このモデルは、メインノートとしても使えるハイスペックと、モバイルノートとして使える携帯性の矛盾を調和的に解決している。ディスプレイは14.1インチで、普通のノートパソコンよりちょっとだけ小さいくらいである。それでいて、重さは1.7sくらい。バッテリも、5時間くらいはもつ。メモリも2GBに増設したから、Vistaでも非常に快適である。なんせ今まで使っていたノートパソコンは、6〜7年くらい前のものだから、それと比べると、飛躍的に速い。
この古いパソコンから新しいパソコンにデータやソフトを移行するのに丸二日以上かかってしまった。なかにはVistaでは使えないソフトもあって、ちょっと残念だ。ただ、このモデル自体に小中学生向けの学習事典が入っていたり、ビジュアル百科事典も入っており、これから活用していこうと思っている。
インターネットエクスプローラーだけは何とかしてほしい。単語登録した語句も、変換できない。マイクロソフトのサイトから修正ファイルをダウンロードしたらその問題は解決したが、今度は、インターネットエクスプローラー上で、たとえばこのブログの更新をしようとすると、3回に1回くらいの割合で、キータッチが反応しない。ナンダコリャ。他にもすでにいくつか問題が発生している。そのため、別のフリーのブラウザを使うことにした。
指紋認証の機能も、かなり便利である。ネット上でパスワードなんかが要求されるときがあるが、こういった場合、さっと指をかざすだけで自動的にパスワードを打ってくれる。スリープモードから復帰するときも、指をかざすだけでいい。便利になったものだ。
僕が買ったのはカスタムモデルだが、そうでないモデル(ワンセグやターボメモリ、Bluetoothがついていないモデル)なら、価格がすでに15万をきっている。非常にお買い得だ。ノートパソコンの購入を考えておられる方は、選択肢の一つにどうぞ。
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定期的にブログを読ませていただいております。
私も三浦先生の「弁証法はどういう科学か」を座右の書として、日々読んでおります。
弁証法を学ぶ者として、鍛錬の量的な積み重ねのさなかにあって、質問をして他人から教え乞うことは、楽をしてしまって、正しい姿ではないかもしれませんが、藁をも掴む思いであえて質問し、寄筆一元さんに是非とも教えていただきたい箇所がございます。
三浦先生の本の中で、直接的同一性について書かれている、歯車ABCのイラストがある箇所(P91〜)なのですが、何度読んでも、「歯車」と「その回転」が「直接」というつながりにある、というのが分からないのです。私には、その少し前で出てくる普遍性と特殊性の例にある、「家」と「倉庫」の関係のように、歯車とその回転も、普遍性を規定している特殊性、という、媒介的な統一(不可離性)の関係に思えてならないのです。私の読み方が、どう間違っているのでしょうか?大変あいまいなご質問で申し訳ございません。お答えいただけたら幸いでございます。何卒宜しくお願いいたします。
ご質問の中身に入る前に、まず、弁証法の学びにおける質問の意義について、私の考えを述べておきます。たしかに、弁証法を学んでいるのは自分ですし、弁証法は、自分の問題を解決するために、自分自身が身に付けなければならないものです。つまり、主体的な学びが要求されるわけですね。
しかし、独学で学ぶのには限界があります。自分勝手に学んで、正確に理解しないまま弁証法を学び続ければ、自分勝手な歪んだ弁証法が頭の中に創られることになります。そうなっては自分の問題解決に役立てることなどできなくなってしまいます。
ですから、疑問点は他人に質問して、自分の理解を正しい方向へ修正していくというのは、「楽をする」とかそういう問題ではなくて、必要不可欠のことだと思います。しかも、おそらくちょっと考えて分からなかったから質問、というのではなく、自分なりにずっと考え続けておられるようですし。自分で考えつつも質問する、質問しつつも自分で考える、という姿勢が正しいように思います。
では中身ですが、p.92の初めに、以下のようにありますね。
「ところがAの回転ということは、Aのありかたの一つの特殊な場合であって、A自身からきりはなすことはできませんが、歯車そのものと回転とは別のものですから、一応区別する必要があります。」
私の推測なのですが、Highsmithさんはこの中の「特殊な場合」とか「きりはなすことはできない」という言葉を読んで、「歯車の特殊な場合としての回転と家の特殊な場合としての倉庫は同じ関係だな」とか、「きりはなすことはできないということは不可離性だな、つまり媒介的な統一のはずだ」とか思われたのではないでしょうか? 間違っていたらゴメンナサイ、ですが。
しかし、ここはそういう言葉に引きずられた解釈をするのではなくて、言葉(表現)の背後にある三浦さんの認識に、さらにその背後にある対象にさかのぼって考える必要があると思います。つまり、三浦さんが辿った対象→認識→表現という過程を、自分も辿ってみるのです。
