2007年09月26日

短期間で特定の分野の知識を吸収する方法

今回は、前回予告しておいたように、院試勉強を通じて実感できた「短期間で特定の分野の知識を吸収する方法」をまとめておきたい。少し長いが、「1.前提」だけは読んでいただきたい。


1.前提

まず、何のために短期間で特定の分野の知識を吸収する必要があるのか、という目的が何よりも大切である。人間は必ず目的像を描いて、その描いた目的像にしたがって行動する存在だからである。目的が明確な人はぶれない(目的像を描き続ける力のことを、昔は思惟のMachtといったりもしたが、今では認識体力と規定されている)。描いた目的が明確であれば、その目的が人間を規定し、人間を動かすのである。ここを格好いい言葉で要約しておくと、「目的が過程の質を決定する」となる。

ここまでは一般論である。これだけでは使えない。要するに目的を明確にすればいいのだな、ということで、「よし!臨床心理士になるぞ! そのために大学院に合格するぞ! エイ!!」とばかりに、いくら強く念じても、それだけで目的が明確になることはあまりない。目的像とは、認識=像の一種なのであるから、認識の構造をふまえないとダメである。

認識は、五感情像ともいわれる。すなわち、人間は、5つの感覚器官をとおして外界を反映するのである。だから、認識=像は、目からの反映、耳からの反映、鼻からの反映、などなどが、いわば合成されているわけである。したがって、未来像たる目的像を明確にするときは、これも認識の一種なのであるから、例えば、視覚的な部分を明確にする、聴覚的な部分を明確にする、嗅覚的な部分を明確にする、ということをやっていけばよいのである。僕の場合でもう少し分かりやすくいえば、大学院入試に合格したときに、何が見えるか、どんな声やどんな音が聞こえるか、どんな匂いがするか、ということを、具体化していけばよいわけである。あたかも、もう実現してしまったかのようにリアルに、詳細に像を描くのである。要するに、認識=像は、五感情像であるという構造をふまえて、5つの感覚のそれぞれ(といっても、まずは代表的な視覚、聴覚を中心に。実は体性感覚というのも重要であるが)を明確化するとよい、ということである。

僕の場合は、自分が合格したときの姿をノートに詳細に書きまくった。そして、ことあるたびに読み返して、目的像を明確にするよう努力した。やってみると分かるが、確実にモチベーションが上がる。そして、描いた目的像は、描いたそのレベルで実現される。それが人間なのである。

以上のように、目的像を明確にすることが、何にもまして、一番大切なことである。極論すれば、目的像が明確にできれば、その目的はもう達成したも同然である。これは何も「短期間で特定の分野の知識を吸収する」場合のみに当てはまるのではなく、人間の行動一般に当てはまる論理である。なお、この論理は、原田隆史の長期目標設定用紙にも、「達成時の人間像」や「目標により得られる利益」という欄を設けることで、採用されている。また、伊藤真なんかも、勉強を始める前に合格体験記を書かせるという形で使っている。


2.方法

2.1.その世界にどっぷり浸る

ある分野の知識を吸収しようとする場合、その分野の世界にどっぷり浸ることが大切である。これは実際に勉強をし始める前の時期に、特に重要になってくる。勉強を始めれば、自然とその世界にどっぷり浸ることになるから、さして注意するまでもない。

僕の場合であれば、かなり以前から臨床心理学関係の本をたくさん購入した。別に読むわけでもない。せいぜいパラパラ眺める程度である。また、カウンセリングを実践されている人の話を聞いたりもした。あるいは、放送大学で臨床心理関係の番組を視聴したり、臨床心理士の人の本やウェブサイトを読んだりもした。臨床心理学を学んでいる院生にも直接出会ったり、メールのやりとりをしたりして、いろいろ教えていただいたりもした。

