2013年01月18日

『三浦つとむ 意志論集 ――20世紀マルクス主義が欠落させたもの――』

 横須賀壽子さまより,『三浦つとむ 意志論集』(績文社)を贈っていただいた。かねてから予告されていた津田道夫編集・解説の新刊である。この時期に出版されたことは,私にとってなんらかの意味があるものと受け取って,しっかりと学んでいきたい。

 私にとって初見の論文が多数収録されているものと期待していたが,10論文のうち,初見は一つだけであった。それは,『試行』に掲載された「上部構造とはなにか」という論文である。他の9つは,すでに私が持っている著作に収められている。

 とはいえ,この時期に三浦つとむの意志に関する論文集が発刊された意味は大きい。意思は言うまでもなく,認識論の体系化を志す私にとっては,非常に重要なテーマである。さらに,心理臨床の仕事にとっても,意志の重要性は大きい。いわゆる「動機づけ」といって,クライエントが心理面接にどのくらい「やる気」をもって取り組んでくれるか,ということが,治療効果にも大きな影響を与えるからである。意志とは何かをふまえた上で,しっかりと相手の意志を評価し,相手の意志を育てていく働きかけが,心理臨床の実践においては不可欠なのである。

 三浦つとむの主著たる『認識と言語の理論』とともに,本書にしっかりと学び,人類の文化遺産をしっかりと修得したうえで,新たな知見を一つでも二つでもつけ加えたいと思う。
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2011年09月05日

科学史の本3冊

 科学の歴史の勉強といえば,南郷継正先生や瀬江千史先生が推薦されているシュテーリヒ『西洋科学史』(現代教養文庫)に勝るものはないだろう。しかし,この書は全5冊と膨大である。今まで何度か通読したが,全然頭に入らない。
 そこで,まずは『西洋科学史』を否定して,もっと薄い科学史の本を読んで全体像をアバウトに描いた上で,さらにそこを否定して『西洋科学史』に戻るという計画を立てた。否定の否定の実践である。
 そこで,以下の3冊をとりあえず読んでみた。


 

 1冊目は,中山茂『パラダイムでたどる科学の歴史』(ベレ出版)である。単純に新しかったのと,「パラダイムでたどる」というのに惹かれたから買ってみた。クーン『科学革命の構造』の訳者でもある中山氏によると,パラダイムとは「一定の期間、科学上の問い方と答え方のお手本を与えるような古典的な業績」ということである。
 認識論的にいうならば,パラダイムとは科学界の社会的認識ということであろう。あるいは,その社会的認識の「前提」といえるかもしれない。こういう観点から科学史を眺めると,膨大な事実もある程度整理できそうである。
 唯物史観の批判もあり,なかなか興味深かった。



 

 2冊目は,八杉龍一『図解 科学の歴史』(東京教学社)である。これはずっと以前から持っていた。120ページとコンパクトな上に,ページの上半分以上は図解が占めており,文章が少ない。目次は以下である。

序 章 歴史の概観
第1章 宇宙観の歴史
第2章 物質観の歴史
第3章 生命観の歴史
第4章 技術の歴史
第5章 日本の科学の歩み

 見ていただければ分かるように,通史ではなく,テーマ別の構成となっている。「○○観の歴史」というのが主要な柱になっているのが興味深い。
 これはレジュメ代わりに使えると感じた。ここに載っている科学者やその業績くらいは,しっかり流れてとしてイメージできるようにしなければならない。
 ちなみに著者の八杉龍一は,『学城』第7号,第8号でも取り上げられているほどの有名人。生物学史研究の第一人者ということである。




 最後は,磯直道『科学思想史入門』(東京教学社)である。東京教学社のHPでその存在を知った。アマゾンの紹介には以下のようにある。
「新しい目で科学思想の流れを眺めた、「科学概論」あるいは「科学思想史」の入門書。自然科学・社会科学・人文科学の三分野の相互理解と共同の必要性を踏まえて、人間の思考の歴史を眺めたものである。」
 ここにあるように,自然科学だけでなく,社会科学・人文科学も,さらには哲学をもその射程に入れている。これを一人で書いて,さらに引用文献は,邦訳のあるものは全て読んだというからたいしたものである。
 構成は通史であるが,それぞれの章のはじめに年表があり,各節の最後には簡単なまとめがついている。これが歴史の流れを理解する助けになる。また,節以下の見出しも秀逸で,これだけを抜粋してレジュメを作ろうかと思っている。


 他にもたくさん購入したが,それは追々紹介することにしたい。とりあえずこの3冊くらいでレジュメを作って,科学史の大雑把な流れをしっかり描けるようにしたいと思う。

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2011年08月28日

『学城』第8号

 『学城』第8号,まさに畏るべき内容だ。

 ドイツ観念論が19世紀ドイツの精神的な支柱となり,その後のドイツにおける科学革命を準備したように,『学城』はまさに21世紀日本における精神的支柱として,当面の間我が国の文化をリードすることになるのは間違いないだろう。何よりも,その論理的一貫性に震えるほどの感動を覚える。

 今回一番印象に残ったのは,討論の重要性である。日本弁証法論理学研究会の先生方は,何十年にもわたる学的討論を積み重ねてこられた結果の,現在の実力の高みなのである。それはまさに,古代ギリシャからの学問の発展過程を論理的に辿り返された結果であろう。阿呆みたいな者とくだらぬやりとりをしても全く学問的討論とはならないが,責任ある立場の人間との命がけともいえる討論は,論理能力の養成にとって必須であるということが,悠季論文・本田論文を通して実感的につかめた。これが今回の一番の収穫であるといってもいいかもしれない。

 それにしても,私にとってここまで強烈なあこがれを抱かせる存在というのは,人類の全歴史を振り返っても存在しないといえる。なんなの,瀬江千史先生のあの流れるような,1oの引っかかりもないようななめらかな論理の展開は! 西田幾多郎・田邊元の伝統を引き継ぐはずの大学ですら全く見られなかった本物の哲学を説くところのあの悠季真理論文の見事さ! こういっては失礼に当たるかもしれないが,北島先生・志垣先生には,どことなくシンパシーを感じる。ダーウィンやオパーリンを手玉に取る浅野先生・本田先生の実力の高み! そして,こういった学者先生を育て上げられた南郷継正先生の偉大さ!!

 『学城』第8号掲載論文についての感想は,わが京都弁証法認識論研究会のブログに近々公開したい。われわれは日本弁証法認識論研究会に一歩でも近づくべく,研鑽あるのみである。
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2008年04月04日

河合栄治郎『学生に与う』(現代教養文庫)



電子書籍版


いよいよ
4月。入学のシーズンである。私が教えた生徒も大学生活への期待に胸を弾ませているに違いない。私自身もこの4月から大学院生である。再び学問に専念できることを非常にありがたく、喜ばしく思っている。入学に先立って、どのように学生生活を送ればよいかを、教え子のために(そしてもちろん自分自身のためにも)確認しておこうと思った。そこで名著・河合栄治郎『学生に与う』(現代教養文庫)を再び繙いた。脳細胞が揺さぶられるほどの強烈な感動!! 背中から頭の中までがしびれる感じである。この書に感動しない学生は、学生たる資格はないと断言できるほどの中身を、本書はもっている。


著者・河合栄治郎は
1891年生まれの経済学者。マルクス主義とファシズムを批判して自由主義の立場を貫いたため、1939年に東京大学教授の職を追われ、起訴された。教育に心血を注いでいた河合栄治郎が職を追われたときの心情は、察するにあまりある。


翌年、
2月から3月にかけての20日間あまりの時間を、当初、河合栄治郎はミル『自由論』の翻訳に充てる予定であった。しかし、「当時の私の心境は、外国書の翻訳をするにたえなかった。何か漏らしたい感慨に満たされていた」(p.4)のである。そこで出版社の人間の勧めに従って、学生向けの単行本を一気呵成に書き下ろす決心をしたのである。結果、『学生に与う』は、まさに河合栄治郎その人を反映した歴史的名著となって誕生した。


本書のテーマは、端的に言えば、「人間いかに生くべきか」である。これを教養ということを中心にして説いていく。教養とは、「自己により自己を教育する」(
p.50)ことであり、「自己が自己の人格を陶冶すること」(p.51)である。また、「現実の自我と対立して、理想の自我すなわち人格が与えられたならば、現実の自我は理想の自我たらねばならない、たるべく努力せねばならない。これが『教養』(culture, Bildung)ということである。」(p.67)とも説かれている。要するに、真・善・美の調和した理想の人格たるべく研鑽するのが人生であり、人間である、ということである。人格へ向けての自我の成長・発展、これこそが最高価値であり、全てはこの目的に収斂せねばならず、全てはこの目的から判断されるべきなのである。第一部で「価値あるもの」として自我の構成要素たる学問(その理想が真)・道徳(その理想が善)・芸術(その理想が美)などが語られたあと、第二部では「私たちの生き方」として、道徳の各論が具体的に説かれる。「読むこと」「考えること、書くこと、語ること」「講義・試験」「修養」「親子愛」「師弟愛」「学園」「社会」「職業」などである。その中から、河合栄治郎式の「毎日の生活のプラン」を紹介しておこう。少し長いが、あるべき学生生活の一例だと思う。

「毎日の生活のプランも、おのおのが自分で工夫せねばならないものだが、仮に私にいま一度、学生生活を送らせるとしたら、こんなプランで毎日を暮らしてみたいと思う。これは高等学校の寄宿舎にいるとしてのプランである。朝はなるべく早く起きる、六時か六時半である。顔を洗ってから二、三十分朝の爽やかな空気を吸いながら校庭を散歩する。朝飯を食べてから、ざっと新聞に眼を通す、ここでゆっくり読むのは無駄だと思う。授業の始まるまで約一時間、本でも読む暇ができる。学校の講義が正午に終わったら、中食を食べてから、新聞を少しくわしく読む。三時に講義が済んでから一時間か一時間半、前項に書いた復習をする。それから六時まで運動をしてぐっしょり汗をかく。戻ってから湯風呂か水風呂に飛び込んで、汗を流して夕飯につく。食後に友人と一緒にぶらりと散歩に出て買物でもする、これは三十分くらいである。そして七時から十一時まで、真剣に読書にかかり、十一時には寝床にはいって、前後不覚の眠りに落ちる。いろいろの会合や催しがあれば、その時々に変更するのは当然である。土曜の午後か夜は、映画、芝居、音楽会、展覧会等々の芸術の観照に費やし、日曜は朝から夕方まで、ひとりか友達とともに、弁当を持参してピクニックに出かける。もし雨でも降れば部屋に閉じこもって、会心の小説でも読み、夜は先生、先輩、友人などを訪問して、ゆっくりした話をする。これが一日のまた一週間のプランである。」(p.240

こんな学生生活に憧れないだろうか?


