2007年11月14日

『弁証法はどういう科学か』読書会のレポート

先日行った『弁証法はどういう科学か』読書会のレポートをS君が書いてくれたので、ここに紹介したい。




京都弁証法認識論研究会(仮称)

2007年11月4日の学習会で出された論点についてのレポート



2007年11月9日 S



目次



〈出された論点について〉



1、「ヘーゲル弁証法の改作」(64ページ)に関連して:「弁証法性」と「弁証法」を区別する意味とは何か?

2、歴史観に関連して:

(1)「鳥がまた卵をうむように、新しい社会のあとにはまた古い社会があらわれる」(51ページ)という結論があやまっていることをどうすれば説得力がある形で説明できるか?

(2)「資本主義の成立の必然性」をあきらかにすることが同時に資本主義の没落の必然性をあきらかにすることでもある(69ページ)というのはなぜか?

3、古代ギリシアにおける「弁証法」(ディアレクティク)はどういう意味で大切か?

4、フランスで機械的な唯物論が発達しドイツで観念論と弁証法が発達したのはなぜか? また、大陸で合理論が、イギリスで経験論が発展したのはなぜか? 当時の社会状況全般とのかかわりではどうなのだろうか? 

5、世界観の発展と弁証法の発展の関連について:

(1)世界観は大きく唯物論と観念論に分けられるが、「弁証法的世界観」とはどういう世界観なのだろうか?

(2)「思惟法則としての弁証法」とは何か?――次回学習会での課題として問いを立てる

(3)世界観の発展と弁証法自体の発展は、どのように関連しているのか?




〈感想〉



・・・・・・・



〈出された論点について〉



1、「ヘーゲル弁証法の改作」(64ページ)に関連して:「弁証法性」と「弁証法」を区別する意味とは何か?



 弁証法性と弁証法の関係は、法則性と法則の関係である。法則性とは対象の持つ基本的・普遍的・必然的な関係のことであり、法則とはそれを認識の中にすくいあげたものである。弁証法性とはこの世界のあらゆる事物・事象が持っている性質であるのにたいして、弁証法とはこの弁証法性を認識の中にすくいあげたものである。

 弁証法はもともとこの世界に存在しているものではない。現実の世界には、ただ運動・変化する事物・事象が存在しているだけである。人間が自らの頭の中に、対象の運動・変化するという性質を反映させて、意識的に創りだしたものが弁証法である。弁証法を創ることによって人間はより的確に対象の運動・変化をとらえられるようになり、その結果として、より的確に対象に働きかけることができるようになる。弁証法性から弁証法を学ぶとともに、弁証法から弁証法性へと適用する、ということを繰り返しながら、現実に役立てることができるような弁証法を自分の頭の中に創っていかなければならない。

 もともとこの世界に存在する運動・変化という性質としての弁証法性と、人間の頭の中に新たに創りださなければならない弁証法とは、きちんと区別しなければならない。この世界の部分として存在する事物・事象についてきちんと起源を確定するのが唯物論の立場であるし、人間性のすべてにわたって創って使うという論理構造がつらぬかれているというのが唯物論の立場である。





2、歴史観に関連して:

(1)「鳥がまた卵をうむように、新しい社会のあとにはまた古い社会があらわれる」(51ページ)という結論があやまっていることをどうすれば説得力がある形で説明できるか?



 「直観的に大づかみに全体の一面をとらえた」レベルにとどまっていれば、「古い社会から新しい社会への発展」も「卵から鳥がうまれる」のも同じようにみえてしまう。この結論が間違っていることをあきらかにするためには、ただ全体の一面をとらえるだけでなく、個々の物ごとのありかたの研究が必要である。古い社会から新しい社会への発展がなぜおきるのか、それはどのような過程的構造のもとにおいておこなわれるのか、対象の持つ構造に分け入って、卵から鳥がうまれるのとはどう違うのかを論じなければならない。

 鳥は卵をうみ、その卵からまた鳥がうまれるが、親としての鳥と子としての鳥は、まったく別の個体として存在する。社会の場合はそうではない。古い社会そのものが新しい社会に変わっていくのであって、古い社会からもう一つ別個の新しい社会がうまれてくるわけではない。古い社会から新しい社会への発展は、あくまでも一つの大きな流れである。古い社会での文化の蓄積をすべてふまえて、その蓄積の上に立って新しい社会が築かれるのである。歴史が流れれば必ず文化は蓄積していくのだから、そうした文化の蓄積をすべてなかったことにしてしまって、また古い社会に戻ります、とはならない。



(2)「資本主義の成立の必然性」をあきらかにすることが同時に資本主義の没落の必然性をあきらかにすることでもある(69ページ)というのはなぜか?



