2005年11月30日

滝村隆一「マルクス主義の市民社会論」「マルクス主義の国家論」

先日、滝村国家論の読書会第3回を行った。今回は、『増補マルクス主義国家論』(三一書房)所収の最初の二つの論文、すなわち「マルクス主義の市民社会論」と「マルクス主義の国家論」を扱った。レジュメ担当は、O。相当苦戦したようだ。それもそのはず。最近の記事でも書いたように、僕が大学一年生の頃に初めて読んだ滝村論文が「マルクス主義の市民社会論」であり、数ページで撃沈したのであった。S君も、初めて読んだときはわけが分からなかった、といっていた。

しかし、滝村論文は難解ではあるが、自称哲学者が書くような無意味な難解さ、非論理的な難解さとはほど遠い(参考までに指摘しておくと、某有名マルクス主義哲学者で、某有名出版社版『哲学事典』の編者であるH.W.は、その娘婿の証言によると、「哲学者たる者、どんな簡単なことでも難しく表現しなければならない。難しければ難しいほどよい。自分にも分からないくらいがちょうどよい」などと、およそ学問というものを勘違いした発言を堂々と行っていたらしい)。滝村論文は非常に論理的であるために、くり返しくり返し読み込めば、徐々に分かってくる、というより、滝村の実力により分からされてくる、という性質の論文である。

実はこの『増補マルクス主義国家論』は、学生時代、社研というサークルで取り上げたことがある。このサークルは主にマルクス『資本論』を読み進める研究会と、現代社会の諸問題を取り扱う研究会と、科学的方法論を扱う研究会に分かれていたのだが、最後の科学的方法論を扱う研究会(略して科方研)で、僕とS君が主導して滝村隆一の学的方法に学ぼうという名目のもと、滝村国家論研究会に近いものを立ち上げたのだ。その時、科方研に参加していない一般会員向けに書いた文章=科方研ニュースがあるので、思い出とともにその文章をここに載せたい。まあ、今読むとおかしなことも書いているので、半分ネタだと思って読んでいただきたい。以下、Oのレジュメのあと、「科方研ニュースを読む」をクリックしていただけると、その科方研ニュースが読める。



読書会                                      2005年11月25日     O
                                          
 『マルクス主義国家論』p13−68
1.マルクス主義の市民社会論
 (1)マルクス主義の市民社会論(その一)
  (A)「国家と市民社会」論のプラン
 「国家と市民社会」論のプラン
   =近代の政治構造全体の分析、究明であり、近代国家と近代社会のトータルな止揚を目的とした革命家の理論的プラン

   『ドイツ・イデオロギー』以後のマルクス=エンゲルスの作業
     ・近代市民社会のより立ち入った分析
     ・近代の国家および政治の分析

   マルクス=エンゲルスの政治理論上の活動は、プランの構想に大きく依拠しながら遂行された
    →近代国家と市民社会のトータルな分析と究明のための歴史的=論理的な方法(視角)をさし示している

  国家権力の把え方
    従来のマルクス主義者・・・実体的に取り出し、機構的・機能的に論じる=形而上学的
    マルクス      ・・・公的権力と市民社会の様々な権力との関係において考察する
=対立物の統一・弁証法的
                  →「近代における国家と市民社会の分離=二重化」
                    =「公的権力と<社会的権力>との分離=二重化」

  現代革命論の確立のためには
   →近代国家論を、公的権力と社会的権力との不可分の関連において分析・究明


  (B)Kraft,Macht,Gewalt
 『ドイツ・イデオロギー』においてKraft,Macht,Gewaltを峻別し、連関を明確化

 Kraft ・・・社会的諸力としての生産力や、その構成要素としての生産手段、労働力、あるいはMachtとして組織され結集されていない即自的な状態におかれた人間集団、、さらに自然の諸力などといった物理的に作用する諸力
 Macht ・・・Kraftのうち、意志関係の創造を媒介にして、諸個人との有機的な関連において組織され構成され、社会的な力として押し出されたもの
 Gewalt・・・人間に対して暴力あるいは強力として作用する状態におかれたすべての諸力


 (2)マルクス主義の市民社会論(その二)
  (A)Machtの総体としての市民社会
 市民社会・・・生活資料を生産するためのMacht、人間を生産するためのMacht(2つを含めて生産の歴史的組織)および、この<生産の二種類>を媒介するところの物質的交通に従事するMachtといった諸Machtの総体によって構成される