p.91のような三つの歯車が回転しているさまをリアルに思い描いてください。これが今回の対象ですね。もっといえば、その中の一番左のAです。これが対象です。ごく簡単にいうなら、このAは「歯車」といってもいいし「回転している」といってもいいですよね。だから直接なんです。自分の父親を見て、「親」といってもいいし(祖父母からすれば子ですから)「子」といってもいい。これが弁証法でいう直接ですよね。何か物を作っている現場を見て、それを「生産」といってもいいし(原料などが消費されているのですから)「消費」といってもいい。あるものが一方の人間から他方の人間へ移動するとき、これは「譲り渡し」といってもいいし(相手から見れば受け取ることですから)「譲り受け」といってもいい。
このように弁証法でいう直接とは、「自分自身が同時に他の性質を持つときの切りはなすことのできないつながり」ですから、スッキリすると思います。
念のために確認しておくと、媒介とか直接というのは、世界のつながりについての論理です。すなわち、世界はつながりあっているが、そのつながり方は媒介と直接の二つしかない、ということですね。弁証法でいう直接とは、「自分自身が同時に他の性質を持つときの切りはなすことのできないつながり」ですから、図にすると、p.87の(B)の真ん中の円のようなものです。つまり円が二重になっている図です。二つのものが一つにくっついている感じです。ある人が子でもあり親でもあるとか、ある現象が結果でもあり原因でもあるとか、そういう関係です。
これに対して媒介は、同じページの(A)の図ですね。二つの円が離れている図です。二つのものが別々にある感じです。自分の親と自分は別物ですし、石と波紋は別物です。
そうすると、「歯車」と「その回転」は、別々にあるわけではなくて、二重になっているのですから、やはり「直接」ですよね。
一応解説を試みてみましたが、ぜんぜんかみ合っていない可能性もありますので、とりあえずここまでにしたいと思います。更なる疑問とか、「いや、私の聞きたいのはそういうことではない」とかありましたら、またコメントください。
わたしの頭が弱くて、まだどうしても分かりません。
「生産」が「消費」でもあること。
「親」が「子」でもあること。
「結果」が「原因」でもあること。
「譲り渡し」が「譲り受け」でもあること。
これらについては疑問なく、「直接」であることがわたしでもよくわかります。
しかし今回の「歯車」と「回転」については、「直接」という関係にあると、どうしても思えません。頭では当然まだ分かっていませんし、直感的にもしっくりこないのです。
私の誤読かもしれませんが、P92の「歯車とその回転のような〜」で始まる箇所は、果たして本当に「歯車」自体と「回転」自体の関係を差して言っているのでしょうか?「回転」自体が、二つの回転の複合体である、ことを言おうとしているのではないでしょうか。
矛盾のありかたを「直接」と呼ぶ、と言っている部分からしても、「歯車」と「回転」がどう矛盾しておりますでしょうか、私には分かりません。
私は、「回転」が2種類の回転をしている、ということをここで言おうとしているように思えるのです。つまり、Aの回転は、ひとつは自分で回っている回転であり、もうひとつはBへエネルギーを伝えている回転。Aの回転はその二つの性質を持ち、当然どちらも切り離すことが出来ない関係にあり、だから「直接」(=矛盾)である、と。
ご批判を、訂正を宜しくお願い致します。
>「回転」自体が、二つの回転の複合体である、ことを言おうとしている
これは明確に違いますね。三浦さんの文章は、余計な修飾語を取ってしまうと、「歯車とその回転のような……つながり、この矛盾のあり方を『直接』とよぶのです」というようになります。「直接」の一例として、歯車とその回転を挙げているわけです。
前回の解説では分からなかったということですので、今回はちょっと違う言い方をしてみます。
もう一度確認しておきますと、弁証法でいう直接とは、「自分自身が同時に他の性質を持つときの切りはなすことのできないつながり」です。自分自身というのは、ある物事のことですね。「生産」とか「親」とか「結果」とか「譲り渡し」とかです。
たとえば「生産」を詳しく調べてみましょうか。ある物事を「生産」と呼ぶということは、その物事に「生産」と呼んでいいような性質があるということです。経済学的には生産とは「労働の対象化」ですが、ここでは簡単に「作り出すこと」としておきましょう。
その生産を、別の角度から見れば、消費ということになります。つまり、その同じ物事が、「消費」といっていいような性質も同時に持っているということです。「消費」とはここでは簡単に「使ってしまうこと」としておきましょう。何かあるものを作り出すときには、同時に原材料を使ってしまう必要があるために、生産は直接に消費である、といえるわけですね。
