス植民地支配下のインド)、ロシア、インカ帝国(十二世紀〜)などの史料を用いてはならなかったはずである。」(p.50)

この部分は、滝村隆一の「世界史の発展史観」の考え方と真正面からぶつかるらしいので、今後の検討課題としておこう。

「古代ギリシャ哲学、その学び方への招待」の方は、副題の通り、「ポリス社会が誕生するまでのギリシャ小史」である。オリエントからギリシャへ、ギリシャ内でも、キュクラデス諸島からクレタ島へ、そしてミュケナイへと、文化の中心となる場所を移動しながら、文化の継承・発展がなされていったありようが説かれている。"change of the place, change of the brain"の一つの具体例ということであろう。

『イリアス』を参照しながら、相手の優れた文化に憧れて学ぶということの実態が、具体的に、鮮やかに描かれているのも興味深い。

両論文を通して、ヘーゲル『哲学史講義』、ヘロドトス『歴史』、アリストテレス『宇宙について』、プラトン『法律』、ホメロス『イリアス』などが、相変わらず全て「筆者訳」である。格好良すぎる。


◎瀬江千史  「医学原論」 講義 (第3回)
        ―時代が求める医学の復権

いつも通り、超読みやすい。以前の著作でも示されていたが、科学的医学体系の本質論と構造論が提示されている。医学とは、「人間の正常な生理構造が病む過程と、病んだ生理構造の回復過程を統一して究明する学問」であり、「礎石にすえられる『常態論』と、その上に成立する『病体論』と『治療論』という構造論を有する」ものである。見事! としかいいようがない。本質は単純であるが、その単純な本質に辿り着くまでに、どれほどの厳しい研鑽があったのか、想像を絶するというものである。

次回は「学問体系の現象論とはいかなるものか、具体的に提示するところから始める」という。楽しみだ。


◎本田克也  ウィルヒョウ 『細胞病理学』 なるものを問う(上)
  瀬江千史 ―研究至上主義は学問への道を断つ

タイトルだけみると、医学の専門論文であって、医師や医学生でないと全く読めない、という気がするのだが、しかし、そうではない。僕のような文学部卒の一般読者にも読めてしまうのである。なぜか? それは、論理的に説いてあるからである。これは、日本弁証法論理学研究会の先生方の共通した特徴である。非常に論理的な文章であるために、読者に論理的な、スッキリした像を描かせることとなり、その結果読者は、「読める!」「分かる!」となるのであろう。

これと対照的なのが、ふつうの大学の先生や院生が書く文章である。非常に細分化された狭い領域で研究をしているためでもあると思うが、専門の論文など読んでも、サッパリ意味が分からないのが多い。論理的でない、具体的な事実のみに執着したような研究というのは、専門が違えばなんの役にも立たず、読むことすら不可能なのだと思う。


◎諸星史文  学問形成のために問う医学の歴史(3)
  悠季真理 ―医学史とは何か

ヒポクラテスが“医学の父”ではないことが、『ヒポクラテス全集』を概観しながら事実的に示されている。『ヒポクラテス全集』からは、認識の発展の三段階がみられるものの、まだまだ医術について一般論レベルで説けているわけではない。ソクラテスと同時代のヒポクラテスは、あくまでも医術らしきものを創りあげていく段階であり、アリストテレスに至る途上に位置している、という内容である。

悠季真理氏は、『ヒポクラテス全集』や、アリストテレス『形而上学』『自然学』の訳で協力されているようである。今井正浩訳の『ヒポクラテス全集』の誤訳も、具体的に指摘されている。やはり、単なる語学力があるだけでは正確には訳せず、人類の認識の発展過程を踏まえないとダメだとよく分かった。


◎小田康友  日本近代医学教育百五十年の歴史を問う(2)
        ―医学教育論序説

「医師養成が徒弟修業から西洋式学校教育へと移行した、近代化の原点に焦点を当て」て、「医学教育とは何か」を一般性として浮上させている。徒弟教育から近代的医学教育への発展の必然性が非常に説得的で面白かった。

また、徒弟教育の構造として、「現実の対象と自らの五体を駆使してかかわり、五感器官を介したいきいきとした反映として対象の像を描くこと、診断・治療にあたってプロセスを重視し、患者の生活過程を丸ごと把握する技を教育すること」というように述べられている。限界があり、いずれは西洋式学校教育にとって代わられる運命であった徒弟教育にも、このような優れた面があるというわけである。その上で、次のように指摘されている。

「事実的には絶対に再現することはできない過去の歴史に学ぶということは、論理的に捉え返し現代的に措定することであって、現象的には全く異なる教育ともなりうることを忘れてはならない。」(p.149)

なるほど、という感じである。徒弟教育に優れた面があり、それを見直すといっても、「現場を重視する」とか「マンツーマン指導する」とかいったような、現象的に、形だけ徒弟教育を真似てもダメであり、論理的に把握された徒弟教育の長所が実現できるようなものでなければならない、ということである。


◎近藤成美  マルクス「国家論」の原点を問う(3)
        ―ヘーゲルから継承した市民社会と国家の
         二重性について

◎加納哲邦  学的国家論への序章(3)
        ―マルクス主義の「国家論の歴史」を問う

他共同体との接触による<共同体−即−国家>生成が、<共同体−内−国家>生成に先行するという点や、国家論の歴史の流れで、滝村隆一が最後にきている点などからみても、滝村国家論と全く別物が説かれているわけではないだろう。ただ、国家の概念規定(そのものがそのものであるところの本質を端的な言葉であらわしたもの)を、「国家は社会の実存形態である」とした点が、滝村国家論とは決定的に違い、大きな発展であるということだろう。ただ、具体的にはどう違うのかは、まだ分からない。


◎北嶋  淳  人間一般から説く障害児教育とは何か(2)

この論文は、海保静子『育児の認識学』の具体化といえそうだ。手足を中心とした「末端の神経を運動形態に置くことにで、対象を反映させる脳の実体の実力が創られていったのであり、脳の実体の実力がしっかりとついたので、外界を反映させる働きも良くなっていった」との記述は、玄和会の空手をやれば頭がよくなるということの過程的構造を説いたものと理解できる。


◎井上真紀  青頭巾 ― 『雨月物語』 より(上)
        ―悟りへの道を考える(2)

小説。「悟りへの道」という主題とどう関係するのか、まだよく分からない。


◎田熊叢雪  現代武道を問う 〔T〕 ―居合とは何か(3)

僕がまともに読めていないだけという気がかなりするが、居合をやったことのない者にとっては、ちょっと具体の像が描きにくい感じがしないでもなかった。居合技を見る目などないけれども、掲載されている写真の技は、相当見事なのだろう。ただ、居合をやりたくなる論文であることは間違いない。
posted by 寄筆一元 at 17:37| Comment(7) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月12日

白土三平『カムイ伝全集第一部』全15巻(小学館)



白土三平『カムイ伝第一部』を、最近出版されている『カムイ伝全集』版で読んだ。

『カムイ伝』は、江戸初期の日置藩(架空の藩)を舞台に、農民のリーダー・正助、非人出身の天才的忍者・カムイ、元日置藩次席家老の一子・草加竜之進、金力で権力を牛耳ろうとする夢屋、カムイの師匠で抜忍の赤目などなど、さまざまな身分の登場人物が繰り広げるドラマを壮大に描いたマンガである。齋藤孝のHPの「おすすめブックリスト・漫画関係」では「江戸時代の社会構造と運動についての優れたテキスト」と紹介されている。

確かに、江戸時代の農民や非人の暮らしぶりがリアルに描かれており、そういった意味でも勉強になるとは思う。また、忍法の勉強にもなり、このマンガを読めば忍術が使えるようになる(はずがない)。