こういうことをすると、徐々に自分の認識がその世界的な性質を帯びるようになってきて、後に知識を吸収する際に、ヨリ効率的になるのである。簡単にいえば、認識がその世界になじんでいるから、その分野の知識と調和的になっているのである。知識の吸収ではないが、サッカーをやっている人が常にサッカーボールを持ち歩いたり、居合をやっている人が刀を抱いて寝たりするようなものである。その世界になじめばなじむだけ、知識や技を身につけるスピードが上がるといってよいだろう。

また、こういうことをすると、目的像をヨリ明確に描けるようにもなる。僕の場合であれば、院生の話を聞くことで、自分が院生として研究活動に励んでいる姿をヨリ具体的に描けるようになるし、臨床心理士の方の本を読むことで、自分の将来のありかたを、その人に重ねて、ヨリ具体的に描けるようになるわけである。


2.2.他の一切を犠牲にする

特定の分野の知識を吸収するには、それなりに時間がかかる。どれだけ時間がかかるかは当然、吸収したい分野の広さと深さ(+方法論の良し悪し)に規定される。しかし、われわれの目的は、短期間で特定の分野の知識を吸収するということである。「範囲も広いし、結構深く理解しなければならないので、2年かかります」というのでは、ダメなのである。

ではどうするか? 単純な話である。1日のうち、できるだけ多くの時間を知識の吸収のために使うのである。1日は誰にとっても24時間なので、その24時間のうち、知識の吸収以外のことを、極力やらなければいいのである。

確かに、知識の吸収に関係のないことを一切やらないということは不可能である。人間は寝なければならないし、食事をする必要もある。しかし、そういう生きていくために必要な最小限のこと以外は、一切を犠牲にしてでも、知識の吸収に努める覚悟が必要なのである。

こういった覚悟がないと、人間は絶対に「できない理由」を探してしまう。今日はどうしても見たいテレビ番組があるから勉強はちょっとお休みにしよう、とか、最近疲れ気味だから今日は早めに寝よう、とか、1週間がんばったんだから今日一日は思いっきり遊ぼう、とか、今日は人にこれを頼まれたから勉強はできないな、とか、である。いったんこういった「できない理由」を自ら認めてしまうと、連鎖的にいくつも認めてしまい、大きな時間の浪費になってしまう。絶対に「できない理由」を探さずに、短期間なのだから、他の一切を犠牲にする覚悟が必要である。

僕の友人に強者がいた。司法試験合格を目指して勉強していた彼は、「他の一切を犠牲にする」を文字通り実践した。人にも会わず、食事もすぐに済ませて、集中力がなくなったら、すぐに寝てしまうそうである。その時間に他のことをするよりも、睡眠時間の確保にあてるのだという。そして起きたら即勉強である。そうして、見事短期間で司法試験に合格したのである。念のために補足しておくと、彼は受験秀才とはほど遠い。なんせ、高校に行っていないのであるから。高校に行く必然性を感じられず、中学卒業後社会に出たものの、弁護士になりたいと思うようになって、大検、大学受験を独学でクリアーして、これまた予備校など行かずに独学で司法試験に受かったのである。確かそういう経歴だったはずだ。彼の目的意識が強烈だったことも明かであろう。

ここまでやるのは本当に理想で、僕のように仕事がある人は、最低限仕事をこなしながらになってしまうが、それでも、極力他のことは犠牲にしなければならない。また当然、例えば通勤しながらの学習のように、時間を作り出す工夫も必要である。


2.3.マインドマップと自己講義で全体像を把握する

知識を吸収したい分野の全体像をアバウトでいいので把握してから、細かい知識を覚えていった方がはるかに効率がよい。論理的なつながりが知識の定着を助けるからである。

したがって、まずは全体像の把握が肝要となる。そのためには、目次がしっかりしているコンパクトな本を基本書として設定し、それを何度か読んで、全体を一枚のマインドマップにまとめる。必要であれば、さらに全体をいくつかの部分に分けて、それぞれにマインドマップをつくってもいいだろう。

その後、そのマインドマップを見ながら、その分野の内容を、自分で自分に講義するのである。やってみれば分かるが、自己講義することによって、まだ自分が理解できていない点や曖昧な点が見事に浮上する。そういった点を、すかさず基本書でチェックするのである。そしてさらに自己講義をくり返す。理解できていない点、曖昧な点は、その都度、基本書でチェックする。もちろん、必要に応じて他の参考書も参照すればいい。