ここまではいいはずです。そして、同じようなことは、親と子、結果と原因、譲り渡しと譲り受けでもいえます。では、これを一般化してみましょう。すると、Aという性質を持つ物事が、同時にBという他の性質を持つとき、これを「直接」という、こういうことになりますね。
歯車もまったく同じ論理構造になっています。すなわち、歯車と呼べるような性質を持つ物事が、同時に回転という他の性質を持っているのですから、これは直接です。歯車というのは、「ふちに一定のでこぼこのある歯をつけた車」のことですね。こういう性質を持つ物事を歯車とよぶわけです。回転というのは、「一点を中心にしてくるりと回ること」ですね。こういう性質を持つ物事を「回転」というわけです。
p.91のAは、そのものとしては「ふちに一定のでこぼこのある歯をつけた車」ですから、歯車です。しかし、この歯車は、止まっているのではなく、矢印の向きに運動しているのですから、「回転」という性質も持っていることになります。歯車であると同時に回転もしているのです。だから直接です。
「矛盾」とか「対立を背負っている」とか「対立物の統一」とかいうと、生産と消費とか親と子のような、対になる言葉、対義語を思い浮かべてしまいますが、これは常識に引きずられた不適切な(あるいは不十分な)解釈です。三浦さんがいうように「他の性質」であればいいのです。ですから、入院している患者が、同時に一家の大黒柱である場合、「患者」と「一家の大黒柱」は矛盾なのです。同時にこの二つの性質を持っているのに、一方の「患者」のほうしか見ないようでは、対象をきちんと捉えたことにはなりません。したがって、適切な看護を行えないということになってしまいます。
私の仕事である教育でも同じです。目の前の生徒を、ただ生徒としてのみ捉えていては、その生徒をきちんと捉えたことにはなりません。まず、生徒であると同時に、私に自分の理解力を教えてくれているのですから、同時に先生であるともいえます。生徒は直接に先生です。また、ある生徒は、兄弟の関係でいうと長男かもしれません。この場合、生徒であると直接に長男でもあるわけです。長男であるという面もしっかり捉えていれば、長男の持つ一般性に照らして、より適切な指導を行える可能性が高くなります。
要するに、矛盾とか直接とかいう論理は、何よりもまず物事の持つ多様性・弁証法性をきちんと捉えるためにこそ、必要なのだと思っています。物事を一面的に見るのではなく、両面的に、多面的に見なければ、その物事をきちんと認識したとはいえないということです。物事を一面的にしか捉えられていないと、その物事への働きかけも失敗に終わる可能性が高いのです。
ちょっと話が広がりすぎてしまいました。前回と同じ内容なのですが、ヨリ詳しく解説したつもりです。まだ分からないところがありましたら、率直に言ってください。対話・議論しながら弁証法を理解していくというのも、弁証法の弁証法的な修得過程の一つのあり方だと思いますので。
嬉しくなって考えを書きます。
人間が歯車を発明した過程を考えてみましょう。まず、初めに回転する「輪」を知った人類は、輪の回転のもつ性質を理解します。すなわち押し車による「物質のもつ地面との摩擦を軽減させ、荷物を楽に運ばせる性質」は、同時に一点に摩擦を限局できる性質と同じことであることを理解します。すなわち一転に力を集中できることを。そして回転という運動性をもった物体に、「歯」という形態変化を与えることで、隣り合う回転体に力を加えることができる=発展的な運動性を獲得させることができることに思い至ります。
歯車という形態変化が直接に新たな力をもたらします。人間がこの両方の性質を理解し、うまく利用することで、弁証法が有効に利用できる。すなわちこれが、人間の認識に世界の弁証法性が反映することではないでしょうか。
凸凹のある輪は回転することによって、初めて用を成します。
そんなこと、今はあたりまえですが、太古の昔、自然には存在しない「凹凸のある輪」を始めてみた我々の祖先はこの異質な性質をもった物質が奇妙なものに見えたに違いありません。
原初、歯車はそれ自体が自然とは異なる性質をもった物体だったでしょう。
私は双子の赤ちゃんを育てていますが、赤ちゃんにとって、歯車は何のためにその凸凹が刻まれているのかわからないでしょう。隣の歯車と一体化して回転している時に、初めてその「矛盾」の意味を理解するでしょう。
歯車が組み立てられ、回転している、その運動の中に、矛盾がいきいきと息づいているのです。歯の車というありかたと、回転する物質というありかたは共存できます。初めて歯車を作った人類は、ものすごく苦労したと思います。
異なる性質を同じ物体にいかに両立させるかに腐心したはずです。
歯車の生成発展に関する考察、お見事ですね。どんな対象を見ても、それが一過性として反映する、その対象が生成し、発展し、そして消滅する様が頭の中でビデオの早送りのように流れる、これこそ弁証法の技化だと思います。
