2005年07月07日

三浦つとむ『人生――人間のありかたと生きかた』(講談社ミリオン・ブックス)

三浦つとむ『人生――人間のありかたと生きかた』(講談社ミリオン・ブックス)を古本屋で発見して読んだ。わりと初期の著作であるが、読んでいる間は「流石三浦つとむ!」と唸りっぱなしであった。目次は「Logic Board ―どう考えるのが正しいか」で紹介されている。

目次を見ても明らかなように、非常に幅広いテーマが扱われているが、今回は「学び方」に焦点を当てて考えてみたいと思う。まずは、関連する部分を引用する。

「完全な真理というのは、真理をつかんだ人間が自分の実践をとおしてその正しいことを証明し、自分の身につけて、いつでも実践の指針として役立てられる状態におかれている真理であり、宙に浮いて逆立ちしている真理というのは、ことばで教えられ本で読んで頭の中にうつしかえられただけの真理、真理をつかんだ人間の実践とむすびつかずにまだ身についていない真理である。」(pp.68-69)

「学ぶということは、自分のぶつかっている問題を解決するために、それに必要な知識を直接に間接に身につけることであり、完全な真理を獲得することである。」(p.72)

ここで述べられている「完全な真理を獲得する」ための学び方を、僕は「実学として学ぶ」としてとらえている。

実学というと一般的には、「実際に役立つ学問。応用を旨とする科学。法律学・医学・経済学・工学の類。」(『広辞苑』第五版)とか、「理論より実用性や技術を重んじ、実生活にすぐに役立つ学問。農学・工学・医学など。」(『例解新国語辞典』第六版)などと言われている。確かに僕のいう「実学として学ぶ」というのは、「実際に役立つ」ように学ぶという意味である。しかし、医学は実学で哲学は虚学だ、というような区別ではないと僕は考えている。例えば、医学生が学んでいる膨大な量の知識が、全て「実際に役立つ」であろうか。また、哲学が「実生活にすぐに役立つ学問」ではないと言い切れるであろうか。答えは否である。医学とて、役に立つような学び方もあれば、役に立たない、単なる知識と化す学び方もある。哲学といっても、普通いわれているような実際の役に立たない丸暗記(などというと批判されそうだが、僕の理解ではカントやヘーゲルを、何ら学的実践を行っていない学部生や院生、大学の先生方が、ただその著作を読んだだけで理解できるはずがないから、結局自分なりの解釈を暗記しているだけである。これはイチローのバッティングを素人が見て理解できるか、武道の達人の動きを素人が見て理解できるか、より一般的には達人の表現を見ただけで、その背後にある認識を追体験できるのか、できるはずがないということと全く同じである)の学び方だけでなく、実生活に役立つような学び方もあるはずである。河合栄治郎は『学生に与う』の中で次のように力説しているが、これは哲学を実学として学べということだと僕は理解している。

「理想主義は高遠なる哲学である。しかし高遠なるが故にこそ、われわれの日常生活の隅々にまで、浸透せしめなければならない、実にわれわれのあらゆる生活場面まで、漏らすことなき指導の原理となりうること、ここに理想主義の哲学としての特質がなければならない。」

「人間の解剖は猿の解剖のための一つの鍵である」(カール・マルクス「経済学批判への序説」、『経済学批判』国民文庫、p.301)的な観点から、三浦つとむの「完全な真理を獲得する」ための学び方を、僕的にいえば「実学的に学ぶ」ということを、南郷継正技論的にとらえてみると、「使うために創る」とスッキリとまとめることができると思う。すなわち、いくら形が見事であっても、使えない技は意味がない。技とはそもそも使うために創るという媒介関係があるのだから、使えるように創らなければならない。いうまでもなく、弁証法などの知識も、認識の技である。

使うために創った技と、単に形だけ見事に創ったが結局使えない技の典型として、英語圏に留学した高校生などが話すブロークン・イングリッシュと、いわゆる受験英語が挙げられる。前者はともかく会話によるコミュニケーションのためにそれなりに使える技である。それに対して、後者は英米人にも劣らない正確で細かな文法知識を持っている受験生もいるほどだが、すぐに英会話に使える技であるとは言い難い(もっとも、大学入試には使えるが)。