ところが、現在の大学はこの憧れを十分には満足させてくれない。大学に期待している新入生に冷や水をかけるようで申し訳ないが、現在の大学は(そして河合栄治郎が批判した当時の大学も)一般教養を無視、ないし等閑視し、知識偏重で学問の薫りはどこにもない。さらに加えて、教授の教育能力が甚だ低い。「教授」という肩書きなのに、教える仕事は片手間で、できればやりたくないくらいに考えているのではないか、というセンセイが多いように思う。そこで学生はいかにするべきか、これに対する解答が『学生に与う』である。


端的に言えば、他人からの教育に期待できないのであるから、自分で自分を教育するしかない、ということである。これが教養ということであった。何を目指して教養に取り組むのか? 人格の陶冶である。すなわち、歴史性を持つべく、昨日の自分、先月の自分、去年の自分を常に超えていくべく努力するのである。少しわかりやすくいえば、『学生に与う』の内容を、自力で説けるほどに研鑽を重ねるということである。

こうして、全てを最高善たる人格の陶冶につなげて、日々生活を送る。学問にしても、単なる知識として学ぶのではない、主体的に把握する必要がある。

「理想主義は高遠なる哲学である。しかし高遠なるが故にこそ、われわれの日常生活の隅々にまで、浸透せしめなければならない、実にわれわれのあらゆる生活場面にまで、漏らすことのなき指導の原理となりうること、ここに理想主義の哲学としての特質がなければならない。」(p.3

「少なくとも自我の構成要素たる学問、道徳、芸術に関する知識だけは、単に知識としてでなしに、これを自我にまで還元せしめ、主体的に把握せねばならない。」(p.97

要するに、河合栄治郎の精神に生きる! わけである、南郷継正師範が実践したように。新入生の諸君には、まず何よりも『学生に与う』を直に読んでいただきたい。これは以上説いたように、学生生活の送り方が説いてあるだけでなく、学問用語の基本がきちんと説いてあるので、学問の入門書としても非常に優れている。そしてできればその次に、瀬江千史『医学の復権』(現代社)も読んでほしい。血湧き、肉躍る、学問への情熱がかき立てられることまちがいなし、である。




なお、最後に私と友人が学生時代に書いた『学生に与う』の紹介文も載せておく。
Bildungという学術サークルを創ったときの新入生に向けてのメッセージである。



◇河合栄治郎『学生に与う』の紹介◇

 

 

 『学生に与う』は1940年、今から60年も前に執筆された著作です。当時の社会と比較すると、現在の社会は大きく発展しており、当然学生のあり方にも大きな変化が見られます。しかし、『学生に与う』は、その妥当性を現在も失ってはいません。それどころか、年代と共にその重要性が増しているといっても過言ではありません。ここに、私たちが「大学入学と同時に第一に読んでほしい名著」として強く推薦する理由があるのです。以下、『学生に与う』の冒頭部分の内容を、河合栄治郎自身の言葉を借りながら紹介していきたいと思います。そして、この内容は同時に私たちBildungの活動理念にも繋がっていくことになるはずです。

 

 「はしがき」で著者は、当時の歴史的状況を踏まえて、「祖国の難局を克服しうる精神的条件」として、「大局を達観する洞察の明、大事を貫徹せずんばやまない執拗な意志、自己の持ち場を命を賭して守る誠実と真剣さ、小異を捨てて大同につく和衷協同の心、何よりも打てば響くがごとき情熱」を挙げています。これはより一般的に、人間が困難を克服するための精神的条件である、ともいえると思います。特に最初に挙がっている「大局を達観する洞察の明」というのは、Bildungが直接にめざしているものです。学問の世界でも日常生活の上でも、小さな部分を見ただけでは正解を得られないが、より広い観点から全体を見直すと正解に到達できるという場合は、決して少なくありません。

 

 「はしがき」の次に来る「社会における学生の地位」という節では、学生の特殊性とは何か、社会における学生の地位はどのようなものであるか、といった問題が、主観的立場および客観的立場からそれぞれ論じられています。著者は、学生の特殊性として、親の仕送りで生活していること、精神労働者のいわば卵であることを挙げたあと、次のようにまとめています。

 

「要するに社会は、文化の相続と創造とを必要とする、これなくして社会の維持もできないし、いわんや社会の進歩もできないからである。ところで初等・中等の教育だけでは、この任務を負担するに足らないとすれば、社会は一群の成員をして、さらに高等の教育を修めさせねばならない。彼らと同年輩の青年が、現に労働に従事して社会の生産力を増しつつあり、さらにその方面の労働人口を増加することは、それだけ生産力を加えることにはなるが、それでは文化の維持と発展とが望まれない。ここにおいて一群の青年を労働から解放し、いかに生きるかの自然的生活の配慮から脱却せしめて、専心教育に没頭することにさせなければならない。これが学生が父兄の仕送りによって、学窓に勉強をなしうる社会的理由である。」

 

 次に著者は、「教育」について論じます。ここで、現代教育の根本的欠陥は、一般的教育と特殊的教育の乖離にあると指摘して、両者の区別と連関を正しく説いています。

 

「一般的教育とは、フィヒテのいうがごとくに、人間自身を形成すること(die Menschen selbst zu bilden)、また人間を彼自身たらしめること(die Menschen sich selbst zu machen)であり、また、パウル・ナトルプのいうがごとくに、人格を陶冶することである。」

 

「人格を構成する要素として三つのものが考えられることである。その三つとは学問、道徳、芸術である、そしてこの各々の理想が、真、善、美であるから、人格の陶冶とは真と善と美との三者の調和ともいうことができる。」

 

「特殊的教育とは一般的教育を前提として、人格の構成要素たる学問、道徳、芸術などを教授し修得せしめることをいうので、その目的は人格の各要素を捕えて、これを開発することにより、人格の陶冶に参与するにほかならない。」

 

 このように、一般的教育と特殊的教育とは立体的な関係になっているので、両者を切り離して片方だけを採ったり、平面的な関係だと考えたりしてはならないのです。この著者の現代教育批判が現在にも通じることは、受験制度一つを反省してみても分かることですし、大学の講義に出れば分かるはずのことです。

 

「ここにおいて今日の学生は、自己のうけつつある教育について、従来の謬見から脱却しなければならない。たとえ社会がなんと期待しようとも、父兄が何を意図しようとも、真正の教育観念を把握すること、それが自己に期待する社会と父兄とに、報ゆる所以であることを考えて、毫も躊躇すべきではないのである。」

 

 ところで、教育する主体としてはいろいろなものが考えられますが、その中心を担うのは「学校」における教師です。河合栄治郎も一流の教師でした。その著者が、研究者と学者と教師を、次のように区別と連関において説いています。すなわち研究者は「必ずしも学問の全体系の展望をもたなくても済みうる」が、学者は「学問の全体系における自己の専門の地位を明らかにし、隣接した専門との連関をあざやかに意識している」必要がある、さらに教師は「学者であるとともに教育者でなければならない」つまり「自己の担任した学科の全貌を要領よく展開」し「その成果に到達した方法を教えて、未来に無限の成果を生むべき創造的能力を涵養しなければならない」と説いているのです。このような文章を読むと、河合栄治郎が教壇に立って、「自己の専門の全学問における地位と、他の専門学科との連関を、さらに一歩進めては、学問の人格における意義と価値とを、学生に対して明白に説」いていた姿が、ありありと浮かんできます。

 

 翻って現在の大学に目を移してみると、河合栄治郎が指摘した通り、「今日の多くの教師は、研究者ではあるが学者ではない」という状況が見てとれます。京都大学における「全学共通科目」も一般教養課程とは名ばかりで、実際にはそれぞれの教官の狭い狭い専門分野を、ごく簡単に紹介しているだけのものが多いのです。

 

 大学がこのような状況であれば、私たち学生は一体どうすればいいのでしょうか? その答えの一つが「教養」ということなのです。教養とは「自己が自己の人格を陶冶すること」です。教育においては主体と客体とが同一ではありませんでしたが、教養においてはこれは同一であり、ともに自己自身です。人格の成長が教養の目的なのです。最後にここに関連した文章を引用して終わりたいと思います。

 

「成長のためにわれわれはどうしたらよいか。ここに生きたる教師と、死せる教師─書物─や親や友が助けになる、しかしこれも助産婦か慰安者であって、われわれの成長の代理はなしえない。成長はわれわれ自身がなさねばならない。」

 

「ゲーテのいうがごとく、『人は努力すればするほど過ちに陥る』。飛ぶ鳥は落ちるが飛ばざる鳥は落ちない。過ちのないことを求めるならば、何事もなさないに限る、その代わりに人格の成長は停止する。」

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2008年03月25日

D・カーネギー『人を動かす』(創元社)

  


1.読もうと思ったきっかけ

 

南郷継正師範も推薦されたことのある人間関係に関する名著だと聞いたので、4月からの新しい人間関係に応用できると思ったから。



2.内容の要約

 

目次がこの本のエッセンスの8割を語っていると思う。目次を、論旨を明確にした形に多少アレンジしたものを掲載する。そのほか、重要箇所を抜粋する。



PART1
 人を動かす3原則

 

1.批判・非難をせず苦情も言わない

2.率直で誠実な評価を与え重要感を持たせる

3.人の立場に身を置き強い欲求を起こさせる



PART2
 人に好かれる6原則

 

1.誠実な関心を寄せる

2.笑顔を忘れない

3.名前を覚える

4.聞き手にまわる

5.相手の関心のありかを見ぬいて話題にする

6.心からほめて重要感を与える



PART3
 人を説得する12原則
 

1.議論に勝つために議論をさける

2.相手の意見に敬意を払い誤りを指摘しない

3.自分の誤りをただちにこころよく認める

4.おだやかに話す

5.“イエス”と答えられる問題を選ぶ

6.相手にしゃべらせる

7.相手に思いつかせる

8.人の身になってまず相手を理解する

9.相手の考え・要望に同情を持つ

10.美しい心情に呼びかける

11.演出を考える

12.対抗意識・負けじ魂を刺激する

 

 

PART4 人を変える9原則

 

1.まずほめる

2.遠まわしに注意を与える

3.自分の誤りを話してから相手に注意する

4.命令せず質問の形で意見を求める

5.顔をたてる

6.わずかなことでも具体的にほめる

7.期待をかけできたことにする

8.激励し能力に自信を持たせる

9.喜んで協力させる

 

 

付 幸福な家庭を作る7原則

 

1.口やかましくいわない

2.長所を認める

3.あら探しをしない

4.ほめる

5.ささやかな心づくしを怠らない

6.礼儀を守る

7.正しい性の知識を持つ

  

「他人の欠点を直してやろうという気持は、たしかに立派であり賞賛に値する。だが、どうしてまず自分の欠点を改めようとしないのだろう? 他人を矯正するよりも、自分を直すほうがよほど得であり、危険も少ない。」(1-1p.25

 

「人を非難するかわりに、相手を理解するように努めようではないか。どういうわけで、相手がそんなことをしでかすに至ったか、よく考えてみようではないか。そのほうがよほど得策でもあり、また、おもしろくもある。そうすれば、同情、寛容、好意も、おのずと生まれて出てくる。」(1-1p.32

 

「人を動かす秘訣は、まちがいなく、ひとつしかないのである。すなわち、みずから動きたくなる気持を起こさせること――これが、秘訣だ。」(1-2p.33

 