まあ、自己講義を20回もくり返せば、その分野のアバウトな全体像は確実に把握できるだろう。これは書くよりも、講義形式で話す方が、時間対効果(?)的に、絶対に効率的である。また、実際に話す相手がいれば、そちらの方が臨場感があり、相手に曖昧なところを指摘してもらうこともできる。だからそういう場合は、自己講義ではなく、普通にその人相手に講義してもよいだろう。

僕の場合は、通勤で車を運転している間(片道約20分)、ずっと自己講義をしていた。運転中は本を読むことはできないが、自己講義ならできる。こうして、通勤時間もしっかり活用した。また、頭のレベルが同じくらいの弟が近くにいるので、弟相手に「臨床心理学とは何か」から講義したりもして、意味不明なところを指摘してもらったりもした。これは思った以上の効果をあげたと思う。


2.4.細かい知識は問題集・用語集・事典をくり返して暗記する

全体像が描ければ、後は細かい知識を可能なかぎり覚えればよい。その際、まずは問題集をメインにするのがいいと思う。

問題集というのは、その名の通り、問題が付いている。問題が付いていると、一体何のメリットがあるのか? 人間の認識は問いかけ的反映であり、問いかけたものしか反映しない。問題というのは問いかけの一種であるから、問題を読むことによって、頭の中に問いかけができる。そうすると、問いかけがない状態では反映しなかったものまでも、反映するようになるのである。

例えば、「心理療法の立場の違いを特徴づける軸として、『指示的−非指示的』、『過去志向−現在志向』の二つがある。これらを、具体的な心理療法名を挙げて説明せよ。」という問題があるとする。そうすると、「なるほど、心理療法は、指示的−非指示的という軸や、過去志向−現在志向という軸で分類可能なのだな」というような、メタな視点が獲得できる。それを踏まえて参考書を読むと、「この療法は指示的だな」とか「この療法は過去志向だ」とかいったことが、明確に反映するようになる。さらに、問いを中心に知識がまとまり、整理されてくる、ということもいえる。

また、一般に、ヨリ明確な問いかけでもって反映したものは、明確に反映する分、記憶として定着しやすい。だから例えば、「Q:ゲシュタルト療法の創始者は誰か? A:パールズ, F」というような単純な問題でも、普通に文章を読んで暗記するより、記憶に残る。

以上のような理由で、細かい知識はまず問題集をメインに据えて、問題集から取り組むべきであろう。

ただし問題集だけでは、必要な知識を網羅していない場合がほとんどであるから、そういった際には用語集や事典を活用すべきである。用語集や事典は、問題集よりも網羅的ではあるものの、単に知識が羅列しているだけの場合が多い。しかし、すでにその分野の全体像は頭の中に入っているのだから、その全体像に位置付けながら、用語集や事典の知識を吸収していくことができるはずである。その際、問題集の代わりに自分で、問題集を応用した問いかけをもちながら読んでいけば、効果的である。また、事典の内容を穴埋め問題形式でカード化すれば、ポータブルな問題集にもなる。こういったことはいくらでも工夫できるはずだ。

いずれにしても、暗記するためには、ある程度くり返す必要がある。問題集を一回やっただけ、用語集を一回通読しただけ、で覚えられるはずがない。塾で指導しているとよく分かるが、覚えられないと文句をいう生徒に限って、くり返しが圧倒的に少ない。頭の良し悪しの問題ではなく、量質転化の問題である。覚えるまでくり返せばいいだけである。


2.5.知ったかぶりをして、他人に説明する

その分野の全体像であれ、細かい知識であれ、機会があれば、他人に説明するとよい。そうすると、自己講義の際に説明したように、曖昧な点などがはっきりしてくる。さらにいうと、説明するという行為自体が、いわゆる「エピソード記憶」となり、それが記憶を助けもする。これまた人に教える仕事をしていると分かってくるが、自分が教えたことは、かなり強烈に覚えているものである。だからこれを逆に利用して、覚えるために他人に説明するわけである。