唯物史観の定式(『経済学批判』序文)
市民社会=生活諸<関係>の総体・・・Macht的な構造をも含んだ関係を指す
                  意志関係を媒介にしない自然的関係の場合とは本質的に異なる
      →19世紀の社会主義者:経済諸関係をMachtとして把えることは常識
−現実を正視し、ここから学ぶことを義務づけられる
  cfレーニン・・・経済的権力の問題提起

  市民社会の諸Machtは、何よりも諸階級のMachtとして把握されねばならない
    支配階級・・・物質的生産・精神的生産においてMachtとして構成・支配
    被支配階級・・一大Machtとしてブルジョアジーの諸Machtと対立・抗争→国家を組織(プロレタリア独裁)


  (B)ökonomische Machtとしての資本
 資本=社会的生産の内部において生産条件の所有者(資本家)が、生きた労働力の所有者(労働者)との間にとり結ぶ、意志関係の成立(契約)を媒介にした一の社会的関係の表現であり、<対象化された労働>が生きた労働を支配し搾取する手段になっている<関係>
       意志の支配=服従関係の成立を前提→資本のMacht

 資本のMacht・・・資本家のMachtとしてたちあらわれる

 すべての権力がもつ2つの側面・機能
   ・分業に基づく倍加された力の獲得 ← 資本のMacht(ökonomische Macht)
   ・イデオロギーによる秩序の獲得  ← politische Macht(政治権力)とりわけStaatsmacht(国家権力)


  (C)soziale Machtの発展
 貨幣のMacht・・・高利貸→金融資本

 資本家階級としての一大Macht ← 諸Machtの系列化・連合
   Machtの縦の系列化・・・中小資本の小Machtを、下請け工場として系列化
   Machtの横の系列化・・・電鉄会社によるスーパー経営などへの進出
   巨大資本同士のMachtの連合・・・カルテル・トラスト・シンジケート
   階級としての共同利害を押し出すための階級の連合Macht・・・経団連・日経連

 経団連・日経連
   内部・・・階級としての秩序の維持と実現を目指す
            →<イデオロギー的>な性格が強い、soziale MachtとStaatsmachtとの中間
   外部・・・階級としての共同利害を強力に主張する機関=Gewalt
     近代国家の本質:資本家階級の共同利害を、社会全体の「共同」利害として強力に貫徹せしめる


2.マルクス主義の国家論
 (1)国家と革命
  (A)国家論における二つの見方
 ・マルクス以前の支配的な見方
→国家や国家権力が能動的な存在であり、現実的な諸関係としての社会は、それによってつくりだされるもの
 ・マルクス主義
→Machtとしての現実的な諸関係が、同じくMachtとしての国家をつくりだす


  (B)政治革命と社会革命
 <経済的>に支配する階級は、国家に対する支配を媒介にして<政治的>にも支配する階級としてたちあらわれる
 政治的権力の獲得には、まず自己を市民社会において最も有力なMachtとして組織し結合しなければならない
 政治革命の問題は同時に社会革命の問題として究明され提起されなければならない

 (2)国家の生成をめぐって
  (A)問題の所在
 Politische Machtとしての国家の生成・発展についても、自然発生的な分業の発展とそれにもとづくsoziale Machtの形成・発展という現実的過程との関連において考察しなければならない

  ・「原始公権力→政治権力としての国家権力の成立」の過程の歴史的=論理的概括
  ・この移行の歴史的=具体的な形態および過程についての特殊的かつ各論的な分析と究明

 →前者の作業は国家理論の低迷・混乱となって現出
   原因は
   ・レーニン:氏族制度・原始公権力扱わず→無視して構わないという習慣
   ・意志論、Macht論の欠落
   ・原始公権力の理解へと進む人々が存在しなかった


 (B)soziale Machtとしての原始公権力
氏族のサケムや隊長の権力は限られており、必要時に<氏族の意志>に従って行動するよう義務づけられていた
→原始公権力・・・soziale Machtの総体としての全氏族員によって構成
         ≠<イデオロギー的>Macht


  (C)第三Machtとしての国家の生成
 原始公権力・・・特定の経済的発展においてのみ合理的
           →土台の変動と共に変革

 国家が形成・確立されてくる歴史的=論理的過程
   ・地域住民の共同利害の処理・管理
   ・諸階級の共同利害の保護・配慮
     ↓
   公的機関の登場
     法の成立=公的強力の成立 ex警官、憲兵
     ↓(拡大)
   <租税>登場・・・血縁的共同体にとどめ