このような弁証法的な認識に触れると、思わずニヤついてしまいますよ。今後もお考えを聴かせていただければありがたいです。
現在、あたりまえの考えられているものの中に弁証法性を発見していくのは楽しいことですね。
昨日の文で、不足していた部分を書きます。
歯車の始まりは、自然の中にある連続した刻みのある物質の利用からでしょう。
・ざらざらした動物の皮や植物の樹皮でこすったほうが皮膚の汚れが落ちやすいことを知った。
・河の浅瀬で岩床に衣類をこすりつけて洗濯していた原人が、凹凸のある岩の方が汚れが落ちることを発見した。
・石器の持ち手を刻みつけたほうが、滑らず握りやすいことに気づいた。
・丸太を並べて岩を転がしていた原人が、凹凸ある樹皮のある材木を使ったときに転がりやすいことを発見した。
・滑車に植物のツルを使うより、編んだ紐を使うほうが、空回りしないことを知った。
歯車より、滑車の発明のほうが先だったのでしょうね。
このへんのことは、シュティーリッヒの科学の歴史(だったでしょうか)などに記載してあるかもしれませんね。
歯車の利用は、現代科学の最先端でも機械工業の最先端でも、あたりまえに使われていますね。分子生物学の世界でも、蛋白の構造が解明されていますが、とっかかりを作ってレセプターに取り込まれやすくするなど、連続した凹凸は、この世界にあまねく広く満ち溢れているのですね。
私は自分の極めたい専門のなかに、弁証法性を発見し自在に駆使できるようになりたいと、心の底から思います。そのためには歯車の例と同じように、認識の技化である唯物論的弁証法も世界にあまねく存在していると、自分の専門にも満ちていると信じて、思考を貫き通すこと、そして使ってみることを繰り返す以外にないと思っています。
つまり、形態と機能の調和的矛盾と敵対的矛盾があるという点の指摘についてです。
歯車という形態と、回転という機能は、となりの歯車を回すという意味において調和的矛盾です。ここで、何らかの理由で歯車が上手く働かなくなったと仮定します。歯がかけたり、軸から外れたりしたとしましょう。すると途端に歯車と回転は敵対的矛盾として意識化されます。矛盾を調和させるには、形態と機能によって実現されていた運動を回復させねばなりません。
歯車は回転と調和しているようで、物質は分解していくという性質からすれば、本来は敵対的矛盾に中にあり、人間がその都度調和させてきた矛盾なのだと解る必要がありそうです。
ところで「形態・機能」とは形而上学的見方かもしれません。弁証法からとらえれば形態はいつまでも形態ではなく、機能は機能としてとどまっていないということになるでしょうか。
形態は機能と直接の関係にありながら、互いに移行しあう性質を持っているといったほうが良いようです。
私の専門である外科手術で考えてみます。生体にとって形態と機能の調和的矛盾を直接に実現しているのは代謝構造です。これが敵対的矛盾として本来の物質のありかたに落ち込もうとするのが代謝の破錠である病気です。(ずいぶん乱暴なまとめ方をしましたが。)
これを手術によって形態と機能の調和的矛盾を取り戻そうとするのが外科治療です。
病気の現場・手術の現場には、さまざまな調和的矛盾・敵対的矛盾が積み重なり、そして運動しています。形而上学的アタマではその場その場の対症療法ができても、構造・運動を含む世界の重層的な発展のありかたを捉えきることはできません。
弁証法の必須な所以です。
寄筆さん、この点どう思いますか。
一晩サイトを覗かなかった間に、こんなにコメントのやりとりがされていたとは。
驚きました。
そして双子の父さん、歯車を発明した過程の説明のおかげで、「どこが分かっていないのか」よく分かりました。
「歯車」という性質が一体どういうものなのか、そこが分かっていませんでした。単に歯車の形をしたモノ、つまり形態ののひとつ、と捉えていました。性質とは捉えておらず、まずそこで「回転」と同じレベルで並べて考えることができなかった。つまりこの二者がどう矛盾するのか、考えようにも同じスタートラインにも立っていないというか、別の種目だろ、という気分だったというか。もっと端的に言えば、「歯車」とは何であるのか、解釈する際の私の想像力が極めて乏しかっただけだということです。
さらにもうひとつ問題だったのは、「直接」という関係を、敵対的と調和的(非敵対的)の両面から捉えておりませんでした。「直接」=調和的(であるべき)と思い込んでいて、そのうえ極貧な想像力による「歯車」の狭い解釈イメージによって、「歯車」と「回転」を一旦分けてしまうと、そのあとどうにもしっくり組合わさらなかったのです。
対義語のような関係にあるものばかりが「直接」というわけではない、という部分もよく分かりました。
せっかくなので、もうひとつ質問させてください。
P92にある、「前にのべた普遍性と特殊性との関係でいえば、普遍性を規定しているという面は媒介関係であり・・・」の部分は、前のどこを指してどのような関係を言っているのですか?