さて、他人に説明する内容は、当然、自分が知っていることだと思うかもしれないが、そうとは限らない。あまり知らないことでも無理やり説明するのである。その際、知ったかぶりが重要である。

「知ったかぶり」とは何か? 本当はあまり知らないのに、知っているふうに振る舞うことである。知ったかぶりをすると、知らないということと、知っている振りをしたということとの間に矛盾が起こる。認識と表現の敵対的矛盾である。こういった状態は、自分にとって不快で不安であるから、これを解消すべく行動することになる。表現はもうなされてしまって、他者に対してばれているから、今さらなかったことにはできない。そこで認識のほうを「知らない」から「知っている」に変えるべく行動するわけである。これで矛盾が解消して、問題解決である。社会心理学でいうところの認知的不協和理論である。

僕の場合、塾で生徒に雑談として、心理学の知見を紹介した。例えば、僕の言ったつまらないダジャレがすべってしまったときのこと。「人は悲しいから泣くのではない。おもしろいから笑うのではない。泣くから悲しいのだ。笑うからおもしろいのだ。ジェームズさんとランゲさんが、こういうことを主張したので、これをジェームズ−ランゲ説という。だから、今笑ってみろ。おもしろくなるから。もちろん、これに対立する説もあるが。」とか何とかいうわけである。その瞬間、「イカン、対立する説ってなんだったけ?」と頭の中では焦りながらも、冷静を装う。そして、「その対立する説って何?」とか生徒にきかれる前に、「私は、いつもハッピーな気分でいたいから、鏡の前で笑う練習をしている。やれば分かるが、本当に笑うと楽しい気分になる。」と、ちょっとキモイ話題に転換して逃げるのである。そして家に帰って、対立する説(キャノン−バード説)を確認したり、もう少し正確にそれらの説はどういうことなのか、確認するわけである。


(この節、2008.2.27追記)
2.6.身近でオリジナルな具体例とセットで覚える

抽象的な内容を暗記する際は、具体例とセットにすると覚えやすい。それも、身近な、かつオリジナルな具体例である方が記憶に残りやすい。

例えば私の場合であれば、少し上で「社会心理学でいうところの認知的不協和理論である」と書いたように、自分の行動を心理学の知見で説明してみたりした。あるいは、心理学の知見に当てはまる身近な出来事を探したりしてみたりもした。そして自己講義のときや他人に説明するときに、抽象的な内容を述べてから、「例えば」といって具体例におり、具体例が終わった後で「つまり」といって再びのぼるのである。このように認識ののぼりおりをくり返すことによって、自然と知識の定着がはかれる。

英語の文法や語法が覚えられないのであれば、自分や身近な人物が登場するおもしろい例文を自分でつくってみて、それを覚えるのも手である。私が中学生に英語を教えていたときは、当時流行っていた(?)NOVAうさぎやボブ・サップを例文に登場させたものである。

要するに、具体例が身近で馴染み深かったり、インパクトがあったりすると、それとセットで抽象的な内容もしっかり記憶できるということである。


3.その他


3.1.過去問研究

以上が「短期間で特定の分野の知識を吸収する方法」のメインである。その他、少々の補足をしておく。

まず、入試や資格試験のように、ペーパー試験に合格するのが目的の場合は、当然ながら過去問研究が欠かせない。いってみれば、試験に出るところだけ覚えるのが一番効率的だからである。出題の傾向を把握して、その対策をするのである。

僕の場合は、志望大学院の過去問を入手して、過去に出題されているテーマの周辺部分は、やや力を入れて、具体的にいうと『心理臨床大辞典』(培風館)の関連箇所を読んで、勉強した。本来なら、すべてを網羅的に勉強するのがベストなのかもしれないが、我々には時間もないし、合格することが目的なのだから、こういう場合は割り切って過去問研究をするべきだと思う。


