2007年09月09日

V.E.フランクル『夜と霧』(みすず書房)



ヴィクトル・フランクル『夜と霧』を読了。新訳も出ているが、僕は旧訳(霜山徳爾訳)の方を読んだ。いうまでもなく、アウシュヴィッツの強制収容所における一心理学者の体験記である。

参考までに書いておくと、著者のフランクルは、ウィーン生まれの精神医学者。フロイト、アドラーに師事するも、「快楽への意志」や「権力への意志」ではなく、「意味への意志」を重視し、実存分析・ロゴセラピーを提唱した。

僕がこの『夜と霧』を読んだのは、「極限状況におかれた人と人間一般と」(薄井坦子『看護学原論講義』現代社、p.90)を学ぶためである。薄井先生は、『看護学原論講義』の同じ箇所で、次のように説いておられる。

人間に働きかける職業人にとってもっとも基本的なことは、<相手の立場をどれだけ観念的に追体験できるか>ということである。人はさまざまであり、自分は自分であるから、どんな人と向かい合っても、その人をその人として見つめ、その人のその時の実像にできるだけ近いイメージを、できるだけはやく描くことができるよう、あなた自身の「直接的・間接的経験の幅と深さ」を求める学習を重ねてほしい。


その後、三つの学習課題と『精神病者の魂への道』や『夜と霧』を含むいくつかの学習文献が挙げられている。これは、心理臨床家を目指す僕にとっても、そのまま当てはまる大切な学習課題である。ということで、さっそく読んでみたわけである。知人に勧められたということもあるが。

では、本題である。本書でフランクルは、収容所生活における囚人の心理的反応を、三つの段階に区別している。最初が、収容所に収容される段階である。この段階は、「収容所ショック」と名づけられるようなものによって、特徴づけられている。過酷を極める強制労働や拷問によって、ショックを受ける段階である。

次が、本来の収容所生活の段階である。ここでは人は比較的無感動になるという。ドストエフスキーがいうがごとく、人間は「すべてに慣れ得るもの」であるから、「苦悩する者、病む者、死につつある者、死者――これらすべては数週の収容所生活の後には当たり前の眺めになってしまって、もはや人の心を動かすことができなくなるのである」(p.102)。この無感動は、「必要な心の自己防衛であった」(p.110)とフランクルは説く。

そして最後の段階が、収容所からの釈放乃至解放の段階である。この段階について、フランクルは次のように書いている。

「この心理的な極度の緊張の後に続いたのは完全な内的弛緩であった。誰かがわれわれの間に大きな喜びが漲っていただろうと考えるならばそれは大きな間違いであった。」(p.197)
「解放された仲間の体験したものは心理学的な立場からいえば著しい離人症であった。あらゆるものは非現実的であり、不確実であり、単なる夢のように思われるのである。まだ人はそれを信じることができないのである。」(pp.198-199)

以上のような極限状態におかれた人間の認識についての記述は、実験することが非常に困難であるだけに、とても貴重な資料である。

さて、僕がこの本を読んで一番感銘を受けたのは、第八章「絶望との闘い」である。ここで僕は、人間とは認識的実在であるということをしっかりと分からされた。もう少しいえば、認識=像の威力とはこれほど凄いものなのかと思い知らされたのである。

第八章の出だしはこうである。

「収容所生活が囚人にもたらした精神病理学的現象を心理療法や精神衛生の見地から治療しようとするすべての試みにおいて、収容所の中の人間に、ふたたび未来や未来の目的に目を向けさせることが内的に一層効果をもつことが指摘されているのである。また本能的に若干の囚人は自らにこの試みを行ったのであった。彼らはおおむね何か拠り所にするものを持ち、また一片の未来を問題としていた。」(p.177)

そして、自分自身の場合について、次のように書いている。

「私のあらゆる思考が毎日毎時苦しめられざるを得ないこの残酷な脅迫に対する嫌悪の念に私はもう耐えられなくなった。そこで私は一つのトリックを用いるのであった。突然私自身は明るく照らされた美しくて暖い大きな講演会場の演壇に立っていた。私の前にはゆったりとしたクッションの椅子に興味深く耳を傾けている聴衆がいた。…そして私は語り、強制収容所の心理学についてある講演をしたのだった。そして私をかくも苦しめ抑圧するすべてのものは客観化され、科学性のより高い見地から見られ描かれるのであった。――このトリックでもって私は自分を何らかの形で現在の環境、現在の苦悩の上に置くことができ、またあたかもそれがすでに過去のことであるかのようにみることが可能になり、また苦悩する私自身を心理学的、科学的探究の対象であるかのように見ることができたのである。」(p.178)

われわれ人間が悩み苦しむのは、われわれを悩み苦しませる外的環境・状況のためではない。その環境なり状況なりを反映した認識=像が、もっといえば、その認識=像につながっている不快な未来像が、人間を悩ませ苦しめるのである。したがって、その不快な像を観念的に自分から切りはなし、いわば直接性を切りはなして媒介関係に置くことができるならば、悩みや苦しみは軽減するのである。

フランクルは、聴衆の前で収容所生活について語っている未来の自分を想像=創像することによって、この切りはなしに成功した。現在の不快な認識=像を、観念的に対象化し、客観化できたのである。もう一人の自分を創りだし、別な立場から現在の自分を眺めることができたのである。