「ところで、仮に家族や使用人に、六日間も食べ物を与えないでおいたとすると、われわれは一種の罪悪感を覚えるだろう。それでいて、食べ物と同じくらいにだれもが渇望している心のこもった讃辞となると、六日間はおろか六週間も、ときには六年間も与えないままほったらかしておくのだ。」(1-2p.44

 

「成功に秘訣というものがあるとすれば、それは、他人の立場を理解し、自分の立場と同時に、他人の立場からも物事を見ることのできる能力である。」(1-3p.57

 

「友を得るには、相手の関心を引こうとするよりも、相手に純粋に関心を寄せることだ。」(2-1p.74

 

「友をつくりたいなら、まず人のためにつくすことだ。――人のために自分の時間と労力をささげ、思慮ある没我的な努力をおこなうことだ。」(2-1p.83

 

「われわれは、自分に関心を寄せてくれる人々に関心を寄せる。」(2-1p.88

 

「家から出るときは、いつでもあごを引いて頭をまっすぐに立て、できるかぎり大きく呼吸をすること。日光を吸いこむのだ。友人には笑顔をもって接し、握手には心をこめる。……すべての物ごとは願望から生まれ、心からの願いはすべてかなえられる。人間は、心がけたとおりになるものである。」(2-2p.100

 

「話し上手になりたければ、聞き上手になることだ。興味を持たせるためには、まず、こちらが興味を持たなければならない。

 相手が喜んで答えられるような質問をすることだ。相手自身のことや、得意にしていることを話させるように仕むけるのだ。」(2-4pp.128-129

 

「人間の行為に関して、重要な法則がひとつある。この法則にしたがうならば、たいていの紛争は避けられる。これを守りさえすれば、友はかぎりなくふえ、常に幸福が味わえる。だが、この法則を破ったとなると、たちまち、はてしない紛争に巻きこまれる。この法則とは――

『常に相手に重要感を持たせること』。」(2-6p.139

 

「……ていねいな思いやりのあることばづかいは、単調な日常生活の歯車にさす潤滑油の働きをし、同時に、育ちのよさを証明する。」(2-6pp.141-142

 

「議論は、ほとんど例外なく、双方に、自説をますます正しいと確信させて終わるものだ。……議論に負けても、その人の意見は変わらない」(3-1p.159

 

"腹を立ててはいけない"――何に腹を立てるか、それで人間の大きさが決まってくる。」(3-1p.165

 

「人を判断する場合、わたしはその人自身の主義・主張によって判断することにしている――わたし自身の主義・主張によってではなく」(3-2p.181

 

「どんなばかでも過ちのいいのがれぐらいはできる。事実、ばかはたいていこれをやる。自己の過失を認めることは、その人間の値打ちを引きあげ、自分でも何か高潔な感じがしてうれしくなるものだ。」(3-3p.189

 

"一ガロンの苦汁よりも一滴の蜂蜜のほうが多くの蠅がとれる"」(3-4p.196

 

「相手をやっつけるよりも、相手に好かれるほうが、よほど愉快である。」(3-9p.239

 

「彼はいつも自主的に仕事をやらせる機会を与えたのだ。決して命令はせず、自主的にやらせる。そして、失敗によって学ばせた。

 こういうやり方をすると、相手は自分のあやまちが直しやすくなる。また、相手の自尊心を傷つけず、重要感を与えてやることにもなり、反感のかわりに協力の気持を起こさせる。」(4-4p.287

 

「ほめことばは、人間にふりそそぐ日光のようなものだ。それなしには、花開くことも成長することもできない。われわれは、事あるごとに批判の冷たい風を人に吹きつけるが、ほめことばというあたたかい日光を人にそそごうとはなかなかしない。」(4-6pp.295-296

 

「要するに、相手をある点について矯正したいと思えば、その点について彼はすでに人よりも長じているといってやることだ。『徳はなくても、徳あるごとくふるまえ』とはシェークスピアのことばだ。相手に美点を発揮させたければ、彼がその美点をそなえていることにして、公然とそのように扱ってやるがよい。よい評判を立ててやると、その人間はあなたの期待を裏切らないようにつとめるだろう。」(4-7p.303



3.自分の意見・感想

 

さすがに世界的ロングセラーであり、邦訳だけでも440万部以上を売り上げている著書だけのことはある。上の抜粋部分だけでも読めば分かるが、万人必読の名著中の名著である。新大学生・新社会人、人間関係に悩んでいる人には特に読んでほしい名著である。

 

訳者のあとがきに、「この本は、一朝一夕に頭だけで書かれたものではない。十五年にわたるカーネギーの指導の現場から生まれてきたもので、著者の説は、すべて実験ずみのものばかりなのである。」とあるように、一つの原則に対して、これでもか、これでもか、というくらい具体例を示して、たたみかけてくる。豊富な事実に裏打ちされているから、非常に説得力がある。具体例は、原則を踏まえた場合の成功例とともに、原則を守らなかった場合の失敗例も挙げている。

 

本書は、カーネギーの挙げる具体例に導かれながら、自分自身の経験を重ねる形で読んでいくことができる。そして、その自分の経験の意味を教えてくれるのである。「ああ、あのとき、失敗したのは、この原則を守らなかったからだな」とか、「あの人が好かれるのは、このためだったのか」とか、である。

 

本書を読んで、人を動かす一番のキーポイントとして強調されていることは、「重要感を与える」ということだと思った。相手の自尊心を傷つけず、相手がいかに重要であるかというメッセージを与える方法を、具体的に説いたのが本書であろう。「笑顔で接する」「名前を覚える」「誤りを指摘しない」「まずほめる」など、少し心がければすぐにできそうなものから、「相手の立場に立つ」「相手の関心を見抜いて話題にする」「相手に思いつかせる」「演出を考える」「遠回しに注意を与える」など、実行するにはそれなりの修練が必要なものまで、様々な方法が提示されている。が、ともかく、こういった著書は読むだけでは意味がない。即座に実行するべきである。

 

本書で説かれている人を動かす原則は、子どもの指導やカウンセリングにも使えるものだと思った。もう少し前に読んでいれば、この原則を生かして、よりよい指導が塾でできたのに、と残念でならない。が、今後、さまざまな場面で人を指導することもあろうし、臨床心理士としてカウンセリングをおこなうこともあろうから、これらの原則は技化しておく必要がある。原田隆史なんかは、すべて技化している印象がある。

 

あまり熱心に学んではいないのだが、臨床心理学でいわれているようなカウンセリングの技法は、本書ですべて説かれているのではないか、という気がする。ビジネスの世界で、実践上の必要性に迫られて鍛えられた「原則」は、高尚な「学問」の遙か先を行っているのだろう。経営学が経済学の遙か先を進んでいるのと、似た関係である気がする。

 

私としても、いわばハウツーレベルで説かれた本書の内容を、学的に、科学的認識論から説ける実力を付けていかねばならないと痛感した。例えば、「重要感とは何か」「自尊心とは何か」ということから、「コミュニケーションとは何か」「特にノンバーバル・コミュニケーションはいかに認識を表現しているか」「それは相手にどのように伝わるか」等々、きちんと認識の本質と構造を踏まえて、過程として説けるように研鑽しなければならない。

 

そのためにも、何はともあれ実践である。全く新しい人間関係ができるこの時期だからこそ、実験にはもってこいである。いくらかはできていると思われる原則もあるので、「笑顔で接する」や「おだやかに話す」といった全く実践できていなかった原則を特に意識的に実行していきたい。

 

なお、本書にはオーディオ・ブック版もあり、英語版のほうは比較的安いので、英語の勉強をかねて買ってみようかとも思っている。

 
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2008年02月18日

D.シュルツ『現代心理学の歴史』(培風館)

D.シュルツ『現代心理学の歴史』(培風館)

1.読もうと思ったきっかけ

大学院で臨床心理学を専門的に勉強するに先立って、心理学の全体像をアバウトに把握しておこうと思っていた。そこで、新書や文庫レベルの、一人の著者が書いた心理学の概説書を何冊か読んだ。それと平行して、過程も含めて全体であるから、心理学史も学ぼうと思った。そこで何かいい本はないかと探していたところ、『試験に出る心理学 一般心理学編』(北大路書房)で紹介されていた本書を発見。アマゾンで検索したところ、以下の紹介文があって、その中の「時代精神」に惹かれて購入、読むことにした。

「100年をこえた科学としての心理学の歴史を、客観的な見地からまとめた書である。従来他の学史などに多くみられた、人物が時代をつくるという人物中心のアプローチをとらず、時代が人物を育て方向づけるという時代精神を強調する立場で書かれているところに本書の特色がある。実験心理学に対する精神分析理論や人間性心理学など、第2次大戦以後発展してきた新しい流れの記述もバランスよくとりいれ、現時点における心理学の姿を正面からとりあげている。心理学の歴史的展開に関係のある社会的な出来事や個人的エピソードなども随所にもりこまれ、親しみやすく平易に叙述されている。」


2.内容の要約

現代心理学は、哲学における機械論的な時代精神と、ドイツの生理学の影響を受けて19世紀末に誕生した。

現代心理学の創始者であるヴントは、当時の物理学の影響を受けて、心を構成要素に還元し、内観を通した実験によって研究した(構成主義)。構成主義はティチェナーが完成させた。ヴントと同時代の心理学者としては、記憶研究のエビングハウス、色彩研究のミュラー、後のゲシュタルト心理学や人間性心理学に影響を与えたブレンターノ、現象学を発展させたフッサールの師匠であるシュトゥムプ、無心像思考を立証したキュルペなどがいる。

これに対して、ダーウィンの進化論やゴールトンの個人差研究に影響を受けて、心の実体ではなく、その機能を研究しようという運動がアメリカで発展していった。心理学の知見を実用・応用しようとする機能主義の運動である。プラグマティズムで知られるジェームズが機能主義を先取りし、ホールやキャッテルが開拓した後、シカゴ学派のデューイ、エンジェル、カーによって正式な発展を見た。

さらに、この機能主義の立場を踏襲した上で、内観というような主観的な方法に頼るのではなく、客観的に観察可能な刺激(S)とそれに対する反応(R)のみをデータとして動物や人間の行動を説明しようとする行動主義が、ワトソンによって打ち立てられた。ソーンダイクやパブロフの動物実験がその前触れであったが、客観性を求める時代精神の反映でもあった。行動主義においては、動物や人間の行動を、細かなS−R要素に還元するので、還元主義という点では構成主義と同じである。行動主義は、トールマン、ハル、スキナーらの新行動主義へと継承されていく。

一方ドイツでは、構成主義が要素に還元した上で心を捉えようとする微視的なアプローチであることを批判して、より巨視的なアプローチをとるゲシュタルト心理学が成立した。全体は部分の総計ではないというのが、ゲシュタルト心理学の基本的立場である。これは物理学における「力の場」という考え(時代精神)の反映でもあった。ゲシュタルト心理学の運動はヴェルトハイマー、コフカ、ケーラーの三人によって進められた。レヴィンの場理論もこの系列に位置づけることができる。