 国家生成の一般的概括において重要な視角
   国家権力が、社会的分業による社会の諸階級への分裂とともに、第三のMachtとして形成され登場してくることを正しく把える



科方研ニュース 第1号
                     2000年5月13日 寄筆一元
◇科方研ニュースとは何か◇
 こんにちは、科方研ニュースの時間(?)です。科方研ニュースでは、毎週、社研の研究会の一つである科学方法論研究会に関連した様々な内容を書いていきたいと考えています。何故科方研にだけこのようなニュースが存在しているのでしょうか? それは、科方研がマイナーだからです。このニュースがなければ科方研の知名度はぐんぐん下がっていって、そのうちに誰もその存在を知らなくなってしまうのです。

◇今年度のテーマ◇
 今年の科方研は、滝村隆一『増補マルクス主義国家論』(三一書房)を通して、国家論と直接に弁証法や認識論について学んでいくことになっています。ここでいう「直接」とは弁証法の術語です。ある事物・事象が同時に他の性質を持つときの切り離すことのできないつながり、この矛盾のあり方を弁証法では「直接」と呼ぶのです。ここでの意味としては、国家論を学ぶことが同時に弁証法や認識論を学ぶことでもある、ということです。因みにドイツ語で「直接」は、unmittelbarといい、直訳すれば「非媒介的」となります。
 さて、ここで少し滝村隆一氏について紹介したいと思います。ご存知の方がいればビックリしますが、氏は1944年生まれで、1970年に法政大学社会学部を卒業されています。恐るべきことに、この『増補マルクス主義国家論』に所収の論文はほとんどが大学在学中にものされたもので、今回扱った「マルクス主義の市民社会論」などは、『試行』紙上に発表された処女論文「二重権力論」と同じく、1967年に書かれたものです。この「二重権力論」は、東大教授がペンネームで書いたのではないかとの噂が立ったくらいの優れた政治学論文でしたが、この当時彼はまだ法政大学の三回生でした。その猛勉ぶりは大変なもので、勉強のし過ぎで一時期目が見えなくなったという逸話も残っています。はっきりいって大秀才です。あの三浦つとむ氏も、ある年を振り返って、その年一番嬉しかったことは学生時代の滝村隆一氏に出会ったことである、と述べていた気がします。

◇滝村国家論の方法◇
 閑話休題、滝村氏は本書の「まえがき」で自己の方法的立場を、従来の文献本質論や個別歴史的国家論と対比して次のように述べています。すなわち、「私は彼ら(文献本質論者のこと──寄筆)と違い、他人様とりわけ優れた古典的大家たちがすでに定立したまっとうな原理や方法を、労せずしてつまり先人がやったと同じ様に自らの力で直接歴史的=現実的事象からつかみ直すことなしに、安易に受け入れたこと(これを借用という)など、ただの一度もない」、また本書で示された一般理論は「私自身によって再確認・再措定され、また新たに創出された自前のものである」と。
 また本文の中では、従来の国家論の方法は国家権力を市民社会との関連を無視して実体的ないし機能的に論じている、そのために体系的な国家理論が創出できず、特定の歴史的発展段階に登場する国家形態の必然性を説明できない、と批判しています。これに対して、滝村氏の方法(=マルクスの方法)は、国家権力を社会的権力との<関係>において、対立物の統一(これも弁証法の術語です)として考察する、というものです。