しかし、それよりも何よりも、盛者必衰、諸行無常、万物流転の法則が学べるマンガとしてとらえたい。一時栄えた者(勢力)も、いずれ没落する。ある者はまた復活し、再び没落する。ある者は悲惨な最期を遂げる。ある意味、弁証法の教科書といってもいいくらいではないかと思った。

それにしても、このマンガ、読むのに非常に時間がかかった。セリフも多いし、途中に当時の社会状況や支配体制、それに忍術などに関する解説が入るのである。

また『カムイ伝』というタイトルの割には、カムイがあまり登場しない。特に最後の3巻くらいは、全く登場していなかったような気がする。日置藩のもつ徳川家康に関する秘密を知ったカムイは、師匠と同じく抜忍となって追われる立場になるのだが、そのあたりの事情は『カムイ外伝』で描かれているようである。これも全巻入手済みなので、また読んでみよう。

なお、同じ白土三平の忍者マンガ『忍者武芸帳 影丸伝』の方も最近読んだ。こちらは短いうえに割とスラスラ読める。これも万物流転を描いた弁証法の教科書といってもいい。また、上泉信綱や柳生宗厳など、武道の歴史に名を残す実在の人物も登場する。さらに興味深いのは、狼に育てられた子ならぬ、穴熊に育てられた忍者が登場する点である。アマラ・カマラが狼に殺されなかったのはなぜかという謎に対する一つの答えが描かれている気がする。
posted by 寄筆一元 at 03:00| Comment(2) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月10日

『綜合看護』最新号の目次

現代社のHPが更新されており、『綜合看護』の最新号の目次がアップされている。

http://www.gendaisha.co.jp/zassi/mokuji/zassi.html

薄井先生が、ある新連載に関して文章を書いておられるようだ。薄井先生の文章は久しぶりな気がする。あと、三瓶眞貴子氏の文章もある。氏は、いつの間にか新しい著作を出しておられるようで、この間、S君に教えてもらうまで知らなかった。アマゾンで調べたら、S君がたまたま本屋で発見して購入したという『看護学矛盾論』の他に、2冊ほど新しい著作が出ているようだ。



とりあえず『看護学矛盾論』だけは数日前に注文した(あれ、今みたら「通常4〜6週間以内に発送」になっている。大丈夫か?)。何か、他の2冊は、ページ数の割に妙に高いぞ。でも今買っておかねば、入手不可能になる気もしないでもない。うーん、どうするべきか。

そんなことより今回の『綜合看護』での注目は、高橋美紀先生の新連載だ。以前、先生は僕のHPの掲示板に頻繁に書き込みをしてくださっていた。一度私信をいただいた記憶もある。その文章は非常にウィットに富み小気味よく、否定の否定の法則を中心に創られた弁証法の実力でもって説かれるお話は爽快だった。それ以来すっかり高橋ファンになってしまった。南郷継正と一字違いの登場人物が活躍する『13階段』の存在を教えていただいたことや、『ガラスの仮面』にまつわる興味深いエピソードを聞かせていただいたことが、懐かしく思い出される。あの調子で随筆でも出版していただけたら喜んで買うのだが。。。

ともあれ、今回は本業の精神看護学教育に関する論文である。非常に楽しみである。僕も早く専門分野に関わる論文を書けるようにならなくては。。。
posted by 寄筆一元 at 01:25| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月09日

牧野紀之批判@



け、傑作な著書を発見してしまった。牧野紀之『哲学の演習 考える悦び』(未知谷)である。発見にいたるまでの過程を説くと長くなるので詳細は次回以降にしたいが、簡単にいうと彼のブログの「自著紹介」のような記事で、本書が三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』を扱っていることを知ったので、買ってみたわけである。

問題の、『弁証法はどういう科学か』に触れている箇所は、「論理的に考える」という章の中にある(噴飯ものである)。まず、『弁証法はどういう科学か』の「まえがき」が引用されたあと、次のように述べられている。

「一読して、この人の頭はどうなっているのだろうかと考え込んでしまうほどひどいものです。しかし、このような事は誰も気付かず、大いに売れているようです。
 この『まえがき』での『科学』と『哲学』の区別(あるいは定義)はどこがどうおかしいのでしょうか。これが問題です。この定義とこの文章とはどう矛盾しているか、と言ってもいいと思います。又、その他のあいまいな叙述、または矛盾した叙述なども、気付いたら挙げてください。」(p.158)

その後「講師の考え」として、自己の三浦つとむ批判を展開していく。次に、「Gさんの答案」として、教え子の1人による三浦つとむ批判があり、最後に「Gさんの答案を読んで」の牧野のコメントが載っている。

高校生レベルの論理能力を把持していれば、このあとの彼の文章を読んで、「この人の頭はどうなっているのだろうかと考え込んでしまう」はずである。そして、「これでは売れないだろうな」と確信するだろう。

具体的な批判は、私と同じく三浦つとむ主義者であるS君が行ってくれたので、後ほど掲載するとして、全体的な印象としては、大学教授(三浦さん)に対して中学生(牧野)が愚にも付かないイチャモンをつけている感じである。

一番噴飯ものだったのが、「Gさんの答案を読んで」の最後にあるコメントである。教え子たちの答案を読んでの全体的な感想を記している。

「全員について言えることですが、『あまり』関心をもたなくなったとか、『ほとんど』役に立たないといった不正確な表現に三浦さんの自信のなさ、曖昧さが出ていることに誰も気付かなかったようです。」(p.164)

そんな奇想天外な気付きは、たとえ弟子といえども、不可能であったようだ。科学に志す人たちが哲学にあまり関心をもたなくなったとか、哲学書を読んでもほとんど役に立たないとかいうのは、客観的な事実をありのままのとらえて、それを表現したものである。それを牧野は、三浦さんの自信のなさという主観的な原因に取り違えているのである。ハダカの王様もビックリ仰天の、逆立ちぶりである。

しかも、である。「自信のない三浦さん」というのは、「円い四角」と同じように、形容矛盾である。三浦読者ならば、ここから「三浦さんの自信のなさ」を読み取ることが、如何に甚だしい勘違いであるか、すぐに了解できるはずである。

さてお待ちかね、いよいよ具体的な牧野批判に移ろうと思う。今回は、友人のS君が文章を寄せてくれたので、S君の許可のもと、それをそのまま掲載したい。今後、同じく『哲学の演習』に載っている『新しいものの見方考え方』批判批判、あるいは、牧野による「科学とは事実を説明することである」という科学の定義批判、でも行おうかと思っている。


−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 牧野紀之なる人物が三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』の「まえがき」を批判した文章(『哲学の演習 考える悦び』所収)を読んだ。一読して、この人の頭はどうなっているのだろうかと考えこんでしまうほどひどいものであった。

低劣な詭弁

 牧野はまず「机の前で頭をひねって考え出した、現実との対決で証明されていない原理原則」という三浦さんの哲学の定義を問題にする。牧野は三浦さんの言葉を細かく切り刻み、「机の前で考える」のが悪いのか、「頭をひねって考える」のが悪いのか、それとも「現実との対決で証明されていない」のが悪いのか、と順に問うていく。前の2つについての牧野の言及は、三浦さんも机の前で考えていたはずだとか、頭をひねらずには考えることはできないはずだ、など、完全に詭弁の類でありアホらしい以外の何物でもない。あきれるほどに低劣なケチつけであると言う他ない。一応検討してやってもよいかなと思わせるのは、「現実との対決で証明されていない」についての言及だけである。そもそも、少し考えてみれば、三浦さんが、机の前で考えるのが悪いだの、頭をひねって考えるだのが悪いなどというアホらしいことを主張しているわけではなく(*)、「現実との対決で証明されていない」ことを問題だといっているのはあきらかである。三浦さんを批判したいならここを正面にすえて、自らの論を展開すべきである。しかし、牧野は、正面にすえて批判すべき論点とお粗末極まりない詭弁の類を同列に平面的に並べて恬として恥じないのである。まったく、この人の頭はどうなっているのだろうかと考えこんでしまう。

(*)机の前「だけ」で考えるのは悪いとはいえるだろうが、これは結局、「現実との対決で証明されていない」ということにつながる。

唯物論が崩れる??