また、P93の「媒介的な統一(不可離性)」もどのような統一か、できれば解説して教えて下さい。
歯車について。私もちょっと歯車を歴史的に考察してみます。
車(車輪)一般の発展を考えてみると、最初は陶器をうまく製造するための「ろくろ」や、水をくみ上げるためにつるべとともに用いた滑車が、その起源というか原基形態である気がします。車(円盤状の回転体)としては、荷車よりも、ろくろや滑車のほうがはるかに単純で原始的であるように思います。
これとは別に、重いものを楽に運ぶ必要に迫られて、そりの下に丸太状のころを並べてみるというような工夫が発想されたはずです。しかし、これでは丸太を次々に移動させていかなければなりません。そこで、この「ころの原理」と従来から存在するろくろ・滑車の車から、車軸と車輪を備えた荷車が発明されたのでしょう。
歯車の誕生は、時代的にはもう少し後で、水車と密接に関わっているように思います。川の流れる力によって穀物の粉をひくために水車をつくったのでしょうけれど、その動力の伝達装置として、あるいは回転をコントロールするために、歯車がつくられたと思います。最初は水車の回転をダイレクトに臼につなげていたものが、もろもろの必要性に迫られて、その力をうまく管理するために、歯車が考案されたのだと思います。その際には、双子の父さんが考察されたような、さまざまな経験や観察の結果が総動員されたのでしょう。
歯車はその後、機械時計の誕生で飛躍的に発展することになりますね。そういえば、水時計というものも、古代ギリシア時代に発明されているはずですから、ここですでに歯車が使われていたのでしょう。
シュテーリヒ『西洋科学史』には、歯車とか滑車とかの記述があったようには記憶していません。ただ、アルキメデスはてこの原理を使って投石器を発明したとか、スクリューで水をくみ上げる揚水器をつくったとかの記述はありますね。
形態と機能の矛盾について。
正直、あまり考えたことがなかったので、新鮮な感じがするとともに、自分の研鑽不足を痛感しております。
ちょっとだけ思いついたことを、つれづれなるママに書いてみます。
形態というのはものの形であり、機能はその働き・運動であるから、両者は相互に規定されながら発展していくのだろうな、とは思います。
たとえば携帯電話。もともとは持ち運べる電話機でしたから、電話がかけられるという機能さえ果たせばそれでよく、形もシンプルなものでした。この持ち運べる携帯電話には、そのままの形でさまざまな機能が追加されていきました。最初は、手帳的な機能やメールの機能などが追加されました。そうすると、たとえばメールを読むにはディスプレが大きいほうがいいということで、ディスプレイが大きくなり、あるいは折りたたみ式の形になり、してきました。ディスプレイが大きくなると、デジカメに近くなり、カメラ機能も付けられました。デジカメ的になると、データを保存するSDカードが入れられるような形になり、SDカードが入れられるようになると、音楽が聴けるような機能も追加されるようになりました。
このように、形態と機能は相互浸透的に発展していくのだと思います。
しかし、ここまで考えてきて、ちょっと人間の創造物における形態・機能と、自然物における形態・機能とは違うのではないか、と思い始めました。そこで少し思い当たるところを調べてみると、『学城』第二号の横田論文に見事に説いてありましたね。p.176あたりからです。もっと深い学びが必要だと思いました。
ともかく、私の頭の中に新たな問いかけを創っていただいて、感謝しております。
>寄筆さん、この点どう思いますか。
ちょっと「この点」というのが漠然としていてどの点なのかがはっきりしないのですが。直前のことだとすると、私は次のように思っています。
すなわち、対象をしっかり捉え、その対象を自由自在に変化させるためには、つまりその対象を支配するためには、弁証法が必須であるというのは、われわれにとっては常識といいますか、前提でしょう。まさに世界は弁証法性を持っており、過程の複合体なのですから。「自由とは必然性の洞察である」わけですが、その必然性の際たるものが弁証法性だという気がします。