◇Kraft, Macht, Gewalt◇
 滝村氏は、国家理論を構築するために不可欠である重要な概念として、Kraft, Macht, Gewaltの三つを挙げています。今まではこの三者が混同されており、これが国家論低迷の大きな原因となっていました。そこで三者の概念規定をすると以下のようになります。
 先ず、Kraftは「物理的に作用する諸力」のことです。力一般といっても良いかもしれません。そして「これらの諸力が、意志関係の創造を媒介にして、諸個人との有機的な関連において組織され構成され、社会的な力として(対自的な力として)押し出されたとき、Machtと呼ばれる」のです。もう少し丁寧に規定すれば、Machtとは「諸個人が<生活の生産>において直接・間接にとり結んだ関係を基礎にしてつくりだされた・規範としての<共通意志>による支配=服従関係を本質とした・<支配力>」のことです。これに対してGewaltとは、「人間に対して暴力あるいは強力として作用する状態におかれたすべての諸力(Kräfte)を指してい」ます。
 Kraft, Gewaltは兎も角、Machtについてはナンノコトダカさっぱり分からない、という人が多いことでしょう。一例を挙げて説明に代えたいと思います。
 ここでは、ピラミッドを造る際の巨石を運ぶ作業を考えてみましょう。先ず、一人でこの巨石を押したとします。このとき働く力はKraftです。次に、沢山の奴隷と奴隷監督者による協働を考えます。これらの人々は、「巨石を運ぶ」という<共通意志>の下に従属しており、さらに巨石を引く奴隷、下に敷く丸太を移動させる奴隷、奴隷を監督する人間、というように有機的な関連において組織され構成されています。このとき働く力は社会的な(=多数個人の協働による)力として押し出されているので、Machtであるということになります。この意味で、生産関係そのものも直接に生産力であるといえます(生産とは労働を注ぎ込み対象化するという意味です)。さらに、奴隷が怠けていると、監督者は奴隷を鞭で打ちます。これはGewaltです。

◇市民社会とは◇
 国家(上部構造)は市民社会(下部構造・土台)とともに論じなければならない、というのが滝村氏の方法論(=マルクスの方法論)でしたが、それでは市民社会とは一体何でしょうか? マルクス・エンゲルスは市民社会のことを「交通形態」(『ドイツ・イデオロギー』)と呼んだり「物質的な生活諸関係の総体」(『経済学批判』序文)と呼んだりしていますが、要は物質的な生活の生産のための諸Machtの総体のことなのです。ここでいう<物質的な生活の生産>とは、マルクスの歴史観である唯物史観における重要な概念です。詳細は別の機会に譲るとして、簡単には以下です。
 人間は、衣・食・住を中心とした物質的な生活資料を生産して、それを消費します。しかしこの消費は、生活資料に対象化されていた労働をさらに人間に対象化することを意味しているので、人間の生産と呼ぶことができます。ここでは消費は直接に生産なのです。このように生産には、生活資料の生産とそれによる人間の生産という二種類が存在しているのですが、この二つの生産を過程において統一してとらえて、生活の生産と呼びます。また、二種類の生産を媒介するものを<交通>と呼びますが、これは対象化された労働の場所の変更を意味します。
 以上をまとめると、市民社会は、物質的な生活資料の生産のためのMacht(工場など)、人間の生産のためのMacht(家族)、両者を媒介する物質的交通のためのMacht(商業や運輸業など)の総体である、ということになります。

◇最後に◇
 科方研に参加していない人に読んでもらうために、できる限り相手の立場にたって分かりやすく書いたつもりですが、論理能力や字数の制限上、十分に説明できていない部分や飛躍している部分があるかと思います。また、今回学んだ、Macht一般の二つの側面・二つの機能についてはまったく触れることができませんでした。申し訳ありません。分かりにくいところ、疑問があるところは、私のためにも率直に指摘してください。できれば社研のMLに流したいと思いますので、それに対するレスとして送ってもらえれば幸いです。



科方研ニュース 第2号
                     2000年5月20日 寄筆一元
◇権力一般の二つの機能◇

┌──国家権力─┬─政治的=イデオロギー的権力…a
│          └─社会的=経済的権力…b
└──社会的権力┬─政治的権力…c
            └─経済的権力…d

    a+c=政治的社会構成
    b+d=経済的社会構成

     滝村国家論における近代社会構成

 最初に前回の補足をしたいと思います。先ず上の図を見てください。これは滝村隆一氏によって措定された近代社会構成の図式です。詳細については後々説明していきたいと思いますが、簡単に説明しておくと、近代社会においては権力が国家権力と社会的権力に二重化しているだけではなくて、そのそれぞれがまた政治的権力と経済的権力に二重化しているとことに特徴があるのです。なお、『資本論』で対象となっているのは、この図の「経済的社会構成」の部分です。
 ここで、前回説明できなかった、権力(Macht)一般の二つの機能について触れておきたいと思います。あらゆるMachtには、@分業による倍加された力の獲得とAイデオロギーによる秩序の獲得、という二つの機能があります。@については、例えば自動車工場などにおいて、分業が高度に発達しているために、巨大な生産力が獲得されていることなどを思い起こしてください。経営学は、このような「倍加された力」を獲得するにはどのような分業の形態が合理的であるかを探求する学問であるといえると思います。Aについては、法律(=国家意志の表現)によって一つの市民社会全体の秩序維持をはかっている国家権力が代表的です。
 もう少し一般的にいうと、ökonomische Macht(経済的権力)は@が前面に出ておりAは副次的であるのに対して、politische Macht(政治的権力)はAが主要な側面であり@は二次的な意味しかもたないのです。