 牧野は「現実との対決で証明されていない」ことが悪いのか、として、次のように述べている。

「思考は現実の反映だと主張する唯物論は、現実といかなる意味でも全然対決していない思考は一つも存在しないという考えなのではないでしょうか。つまり、現実と対決していない原理原則とやらを認めるとすると、三浦さんの主張するはずの唯物論そのものが崩れるのではないでしょうか。」

 ここで牧野はちょっとしたトリックを施している。三浦さんは「現実と対決していない原理原則」というような奇妙な言葉使いはしていない。あくまでも「現実との対決で証明されていない原理原則」を問題にしていたはずである。「対決」と「証明」はセットなのである。三浦さんは、現実を反映した認識を材料にして頭の中で原理原則をつくりだし、それを現実との対決で証明する、という過程を問題にしている。つまり、ここでいう「対決」は「反映」とは違うものであり、反映よりも後の段階で問題になるのである(*)。それを牧野は、「対決」と「証明」を切り離し、「証明」をこっそり引っ込めて「対決」だけを残し、それをあたかも「反映」と同じような意味で使うことによって、たんなる「現実の反映」だけが問題になっているかのように問題をすりかえている。その上で、おそらく彼は唯物論を機械的な反映論として捉えることで三浦さんの論に必死でケチをつけようとしているのである。曰く、唯物論とはどんな思考も現実の反映だという考えだから、現実の反映でない原理原則を認めると唯物論が崩れる、と。しかし、憐れむべきことに、牧野は、現実の反映でない原理原則を認めると唯物論が崩れる、という論理で三浦さんの論を突き崩すには、自らが機械的反映論の立場に徹することが不可欠だという、ごく簡単なことすら理解できないお粗末な頭の持ち主であったようだ。

(*)三浦さんは、対象と現実との間のダイナミックな過程的構造を捉えているのである。現実の反映→原理原則の確立→現実との対決=証明(直接的統一)。
 反映:客観的な現実が感覚器官をとおして脳細胞に像として描かれる過程【対象→認識】
 対決:原理原則と現実とをつき合わせる過程【認識→対象】
 証明:現実とつき合わせることで原理原則の正しさを確認する過程【対象→認識】
    対決と証明は直接的同一性において存在する

 牧野は、唯物論とは「現実といかなる意味でも全然対決していない思考は一つも存在しないという考え」だという。言葉を変えれば、唯物論とはあらゆる思考は多かれ少なかれ現実と対決しているという考え、ということになるだろう。先に論じたように、ここでの「対決」という語の使い方は不適切だが、牧野の主張を検討するためだけに、一万歩ほど譲ってやって、牧野のいわゆる「対決」をたんなる「反映」の意味に解してやることにしよう。
 さて、牧野自身の言葉を使っていえば、「現実と…全然対決していない思考は一つも存在しない」ということは「現実と少ししか対決していない思考が少しは存在する」ということでもある。つまり牧野の主張は機械的反映論の立場に徹しきれていないのである。問題点はまさにここにある。
 三浦さんの唯物論は、機械的反映論の立場に立つ形而上学的な唯物論ではなく、人間の認識の能動性を認める弁証法的唯物論である。つまり、人間の認識は能動的だから、現実についての認識を材料にしながらも、頭の中でそれを加工して現実には存在しえないものつくりあげていくことができると考えるのである。そのわかりやすい例が、神、仏、幽霊などである。これは原理原則についても同じことである。てるてる坊主をつるしたという現実およびその翌日は晴れになったという現実についての認識を材料に、てるてる坊主をつるせば天気は回復するという原理原則をつくりあげることもできる。このような例は何を示しているか。まさに「現実と少ししか対決していない思考が少しは存在する」ということなのである。「現実と対決していない原理原則とやらを認めるとすると、三浦さんの主張するはずの唯物論そのものが崩れる」という牧野の主張は全く成立する余地がない。
 「現実との対決で証明されていない原理原則とやらを認めるとすると、三浦さんの主張するはずの唯物論そのものが崩れる」と言えば、牧野の主張のお粗末さはあきらかである。牧野は、これを恥ずかしげもなく「現実と対決していない原理原則とやらを認めるとすると、三浦さんの主張するはずの唯物論そのものが崩れる」にすりかえ、機械的反映論の立場からの反論の余地を何とかつくりだそうとしたが、結局、何のまともな反論もなし得ず、自分の頭の不様な混乱ぶりを我々に見せつけてくれるだけに終わったのである。
 
科学の定義がないか

 牧野は、「それ(哲学をさす――引用者)に対置される科学の定義なり、説明なりがない」と言って、科学の定義がないことへの不満を漏らしている。「哲学とは…」「科学とは…」とそれぞれ明示された形で定義を書くべきだ、という批判ならまだわかる。そこを批判したいのならはっきりとそのように書くべきである。しかし、ここでの牧野の文章から読み取れるのは、せいぜいのところ三浦さんの科学の定義が分からないという不満にすぎないのである。
 しかし、ここでは、牧野の言うように科学の定義は哲学に「対置される」べきものであるから、これはごく簡単に「現実との対決で証明された原理原則」以外ではありえないのである。牧野には、こんな簡単なことも分からなかったのであろうか。

哲学不要論とは何か

 牧野は「科学に志す人たちはそれらに『あまり』関心を持たなくなりました。理由は簡単で、それらを読んでも『ほとんど』役に立たないことがわかったからです」という三浦さんの文章は、「ですからわたしは哲学不要論の立場をとるわけですが、昔の哲学はナンセンスだったからみんな破ってすててしまえなどと主張しているのではありません」という次の文章とは「矛盾」するとして、これに噛みついている。
 牧野は、まず「どうして『机の前で頭をひねって考え出した、現実との対決で証明されていない原理原則』が『少しは』役立って、従って科学に志す人たちによって『少しは』関心を持たれるのでしょうか。哲学はダメだというなら『全然』関心を持たなくなるはずではありませんか」と言う。その上で牧野は「哲学不要論というのは、哲学は『全然』役立たないから、哲学には『全然』関心を持たず、そんなものは破って捨ててしまえと主張する立場だと思います」と述べている。つまり「少しは役立つ」と「全然役立たない」は矛盾すると言うのである。
 しかし、三浦さんが一体どこで哲学は「全然」役立たないなどということを主張したというのか。三浦さんは、哲学不要論というのは哲学を破ってすててしまえという主張ではない、とはっきり述べているではないか。牧野は「哲学不要論」を三浦さんがどのような意味で使ったかを三浦さんの言葉に即して検討しようとはせずに、その内容を自分の程度の低い思考能力に合わせて改ざんし、哲学は全然役に立たないから破ってしまえという哲学不要論をでっち上げ、これに噛みついているのである。これは他人の論を批判しようとする上で最もやってはいけないことである。
 不要というからには全然役立たないと考えているはずだ――これが見事なほどに形而上学的な牧野の発想である。哲学も少しは役立つが科学のほうがはるかに役立つから科学の発展によって全体として哲学はもう不要になったのだ――これが三浦さんの弁証法的な「哲学不要論」である。牧野は、「三浦さんの頭は…混乱し、矛盾に満ちています」というが、これは三浦さんの頭の矛盾(不合理なものとしての)とか混乱とかではない。全体としての理解は誤っているが、部分的には正しいことを説いているという意味で、客観的な哲学のあり方そのものが矛盾しているのである。牧野のいう三浦さんの頭の「混乱」「矛盾」なるものは、現実の哲学が持つ矛盾した性格を的確に反映したもの、つまり弁証法的に把握したものにほかならないのである。
 ところが、形而上学者・牧野は、「少し役立つ」と「不要」を絶対に両立し得ないものとして捉え、客観的に哲学が持つ矛盾を、あろうことか三浦さんの頭の混乱にすりかえているのである。牧野は、三浦さんの文章をまったく理解することができなかった己の頭の悪さにいささかも気付いていない。それどころか、哲学の指導者(『哲学の演習』!)ぶって平然と三浦さんの頭の「混乱」「矛盾」を説いているのである。おそらく三浦さんの頭の「混乱」に比べて自分の頭のはたらきはなかなか優秀だと一人悦に入っているのだろう。まことに醜悪極まりない自称・哲学の指導者である。
 牧野は「『あまり』関心を持たなくなったとか、『ほとんど』役立たないといった不正確な表現に三浦さんの自信のなさ、曖昧さが出ている」というが、この文章に滲み出ているのは、牧野なる人物のどうしようもない頭の悪さであり、自分の頭の悪さを三浦さんの頭の「混乱」にすりかえて恥じることのない人格の低劣さである。まったく、この人の頭はどうなっているのだろうか!
posted by 寄筆一元 at 00:41| Comment(5) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月25日