 歴史の流れのなかで新しいものが生成してくるにはそれだけの理由がある。それ以前に存在していたものでは解決できない問題が生じるからこそ、新しいものがうまれてくるのである。これが生成の必然性である。しかし、その新しいものが解決すべきであった問題が解決されることが、同時にまたさらに新しい問題を生みだすのであり、そのさらに新しい問題を解決するために、またさらに新しいものがうまれてくる必然性があるのである。

 つまり、歴史の大きな流れのなかで見ると、ある発展段階は、いわばある特定の問題の解決を託されているとみることができる。ところが、その問題を解決することが、同時に、その発展段階では解決できないさらに新しい問題を生み出すことを意味しているのであるから、新たな問題の発生とともに、その発展段階は歴史的な存在意義を失って没落していかざるをえない。

 したがって、大きな歴史の流れのなかで、ある発展段階がどういう問題の解決を託されて登場したかをあきらかにすることが、その成立の必然性と同時に没落の必然性をあきらかにすることにほかならないのである。資本主義についていえば、マルクスは、生産力を飛躍的に発展させて世界中の人々を文明化していくところに資本主義の歴史的な存在意義をみた。マルクスの立場からすれば、生産の社会化と生産手段の私的所有という根本矛盾を持った資本主義的な生産のしくみは、この課題を達成すると同時に、格差と貧困の拡大や恐慌による労働者大衆の生活破壊という新たな問題を引き起こすのであり、この問題を解決できない資本主義は、その歴史的な使命をはたしおえて没落していく必然性があるということになる。





3、古代ギリシアにおける「弁証法」(ディアレクティク)はどういう意味で大切か?



 対話・問答こそが弁証法の原点である。古代ギリシアにおいて、言葉でのコミュニケーション自体がままならず、相手が何を言いたいのかということのみならず自分が何を言いたいのかということすら定かではなかった状態から、しだいしだいに自分の言いたいことと相手の言いたいことのどこが同じでどこが違うかが明確になっていく中で、これまたしだいしだいに論点が整理されていくという過程をたどって、きちんとした討論ができるようになっていったのである。その結果として、「討論することが真理に到達する一番よい方法であることを知って、これを重要視しました」ということになったのである。

 人間の認識は問いかけ的反映であるから、たとえ同じ対象を反映しても、各人は自分のそれまでの経験をふまえて、それぞれなりに異なった感情をともなった像として描いてしまう。反映像と過去の経験による像とが合成されて一つの感情像として描かれるから、事実とその解釈の区別をきちんとつけることもできがたくなる。複数の人間の間で討論をおこない、おたがいの認識を交通させることでこそ、こうした個々人の認識のもつ限界を突破することが可能になる。同じ対象についてのそれぞれに異なる問いかけ的反映の像を交流することは、その対象をより的確に把握することを可能にするのである。「革命運動の指導者たちは、ロシアあるいは中国にあってマルクス、エンゲルスの著作を全面的に手に入れることができず、手に入った著作をさえ徹底的に研究し討論する条件にめぐまれていなかったために、原理的な把握に不充分なところがありました」とあるように、討論しなければ、原理的な把握が不充分なものにとどまってしまうのである。まさに「討論することが真理に到達する一番よい方法」なのである。

 認識ほどに運動・変化するものはないから、その激しく運動している認識どうしを交通させることほどに、認識を大きく発展させることはない。討論のなかで、問題を提起しそれを解決するということを繰り返すことで、認識と認識のあいだで劇的な相互浸透的発展がおこなわれうるのである。

  



5、フランスで機械的な唯物論が発達しドイツで観念論と弁証法が発達したのはなぜか? また、大陸で合理論が、イギリスで経験論が発展したのはなぜか? 当時の社会状況全般とのかかわりではどうなのだろうか?



 言語の問題、宗教の問題、気候風土の問題など、いろいろと理由は考えられる。こうした問いに答えていくためには、学問の歴史をたんに学問の歴史だけから見るのではなくて、大きな歴史の流れの一つの部分としてとらえていく必要がある。こうした問いかけをもって、『歴史の流れ』『世界の歩み』『世界史概観』『世界の思想史』などを読んでいくと、答えにつながるヒントが見出せるかもしれない。ともかく、このような大きな問いを創っておくことそのものが、とても大切なことである。



*「世界歴史とは弁証法的一般性レベルでは、人類の社会としての認識(戦争・商業・政治・文化をすべてふくんでの社会的労働)の発展の歴史である」(南郷継正「武道哲学講義〔T〕PART3」『学城 第2号』223ページ)。





6、世界観の発展と弁証法の発展の関連について

(1)世界観は大きく唯物論と観念論に分けられるが、「弁証法的世界観」とはどういう世界観なのだろうか?