以上のようなアカデミックな心理学とは相対的に独立した形で、精神病理の研究から、フロイトは精神分析を開発した。精神分析においては、心理学では無視されてきた無意識の動機づけに焦点が当てられた。その後、フロイトの定式化を修正する理論家が次々に現れた。個人的無意識と普遍的無意識を区別したユングや、人間の生物学的側面ではなく社会的側面を重視したアードラー、ホーナイ、フロムらである。

近年、物理学における「自然の推移を、これを妨げることなく観察することはできない」という時代精神に対応した認知革命が、心理学を席巻し始めている。この認知革命を反映したのが、バンデューラの社会的学習理論である。また、精神分析の近年の発展としては、オールポートから始まるパーソナリティ研究がある。TATの構成に影響を与えたマレーや、生涯にわたる人格発達の理論を創ったエリクソンも、この系列に入る。さらに、人間は無意識や外的な刺激によって支配されているとする精神分析や行動主義の決定論・脱人間性への抵抗として、心理学の第三勢力が現れた。これが人間性心理学である。欲求階層説を唱えたマズローやクライエント中心療法を創始したロジャーズがその代表者である。



3.自分の意見・感想

心理学の歴史はたかだか100年ちょっとだが、相当膨大な研究がなされてきている。普通、心理学というとフロイトを連想しそうだが、本書でフロイトを扱っているのは、15章中1章だけである。割とマイナーだと思われる機能主義に3章分も費やしているにもかかわらず、である。しかも、フロイトの精神分析は、その起源からすると、相当な異端である。異端というより、心理学とは別物といった方が正確だ。

さらに、本書で心理学の研究分野がすべて網羅されているわけではない。社会心理学もちょこっと触れられているだけであるし、発達心理学、認知心理学、臨床心理学なんてものは、全く触れられていないに等しい。それでもこれだけの膨大な研究の歴史があるのかと、ちょっとだけ驚いた。

さて、科学的認識論の立場からすれば、心理学史上の様々な学派というのは、認識のある側面を強調して捉えた一面的なものに過ぎない、という気がしてくる。例えば構成主義というのは、典型的な機械的反映論であって、素朴な感性的認識だけを問題にしているように思う。また行動主義は、対象→認識→表現という媒介的なつながりを無視して、対象→表現と直結している。確かに刺激(対象)と反応(表現)はつながっているが、それはあくまでも認識を媒介としてのつながりである。それなのに、客観性という名のもと、認識を無視しているのである。素直に考えればこれのどこが「心」理学なのか、と思ってしまう。ゲシュタルト心理学は認識の能動性に着目した学派であろう。問いかけ像(論理)があるからこそ像を結ぶということに、それなりに気づいていたような気がする。精神分析は、蓄積された過去像の威力の凄まじさやその実体への影響に着目した学派だと思った。

本書は、その前に読んだ『心理学史への招待』(サイエンス社)よりも遙かに心理学の発展の流れがよく分かる良書だと思う。しかし、大上段に「時代精神を強調する立場」などといっている割には、哲学といってもデカルト以来の機械論やイギリス経験論の連合主義くらいしか登場せず、ほとんど物理学が時代精神を代表しているかのような口吻である。確かに、現代心理学は自然科学としての物理学を理想として、その影響の下で発展してきたというのは事実であろう。しかし、それを「時代精神」なんて大仰な言葉でわざわざ言う必要はなかろう。

やはり心理学がなぜ19世紀末になって誕生したのかというような謎に関しては、最近の南郷師範の論文に学ばないと絶対に理解できないだろうと思った。南郷師範に学べば、まさに時代精神と心理学の関係がはっきりしてくると思う。南郷師範の論文に関しては、また別の機会に書いてみたい。
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2008年02月09日

大学生に推薦する書

塾で指導している高校三年生から要望があったので、私が大学生に勧める書のリストを作った。ここに紹介しておこう。

【1】学問全般
大学は最高学府であるからして、大学生はすべからく学問に取り組むべし。

1.三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)
 頭のよくなりたい学生は必読。私の座右の書。
2.河合栄治郎『学生に与う』(現代教養文庫)
 あるべき学生生活を描く魂の書。
河合栄治郎の情熱が伝わってくる。
 絶版だが、
 http://www.ebookjapan.jp/shop/book.asp?sku=60007347
 で電子版が買える。
3.出隆『哲学以前』(講談社学術文庫)
 学中の学たる哲学の入門書。難解。
 戦前の学生が熱狂的に読んだ。
4.湯浅俊夫『合格小論文の書き方』(旺文社)
 大学入試用の参考書だが、
 大学でレポートや卒論を書くときにも十分使える。
 参考文献にも、是非読んでほしい本が紹介されている。
5.中学校の理科・社会の教科書
 自然科学・社会科学の基礎として。
 非常に論理的に説かれている。


【2】歴史
人類は歴史的に発展してきた存在である。
人類の壮大な歴史を学んでこそ現在が理解でき、
歴史性を把持することができる。

1.本田克也他『看護のための「いのちの歴史」の物語』(現代社)
 単細胞から人間にいたる「いのち」の変化・発展の流れ。
 あらゆるの歴史の基本として。
2.H・G・ウェルズ『世界史概観 上・下』(岩波新書)
 細かい知識にとらわれず、壮大な歴史の流れを描く。
 ウェルズ一人でまとめている点がよい。
3.林健太郎『歴史の流れ』(新潮文庫)
 絶版だが名著。西洋史の解説。
 古本屋で探すように。
4.林健太郎『世界の歩み』(岩波新書)
 これも絶版。『歴史の流れ』の続編的存在。
5.井沢元彦『逆説の日本史』シリーズ(小学館)
 歴史の裏側を面白く説いてくれている。
6.シュテーリヒ『西洋科学史T〜X』(現代教養文庫)
 科学史を学ぶのに最適の書。残念ながら絶版。


【3】小説
見事な人生やリアルな社会については小説で学べる。

1.ラファエル・サバチニ『スカラムーシュ』(創元推理文庫)
 弁護士になり損なったアンドレ・ルイ・モローの見事な生き様。
2.アンソニー・ホープ『ゼンダ城の虜』(創元推理文庫)
 『ルパン三世 カリオストロの城』の原作的小説。
3.クローニン『城砦』(三笠書房)
 絶版。情熱が青年医師を駆り立てる。
4.菊池寛『藤十郎の恋・恩讐の彼方に』(新潮文庫)
 「恩讐の彼方に」を読もう。
5.モンゴメリ『赤毛のアン』(新潮文庫)
 講談社からは「赤毛のアン」シリーズ全8巻が出ている。
 最終の第8巻が個人的には一番の傑作だと思う。
6.大沢在昌『心では重すぎる 上・下』(文春文庫)
 近頃の病んでいる青少年の心を描く。
7.松本清張・高木彬光・森村誠一の社会派推理小説
 社会の心を学ぶ。
8.内田康夫の旅情ミステリー
 名探偵・浅見光彦が活躍。
 観念的に日本の各地を旅行できる。
9.夏目漱石の小説
 人の心を学ぶ。
10.ポオ『黒猫・モルグ街の殺人事件』(岩波文庫)
 この中の『モルグ街の殺人事件』と『盗まれた手紙』は
 弁証法文学の傑作。
11.アガサ・クリスティの探偵小説
 特に、名探偵ミス・マープルものがお勧め。
12.ジョセフィン・テイ『時の娘』(ハヤカワ文庫)
 歴史ミステリかつベット・ディテクティブ。
 先に高木彬光『邪馬台国の秘密』(光文社文庫)を読もう。
13.その他、岩波文庫に入っている代表的な小説


【4】私の尊敬する理論家・実践家
ほぼ全著作を読んでいる私の師的存在。

1.三浦つとむ(みうら・つとむ)
 世界に冠たる弁証法学者。
 学歴と頭のよさは全く関係がないということがよく分かる。
2.南郷継正(なんごう・つぐまさ)
 私の最も尊敬する偉大なる哲学者。
 三浦つとむに学んだからこその実力らしい。
3.薄井坦子(うすい・ひろこ)
 宮崎県立看護大学学長。
 日本が生み出した偉大なる看護学者。
4.瀬江千史(せごう・ちふみ)
 科学的医学体系の創出を目指す医学者。
 その著作は超論理的で、非常に読みやすく、超お勧め。
5.原田隆史(はらだ・たかし)
 元中学のカリスマ体育教師。
 私はこの人の方法論で、大学院合格とダイエットに成功した。


【5】その他
1.マーク・ピーターセン『日本人の英語』(岩波新書)
 ロングセラーだけのことはある。英語に興味がある人へ。
2.美内すずえ『ガラスの仮面』(白泉社)
 面白い少女漫画。認識論の教材でもある。
3.シュリーマン『古代への情熱』(岩波文庫他)
 トロヤ遺跡発見の物語。情熱が偉業を可能ならしめる。
4.シング『狼に育てられた子』(福村出版)
 人間は人間として育てられて初めて人間となれる。
5.李登輝『「武士道」解題』(小学館文庫)
 前台湾総統・李登輝による新渡戸稲造『武士道』の解説本。
 旧制高校の知的雰囲気が味わえる。
6.森信三『修身教授録』(到知出版社)
 戦前教育の貴重な遺産。
7.齋藤孝『読書力』(岩波新書)
 この人はいろいろと優れた本を紹介してくれる。
8.下條信輔『サブリミナル・マインド』(中公新書)
 魅力的な心理学入門講義。
9.『綜合看護』(現代社)
10.『学城』(現代社)
 2冊とも、南郷継正先生の連載論文が読める雑誌。
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2007年09月11日

鹿島茂『勝つための論文の書き方』(文春新書)



以前チラッと紹介した鹿島茂『勝つための論文の書き方』を読了した。以前紹介したときには、以下の部分を引用しておいた。

「論文というのは、自分の頭でものを考えるために長い年月にわたって練り上げられた古典的な形式なので、ビジネスだろうと、政治だろうと、なんにでも応用がきくのです。いいかえれば、優れた論文作成能力を獲得している人は、優秀な学者になれるばかりか、優秀なビジネスマンにも、優秀な政治家にもなることができるのです。」(p.221)

今回通読してみて、確かにそういう面はあると思った。というのは、本書で一番強調されているのは、「問題の立て方」だからである。

論文というのはオリジナルな・意味のある・問題を立てて、それを考察し、論証して、最終的に解答を出すという形をとっている。そうであるならば、この形式は何も学問に限ったお話ではなくて、日常生活であれ、ビジネスであれ、応用可能な汎用性を持っているといえる。

以前テレビで、廃タイヤから出るチューブをなんとかリサイクルできないものか?との問いを立てて、ゴムの弾力性に目をつけて、ノートパソコンを入れるケースの素材として採用し、成功をおさめたケースが紹介されていた。これなどは、「廃タイヤから出るチューブをなんとかリサイクルできないものか?」という独創的な問いを立てた時点で、ほぼ勝負あったという感じである。つまり、論文でもビジネスでも、一番難しく、かつ一番重要なのは、問いの立て方なのであって、ユニークな面白い問いを立てることさえできれば、優れたものを創り出せる可能性がグッと高まるわけである。