『学城(ZA-KHEM,sp)第三号』発行!!!

待ちに待った『学城(ZA-KHEM,sp)第三号』がついに発行された!!! 本日昼過ぎに家に送られてきた(3冊)。

南郷師範の弟子である悠季真理氏が、『武道の理論』の翻訳を始めるようである。今回は「まえがき」の英訳、ドイツ語訳、ギリシャ語訳が載っている。

さらに、南郷師範の東京大学生に対する講義が始まっている。こんな感じで、『学城』に講義録を載せていっていただけるとありがたいのだが。

しかしならが残念なことに、ここのところ塾の夏休み講習の準備と授業、それに某レポートに追われて忙殺している。はたしていつ読めることやら。
posted by 寄筆一元 at 16:32| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月28日

『医学教育概論(1)』の発刊

速報!! 待ちに待った、瀬江千史先生、本田克也先生他の共著『医学教育概論(1)』(現代社)が、ついに発刊!! 興味のある方は、速攻で注文を!! 詳しくは、現代社のHPへ。

ところでこの現代社のHP、瀬江先生の「瀬」の字が正しく表記されている。前からそうだったかな? と思って調べてみると、『学城』や『綜合看護』の目次のところでは、間違った表記がされている。やはり、最近になって単行本のところだけ訂正されたのだろう。

なお、このブログでは、南郷師範の「郷」の字も含めて、正しく表記できない。文字化けしてしまうのである。決して、知らずにやっていることではなく、間違っていると知っていながらここでは正しく表記できないため仕方なくやっていることなので、お許しいただきたい。
posted by 寄筆一元 at 13:15| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月11日

藤原正彦『国家の品格』(新潮新書)、『この国のけじめ』(文藝春秋)



バカ売れしているという藤原正彦『国家の品格』(新潮新書)と、同じ著者の『国家のけじめ』(文藝春秋)を読んだ。両方とも、なかなかいい本だ。

『国家の品格』は、講演記録をもとに執筆したものであるだけに、内容にまとまりがあり、非常に分かりやすく読みやすい。非常にいいことが書いてあるので、この本が売れているというのは、日本にとっていいことだと思った。

藤原氏の主張は次のようなものである。

核兵器・環境破壊・犯罪やテロ・家庭崩壊や教育崩壊など、先進国が共通して抱える問題の根元は、西洋的な論理、近代的合理主義精神の破綻にある。一方で、「情緒」や「形」を重んじてきた日本文化は非常に優秀であり、世界を指導する普遍的価値になりうる。そういった日本文化を育んできた「武士道精神」を復活させることこそが、日本人として生まれた真の意味であり、人類への責務であり、これこそが破綻した欧米の教義に代わって世界を救う道である。


このような藤原氏の主張は、基本的に、『「武士道」解題』の李登輝前台湾総統と同じである。また、『国家の品格』の中では、真のエリート教育の必要性を説いている。このあたりは小室直樹氏と似ていると思った。さらに、教養の意義という点では、『学生に与う』の河合栄治郎と同じようなことをいっている。藤原氏が挙げている真のエリートの二つの条件を引用してみよう。

「第一に、文学、哲学、歴史、芸術、科学といった、何の役にも立たないような教養をたっぷりと身につけていること。そうした教養を背景として、庶民とは比較にならないような圧倒的な大局観や総合判断力を持っていること。これが第一条件です。
 第二条件は、『いざ』となれば、国家、国民のために喜んで命を捨てる気概があることです。この心のエリートが、いま日本からいなくなってしまいました。
 昔はいました。旧制中学、旧制高校は、こうした意味でのエリート養成機関でした。」(『国家の品格』p.84)

小学校での英語教育を批判している点も興味深かった。「私に言わせれば、小学校から英語を教えることは、日本を滅ぼす最も確実な方法です」とした上で、次のように述べている。

「国際的に通用する人間になるには、まずは国語を徹底的に固めなければダメです。表現する手段よりも表現する内容を整える方がずっと重要なのです。英語はたどたどしくても、なまっていてもよい。内容がすべてなのです。そして内容を豊富にするには、きちんと国語を勉強すること、とりわけ本を読むことが不可欠なのです。」(pp.39-40)

また、他の箇所では、小学校で英語教育などをしてしまえば、「英語の実力がアメリカ人の五割、日本語の実力が日本人の五割という人間」になってしまい、「このような人間は、アメリカでも日本でも使い物になりません」と断じた後で、「日本人の英語下手」の理由を分析している。

「日本人が英語下手なのは、小学校から教えないからでも、中高の英語教師のせいでもありません。主な理由は二つあり、一つは英語と日本語があまりに異なることです。…もう一つは、日本に住む日本人は、日常生活で英語を何ら必要としないからです。母国語だけで済むというのは植民地にならなかったことの証で、むしろ名誉なことです。」(p.145)

確かに英語習得には膨大な時間がかかってしまうため、英語ペラペラと教養は両立しにくいのだろうと思った。英語教師が言うのも何だが、英語習得に時間が割けなくても、その分読書によって教養を身につければそれでいい、むしろそっちの方がいい、という気がしてきた。

「天才の出る風土」についても分析されている。藤原氏によると、「天才を生む土壌には三つの共通点がある」(p.165)という。その三つとは、「美の存在」、「何かに跪く心」、それに「精神性を尊ぶ風土」である。これもなかなか面白かった。

さて、もう一冊の『この国のけじめ』であるが、これは随筆集である。『国家の品格』との重複も多いし、各随筆間での重複も多い。しかし、『国家の品格』にはないユーモアにあふれており、個人的にはこちらの方がずっと面白く読めた。また、ともに作家である両親、つまり、新田次郎氏と藤原てい氏のことや、『博士の愛した数式』(新潮文庫)の小川洋子氏について等、『国家の品格』にはない内容もあり、それらも楽しめた。

大学で大人気であるという「読書ゼミ」の話も参考になった。これは主に明治時代に書かれたものを、毎週文庫一冊のペースで読み進めるゼミである。具体的な書名が挙がっていたものとしては、新渡戸稲造『武士道』、内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』『代表的日本人』、福沢諭吉『学問のすゝめ』『福翁自伝』、山川菊栄『武家の女性』、宮本常一『忘れられた日本人』、無着成恭編『山びこ学校』、日本戦没学生記念会編『きけわだつみのこえ』である。これら、明治期のあたりの本を読みたくなってきた。

藤原氏の本はなかなか面白いということが分かったので、『若き数学者のアメリカ』や『祖国は国語』(新潮文庫)なども、また読んでみたいと思う。

なお、「武士道精神」もやはり三浦つとむ的に理解しないといけないと思って、三浦つとむ「日本の家庭」(『生きる・学ぶ』季節社、所収)という論文も読んでみた。マルクス主義の人間観と、日本人の社会的人間観は似ているのだということを知った。
posted by 寄筆一元 at 18:45| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月31日

モンゴメリー『アンの娘リラ』(掛川恭子訳、講談社)

※今回も、『アンの娘リラ』の内容について触れていますので、未読でその内容を知りたくない方はご遠慮ください。

『赤毛のアン』シリーズの短編を除く最終巻。間違いなく、シリーズ中最高傑作!!!