3.2.砂利道鍛錬

先ほど、「他の一切を犠牲にする」と書いたが、もちろん、知識の吸収に間接的にでも役立ちそうなことはやるべきである。たとえば、食事時間を節約するために、インスタントラーメンばかり食べるなどは、愚の骨頂だろう。人間の体は、脳細胞も含めて、食べたもので創られるのだから、しっかりバランスのよい食事をとることは、記憶に役立つと考えるべきである。また、睡眠時間を極端に削るというようなことも、やるべきではないかもしれない。実は短期間なら、一日4時間睡眠は可能ではないかとは思うが、やはり6時間くらいは眠るべきだろう。

僕の場合は、試験勉強の合間にも、灼熱のアスファルトや砂利道を裸足で歩く例の鍛錬を行ったりもした。脳細胞を刺激することによって、頭脳活動が活発化し、暗記力も上がるのではないかと思ったからである。効果はあったのではないかと思う。初めて聞く人名などが、妙にすらすら覚えられたものである。


3.3.僕の勝因

最後に、僕が院試に合格できた要因を考察しておこう。まず、なんといっても、少ないながら僕を支援してくださった方々の存在が大きかった。目標を明確にすることや具体的な勉強の仕方なども、こういった方々から学んだことが多い。原田隆史も、最後の数パーセントは他人の力が成功か否かを分けるといっていた。僕の場合は、50%位は依存していた気がするが。

次に、今まで述べてきた方法である。同じ時間勉強すれば、優れた方法を採用している方が効率がいいに決まっている。これまで学んできた弁証法・認識論を適用した簡便ながら優れた方法を創り出し、その線に沿って迷いなく勉強できたのは、怠け者の僕にとっては大きかったと思う。

最後に英語である。ほとんどの院試には英語の試験が課され、その英語の点数が合否を分けるケースが多いと聞く。その点僕はラッキーだった。仕事で大学受験生に英語を教えているくらいだから、ある程度の英語であれば、比較的速く正確に読める自信はあった。そのため、専門用語を英語で覚える以外は、全くといっていいほど英語の勉強をしなかった。その分、臨床心理の勉強に専念することができたのである。それでも英語の試験はおそらく満点に近かったはずだ。文章の内容(当然、臨床心理学に関連するものだが)は完璧に把握できたし、和訳や内容の要約も、まあ、いってみれば得意分野である。

なお念のために書いておくと、今「ラッキー」と書いたが、これは正確ではない。というのは、そもそも院試の英語対策として、大学受験生に英語を教える仕事を選んだ、という側面もあるからである(誤解のないように書いておくと、自分だけのために仕事をしているというわけではない。塾の講師であるから、第一の目的はもちろん、生徒の実力のアップである)。相当前からの準備が、非常に功を奏したといえると思う。


4.最後に

今回の院試勉強は、僕の認識論の実験でもあった。認識の構造をふまえて目的を明確化し、その明確化した目的像に向かって努力を続けることができたわけである。このように、何事も目的意識的に実践をするということを、しっかり積み重ねて、認識論の研鑽を積み重ねると直接に、目的意識的に行動することをしっかりと技化していきたいと思う。次の目標は、来年の4月に入学する際、間違いなく院生の中でトップレベルの実力を身につけていることである。また、全然違う話になってしまうが、11月に行われるシティマラソンに参加して、10キロを50分で完走する、という当面の目標も設定した。同じように目的像を明確にして、一つずつクリアーしていきたい。
posted by 寄筆一元 at 00:00| Comment(3) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
う〜む、マラソンですか…。東京五輪で銅メダルだった円谷は自殺。バルセロナで銀メダルだった有森はゲイと結婚。瀬古も…。これはなぜだと思いますか? つまりマラソンをやると、○○がおかしくなるという現象の謎解きですが。
ランニング自体は悪くないでしょうが、問題はマラソンにある構造ですね。つまりマラソンのプラスとマイナス。で、もしマイナスがあれば如何にすればそのマイナスを減らすか、またはプラスに転じられるか。
円谷たちの場合、目的像は明確でした。五輪で勝つため、と。ではなぜ?
Posted by 流蛍 at 2007年09月26日 14:40
流蛍さん、興味深い問題をありがとうございます。