そういう観点から、本書では問題の立て方が重視され、その解説が中心になっているといってもよい。

本書でも指摘されているが、日本の学校教育の最大の問題点は、こういった問いの立て方を教えないという点だと思う。それどころか、問題はすでに存在しており、その解答も決まっている、そういう問題を解くことのみを訓練させられるのである。それゆえ、偏差値が高い者は、自分で問題を発見するとか問いを立てるとか、そういった発想を持てなくなってしまう。これでは学問ができない。自分の専門分野の全てを学んで問うてこそ学問なのだから。

さて本書では、まず、「問いは、比較からしか生まれない」として、問いを見つける基本的方法を二つ挙げている。「縦軸に移動する」と「横軸に移動する」である。これらは言語学でいうところの通時的比較と共時的比較に対応する。次に、見つけた差異と類似を分析する方法や、仮説による検討でその問いが本質的なものかどうかをチェックする方法が説かれる。

そして最後に、未聞の問いを発想する最大のポイントとして、構造把握力を挙げている。これは丸谷才一言うところの見立て力であり、レヴィ=ストロース的にいうとブリコラージュということになる。ここに関して鹿島教授は次のようにまとめている。

「ある分野で培った見立て力=構造把握力を、他の新しい分野にも応用し、そこに共通の型を見抜いて、問題を見つける。これが、前人未踏というよりも、前人未問の問いを立てるために必要不可欠の方法です。」(p.77)

ここから、複数の専門分野を持つ必要性について説いていく。

これを読むと、複数の専門分野を持つ必要性というのは、われわれの立場的には一般教養の重要性ということであるし、構造把握力というのは、弁証法的な論理能力ということになると思う。われわれはある意味、未問の問いを立てるために一般教養と直接に弁証法を学んでいるといえなくもないだろう。

鹿島教授はフランス文学及びフランス文化を専門とする人文系の人であるが、この論文の書き方の本は、人文系に限らず、自然科学や心理学の論文の書き方としても、十分通用する普遍性を持っていると思う。僕も誰も立てたことのないようなオリジナルで意義のある問いを発見して、立派な論文を書きあげたいものだ。
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2007年09月09日

V.E.フランクル『夜と霧』(みすず書房)



ヴィクトル・フランクル『夜と霧』を読了。新訳も出ているが、僕は旧訳(霜山徳爾訳)の方を読んだ。いうまでもなく、アウシュヴィッツの強制収容所における一心理学者の体験記である。

参考までに書いておくと、著者のフランクルは、ウィーン生まれの精神医学者。フロイト、アドラーに師事するも、「快楽への意志」や「権力への意志」ではなく、「意味への意志」を重視し、実存分析・ロゴセラピーを提唱した。

僕がこの『夜と霧』を読んだのは、「極限状況におかれた人と人間一般と」(薄井坦子『看護学原論講義』現代社、p.90)を学ぶためである。薄井先生は、『看護学原論講義』の同じ箇所で、次のように説いておられる。

人間に働きかける職業人にとってもっとも基本的なことは、<相手の立場をどれだけ観念的に追体験できるか>ということである。人はさまざまであり、自分は自分であるから、どんな人と向かい合っても、その人をその人として見つめ、その人のその時の実像にできるだけ近いイメージを、できるだけはやく描くことができるよう、あなた自身の「直接的・間接的経験の幅と深さ」を求める学習を重ねてほしい。


その後、三つの学習課題と『精神病者の魂への道』や『夜と霧』を含むいくつかの学習文献が挙げられている。これは、心理臨床家を目指す僕にとっても、そのまま当てはまる大切な学習課題である。ということで、さっそく読んでみたわけである。知人に勧められたということもあるが。

では、本題である。本書でフランクルは、収容所生活における囚人の心理的反応を、三つの段階に区別している。最初が、収容所に収容される段階である。この段階は、「収容所ショック」と名づけられるようなものによって、特徴づけられている。過酷を極める強制労働や拷問によって、ショックを受ける段階である。

次が、本来の収容所生活の段階である。ここでは人は比較的無感動になるという。ドストエフスキーがいうがごとく、人間は「すべてに慣れ得るもの」であるから、「苦悩する者、病む者、死につつある者、死者――これらすべては数週の収容所生活の後には当たり前の眺めになってしまって、もはや人の心を動かすことができなくなるのである」(p.102)。この無感動は、「必要な心の自己防衛であった」(p.110)とフランクルは説く。

そして最後の段階が、収容所からの釈放乃至解放の段階である。この段階について、フランクルは次のように書いている。

「この心理的な極度の緊張の後に続いたのは完全な内的弛緩であった。誰かがわれわれの間に大きな喜びが漲っていただろうと考えるならばそれは大きな間違いであった。」(p.197)
「解放された仲間の体験したものは心理学的な立場からいえば著しい離人症であった。あらゆるものは非現実的であり、不確実であり、単なる夢のように思われるのである。まだ人はそれを信じることができないのである。」(pp.198-199)

以上のような極限状態におかれた人間の認識についての記述は、実験することが非常に困難であるだけに、とても貴重な資料である。

さて、僕がこの本を読んで一番感銘を受けたのは、第八章「絶望との闘い」である。ここで僕は、人間とは認識的実在であるということをしっかりと分からされた。もう少しいえば、認識=像の威力とはこれほど凄いものなのかと思い知らされたのである。

第八章の出だしはこうである。

「収容所生活が囚人にもたらした精神病理学的現象を心理療法や精神衛生の見地から治療しようとするすべての試みにおいて、収容所の中の人間に、ふたたび未来や未来の目的に目を向けさせることが内的に一層効果をもつことが指摘されているのである。また本能的に若干の囚人は自らにこの試みを行ったのであった。彼らはおおむね何か拠り所にするものを持ち、また一片の未来を問題としていた。」(p.177)

そして、自分自身の場合について、次のように書いている。

「私のあらゆる思考が毎日毎時苦しめられざるを得ないこの残酷な脅迫に対する嫌悪の念に私はもう耐えられなくなった。そこで私は一つのトリックを用いるのであった。突然私自身は明るく照らされた美しくて暖い大きな講演会場の演壇に立っていた。私の前にはゆったりとしたクッションの椅子に興味深く耳を傾けている聴衆がいた。…そして私は語り、強制収容所の心理学についてある講演をしたのだった。そして私をかくも苦しめ抑圧するすべてのものは客観化され、科学性のより高い見地から見られ描かれるのであった。――このトリックでもって私は自分を何らかの形で現在の環境、現在の苦悩の上に置くことができ、またあたかもそれがすでに過去のことであるかのようにみることが可能になり、また苦悩する私自身を心理学的、科学的探究の対象であるかのように見ることができたのである。」(p.178)

われわれ人間が悩み苦しむのは、われわれを悩み苦しませる外的環境・状況のためではない。その環境なり状況なりを反映した認識=像が、もっといえば、その認識=像につながっている不快な未来像が、人間を悩ませ苦しめるのである。したがって、その不快な像を観念的に自分から切りはなし、いわば直接性を切りはなして媒介関係に置くことができるならば、悩みや苦しみは軽減するのである。

フランクルは、聴衆の前で収容所生活について語っている未来の自分を想像=創像することによって、この切りはなしに成功した。現在の不快な認識=像を、観念的に対象化し、客観化できたのである。もう一人の自分を創りだし、別な立場から現在の自分を眺めることができたのである。

フランクルにとってこれは、その時の苦しみをやわらげただけではない。この苦しかった体験も、将来は自分自身の研究対象となり、そのおかげで立派な業績を上げられるのだという未来像が、フランクルに目的を与え、生きる力を与えたのだと思う。

「これに対して一つの未来を、彼自身の未来を信ずることのできなかった人間は収容所で滅亡して行った。未来を失うとともに彼はそのよりどころを失い、内的に崩壊し身体的にも心理的にも転落したのであった。」(p.179)

端的にいえば、人間の体力とか、肉体的な健康さといったものではなく、人間の描いていた認識=像によって、収容所での生死が決まったのである。

認識とは対象の反映であり、像である。しかし、認識と対象は相対的に独立しており、最高の弁証法性を孕んでいる認識という存在は、訓練次第でいかようにも変化させることができるようになる。一流の認識論者を志す僕としては、フランクルの事例に倣って、自己の認識のコントロールに努めていきたい。唯一直接見える認識は、自分の認識しかないのだから。
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2007年06月08日

細野真宏『経済のニュースがよくわかる本』(小学館)



数学を教える予備校講師の書いた経済の本。「日本経済編」「世界経済編」「銀行・郵貯・生命保険編」の三つがあるが、今回は初めの二つを読んだ。「そりゃ、売れるわ」というのが第一印象。

実はこの著者の本は、この二冊以前に『世界一わかりやすい株の本』(文藝春秋)を読んでいた。この株の本は、確かに分かりやすいものの、非常に薄っぺらで、あまり得るものがなかった。1000円を返せと言いたい。正直、株の本なら、もっといい入門書がある。それだけに、この『経済のニュースがよくわかる本』もそれほど期待はしていなかった。

しかし、友人の薦めもあって今回読んでみると、いい意味で大きく期待を裏切られた。まず、株の本と違って内容がそこそこ深い。特に「世界経済編」は、戦後の国際通貨体制から始まって、ヘッジファンドがデリバティブを使っていかにポンド危機・アジア通貨危機を起こしたか、ロシア危機ではいかなる誤算があったのか、などが説かれていて、初めて知ったことも多かった。

中でも興味深かったのは、ロシア危機のところで説かれていたブラック・ショールズの方程式である。これは、デリバティブの一つであるオプション取引の価格を求めるための式である。フィッシャー・ブラックとマイロン・ショールズの二人によって創られ、ロバート・マートンによって「数学的に正しい式」だと証明された。ガンで死亡したフィッシャー・ブラックを除いた二人は、この功績でノーベル経済学賞を受賞している。この式によってオプション取引が大きく普及したのみならず、デリバティブに関する研究も飛躍的に発展したらしい。

この式の何が興味深いかというと、実はこの式は「正規分布に従う」という前提のもとでつくられているのだ。この前提のもと、ロシア危機後に起こった「パニック状態」が起こる確率を求めると、「1兆年に1度も起こらない」ということになってしまうという。今統計を勉強している最中なので、後々、この式のどこに不備があったのかを論理的に説けるようになりたいものだ。一つ、宿題ができた。

さて、この細野本の最大の特徴は、なんといってもその分かりやすさにある。円高・円安や日銀の仕事といった経済の非常に初歩的なところから、今触れた国際通貨体制やデリバティブといった内容までを、非常に分かりやすく、それこそ小学生にも理解できるように説いてある。これはなかなかできないことである。おそらく出来の悪い受験生を指導する中で、誰にでも分かりやすく説明する術を実力と化していったのであろう。

なぜ分かりやすいのか? それは、本書がクマ(?)のコロちゃんとの対話編になっているからである、ということもいえなくもないが、最大の理由は別にある。それは、いたるところに「例えば」といって具体例が登場するからである。しかもその具体例がシンプルで、またマンガを効果的に使っているため、否が応でも理解させられてしまうのである。