主人公はアンの末娘・リラ。舞台は、第一次世界大戦中のカナダ、プリンス・エドワード島。今までの巻とは違い、戦争による暗く、重々しい雰囲気が漂っている。

アンの息子たちは、長男のジェムを筆頭に、次々に出征していく。詩人の次男・ウォールターは、戦地で詩を書き、世界的に有名になる。しかし、アンの息子の中では唯一、戦死してしまう。未来を予感する能力を持っていたウォールターは、死ぬ前の晩、自分の死を悟り、リラと牧師館の娘ウナに宛てた手紙を書く。凄く感動的な手紙で、涙が止まらなかった。

長男のジェムが出征する時、ジェムが飼っていたマンデーという名の犬が、見送りに駅についてくる。そして、そのまま駅に居座って、ジェムの帰りを待つのである。物語の最後に、四年半ぶりにジェムがその駅に帰ってくる。年老いてリウマチになっていたマンデーは、一気に若返り、ジェムに飛びつく。ここもまた、感動的な場面だった。

他方リラは、戦争孤児になったジムズをひとりで育てることになる。当初は子ども嫌いでワガママだったリラも、ジムズを育てていく中でジムズのかわいさの虜になり、徐々に成長していく。ウォールター最後の手紙に書いてあったウォールターの信頼に応えるために、必死にカナダ人女性としての義務を遂行していく。

第5巻『アンの夢の家』で結ばれたレスリーとオーエン・フォードの息子であるケネスは、出征前、リラにプロポーズしようとする。しかし、女中のスーザンのお節介のために、中途半端な状態のまま、戦争に出てしまう。「私は、婚約したのだろうか?」と心配するリラ。それはれっきとした婚約だと言って、リラを励ますアン。そして、最後にケネスが戦争から帰ってくる。「リラ・マイ・リラ、僕のリラだね?」と言うケネスに対して、リラの最後のセリフが「そうでしゅ」。最後はやはりほのぼのとした、明るい未来を感じさせる結末だった。

戦争中、息子や兄を戦争に送り出して、電話が鳴るたびに彼らの戦死を伝える電話ではないかとびくびくしながら、4年以上も生活するアンやリラ。そして、とうとう伝えられたウォールターの死とジェムの行方不明の報。想像を絶するほどつらく、気の遠くなるほど長く感じられた4年半であったと思う。アンやリラの苦しみに較べれば、仕事がうまくいっていないとか、経済的に困っているとかいうような自分の悩みなど、たかがしれているという気がしてきた。

今回、『赤毛のアン』シリーズを読んでみて、キリスト教の影響下にある庶民の生活ぶりを知ることができたのはよかったと思っている。また、電話が発明され、飛行機が戦争で使われるようになり、自動車が人々の生活の中に入り込んでくる、19世紀末から20世紀初頭にかけての世界を、具体的に見ることができたのも面白かった。何といっても、アンをはじめ、登場人物の認識の変化・発展が、ひとつの典型例として描かれており、そういう人間の普遍的かつ具体的な認識の動きに触れることができたことが、一番勉強になったように思う。
posted by 寄筆一元 at 03:14| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月21日

大村はま『新編 教えるということ』(ちくま学芸文庫)



本物の国語力をつける「大村単元学習」で知られる国語教育家・大村はま氏の4つの講演をまとめた本。本書の裏表紙には、次のような紹介文が載っている。

「プロの教師としてあるべき姿、教育に取り組む姿勢について、厳しくかつ暖かく語る。教育にかかわる人をはじめ、教育に関心をもつすべての人々、とくにこれからの社会を担う若い人々に贈る一冊。」

まさにその通りに、専門職としての教師、あるいは教師の面目にこだわり、決して生徒の責任にせず自ら責任を負い、工夫に工夫を重ねる大村氏の教育者魂をひしひしと感じる本である。教師の技術を重視する点はTOSSに通じるものがあるし、「一人で判断するようにしつける」という点は、原田隆史の自立型人間の育成に通じるものがあると思った。

自分の教育実践にも参考になりそうなところというか、自戒しなければならないところがあった。少し引用しておこう。

「育てようとねらう力によって、対象と生徒を見つめながら、さまざまな方法を考えることができる、そこで初めて玄人、つまり専門職の教師ということになると思います。」(p.142)

「まず説明をして、『やってごらん』、これでおしまいになるような行き方は、魅力を生まないと思います。
 教室は、『やってごらん』という場所ではないからです。それを自然にやらせてしまう場所だからです。『もっとよく読んでみなさい』『詳しく読んでごらん』そういう場所ではなくて、ついつい詳しく読んでいた――そういう自覚もないぐらいに――詳しく読む必要があるのでしたら、その場で詳しく読むという経験そのものをさせてしまうところです。……学習そのものを、やらせてしまわないとだめだと思います。」(p.207)

ただ、「仏様の指」の話をもってきて、教え子が、困難を突破したのは「自分の力だと信じ、先生のことなんか忘れてしまってくれれば本懐である」(p.159)という主張は、先に紹介した杉浦容疑者と同じもので、何となく違和感があった。
posted by 寄筆一元 at 23:00| Comment(3) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月20日

原田隆史『大人が変わる生活指導 仕事も人生もうまくいく』(日経BP社)



18日(木)に、原田隆史のテレビ出演が2本あった。一つ目は、ザ・ワイドのコメンテーターとしての出演である。草野仁が原田隆史にはあまり話を振らなかったような感じがした。二つ目は、ニューススクランブルでの教師塾の紹介だ。10分くらいの時間で、なかなかコンパクトによくまとまった紹介がされたと思う。教師塾への参加料が無料で、運営費はすべて原田隆史個人の貯蓄が当てられていることも、しっかり報道されていた。例によって、教師塾の紹介のVTRに、弟が映っていた。

そんな、メディア露出が増えてきた教育のエキスパート・原田隆史の新刊が『大人が変わる生活指導 仕事も人生もうまくいく』である。(念のためにいっておくと、この原田隆史と『声に出して読みたい日本語』の齋藤孝は別人である。)

大人向けに、原田式主体変容の理論とその具体的方法が説かれてある。この本を読んで、子どもや部下に「生き方モデル」を示せるリーダーが育てば、世の中がガラリと変わる、そんな予感がする素晴らしい内容だった。各章ごとに内容を紹介しよう。

「O時間目 仕事と思うな、人生と思え」では、自立型人間に生まれ変わらせるための指導、その中心にある「心づくり指導」がまとめられている。原田流、実践的認識論といった内容だ。以下の五つの方法で構成されている。