では、実学として学ぶ、あるいは使うために創るには、どのようにすればよいのか。答えは三浦つとむもいっているように「実践をとおして」学ぶということである。板倉聖宣的にいうと「科学的認識は実験によって成立する」である。例えば、弁証法の量質転化の法則を実学として学ぶとは、頭の中に量質転化の像を創ることである。その像を使えるように創らなければならない。単に教科書を読んだだけでは、薄っぺらな知識になってしまい、ひどい場合は「量的変化は質的変化をもたらす」という文字表象があるだけである。これでは「実践の指針」として、現実の対象の中から弁証法性を見出し、それを問題解決の役に立てることなどできない。そこで、様々な実験をくり返して、量質転化の像を厚みのあるものにしていかなければならない。事実と繋げて理解していく、といってもいい。実験は自分が主体的に行うのであるから、その結果創られていく像には主体性が帯びる(つまり、自らが、自らの責任で自ら使うために創ったという性格)。また、自らの五感器官を通して量質転化の事実を反映させることになるのであるから、自分の頭の中には量質転化の像が五感情像として創られていくことになる。単なる読書によって得た知識は、一感情像であるから、その厚みが全く違う。このようにして実験をくり返しの上にもくり返すことによって、「量質転化は絶対に間違いない!」という確信にいたったとき、量質転化の知識は、単なる知識から論理になったといえるのではないか。この一連の学びの過程を僕は「実学として学ぶ」ととらえているのである。

以上要するに、三浦つとむのいう「完全な真理を獲得する」とは、実学として学ぶということであり、これは観点次第では、使うために創るとか、実践的に理解するとか、事実と繋げて理解するとか、厚みのある像を創るとか、主体的に学ぶとか、論理を五感情像として創るとか、知識を論理化するとかいったように、様々に表現可能である。



liger_oneさんへ。トラックバックに対するコメント、ありがとうございました。

私が「実学として学ぶ」ことを強調したのは、端的には自分が弁証法を文献解釈的に学ぶことを戒めるためです。三浦つとむは『弁証法はどういう科学か』のまえがきで、「わたしも自分の社会科学の研究にこの弁証法を使ってみて、それがどんなにすばらしい武器であるかを実感することができました」とか、「これまでの学者が越えられなかった理論の壁を、弁証法を使って簡単に打ち破り、学問的に未知の分野に深く切り込んでいくことができた」とか書いています。つまり、弁証法とは未知の問題を発見し、解決するための武器である、ということです。

この三浦読者にとっては常識であるはずの弁証法観が、三浦以外の弁証法の研究者や啓蒙家の間では非常識であることを、大学生の頃イヤというほど思い知らされました。一例だけ挙げますと、ある大学の哲学科教授は、「弁証法を学んだからといって、何か大問題を解決できるわけではない」などと断言されていました。私からすれば、「それはあんたが何一つ専門を持たず、マルクスやエンゲルスなどの文献を一生懸命解釈することだけが仕事だったからだ、つまりあんたの文献解釈学者丸出しの弁証法の学び方が悪かったからだ」ということなのです。こういう方の著作は、マルクス・エンゲルスの引用の部分だけが光っていて、解釈の部分、具体的適用の部分になると、首を傾げざるを得ないものが多かったのです。

これに対して、三浦つとむやその弟子の南郷継正師範などは、しっかりと弁証法を自らの武器として役立て、自前の学問的業績を残しておられます。私が弁証法を学ぶのも、この二人の大先生方と同じく、弁証法を役立てるためです。哲学教授のように「宙に浮いて逆立ちしている真理」として学ぶのではなく、三浦つとむや南郷師範のように「完全な真理」として学びたいのです。そこで、両者の学び方の違いを明確化し、あるべき学び方を、特に南郷師範の技論・上達論・認識論を参考にして、自分なりにまとめたのが、「実学として学ぶ」ということだったのです。

以上のように「実学として学ぶ」ということは、主に弁証法の学びを念頭に置いていました。だから、もちろん私が河合栄治郎がいうところの一般的教育、あるいは一般教養を軽視しているわけではありません。しかし、一般教養の知識も、自分が生涯を賭けて解明したい専門対象があって初めて生きてくるのだと思っています。イメージ的にいえば、自分の専門分野や弁証法の実力を背後から大きく支えているのが一般教養、という感じです。

また、一般に実学ではないと考えられている基礎科学であっても、その専門分野の謎を解くために必要な学びなら、その謎を解くのに役立つわけですから、私的には「実学として学んでいる」といえると思います。
posted by 寄筆一元 at 05:50| Comment(0) | TrackBack(1) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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