マラソンをすると認識が歪む(可能性が高い)のはなぜかという謎解き、ちょっとやってみます。

マラソンというのは、単純にいってしまうと、長時間ただ走るだけです。単調な外界の反映が長時間続き、併せて内界の反映=苦痛が長時間続くことになります。こうなると、誰もがマラソン大会などで経験しているように、気を紛らわそうと、頭の中の対話(認識どうしの会話)をやることになります。いわば、反映を遮断して空想に逃げるわけですね、走りながら。

一般に、人間の認識は外界の反映をその原基形態としています。外界の規則性を反映することによって、認識にも規則性が保たれ、いわば正常の・外界(自然・社会)と調和する・認識が創られていくわけです。

ところが、何らかの事情でこの反映を遮断すると、認識はいわば自由自在に・自分勝手な・発展をとげます。寝ているときに見る夢がその一例です。夜寝ている間は、脳細胞が必要最小限の活動しかしていないため、いわば外界からの反映が最小限にとどめられています。そのため、過去像=蓄積された像が前面に出てきて、像が像を呼ぶ形で、後で反省すると訳のわからない発展をしているものです。これが夢ですね。

この夢と同じように、一般に外界の反映を遮断すると、頭の中の対話(認識どうしの会話)しかすることがなくなって、認識=像は、でたらめな変化・発展をしていきます。有り体に言えば、社会性のない・歪んだ・認識です。

いったん歪みきってしまうと、それこそ戸塚ヨットスクールでの実践が矯正のためには必要になってしまいます。すなわち、超規則的な生活と、超厳しい訓練によって、強烈に外界の規則性を反映させるのです。そうすることによって、認識を強制的に整えない限り、正常な認識に戻すことは不可能だといえるでしょう。

閑話休題、マラソンというのは、その練習も含めて、そのような頭の中の対話(認識どうしの会話)を強制するような構造を有していると思います。したがって、年がら年中マラソンに取り組んでいるようなプロ的な選手は、精神病患者と同じく、反映を遮断して頭の中の対話(認識どうしの会話)をすることが技化していくことになるので、認識が歪んでいく可能性が高いのではないか、と思いました。

仮にマラソンがこのような構造を持っているなら、ただ走ることによる単調な外界の反映がそもそもの問題なのですから、空想を許さないような・外界の反映を必然化するような・走り方であれば、マラソンのマイナスを減らすことができるといえます。たとえば、裸足で走るとか、後ろ向きに走るとか、目をつぶって走るとか、でしょうか。

もっとも、私の場合はジョギング程度であって、運動不足解消のために、せいぜい週に4回、1時間くらい走るだけですから、それほど問題にはならないと思います。

以上です。できれば採点・添削をお願いします。
Posted by 寄筆一元 at 2007年09月27日 00:23
採点・添削だなんて…、予備校じゃないんですから(笑)。恐れおおいことです。
マラソンが内界の反映、内界の対話になるとの指摘はそのとおりです。
夢の概略もそのとおりでしょう。
認識を強制的に整えることは、正常な認識に戻すことかどうか…。それはいわば現象論で、構造的には脳細胞を変えることでしょう。
外界の反映を必然とする運動、はそのとおりです。しかし、「ジョギング程度」なら「それほど問題にならない」かというと、それがそうはいかないのです。私も本文を拝読して、ジョギング程度なのだろうなとは推測できましたが、それでもなお、問題は生じます。ただし、そこらのおじさん、おばさんがやっている朝のジョギングに文句はつけません。一流の学者を目指す寄筆さんには大きく問題になってきます。主婦がつくる味噌汁には誰も文句は言わないが、一流割烹の板長がつくる味噌汁には、厳しい批判にさらされる、それと同じです。
Posted by 流蛍 at 2007年09月27日 07:33
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。