@心を使う
「『心を使う』とは、私が考案した『リーチング目標設定用紙』を使って、心の中にある思い、考えを文字にしていく作業です。自分の内面にある漠然としたイメージを鮮明にする作業ともいえます。また、思いを文字に映し出すことで、自分としっかり向き合うことができます。」(p.18)

A心をきれいにする
「『心がきれい』とは、心のコップが上に向いていて、物事に取り組む姿勢や態度が素直でまじめ、積極的な状態をさします。そんな時、人は高い目標にも真剣な態度で向き合えます。
 『心をきれいにする』とは、身の回りの目に見えるすさみと、心の中にある見えないすさみを取り除くことです。」(p.19)

その方法としての態度教育の徹底と奉仕活動。

B心を強くする
「『心を強くする』とは、今の自分の力でやれることを決めて毎日欠かさずに継続することです。前述のように心をきれいにするための清掃や奉仕活動であれば、なお効果的でしょう。」(p.20)

C心を整理する
「『心を整理する』とは、自分の心の中にある、過去の失敗や後悔などのマイナス要素を整理して、いつまでもそのマイナスにとらわれないようにすることです。」(p.21)

その具体的方法としての日誌。

D心を広くする
「自分の長所を生かして他人に貢献したり、持っているものを惜しみなく相手に与えると『ありがとう』の言葉が返ってきます。その際に『心が広くなる』のです。」(p.22)

日本精神の発揮。

「一時間目 大人にこそ生活指導を」では、ごく身近な日常生活の改善を通して、仕事や家庭がうまくいった実例が紹介されている。それら全てが、自らの「心づくり指導」の具体化として紹介されているために、「心づくり指導」そのものがよく分かるようになるし、その有効性も得心できる。最後の方では、理想のリーダー像が説かれている。

「ビジネスの現場に限らず、広い意味でリーダーにふさわしい人間をひと言でいうなら、私は生き方そのもの、人生そのものがお手本になる人だと確信しています。前述した通り、生き方モデルになれる人です。」(p.67)

「二時間目 理念と目標を掲げる」は、人生の理念について説かれている。吉田松陰を引き合いに出して、「高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など明治維新の中心人物を、わずか二年半という短期間で輩出」するという業績は、「松陰先生の国を思いやる強烈な『思い、志、理念』があってこそ成し得た奇跡」である、としている。そして、「理念がないままに、真の目標を見つけることはできません。理念が定まってはじめて、目指すべき目標が、次々と見えてくるのです。」(p.75)と説き、「理念とは、目標に向かって日々上る階段を、しっかりと支える柱」(p.76)であるとまとめている。その後、理念を形成するのに役立つ日誌の効果についても説かれていく。なお、原田隆史自身の人生理念は、「日本をよりよくする自立型人間の育成」(p.108)である。

次の「三時間目 脳と心を鍛えるエクササイズ」では、「手書き、音読、アナログ」で行う脳に汗をかくエクササイズ法が紹介されている。具体的には、三分間作文とオープンウィンドウ64(別名マンダラワーク)である。こういったエクササイズで、自分の長所や仕事の楽しさをできるかぎりたくさん出し、情熱を語る多くのことばを蓄えておく、実践思考を鍛える、七秒間で相手の心にグサッと入り込む言葉を用意しておく、というわけである。最後には、自分を元気にする方法として、日誌、ストローク、セルフトークの他に、「感動するものに意図して触れること」を挙げている。ここで、元気が出るお薦めの映画やドラマ、アニメ(『オールド・ルーキー』『ナチュラル』『ブレイブハート』『パトリオット』『Mr.インクレディブル』『白い巨塔』『Dr.コトー診療所』『アルプスの少女ハイジ』)を紹介した後、次のように述べている。

「映画やドラマのシーン以外にも、元気が出た言葉、感動した思い出、先輩や上司から聞いたよい話などを、忘れないように書いておく。こうした元気のキーワードをたくさん持つことは、他の人にも元気を与える言葉をたくさん持つことになります。」(pp.127-138)

最終章は「四時間目 かかわり方を変えてみる」である。ここでは、「やる気を与えるポイント」として、「有能感、統制感、受容感」(p.156)という三つの内発的動機づけが紹介されていたり、リーダーの三つの顔ということで、「『母性』『父性』『子ども性』の三つの性をバランスよく使い分けて育てること」(p.158)の大事性が説かれていたりする。これらは自分の塾での指導にも生かせそうな気がした。こういった原田隆史が取り入れている心理学的知見は、最近購入したAtkinson and Hilgard's Introduction to Psychologyのような教科書で確認していこうと思った。成功曲線と心のツボの話も、実践に活用できそうだ。ストロークの重要性と注意点も再確認できた。

p.170から始まる「よき大人よ、夢を掲げ、同志をつくれ!」の節は、非常に感動的だった。少し長いが引用して、この本の紹介を終わりたい。やはり、どんな分野であろうと、革命的な仕事をされる方というのは、同じような孤独感を味わうのだという気がした。

「私は、問題のあった学校を立て直すとき、自分を裏切らない仲間、志をともにしてくれる同志がほしいと、切に願いました。しかし実際は、崖っぷち四面楚歌の状態が続いていました。
 というのも、志をともにしない人間に、ちょっとでも依頼心を見せれば、結局そこから、すべてをひっくり返されてしまうという経験が何度もあったからです。だから、何があっても自分を裏切らない仲間がほしかった。
 中学校を立て直すことはできましたが、そこで直面した問題は、日本の教育の問題でもありました。
 志を育み、自立心を芽生えさせることに、目を向けない日本の教育。スキルがすべてのように指導する風潮。忌まわしい事件の加害者がどんどん低年齢化していく異常な世の中。志のない人材が就職して、企業の体力もどんどん落ちていく。私の力だけでは、もはやどうにもならない。
 そこで、ある夢を抱きました。将来、教師を指導する先生のための私塾をつくりたいと。私に共感してくれる日本全国の先生方に、自分の志を伝えて育てていきたい。そして、志ある教師が責任を持って生徒を育てていくしかないと考えたのです。これが現在、力を注いでいる教師塾です。日本の教育や企業をプラスに導くためには、たくさんの同志を増やさなければなりません。
 たとえ四面楚歌でも、それを楽しんでください。悪いムードに決して流されることなく自分を貫いてほしい。かつての私がそうであったように。
 必ず自分の志に、心から共鳴してくれる人が出てきます。かかわりを絶やさず、その志の輪を一つひとつ広げていきましょう。いつか、あなたの時代がくるはずです。」(pp.171-172)
posted by 寄筆一元 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(1) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月16日

市川伸一『学ぶ意欲の心理学』(PHP新書)



著者の市川伸一が『勉強法が変わる本』(岩波ジュニア新書)では割愛せざるをえなかった動機づけに関する問題。それを、この『学ぶ意欲の心理学』では専ら取り上げている。

全部で4章からなっている。第1章は「動機づけの心理学を展望する」として、学説史を踏まえた動機づけの心理学のレビューと、自分が提唱する「学習動機の二要因モデル」の解説がなされている。経営心理学における動機づけからマズローの階層性理論、それに外発的動機づけ・内発的動機づけの理論など、学説史がコンパクトにまとめられており、非常に勉強になる。市川が提唱する二要因モデルとは、学習動機を、学習の功利性と学習内容の重要性という二つの次元から整理したものである。その結果、従来の内発・外発という二分法で捉えたれていた動機づけを、連続した「程度問題」として捉えることになった。このモデルがどのくらい有用なのかは分からないが、正直ちょっとした思い付き程度に思える。