 世界観というからには、世界全体のありかたをどう見るかというレベルの問題である。世界観における最も根本的な対立は、世界の起源をどう見るのかという対立であり、世界の創造を認めるのが観念論、世界の創造を認めないのが唯物論である。弁証的世界観と形而上学的世界観の対立は、世界の起源をめぐる対立ではなくて、世界のあらゆる事物・事象が絶えず運動・変化していると見るのか、そうは見ないのか、という対立である。

 実際には、世界のあらゆる事物・事象は絶えず運動・変化しているのだから、すなおに、ありのままにこの世界を眺めるならば、弁証法的な世界観になる。これに対して、形而上学的な世界観は、個々の物事の研究の飛躍的な発展を前提としなければ成立しない。直観的に大づかみに全体をとらえているだけでは、個々の物事を研究することはできないから、自然科学の発達は、自然の全体のつながりから部分をきりはなし、運動を静止においてとらえ、変化しているものを固定したかたちにおいてしらべるという形而上学的な方法によってこそなしとげられた。このような個々の物事の研究のしかたが、世界全体のみかたにまでもちこまれて成立したのが、形而上学的な世界観である。



(2)思惟法則としての弁証法とは何か?――次回学習会での課題として問いを立てる



 南郷継正は、新・旧二つの弁証法という言い方をしている。古代ギリシアにおける「弁証の方法」としての弁証法と、エンゲルスによって創始された「科学としての弁証法」である。それでは、この中間段階にあるカントやヘーゲルの弁証法は、弁証法の歴史のなかではどのような位置づけになるのであろうか? 三浦つとむは、カントやヘーゲルが弁証法を「思惟法則として理論化」したとして「弁証法の復活」という見出しをつけている(59ページ)が、この復活した弁証法は、新・旧二つの弁証法とはそれぞれどういう関係にあるのだろうか?



(3)世界観の発展と弁証法自体の発展は、どのように関連しているのか?



 (1)と(2)を踏まえて初めて、「弁証法的世界観→形而上学的世界観→弁証法的世界観」という世界観の発展と、「弁証の方法→思惟法則としての弁証法→科学としての弁証法」という弁証法自体の発展が、どのように関連しているのかという問題を考察することができる。





〈感想〉



 前回の学習会は、短時間でしたが、かなり深い討論ができたのではないかと思います。

 このレポートをまとめてみて、現実の世界の事物・事象の発展過程が問題の提起とその解決の過程としてとらえられるということを明確にすることができたことにより、なぜ弁証法の原点が問答・対話であるのかということについて、より深く認識することができました。根本的に言えば、「世界が過程の複合体であり、それぞれの過程が矛盾を原動力として発展していることは、とりもなおさず世界が矛盾の複合体であり、世界に多種多様の特殊性が発生し消滅するのはそれぞれ特殊の条件によって特殊な矛盾が発生し消滅していることを意味します」(『弁証法はどういう科学か』290ページ)ということなのでしょう。

 また、学習会後の飲み会の席で話題になった、偉大な人物はほぼ同時代・同地域に登場する(ドイツ観念論哲学におけるカント、フュヒテ、シェリング、ヘーゲルや、江戸時代中期の京都における伊藤若冲、円山応挙、曾我蕭白など)ということも、認識どうしの交通ほど認識を大きく発展させるものはない、ということにかかわっているのでしょう。

posted by 寄筆一元 at 00:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 京都弁証法認識論研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「認識どうしの交通ほど認識を大きく発展させるものはない」
それはそうでしょうが、ではその中身は? 何が「交流」するのでしょうか?
Posted by 流蛍 at 2007年11月17日 08:12
流蛍さん、コメントありがとうございます。


>ではその中身は? 何が「交流」するのでしょうか?

一般的にいえば認識そのものですが、どのような認識か、ということでしょうか?

それならいろいろな答えが考えられる気がします。たとえば、これまで人類が獲得してきた文化遺産をある個人が学んで、その認識を交流するということもいえるでしょう。また、その個人が発見してきた論理なり問題(意識)なりを交流するということもいえると思います。あるいは、ある個人の学問なり芸術なりに賭ける情熱や魂を交流して、「俺もやるぞ!」となることも考えられると思います。

私の頭で考えられるのはこのくらいですが、何かもっと別の「正解」があるような気がします。ご教授いただければありがたいです。
Posted by 寄筆一元 at 2007年11月19日 11:19
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/66371721

この記事へのトラックバック