論理的にいえば、表象の使い方がうまいのである。表象というのは、抽象的認識と具体的認識を媒介する過渡的な段階である。だから表象を駆使して説かれると、認識ののぼりおりがしやすくなり、「分かった!」となるのである。

また、論理に飛躍がない。「日本の景気が悪い時には、円安に進む(可能性が高い)」といわれれば、「まあ、そうだろう」とか普通思ってしまうが、なぜそうなるのかということを、これでもかというくらい詳しく、具体的に説明するのである。これは大学の先生にはできがたいことであろう。こういったことは、単に本を読んで抽象的に理解しているだけでは決してできないことである。真に経済という対象を理解している、もう少していねいにいえば、具体的な経済現象から、自分自身で抽象化の道を一度辿っている、といえるのではないか。

もちろん、経済学を体系的に説いているというようなことは全くないが、対象を理解しているのであれば、最低限、この程度のわかりやすさで説けるはずだといういいお手本になるような気がする。

本書は、高校生くらいが経済の初歩的な知識を吸収するのに非常によい教科書になると思う。「日本経済編」で獲得した知識(=基礎)を、「世界経済編」で応用して知恵(=使える知識)に変えようと意図されているので、この順番で読むのがいいだろう。大学生や社会人にとっては、「日本経済編」で説かれているバブル経済や、その崩壊、不良債権問題など、「何を今さら」という感じがするであろうが、先述した通り、解説法の勉強をするのだと思って、こちらから読んでもらいたいものだ。案外、自分の理解が曖昧であったことが判明したりするかもしれない。

引き続いて「銀行・郵貯・生命保険編」も読んでみようと思う。さらに「世界経済編」で予告されていた「日本の財政問題とアメリカ・ヨーロッパ・中国経済編」も出たら読んでみたい。
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2007年05月24日

ZA-KHEMじゃない『学城』(第四号)

『学城』の最新号が届いた。嬉しくて死にそうだ。

今朝、現代社のHPで、昨日『学城』が出たことを知った。昨日出たのだから、ひょっとして今日届くのではないかとの期待を抱いた。それにしても、ZA-KHEMの文字が消えているのが気になった。

そうこうしているうちに、午前中に届いた。実物を見てみると、やはりZA−KHEMの文字がない。表紙には、「学城」という文字の背景にDAS REICH VON WISSEN SCHAFT(「学問の王国」という意味か?)の文字が。

悠季真理氏による「編集後記」によると、「『弁証法はもやは常識』として次のレベルに昇っていくことにした」とある。つまり、弁証法の発展史としてのZA−KHEM=ゼノン・アリストテレス−カント・ヘーゲル・エンゲルス・三浦つとむはもう卒業ということだろう。それにしても、一度もZA−KHEMの意味を説かないのはいかがなものか、とか思ってしまわなくもない。熱心な南郷信者なら、わざわざ説かなくても分かるだろう、との思惑か?

パラパラと眺めてみると、p.70の「図2」、やはりそう来たかという感じだ。瀬江千史、畏るべし。僕が南郷学派で南郷継正を超える可能性が一番あると思っている、語学の達人と論理能力の達人の媒介的統一(?)たる悠季真理、実は僕が勝手に設定した、僕の最大のライバルである。すなわち、僕はやはり、どうしても哲学への憧れが捨てられない。

前から分かっていたが、南郷継正、弁証法の復興者=カントや、弁証法の達人=ヘーゲル・マルクス・エンゲルス・三浦つとむをはるかに凌駕している。学派を総括ならぬ統括している様は、見事としかいいようがない。ちなみに、僕は岩波書店の古代ギリシャ関係の誤訳を読んだことがない(念のためにいっておくと、岩波書店の翻訳文が誤訳ではない、などと主張しているのではなくて、そもそも岩波書店の翻訳文を読んだことがない、というだけのこと)。全集第7巻は、もう既に原稿ができているようだが、第3巻の上梓を強く望む。


P.S.

どうでもいい(ということもないが)が、『弁証法はどういう科学か』は絶版になるのか? 現行の講談社現代新書版より、初版の方がいいのか?
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2007年04月12日

『なんごうつぐまさが説く看護学科・心理学科学生への“夢”講義 』 第2巻発行!!

待望の『なんごうつぐまさが説く看護学科・心理学科学生への“夢”講義 』 第2巻が発行されたようだ。本日、現代社のHPが更新されていた(お兄ちゃん、買えよ)。

南郷ファンや心理学専攻の学生のみならず、人間のこころに関心のある全ての人、必読の書である。「いのちの歴史」からつながる「こころの歴史」が説かれた書でもある。

現代社のHPにアップされている目次を見ると、『全集』に収められたのと同じ論文からスタートしているような気がする。詳細は、読んでみないと分からないが。

今回も連載論文から、あちこち加筆・修正されているだろうから、それも楽しみだ。近々発刊されるはずの『全集』最新刊も、非常に待ち遠しい。
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尾瀬あきら『夏子の酒』(講談社漫画文庫)



尾瀬あきら『新装版 夏子の酒』全6巻(講談社漫画文庫)を読了した。簡単にいえば、兄の遺志を引き継いだ夏子さんが日本一(=世界一)の日本酒を創ろうと奮闘する物語であるが、面白く泣ける漫画である。

夏子の意気に感じて、東京帰りの同級生やダメ蔵元の息子が人生の再出発をする様など、非常にリアルで感動的だ。また、逆にそういった人々に励まされて、夏子が日本一の酒造りの決意を新たにする。こういった相互浸透も、見ていて気持ちがいい。

何度も何度も挫折しながらも、周りの人に助けられ、兄の遺志に励まされ、そして何よりも、「自分にとってはこれしかない」という夏子自身の野望のおかげで、困難を乗り切っていく。夏子は一度飲んだ日本酒は忘れず、杜氏のじっちゃんを凌駕する利き酒の天才的な力をもっている。こういった点は、『ガラスの仮面』の北島マヤを髣髴とさせる。

日本酒造りの過程や、杜氏や蔵人の生活、すぐれた蔵元の心意気など、勉強になる点も多かった。

一番興味深かったのは、夏子が「お酒は芸術ね」といったのに対して、父がいったセリフである。父親は、「それはどうかな」といい、「酒が芸術かただの致酔飲料かを決めるのは酒蔵の心意気次第だ」(2巻p.282)と名言を吐く。

つまり、芸術か否かは作者の認識が決定するということである。三浦つとむが聞いたら観念論的だといいそうだが、案外、一面の真理をとらえている気がする。紙パックで売られているような大量生産のポン酒はどう考えても芸術作品とはいえないが、たとえば山形の出羽桜、たとえば奈良の豊祝、たとえば静岡の臥龍梅などは、芸術作品といっても決して過言ではないと思う。杜氏を中心とした酒造りに関わる人々の心意気と技の結晶(量質転化)である。

日本酒の背後に、このようなさまざまな物語があるということを知ると、同じ日本酒でも、今まで以上に深く味わうことができるようになると思った。美泉のモデルになったといわれている福井の黒龍や、龍錦のモデルであるらしい山形の亀の尾も機会があれば飲んでみたい。
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2007年03月30日

高木彬光『密告者』(光文社文庫)



久々に高木彬光の推理小説を読んだ。高木彬光といえば、今までは神津恭介ものしか読んでいなかったが、この『密告者』の探偵は、検事・霧島三郎である。

内田康夫に比べると、高木彬光はいかにも社会派という感じである。この『密告者』は当時(1965年頃)はやっていたという産業スパイ物であり、しかも検事が探偵役なので、自ずと現代社会のこころのようなものが描かれている。

しかも本格ミステリである。アッと驚く結末にも、内田康夫小説に時々感じるような、不自然さがない。なるほどね! という感じだ。推理小説独特のスリルとサスペンス満ちた作品だった。

気軽な気分でスラスラ読めて、日本各地を案内してくれる内田小説もいいが、こういった少し重い社会派推理小説も非常に面白いと改めて思った。高木彬光の検事・霧島三郎シリーズのみならず、松本清張や森村誠一作品も、どんどん読んでいきたい。
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2007年03月24日

山村修『<狐>が選んだ入門書』(ちくま新書)



お父さんたちが通勤電車で手にする夕刊紙「日刊ゲンダイ」で22年間の長期連載となった<狐の書評>を書いてきた匿名の書評家<狐>が、初めて覆面をとって各分野から選んだ25冊をめぐって読書の愉しみを説いた本。

<狐>こと山村修氏は昨年に亡くなったそうだ。僕は日刊ゲンダイも読んだことがないし、当然そこに連載されていた<狐の書評>も読んだことはないが、この本を読むと、さぞかし面白い書評だったのだろう、と想像してしまう。

そもそも本を読むというのは、ある種、新しい世界との出会いでもあるわけだが、山村氏はその新しい世界を愉しく紹介してくれる人だと思った。

たとえば、僕は今まで「美術」というものに、それほど関心がなかったけれども、武者小路路穣『改訂増補日本美術史』の書評を読んで、速攻でこの本を注文してしまった。この本は、「日本美術の全史を平明・簡潔にガイドする『早わかり』の傑作」(p.183)なのあるが、ふつうの歴史教科書のような無味乾燥さを免れているそうだ。海外との文化的なつながりに目配りがなされており、「没個性どころか、この本には著者ならではの見解が、しばしば文面にさりげなく浮上してきます」(p.186)と解説されている。また、引用箇所が絶妙なせいもあるかもしれない。とにかく、読んでみたくなる書評なのだ。

他にも、武藤康史『国語辞典の名語釈』、萩原朔太郎選評『恋愛名歌集』、内藤湖南『日本文化史研究』、岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』などなど、読んでみたい! と思わせる書評が多かった。

また、文章の書き方、もっと限定して、書評の書き方、という点でも、学ぶことがあったように思う。というより、書評書きというのも面白い仕事だと思わせる何かがあったという気がする。

僕も、人を新しい世界に誘う<狐>氏のような仕事がしたいと思ったしだいである。
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2007年03月06日

木村達雄『透明な力』(講談社)



知人に勧めていただいた木村達雄『透明な力』(講談社)を読んでみた。副題には、「不世出の武術家 佐川幸義」とある。何でも佐川幸義という人物は、大東流合気武術宗範で、11歳で大東流・武田惣角に入門後、長い修行を経て師を越えたといわれているらしい。その佐川幸義の略伝と語録を、弟子の木村達雄がまとめたのが本書である。

恥ずかしながら、この佐川幸義なる武術家を、僕は全く知らなかった。しかし、この本に書いてあることが事実であれば、佐川幸義は間違いなく、名人・達人レベルの武術家であろう。相手を無力化する技術=合気を師・惣角から唯一受け継いだ人物だそうだ。合気なる技術を習得した唯一の人物だから、どんな人間が本気でかかってきても、あっという間に吹き飛ばしてしまうという。それも、かなり高齢(90歳くらい)になってからも、かなう者はいなかったらしい。それどころか、70を越えてからも、どんどん進化していったという。