第2章は「和田秀樹氏との討論」ということで、外発的動機づけを重視する和田秀樹は自分の二要因モデルを誤解している、として、その誤解を丁寧に解消していく。一つ面白いと思ったのは、市川が立脚する教育心理学と、和田が立脚する精神分析は、その対象者が違うという市川の指摘。精神分析の対象者のように不適応に陥ってしまった人や、乳幼児、行動主義が対象とする動物一般、こういう対象に対して外的報酬が強力に作用するからといって、これを条件を無視して、全ての人に当てはまると主張するのは間違いではないか、と市川は批判している。つまり、対象の特殊性に応じて、そこから創りだされた理論にもまた特殊性があるということだと理解した。動物実験によって得られた知見には、特殊性もあれば普遍性もあるので、特殊性を無視して人間にも完全に当てはまると主張したり、逆に普遍性を無視して人間には絶対に当てはまらないと主張したりするのは、共に行きすぎであり、間違いである。

第3章は「苅谷剛彦氏との討論」。苅谷剛彦は、教育改革の基礎には俗流・教育心理学モデルがあるといい、このために子どもの置かれている社会環境、あるいは階層差が学習に及ぼす影響を見逃してしまうと主張する。言い換えれば、教育心理学的に、ミクロな視点だけで考えているのでは、教育問題は解決できない、社会学的に、マクロな視点から環境要因をも見ていかないとダメだ、という主張である。これに対して市川は、「俗流」と「正統」の違いを示し、「正統」派の教育心理学では、環境の影響を見ていると反論している。しかし、「正統」派の、学術的な教育心理学も、現場の先生に届いたり、国の政策に反映したりするときには、俗流化が起こる危険性も認めている。この章では他に、教育界の意識の時代的変化や、移転や領域固有性の問題などにも触れられており、第2章より面白く読めた。

最終第4章は「自分のやる気を引き出す環境づくりと意識づくり」というテーマで、市川が二要因モデルに基づいて具体案を提示している。塾の教育でも使えそうなものがけっこう紹介されていた。例えば、グループとしてがんばると何か報酬が出る、自分との競争をさせる、多重の動機によって支える、失敗した際の教訓帰納、使う場面から入っていく学習(基礎に降りていく学び)、などである。特に、失敗から教訓を引き出してメモをさせるというのはやってみたいと思った。同時に、紹介されていた畑村洋太郎『失敗学のすすめ』も読んでみようという気になった。

市川の本はけっこう分かりやすい。他にも持っているので、また読んでみたい。
posted by 寄筆一元 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月15日

モンゴメリー『虹の谷のアン』(掛川恭子訳、講談社)

※今回も、『虹の谷のアン』の内容について触れていますので、未読でその内容を知りたくない方はご遠慮ください。

赤毛のアンシリーズ第7巻、『虹の谷のアン』。原題は、Rainbow Valley。原題が暗示しているが、もはやアンの話という感じではない。むしろ、アンの子どもたちと、牧師館の子どもたちの交流が中心になっている。

物語の前半には、メアリー・バンズが登場する。彼女は、アン同様孤児であるが、もらわれた家の奥さんに虐待され、家出する。その後、ミス・コーネリアに引き取ってもらって、めでたしめでたし。

後半は、メレディス牧師とローズマリーの結婚話が中心である。メレディス牧師は4年前に妻を亡くすが、ローズマリーに出会ってから彼女との再婚を考え始める。いよいよ結婚を申し込んだが、ローズマリーは姉との約束からこのプロポーズを断る。この時点で、結局最後には結婚してハッピーエンド、というのが見えていたが、具体的にどういう形になるのかは分からなかった。結末は、姉も結婚するので、その約束が解消されたということだった。

約束が解消されたものの、一度断ったメレディス牧師に対して、どう対応すればいいのか悩んでいたローズマリーのところに、牧師の娘ウナがやってきて、父がまだローズマリーのことを想い続けていることを告げる場面がある。ここは涙が出てきた。いいお話だ。

次は、短編を除くといよいよ最終巻である。今週中には読んでしまいたい。
posted by 寄筆一元 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月07日

李登輝『「武士道」解題 ノーブレス・オブリージュとは』(小学館)



前台湾総統・李登輝による新渡戸稲造『武士道』解題。同時に、日本精神=大和魂や武士道といった、日本特有の指導理念や道徳規範こそが、「人類社会がいま直面している危機的状況を乗り切っていくために、絶対に必要不可欠な精神的指針」(p.9)であるとして、そういった日本の伝統的価値観の尊さを世に問うという意図で書かれている。はっきりいって超お勧め。

第1部は「日本的教育と私」。台湾の日本統治時代に、日本人としての教育を受けた李登輝が、自己の体験を振り返り、戦前日本の教養教育の優秀性を説いていく。鈴木大拙や西田幾多郎、カントやゲーテから、カーライルを経て、新渡戸稲造に出会うまでの李登輝の魂の遍歴が、いきいきと描かれている。徹底的に本を読みあさり、その成果を人生に反映させようと思索し実践する、旧制高校的な雰囲気がよく伝わってきた。

第2部は「『武士道』を読む」。ここからがいよいよ『武士道』解題である。『武士道』と同じ章立てで、岩波文庫の矢内原忠雄訳から抜粋しつつ、義・勇・仁・礼・誠などの徳目について、自身の政治家としての生き方を振り返りながら解説がなされていく。李登輝の業績を知ると、李登輝が本当に『武士道』の精神に生きている!ということがよくわかる。まさに李登輝は日本精神の体現者である。

付録として、慶応大学の学園祭で行われる予定であった講演の原稿が収録されている(訪日ビザの申請が取り下げられ、この講演は実現しなかった)。タイトルはズバリ、「日本人の精神」。初出は『産経新聞』2002年11月19日付である。僕はこの新聞記事で既に読んでいたが、改めて読んで、また感動した。この講演では、日本精神の体現者として、台湾の発展に貢献した八田與一という人物が紹介されている。八田與一は、44歳の若さで、20世紀の初めに、戦後の日本における近代農業用水事業の象徴とされる愛知用水の10倍を超える規模の灌漑事業を成功させ、15万町歩におよぶ不毛の大地を台湾最大の穀倉地帯に変えた人物である。この八田の、公義=ソーシャル・ジャスティスを実践した人生が、興味深く紹介されているのである。

本書を読んで、新渡戸稲造はもちろん、李登輝の教養の深さにも驚かされた。プラトンやアリストテレス、カントやヘーゲルといったメジャーどころはもちろん、プロティノスやカーライルといった少しマイナーな思想家・哲学者についても、当たり前のように説いている。もちろん、中国や日本の思想家にも詳しいし、ともにキリスト教徒だけあって、聖書にも造詣が深い。それも単なるブッキッシュ・ラーニングにとどまらず、しっかりと血肉化している感じがする。

僕も旧制高校的な雰囲気に浸って、哲学史を勉強するとともに、『武士道』を評価している藤原正彦の『国家の品格』や、新渡戸稲造の別の著作である『修養』なんかを読んでみようという気になった。
posted by 寄筆一元 at 21:46| Comment(8) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月04日

アイザック・アシモフ『アシモフの科学者伝』(小学館)



タイトル通り、アシモフによる科学者の伝記である。原題は、Breakthroughs in Science。30人の科学者・技術者の業績と生涯が生き生きと語られている。

もちろん、科学者・技術者のそれぞれの業績をしっかり説いてくれているが、それだけではない。「ロシアのピョートル大帝も、造船技術を学ぶためオランダを訪れたとき、時間をさいてファン・レーウェンフックの家を訪れ、彼に敬意を表した。」(p.63)というような小話や、「ニュートンの欠点の一つは、人の批判を聞き入れないことだった。彼は、たえずけんかをした。」(p.72)というような人となりについても触れられており、大変興味深い。