フランクルにとってこれは、その時の苦しみをやわらげただけではない。この苦しかった体験も、将来は自分自身の研究対象となり、そのおかげで立派な業績を上げられるのだという未来像が、フランクルに目的を与え、生きる力を与えたのだと思う。

「これに対して一つの未来を、彼自身の未来を信ずることのできなかった人間は収容所で滅亡して行った。未来を失うとともに彼はそのよりどころを失い、内的に崩壊し身体的にも心理的にも転落したのであった。」(p.179)

端的にいえば、人間の体力とか、肉体的な健康さといったものではなく、人間の描いていた認識=像によって、収容所での生死が決まったのである。

認識とは対象の反映であり、像である。しかし、認識と対象は相対的に独立しており、最高の弁証法性を孕んでいる認識という存在は、訓練次第でいかようにも変化させることができるようになる。一流の認識論者を志す僕としては、フランクルの事例に倣って、自己の認識のコントロールに努めていきたい。唯一直接見える認識は、自分の認識しかないのだから。
posted by 寄筆一元 at 19:01| Comment(4) | TrackBack(1) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじめまして、人生の勉強になると読ませてもらっていますが、赤系の背景になり読みにくくなりました。ドライアイ気味の私には眼が疲れます。できれば背景の色を変えていただけたらと失礼ながらお願い致します。
Posted by sh at 2007年09月10日 11:43
はじめまして、shさん。ご訪問ありがとうございます。

人生の勉強になるかどうかは分かりませんが、せっかく読んでいただいているのに読みにくい背景にしてしまって、失礼しました。私自身も赤い背景はどうかな、と思っていたところでしたので、さっそく変更しました。

また何かご要望がありましたら、遠慮なくおっしゃってください。
Posted by 寄筆一元 at 2007年09月10日 12:48
フランクル『夜と霧』ですか…、私も ン十年前に読みました。当時は学生で、あまり理解できなかった思い出しかわりません。
フランクルはユダヤ人で、その後、強制収容所のこの体験を書いて出版できたのは、もしかするとユダヤ・シオニストの援助があったから…とも考えられます。つまりこんなにユダヤ人はナチによってひどい目にあったのだという、シオニストによる宣伝の一環ではないかとも考えられます。
今やホロコーストはなかったというのが常識になりつつあり、アウシュビッツなどの強制収容所や、ユダヤ人迫害は、イスラエルへの入植者が集まらないためにシオニストがナチに頼んで迫害させたのが真相と考えられます。
だからフランクルの場合も、アウシュビッツに本当に収容されていたのか、見学しただけなのか、あとでこういう心理の本を書かせるために騙されるか何かで入っていたか…そこまで考えないといけないでしょう。
『夜と霧』には写真がたくさん入っていて、あれも本文とはほとんど関係なく、結局シオニストが“証拠”として、それらしく入れさせたのではないでしょうか。
もしもわれわれが、映画や写真で強制収容所の“実態”を知らなければ、フランクルの文章は像が創りにくいと思いませんか? 私はもう何十年前に読んだ記憶しかありませんが。しかし例えばソ連の収容所はソルジェ二ツィンが描いていますが、彼のほうが筆力はあったとはいえ、像は描きやすいでしょう。そのあたりに何か問題はないのでしょうかねえ。
フランクルの心理学(?)は当然に観念論です。だから彼の説明を唯物論で解きなおしてみる必要はあるのではないでしょうか。
フランクルは認識生理学は知らないのですから、収容所の食事がどれほど収容者たちの心に影響したかは解けないはずです。収容所での生死が決まったのは健康ではないと断定していいものでしょうか。フランクルは実態の健康状態が心にどう影響するかは解けないレベルだったのではないでしょうか。つまり彼は認識を認識からしか解こうとしていないのでは?
Posted by 流蛍 at 2007年09月22日 12:10
流蛍さん、コメントありがとうございます。

>『夜と霧』には写真がたくさん入っていて、あれも本文とはほとんど関係なく、
>結局シオニストが“証拠”として、それらしく入れさせたのではないでしょうか。

こういった裏事情に私は疎くて、勉強不足を痛感しています。ただ、『夜と霧』にある写真は、原著にはないそうです。つまり、日本語訳者か出版社が、後で付け足したものですね。新訳版には載っていないそうです。


>フランクルの心理学(?)は当然に観念論です。だから彼の説明を
>唯物論で解きなおしてみる必要はあるのではないでしょうか。

もちろんそうでしょうね。フランクルに限らず、今までの精神医学・心理学が私に与えてくれるのは、いわば素材であって、材料であると思っています。それはすでに観念論的な料理が施されていますが、その中に潜む貴重な材料(事実)をしっかりと見つめ、そこから科学的に論理を引き出す必要があると思っています。


>フランクルは認識生理学は知らないのですから

確かにそうですね。私も認識のみを見てしまうことが多いので、注意しなければならないと思っています。しっかりと認識生理学の基礎を学んで、人間全体から、あるいは実体と認識の統一という観点から、認識を解けるように研鑽していこうと思います。

ありがとうございました。
Posted by 寄筆一元 at 2007年09月22日 15:15
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