この合気という技術は、植芝盛平が創始した合気道とはあまり関係がないというか、全然別物であるようだ。最初はこのことが分からなくて、ちょっと混乱してしまったよ。

「略伝」では、昔の武術家の生き方が描かれており、興味深かった。佐川の師である武田惣角は、全国を巡りながら金持ちに指導して回るという生活を送っていた。佐川も助手として、一緒に廻っていたようだ。

本書の中心は、何といっても「佐川先生語録」であろう。さすがに「不世出の武術家」と評されるだけあって、含蓄のある言葉が多い。主な内容は次の4点といってよいと思う。

@頭を使え
考え続け、工夫し、反省することが大切だ。

A執念が大切だ
意志、気持ちが何よりも大切で、だめだという時にナニクソとがんばる「ヤマト魂」がなければだめだ。


Bこれでよい、ということはない
人間、現状に満足すれば進歩が止まってしまうから、一生修業だと思って、いくつになっても進化し続けなければならない。

C自分で責任をとれ
何でも教わろうという他者に頼る気持ちではだめで、自分で開発していこう、自得しようという心構えがなければだめだ。誰かが強くしてくれるのではないのだ。

要約してしまうと平凡な感じがするが、本人の言には、武術家魂が溢れている気がする。これからの老人はかくあるべし、という見本であろう。

ただ、かなり精神論に偏っているきらいがある。しかも上達論などないし、「語録」もエッセイのような断片的なもので、全く体系的ではない。結局彼の合気も、だれひとり受けつくことができないまま、彼はこの世を去ってしまった。要するに、彼の業績が文化遺産としては、あまり形あるものとして残っていない。せいぜい、この本の語録と、弟子たちの技に残るのみ、という感じであろうか。

それでも佐川の、何としてでも合気を修得しようという執念や、そのために考え続け、工夫し続け、鍛錬を怠らなかった姿勢、すべてを自分の責任ととらえて反省し、研究して、高齢になってからも進化を続けた人生は、多くの見習うべきものがあると思った。やはり、どんな世界でも一流になるには、このくらいの執念と研鑽が必要になるのだろう。
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2007年02月17日

『綜合看護』2007年1号(現代社)

最新の『綜合看護』が届いた。まず最後の「編集者覚え書」を読むと、瀬江千史『育児の生理学』が近々改定されるとある。「おむつ」と「日光浴」に関して改訂があるそうだ。文字も大きくなるらしく、ページ数も320頁になるとのこと。つい最近、『育児の生理学』を読み返したのだが、20年前の著作であるにもかかわらず、その高み、あるいは論理性に圧倒されてしまった。当時既にここまでの解明がなされていたのか、という思いである。育児相談の形をとっているものの、内容は体系的であり、論理的に一本筋を通したものになっている。人間の体の仕組みや認識に関して、ごく大雑把な全体像が描けるという意味でも、非常にすぐれていると思った。世の父親・母親(や、もうすぐその立場になる者)にはもちろん読んでいただきたい。しかし、それだけではなく、医学生や看護学科学生にも、入学後すぐに読んでいただきたい書である。

さて、今回も一読後の感想を書いておこう。


なんごう つぐまさ が説く看護学科 ・心理学科学生への
  “夢” 講義(33) ―看護と武道と認識論 /南郷継正

看護学や心理学で一流を目指すなら、哲学や学問に関する基礎としての教養が必須であるという内容。

『武道講義第二巻』からの引用があるが、その中で思想の科学研究会編『現代科学読本』の中の提議が紹介されている。その後「これらの小論を提議した数人の人々はただの一人を除いて歴史の歯車に粉砕されてしまっている」とあるが、その歴史の歯車に粉砕されてしまわなかった一人とは誰のことなのか? 『武道講義』を読んだ時から疑問で、この本を入手しようと試みたが、全く入手不可能だった。(ちょっと調べてみると、どうやら武谷三男っぽい。思想の科学研究会の創立同人は、「武田清子、武谷三男、都留重人、鶴見和子、鶴見俊輔、丸山真男、渡辺慧」で、この中でいうと、武谷三男くらいしか考えられないから。)

また、『“夢”講義』第二巻の発刊も予告されており、その目次も載っている。今回も連載でいうと10回分くらいがまとめられているようだ。


次代を担う看護学生・医学生への医学概論教育 講座(16)
  ―[連載] 第2部・第5回 /瀬江千史・本田克也・他

医学生がまず学ぶべき専門課程の全体像とは、医学体系の一般論であるという内容。ベルナールを評価して、本来の医師としての学びは、「臨床→基礎→臨床」という否定の否定の流れでなければならない、とも説かれている。

最後には、常態論、病体論、治療論が三角形の中に関係付けられている図が載っている。そして、「実は、この図の体系性、すなわちつながりを理解してもらうには、『医学体系』の要ともいうべき重要な概念の理解を必要とするのであり、それを理解するための図をもう一つ示さなければなりません」と述べられている。「重要な概念」というのは、おそらく「病気」(あるいは「病態」?)のことであり、もう一つの図とは、間違いなく『看護学と医学(下巻)』p.268の「図2」であろう。初めてこれらの図を見た時の感動といったら、とても言葉では言い表せない(beyond description)。これぞ論理!というか、これぞ学問体系!と思ったものである(あっ、言葉で言い表してしまった)。


初学者のための 『看護覚え書』 (12) /神庭純子
  ―看護の現在をナイチンゲールの原点に問う

うぉーーー!!!! また来た!!! 感動の震えというか寒気というか、背中の真ん中あたりからスタートして、徐々に上に伝わっていき、最終的には脳を揺さぶる、そんな感じの例の感覚だ。少し長いが、その震えが起こった箇所を引用して、終わりにしたい。

 そもそも弁証法は自然・社会・精神の一般的な運動に関する科学であるといわれています。これはどういうことなのだろうか、というオサライを少ししておきます。
 少し論理的に説くなら、弁証法というのは全世界の一般的な運動の科学、あるいは運動の一般的な科学のことです。このように説くと、オヤと思う方たちがいるはずです。
 一般的な運動と運動の一般的(一般性)とはどういうことなのか、つまり「(原文のママ)同じようなことなのに、わざわざ書きかえているのには何か意味があるのか、それとも違うもの(論理)なのか、と。
 端的に答えておきます。これは単なる言葉の使い方の違いではありません。中身(構造)が大きくも小さくも異なることになるからです。
 一般的な運動というと、運動そのものをまずアバウトに共通性をもつものとしてとらえるところから始まります。
 わかりやすくは「宇宙は変化(運動)していますね。大空の星たちは移動(運動)していますね。地球の状態も変わって(運動して)いっていますね」といったレベルのとらえ方をいうのです。
 このように、運動(変化・発展・消滅)を大きくアバウトに全体を一つの像としてみつめていくことから、対象の研究がはじまります。これが、一般的な運動という簡単な中身の説明です。
 では、運動の一般性とはどういうことでしょうか。
 これは、運動している事物・事象を眺めてみると、それは個々の運動=個別的な運動、すなわち、事物・事象が、(観念論的に説けば)それぞれの思惑で自分流に運動(変化・発展・消滅)しているように見えます。でも、このどの事物の運動、事象の運動をとってみても、必ず一般性をもっているのだ、というところから研究を始めることが大切だということです。
 ですから、弁証法の学びとは、大きくアバウトに運動としてとらえることと、小さな個々の事物・事象の変化・発展・消滅などのありかたを、大きく一般性としてとらえる訓練が必要だとこととの二重性(二重構造)で弁証法の学びは、始まっていくことになる、そうでなければ弁証法的にはならないという意味をもった概念規定なのです。
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2007年01月20日

本田克也・加藤幸信・浅野昌充・神庭純子『看護のための「いのちの歴史」の物語』(現代社)

本田克也・加藤幸信・浅野昌充・神庭純子『看護のための「いのちの歴史」の物語』(現代社)が、発行日の翌日、19日に届いた。さすが現代社、仕事が速い!! というか、予約までして楽しみにしている読者の気持ちがよく分かっているというか。さっそく読了した。

南郷継正師範の読者や、季刊雑誌『綜合看護』(現代社)の読者なら自明のことであるが、本書で説かれている「いのちの歴史」とは、「生物の歴史」とは違う。すなわち、「地球上に存在しているありとあらゆる種としての実体の歴史、つまり生物体のたどってきた道(過程)」(p.5)を説いたものではない。そうではなく、「その生物を生かし続けているもの、すなわち『いのち(生命)』自体の変化・発展の歴史に着目」(同上)したばあいに浮かびあがってきたもの、つまり「『いのち』はどのように生まれ、どのような姿や形をとって現代の人間まで発展してきたかの、壮大なパノラマ図」(同上)を説いたものである。

本当に、超・超壮大な歴史が説かれてあり、これ以上壮大な世界の捉え方はないといえるくらいである。しかし、「過程を含めて全体」なのであるから、人間という存在をきちんと理解しようとするならば、その人間にまで至った過程=いのちの歴史をしっかりと学ばなければならない、というのは当然である。本書でも、「いのちの歴史」を学ぶ意義が、くり返し説かれている。例えば、以下である。

「『いのちの歴史』を学ぶことによって人間に関するどんな問題も、自分の力でその答えを探っていくことができる実力がつくのです。」(pp.17-18)
「あらゆる人間の問題そして人間を生んだ自然の問題、人間がつくった社会の問題を解く鍵は、『いのちの歴史』の物語にあります。」(p.31)
「人間は、生き物の頂点として、高度に発達した脳をもち、認識の働きですべての活動が統括されています。体の仕組みも働きも複雑怪奇であり、それを理解することは極めて困難なように思われます。しかし、それはそこまで発展してきたからこそであり、初めは単純なものからここまで発展してきたのです。そしてついには生命体は『認識』あるいは『こころ』というものをもつに至ったのですが、いささか文学的な表現をすれば、『いのち』が咲き誇ったのが『こころ』であるということもできるでしょう。したがって『いのちの歴史』の物語を基礎とすれば、われわれの『こころ』の謎を解くこともできるのです。」(p.33)


「こころ」の謎を解かねばならない僕としては、当然に熱心に学ぶことになる。というより、歴史性をもって生きたい人間は、すべからく学ぶべき必読書(a must)である。

本書は『綜合看護』に連載された論文が書きなおされたものである。ここには、『統計学という名の魔法の杖』(現代社)と同じく神庭純子氏が関わっているそうだ。また、第14章は、連載にはなかった追加部分だが、瀬江千史氏が執筆されている。ここは調べてみると、瀬江氏自身が『綜合看護』に連載されていた論文「脳の話」の第19回〜第21回(『綜合看護』2005年4号〜2006年2号)がもとになっている。

さて、前回引用した目次を見ても明らかだが、本書は、同じ歴史がらせん状にレベルアップしながら、くり返し説かれている。そのため、初めはアバウトに全体像が描け、徐々にその発展の構造や意味、必然性が分からされてくる、という感じである。もちろん学術論文ではなく、あくまで「看護のための」という条件付きであるから、厳密な論証のようなものは端折っている部分もある。しかしその分、物語として、イメージしやすく、分かりやすい記述になっている。

それでも、今回通読してみて、やはり難解であった。特に、生命体誕生の部分と、哺乳類(胎生+授乳)への発展の必然性の部分が、正直十分に理解できていない。つまり、像としてイメージできない。くり返しくり返し学んでいくしかないだろう。(読んでいて少し思ったことだが、CGか何かを使って、この「いのちの歴史」をビジュアル化できないものだろうか?)