また、奇数ページの左側についている注や、吉川良正によるコラムもなかなか面白い。注には、本文で登場する他の科学者の業績が簡潔にまとめられていたり、エジンバラ大学が「世界で最初に女子学生の入学を認めた大学である」(p.189)というような豆知識も載っている。コラムでは、エジソンの数学的素養の欠如を暴露していたり、ゴダードのロケットに対する「ニューヨーク・タイムズ」紙の間抜けな論説を紹介したりしている。

巻末にはブックガイドも載っており、全体として充実した内容になっている。サクサク読めて勉強になり、おまけに面白い、というような感じの本だった。

なお、アシモフには類書で、『科学技術人名事典』(共立出版)がある。こちらは、1000人以上の科学者・技術者の生涯が、年代順に描かれている。アシモフの博学ぶりを示す著作であるとともに、資料的価値もかなり高い著作だと思う。
posted by 寄筆一元 at 17:19| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月29日

モンゴメリー『アンの愛の家庭』(掛川恭子訳、講談社)

※今回も、『アンの愛の家庭』の内容について触れていますので、未読でその内容を知りたくない方はご遠慮ください。

赤毛のアンシリーズ第6巻、『アンの愛の家庭』を読んだ。第6巻であるが、書かれたのは、シリーズで一番最後らしい。イングルサイドを舞台に、34歳〜40歳の母親としてのアンと、その子どもたちが巻き起こす事件が描かれている。

長男のジェム、次男のウォールター、双子のナンとダイ、末娘のリラは、それぞれ独立したエピソードがあったが、なぜか三男のシャーリーにはそれがなかった。

自分も双子ということもあって、ナンとダイの双子のお話は興味深く読んだ。二人は全然似ていない。ちょっとまとめてみよう。

ナン…きれい、栗色の目、栗色の髪、顔の色が素晴らしい、お母さんの想像力を受けつぐ

ダイ…赤毛、見た目はお母さん似、気質や性格はお父さん似


全くどうでもいいが、僕と兄の違いもまとめてみよう。

兄…社交性がある、背がわずかに低い、偏差値も少し低い、たばこを吸う、運動神経がある、運動能力なし、既婚、安定した職業

弟(僕)…社交性がない、背がわずかに高い、偏差値もわずかに高い(つまりバカ)、たばこを吸わない、運動神経がない、運動能力あり、未婚、不安定な職業


なお、ここでいう運動神経とは、いわゆるセンスのことで、例えば、サッカーやバレーなどをやらせると、兄の方がダントツにうまい。ともに部活でやっていたバスケでも、シュートなんかがうまいのは兄である。それに対して、運動能力というのは、ただ単に走ったり飛んだりする能力のことである。実はこう見えて(?)、僕はかなり走りが速い。

まあ、このような違いもあるが、僕ら二人は、まずまず似ている双子といえるかもしれない。見た目もそうだが、同じ大学の同じ学部で、同じ「三浦つとむ」を卒論のテーマに選んだ双子は、めったにいないはずだ。

閑話休題、ナンは、想像力が豊かすぎるが故に、子ども時代のアンと同じような失敗をしてしまう。しかし、自分の失敗を踏まえたお母さんに、適切な働きかけをしてもらうことで、その失敗を乗り越えていく。

一方ダイは、友人運に恵まれず、二人の友人にだまされてしまう。何とも憎たらしい友人なのであるが、その友人たちにだまされ、裏切られていく中で、そういう種類の人間もいるのだということを学んでいく。

最後の三章だけは、アンとギルバートの微笑ましいお話になっている。ここが一番泣けた。とはいうものの、やはり前回の第5巻の方が感動したような気がする。
posted by 寄筆一元 at 18:49| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月14日

モンゴメリー『アンの夢の家』(掛川恭子訳、講談社)

※今回も、『アンの夢の家』の内容について触れていますので、未読でその内容を知りたくない方はご遠慮ください。

『赤毛のアン』シリーズ第五巻、『アンの夢の家』読了。アンが25〜27歳の間の新婚生活が描かれている。舞台はフォア・ウインズ岬の灯台近くにある白い「夢の家」。

感動した! いままでの中で一番よかったかもしれない。第4巻『アンの幸福』のように、ゴチャゴチャした感じが全くないのもいい。しかし、それだけではなく、主要登場人物のそれぞれが、思いがけないようなハッピーな結末を迎えるのが、読んでいて非常に嬉しかった。

アン。初めての子どもが生まれたその日に死んでしまう。その悲しみはいつまでも消えないが、その悲劇がアンとレスリーとの壁をとりのぞいてくれた。しかも一年後、アンにはジェームズ・マシューと名付けられることになる男の子が生まれる。よかった、よかった。

レスリー・ムーア。若くして母親を救うために結婚したものの、夫が航海先でけがを負い、記憶をなくした上、精神的におかしくなって帰ってくる。そんな夫の面倒を、一生見なければならない宿命のレスリーは、アンとギルバートの幸せな新婚生活をねたみ、アンに密かな敵意を抱いていた。しかし、アンの娘が亡くなったことをきっかけに、アンとの間にあった壁がとりのぞかれ、アンと真の「ヨセフの一族」(アン流にいうと<相呼ぶ魂>、つまり心の友)になる。その後、下宿人であるオーエン・フォードを愛してしまう。頭のおかしい夫をもつ身ゆえ、どうすることもできないと思われた。しかし、ギルバートのすすめによって、夫ディック・ムーアに脳の手術を受けさせる(これで記憶が回復するかもしれないのだ)ことで、事態が一変する。手術は成功した。すると、衝撃の事実が明らかになる! 僕はてっきり、この手術でディックが死んでしまって、その後レスリーとオーエンが一緒になって、めでたしめでたし、だと予想していたのに、その予想をはるかに超える、衝撃の、そしてもっとハッピーな結果になったのだ。こんな結末を、誰が予想していただろうか。いや、誰も予想していない。とても信じられる話ではないのだ。アン自身もいっている、「わたしたちのうちのだれひとり、夢にも思わなかったような」(p.217)と。ちょっとひっぱってみたが、小説中でもアンがなかなか結末をいわないので、ちょっとイラッときたものである。実はディックなんていう人は存在しなかったのだ。ディックだと思っていた人は、そのいとこであった。特殊な目をしていたので、風貌がかなり変わっていたにもかかわらず、記憶がなくなってしまった人間をディックだと思ってジム船長が連れ帰ってきたのだが、別人だったわけである。これで、晴れてレスリーは自由の身となり、オーエンと婚約する。めでたしめでたし。

ジム船長。かつては世界中の海を駆け回った冒険家。今は灯台の守。活き活きと冒険物語を語ってくれる話術に長けた老人。自分の冒険譚を『人生録』に書き連ねているものの、語り口とは裏腹に、書き言葉は苦手で文法的な間違いも多く、魅力に欠けるものとなっている。ところが、レスリーのところへ下宿に来た作家志望のオーエン・フォードの目にとまり、オーエンはインスピレーションを受ける。長年、自分の冒険物語を、しっかりとした小説として残したいと思っていたジム船長は、オーエンに協力して、自分の人生録を元にした物語を書いてもらう。年老いたジム船長は、自分の人生録が本になることを楽しみにして過ごすが、とうとうその本が出来上がり、ジム船長のもとに届けられた夜、船長はその物語を最後まで読み切り、満足しきった表情で亡くなる。いい話だ。

この第5巻までは、アンが11歳の時にグリーン・ゲイブルズに引き取られてから、27歳で小さな「夢の家」を出ていくまで、連続して描かれている。しかし、次の第6巻は、7年後に飛ぶようだ。まだまだ感動させてくれそうな予感がする。
posted by 寄筆一元 at 02:17| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。