少しだけ、弁証法を学ぶ際の一般的な注意点を述べさせてください。
『弁証法はどういう科学か』を学ぶ際は、これが弁証法の最高の形なんだということをしっかり自覚して、そのまま丸ごと受け入れるということが大切だと思います。「分からない」というのは、今の自分が分からないのであって、その自分がいくら解釈してみても、その解釈が正しいはずはないのです。そのうちに、頭が三浦さん的になっていくと、「分からない」と思っていた内容が、そのまま「分かる」に変化します。「ああ、こう解釈すればいいのか」とかではないのです。「分からない」がそのまま「分かる」になるのです。
空手でいうと、当初技の形を教わったときは、違和感そのものです。自分にとっては新しい技なのですから、違和感は当然です。それを、「こんな不自然な形であるはずがない。先生はこうおっしゃったが、あれはこういう意味だろう」などと考え、その白帯の自分にとって違和感がない動きだと解釈するのは愚の骨頂です。その違和感のある形もくり返して修練すれば、その形がそのまま違和感なしになるのです。
弁証法も同じですね。違和感がなくなるまでくり返して『弁証法はどういう科学か』を音読したり、書き写したり、要約したりするわけです。あるいは、自分で具体例を探してみたり実験したりするのです。そうすると、徐々に頭が三浦さん的になっていき、当初は違和感を感じた『弁証法はどういう科学か』の文章も、そのままで受け入れられる、というより、この表現以外にありえない!と感じられるようになります。
ちょっと前置きが長くなりました。では本題です。
>前のどこを指してどのような関係を言っているのですか?
「どこ」というのは、p.84からの「個別・特殊・普遍の関係」の項ですね。「どのような関係」というのは、Highsmithさんはどう考えますか?
>「媒介的な統一(不可離性)」もどのような統一か
これに関しても、Highsmithさんはどう考えますか? あるいは、どこがどう分からないのか、『弁証法はどういう科学か』の具体例でもって説明してみてください。
原則、基本書に関する質問は自分なりの答えとセットで、というのが、主体的な学びとしては必要だと思います。
ここを読み直して、ゾクリとしました。三浦つとむが弁証法によって世界を掴もうとしていたことが見えたからです。なぜなら三浦のいう「媒介」の概念は、物質のみでなく、学問の論理構成である普遍性・特殊性にも当てはまることであった!と解らされたためです。
三浦つとむは、今後の世紀に生れる全学問に「媒介」概念が貫かれることを見抜いていた!
と直感しました。
この後、「矛盾には二つの種類がある」「世界は過程の複合体であり矛盾の複合体である―根本的矛盾と主要矛盾」の項を読んでいて、以下の文言が眼に突き刺さりました。
・「世界が矛盾の複合体であり、世界に多種多様の特殊性が発生し消滅するのはそれぞれの特殊条件によって特殊な矛盾が発生し消滅していることを意味します。」
・「社会がどうあろうと、その根本にある人間の矛盾は変わりません。」
・「根本的矛盾が次第に激化した形態をとってくる」
・「生きるために維持しなければならない生物としての矛盾の上に、生きるために克服しなければならない社会としての矛盾が成立している」
・「客観的矛盾にも対立し相いれない二つの種類があり、それが相互に結びついてる」・・。
概念の多層構造がウルトラC級の技を繰り返しながら大躍動しているようです。その底深さ、精緻さ、論理の実力・・。
現実をとらえようとすること――学問的に世界を掌のひらにのせんとすること。その魂の炎が世紀を吹き渡っている様がまざまざと見えるようです。
自然・社会・精神の世界構造に立ち向かう我々も負けておれません。
http://www.labnotes.jp/pdf/labnotes_gear.pdf
P.S.
先週、メールにて私信を送らせていただいたのですが、届きましたでしょうか?
申し訳ありません。お手数ですが再度メールを送っていただければ幸いです。