ちょっと理解が進んだ点もあった。それは、カイメン段階→クラゲ段階・魚類段階→両生類段階・哺乳類段階という発展や、初期哺乳類→サル→ヒト・人間という発展は、大地から離れて、大地へ戻るという、否定の否定としての発展であるということが、何となく分かった点である。

前回気になると書いておいた「『いのちの歴史』は『こころの歴史』に続く」という節は、端的には、「こころの歴史」が既に南郷師範によって「“夢”講義」として説かれているので、次はそちらを学べ、ということであった。なるほど。(そういえば、『“夢”講義』の次の巻は、もうそろそろでるんじゃないか?)

誤植らしきものもいくつか発見した。p.50の「他の兄弟惑星である金星・木星」は「他の兄弟惑星である金星・火星」の誤りだろう。これはほぼ確実。p.65の「史上最高の哲学者とされるソクラテス」は、ちょっとあやしい。連載当時のママだが、一般的・常識的にはソクラテスが史上最高の哲学者とされることもあるのか? 最後に、p.270の「それをさらに弁証性豊かに説ききってくれたのが神庭純子です」の部分。「弁証性」ではなくて「弁証法性」ではなかろうか?

それはともかく、僕にとっては、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)、海保静子『育児の認識学』(現代社)、南郷継正『“夢”講義』(現代社)に次ぐ基本書の登場である。それぞれ100回は読まないダメだ。それも、単に読むだけでなく、実践・事実に繋げて読んでいきたい。
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2007年01月18日

『看護のための「いのちの歴史」の物語』 発行!!

現代社のHPによると、本日、待望の『看護のための「いのちの歴史」の物語』 が発行されたようだ。

僕は予約しておいたので、明日くらいに着くのではないかと期待している。頼みますよ、現代社さん!

まだ予約・購入していない南郷ファンは、絶対に買いである。

(出産祝いをたくさんやったのに、そのことにはブログで全く触れていない鬼ーちゃんは、3冊くらい買えよ、このヤロー。)

以下に目次を引用しておこう。最後の方の、「『いのちの歴史』は『こころの歴史』へと続く」が、関心をそそる。

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第1章 プロローグ 「いのちの歴史」の学びは、人間の謎を解く
 
 第1節 「いのちの歴史」を学んでみませんか
 第2節 「いのちの歴史」を学ぶと何が見えてくるのだろう
 第3節 人間は「いのちの歴史」をくり返しながら生きている
 第4節 看護一般論における「いのち」とは
 第5節 ナイチンゲールの「生命の法則」とは
 第6節 見事な看護師になるために本書を!

第2章 大宇宙の中での、私たちの太陽系はどのようなものだろう
 
 第1節 私たちの太陽系の誕生
 第2節 地球誕生の特殊性を見てみよう
 第3節 地球の化学的変化が生命現象へと変化した

第3章 「いのちの形成(生命現象)」は地球現象として始まった
 
 第1節 地球は月により特殊な惑星に変化した
 第2節 地球に起こった「特異現象」とは
 第3節 最初の「いのちの形成(生命現象)」の中身は何だろう
 第4節 「いのちの形成(生命現象)」の構造を見てみよう

第4章 「いのちの形成(生命現象)」過程の謎を解く
 
 第1節 「いのち」の起源の問題は学問上の大問題であった
 第2節 大哲学者ゼノンの問題との類似性を説くと
 第3節 「いのち」の起源の謎解きは、ゼノンレベルの実力を要する
 第4節 「いのちの形成(生命現象)」を生んだ地球の大異変とは何か
 第5節 「いのちの形成(生命現象)」からその実体化への過程(1)
 第6節 「いのちの形成(生命現象)」からその実体化への過程(2)
 第7節 「いのちの形成(生命現象)」の謎解きは論理と事実の統一として(1)
 第8節 「いのちの形成(生命現象)」の謎解きは論理と事実の統一として(2)
 第9節 「いのちの形成(生命現象)」過程を学問的に解くことはなぜ必要か
 第10節 「いのちの形成(生命現象)」を生んだ地球の二重性を知ろう
 第11節 「いのちの形成(生命現象)」過程を具体的にイメージしてみよう

第5章 「生命体の歴史」は自らが生みだした水の発展とともに
 
 第1節 「いのちの形成(生命現象)」のあり方が地球に水を生みだした
 第2節 「生命体の歴史」とは単細胞から人間までの進化の歴史である
 第3節 生命体の進化がたどった各段階を簡単に見てみよう
 第4節 単細胞段階の誕生の意義を知っておこう
 第5節 単細胞段階からカイメン段階へ、さらにクラゲ段階へ
 第6節 魚類段階の誕生の意義をまじめに知ろう
 第7節 「系統樹」を「生命体の歴史」としてとらえ返すと・・・

第6章 「生命体の歴史」は運動形態の発展として理解しよう
 
 第1節 細胞膜を形成し単細胞段階へ
 第2節 大地(岩石)に固着するカイメン段階へ
 第3節 海水に浮遊するクラゲ段階へ
 第4節 海流の中を泳ぐ魚類段階へ
 第5節 海でも陸でも生きられる両生類段階へ
 第6節 生命体も地球もこの頃は可塑性に富んでいた

第7章 運動形態を担う生命体の構造の発展を知ろう
 
 第1節 カイメン段階からクラゲ段階への運動形態の発展
 第2節 強烈な海流を泳ぎきる魚類段階の運動形態
 第3節 柔軟性と硬質性を合わせもった魚類段階の生命体
 第4節 魚類段階における運動器官・代謝器官・統括器官の分化
 第5節 人間の体の構造の理解に必要な魚類段階

第8章 地球の激変に対応して、両生類段階から哺乳類段階へ
 
 第1節 生命体は大地とのつながりで生き続ける
 第2節 両生類段階は海から陸への過渡期の生命体として
 第3節 爬虫類は生命体の進化過程での傍流である
 第4節 進化の本流となった哺乳類段階の意義をわかろう

第9章 哺乳類段階の誕生(1) ―卵生から胎生への過程的構造
 
 第1節 卵生から胎生への謎は地球の大変化にある
 第2節 卵生とは系統発生をくり返すための仕組みである
 第3節 水中の卵生と陸上の卵生との大きな違いを知ろう
 第4節 個体発生は環境とともに系統発生をくり返す
 第5節 哺乳類段階が誕生するまでの地球の変化を見てみよう
 第6節 哺乳類段階が誕生した地球の大激変とは何だろう
 第7節 環境の激変に対応した胎生の仕組みの見事さとは

第10章 哺乳類段階の誕生(2) ―胎生・授乳の必要性
 
 第1節 卵生は地球環境との相互浸透のあり方である
 第2節 哺乳類段階は胎生によって系統発生をくり返す
 第3節 地球の大激変に適合するための胎生・授乳とは何か
 第4節 人間が人間として育つための母乳の大切さを知ろう
 第5節 地球の大変動は生命体との相互浸透によって起きた
 第6節 大変動の中での哺乳類段階への発展の意義とは何か

第11章 哺乳類段階でのサル(猿類)への道
 
 第1節 哺乳類段階は植物との相互浸透で大きく発展した
 第2節 哺乳類はなぜ木に登ってサルになったのか
 第3節 生命体の体の構造の発展過程をくり返し説く
 第4節 哺乳類の代謝・運動・統括器官の一体としての発展
 第5節 「いのちの歴史」から解く狂牛病の謎とは

第12章 サルへの道は植物の発展とともに
 
 第1節 目まぐるしい環境の変転によってサルへ
 第2節 なぜサルは木に登ることができるようになったのか
 第3節 陸上における動物と植物の助けあっての発展を見てみよう
 第4節 サルは草から木への成長とともに木に登る実力をつけた

第13章 ここまでの「いのちの歴史」をふり返ると
 
 第1節 次章の理解のために、前章をまでをふり返る
 第2節 地球の物質現象として始まった「いのちの形成」
 第3節 単細胞段階の誕生から魚類段階まで
 第4節 人間の体の原基形態的構造をもつ魚類段階
 第5節 哺乳類の特殊運動形態としてサルへ
 第6節 サルから人類への道

第14章 サルから人類への過程 ―脳の実体的・機能的発展とは何か
 
 第1節 木に登ることで分化した手と足が脳の発達をうながした
 第2節 実体的に発達した脳の像形成の変化とは何か
 第3節 脳の「問いかけ的認識」の芽ばえへの過程を見よう
 第4節 樹上から降りたサルはヒト(人類)への過程をたどる
 第5節 ヒトから人間への過程は労働によって発達した認識によって

第15章 エピローグ 「いのちの歴史」の学びを看護に生かすには
 
 第1節 「いのちの歴史」は「こころの歴史」へと続く
 第2節 看護には弁証法の学びが必須である

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2006年11月15日

『綜合看護』2006年4号(現代社)

現代社のHPを見て、「おっ、最新号の『綜合看護』の目次がアップされている!」と思っていたら、その直後に届いた。とりあえず目を通したことの記録として、メモでも残しておこう。


なんごう つぐまさ が説く看護学科 ・心理学科学生への
  “夢” 講義(32) ―看護と武道と認識論 /南郷継正

今回は瀬江千史「脳の話」の補足。以下、分からなかった点を2つ。

p.80の「心理というものがココロだとすれば、認識というものはアタマということができます」との記述。認識にはアタマとココロのはたらきという2つの側面があるのだと思っていたのだが。

最後のp.84。「以上の三つが満たされて初めて、脳は満足に働きますから、認知症が体のために発症することはまずありません。」との記述。「から」の前と後ろが僕の中でつながらない。

何回か読み返してみようと思う。

なお、最後に「別件」として、現在は『学城』で投稿文を受けつけていない旨、書かれている。


次代を担う看護学生・医学生への医学概論教育 講座(15)
  ―[連載] 第2部・第4回 /瀬江千史・本田克也・他

最初に、一般教養の基礎を身につけるためにもっともよい方法が説かれている。中学の教科書を学び直すことから始める、というおなじみの方法である。特に、「理科と社会(とくに歴史と公民)、そして保健体育はしっかりと学びなおさなければならない」とされている。個人的にも保健体育は大切だと思う。『看護の生理学』などを読もうとしても、その前に、人間の体の仕組みや発達の一般論が、アバウトながらにも描けていないとかなり厳しいからである。僕は保健体育の教科書は2種類持っているが、また復習しようと思った。


初学者のための 『看護覚え書』 (11) /神庭純子
  ―看護の現在をナイチンゲールの原点に問う

さすが弁証法の達人! 「いのちの歴史のイメージ像」とその解説が、非常に分かりやすい。感動で、寒気すら感じる。近刊案内に『看護のための「いのちの歴史」の物語』が紹介されているので、おそらく1月くらいにはでるのだろう。とりあえず3冊は買って、100回くらい読まないと。

ところで、最初に引用されている小論は、誰が書いたのだろう?
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