◇観念論的国家観と唯物論的国家観◇
 それでは、今回扱った「マルクス主義の国家論」に入っていきたいと思います。
 先ず、国家と社会の関係についての問題です。この問題をめぐって、二つの見解が対立しています。一つ目は、国家や国家権力が能動的な存在であり、現実的な諸関係は、前者によってつくりだされるという見解です。これはマルクス以前の支配的な見方であり、観念論的なものです。二つ目は、Machtとしての現実的な諸関係が、同じくMachtとしての国家をつくりだすという見解です。これはマルクス・エンゲルスの主張であり唯物論的です。
 ここで、観念論と唯物論について少し解説しておきます。観念論とは、精神こそ根本的な永遠的な存在であって、物質と呼ばれるものはその産物であるとする世界観のことです。これに対して唯物論とは、物質こそ根本的な永遠的な存在であって、精神は生きた人間の脳髄の持つ機能であるとする世界観のことです。ここで注意しておきたいのは、世間一般に普及している「唯物論」なるものは、いわば俗流唯物論とでも呼ぶべき性質のものであって、決して真の唯物論ではない、ということです。この俗流唯物論は、物質の根元性を度外れに誇張して、精神の働きを極端に過小評価します。俗流唯物論の立場では、「病は気から」というのは観念論であるとして非難されるでしょう。このような俗流唯物論のことを、皮肉を込めてわざと「タダモノ論」と呼ぶこともあります。

◇国家の生成をめぐって◇
 滝村氏は次に、国家の生成について考察しています。国家を真に理解するには、国家の生成についての解明が不可欠です。
 人類のもっとも原始的な社会は原始共産制社会と呼ばれ、生活の生産が始まっていたものの、まだ国家は存在していませんでした。この頃存在していた原始公権力は、常設の機関などではなく、またsoziale Machtの上に立ちこれを支配し指令するところの<イデオロギー的>Machtでもありませんでした。それは、氏族共同体の代表者によって構成されるsoziale Machtの連合体に過ぎないものでした。
 ここから、どのようにして国家が生成したのでしょうか? そこには、生産力の発展にともなう私有財産・奴隷制の成立が大きく関わっているのですが、国家の形成の歴史的=論理的過程を、ごく簡単に概括すると以下のようになります。すなわち、「国家は、相対抗する経済的な利害を持つ二つの階級間の激烈な闘争による社会の滅亡を避けるために、外見上二つの階級のMachtのうえにたって、二つの階級が押し出す『共同』利害をある程度保護し配慮するための、第三のMachtとして現出してくる。<第三権力>としての国家権力は、社会全体の共同利害の幻想的な形態としての<公的イデオロギー>による社会全体の秩序の維持と獲得を目指したものである」(レジュメより)。このあたりは、本当に難しそうなので、後期に書くであろう論文にでも期待しておいてください。

◇基本書紹介◇
 今回は、前回より字数を減らし、図を取り入れてみましたが、どうだったでしょうか。かなり端折っているので解りづらいとは思いますが。
 そこで、この科方研ニュースの理解のみならず『資本論』理解にも大いに役立ち(というより、この書を読まなければ真の『資本論』理解は甚だ困難です)、さらに弁証法の基本書であると同時に認識論の基本書でもある、おまけに学問入門の書としての性質をも持っている、たいへん優れた歴史的名著を紹介したいと思います。それは、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)です。暗唱するのであれば、『資本論』ではなくこちらにしてほしいです。
 この著作は受験勉強的に学んでも何の意味もありません。眼光紙背に徹するようにして読み、論理を浮上させ、かつ実践しなければなりません。個々の表現に感性的にとらわれることなく、論理として読まなければ意味がありません。この著作を学んでいると、哲学史の至るところに弁証法の萌芽形態が見出され、興味深いものです。曰く、「人間の解剖は猿の解剖に対するひとつの鍵である」(マルクス『経済学批判序説』)。 
posted by 寄筆一元 at 02:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都弁証法認識論研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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