2007年01月20日

本田克也・加藤幸信・浅野昌充・神庭純子『看護のための「いのちの歴史」の物語』(現代社)

本田克也・加藤幸信・浅野昌充・神庭純子『看護のための「いのちの歴史」の物語』(現代社)が、発行日の翌日、19日に届いた。さすが現代社、仕事が速い!! というか、予約までして楽しみにしている読者の気持ちがよく分かっているというか。さっそく読了した。

南郷継正師範の読者や、季刊雑誌『綜合看護』(現代社)の読者なら自明のことであるが、本書で説かれている「いのちの歴史」とは、「生物の歴史」とは違う。すなわち、「地球上に存在しているありとあらゆる種としての実体の歴史、つまり生物体のたどってきた道(過程)」(p.5)を説いたものではない。そうではなく、「その生物を生かし続けているもの、すなわち『いのち(生命)』自体の変化・発展の歴史に着目」(同上)したばあいに浮かびあがってきたもの、つまり「『いのち』はどのように生まれ、どのような姿や形をとって現代の人間まで発展してきたかの、壮大なパノラマ図」(同上)を説いたものである。

本当に、超・超壮大な歴史が説かれてあり、これ以上壮大な世界の捉え方はないといえるくらいである。しかし、「過程を含めて全体」なのであるから、人間という存在をきちんと理解しようとするならば、その人間にまで至った過程=いのちの歴史をしっかりと学ばなければならない、というのは当然である。本書でも、「いのちの歴史」を学ぶ意義が、くり返し説かれている。例えば、以下である。

「『いのちの歴史』を学ぶことによって人間に関するどんな問題も、自分の力でその答えを探っていくことができる実力がつくのです。」(pp.17-18)
「あらゆる人間の問題そして人間を生んだ自然の問題、人間がつくった社会の問題を解く鍵は、『いのちの歴史』の物語にあります。」(p.31)
「人間は、生き物の頂点として、高度に発達した脳をもち、認識の働きですべての活動が統括されています。体の仕組みも働きも複雑怪奇であり、それを理解することは極めて困難なように思われます。しかし、それはそこまで発展してきたからこそであり、初めは単純なものからここまで発展してきたのです。そしてついには生命体は『認識』あるいは『こころ』というものをもつに至ったのですが、いささか文学的な表現をすれば、『いのち』が咲き誇ったのが『こころ』であるということもできるでしょう。したがって『いのちの歴史』の物語を基礎とすれば、われわれの『こころ』の謎を解くこともできるのです。」(p.33)


「こころ」の謎を解かねばならない僕としては、当然に熱心に学ぶことになる。というより、歴史性をもって生きたい人間は、すべからく学ぶべき必読書(a must)である。

本書は『綜合看護』に連載された論文が書きなおされたものである。ここには、『統計学という名の魔法の杖』(現代社)と同じく神庭純子氏が関わっているそうだ。また、第14章は、連載にはなかった追加部分だが、瀬江千史氏が執筆されている。ここは調べてみると、瀬江氏自身が『綜合看護』に連載されていた論文「脳の話」の第19回〜第21回(『綜合看護』2005年4号〜2006年2号)がもとになっている。

さて、前回引用した目次を見ても明らかだが、本書は、同じ歴史がらせん状にレベルアップしながら、くり返し説かれている。そのため、初めはアバウトに全体像が描け、徐々にその発展の構造や意味、必然性が分からされてくる、という感じである。もちろん学術論文ではなく、あくまで「看護のための」という条件付きであるから、厳密な論証のようなものは端折っている部分もある。しかしその分、物語として、イメージしやすく、分かりやすい記述になっている。

それでも、今回通読してみて、やはり難解であった。特に、生命体誕生の部分と、哺乳類(胎生+授乳)への発展の必然性の部分が、正直十分に理解できていない。つまり、像としてイメージできない。くり返しくり返し学んでいくしかないだろう。(読んでいて少し思ったことだが、CGか何かを使って、この「いのちの歴史」をビジュアル化できないものだろうか?)

ちょっと理解が進んだ点もあった。それは、カイメン段階→クラゲ段階・魚類段階→両生類段階・哺乳類段階という発展や、初期哺乳類→サル→ヒト・人間という発展は、大地から離れて、大地へ戻るという、否定の否定としての発展であるということが、何となく分かった点である。

前回気になると書いておいた「『いのちの歴史』は『こころの歴史』に続く」という節は、端的には、「こころの歴史」が既に南郷師範によって「“夢”講義」として説かれているので、次はそちらを学べ、ということであった。なるほど。(そういえば、『“夢”講義』の次の巻は、もうそろそろでるんじゃないか?)

誤植らしきものもいくつか発見した。p.50の「他の兄弟惑星である金星・木星」は「他の兄弟惑星である金星・火星」の誤りだろう。これはほぼ確実。p.65の「史上最高の哲学者とされるソクラテス」は、ちょっとあやしい。連載当時のママだが、一般的・常識的にはソクラテスが史上最高の哲学者とされることもあるのか? 最後に、p.270の「それをさらに弁証性豊かに説ききってくれたのが神庭純子です」の部分。「弁証性」ではなくて「弁証法性」ではなかろうか?

それはともかく、僕にとっては、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)、海保静子『育児の認識学』(現代社)、南郷継正『“夢”講義』(現代社)に次ぐ基本書の登場である。それぞれ100回は読まないダメだ。それも、単に読むだけでなく、実践・事実に繋げて読んでいきたい。
posted by 寄筆一元 at 04:25| Comment(4) | TrackBack(1) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 ついに出た。楽しみにしておりました。寄筆さんと、感想を語り合えるものと期待してHPを開いたら、さすが、1日で読んでしまったとはすごい!ヘーゲルの生きていたころ、ヘーゲルの次の著作の発行を心待ちにしていた人々は、このような思いを味わったのでしょうか?

 この学説のすごいところは、これまでの生命の歴史は、生命の誕生を生物の発生から説き起こしていたのに、有機物や水の発生から説き起こしているところである。

 オパーリンの学説は、有機物が単純なものから複雑なものに発展していく過程で、生命が発生すると説いたのだが、この論理では、そのような経過がなぜ地球にのみ生じるのかという仕組みが不明のままだった。

 地球のみが、他の惑星と異なって、自分の半径の4分の1もの巨大な衛星を“偶然”持ってしまったために、冷え方が、極めてゆっくりとしたものになった。この「冷却したくとも冷却できない過程」、冷えかかっては温まるを繰り返す過程が、数億年も積み重なるうちに、ついに地球の物質が、「生成されるかと思えば生成されずに後戻りをすること」を繰り返す性質を帯びるようになった。これこそオリジナルな上にもオリジナルな学説であり、本書は、おそらく今後数百年以上にわたって、ラマルクよりも、ダーウィンよりも、ヘッケルよりも長く読み継がれるに間違いない、真に独創的な学問的著作になると言っていいでしょう。

 それ以後の「膜」が形成されて、単細胞生物が生じるところも、単細胞段階からカイメン段階へ、カイメン段階からクラゲ段階へ、クラゲ段階から魚類段階への進化の過程も、従来の学説では、生命は単純なものから複雑なものへと進化していく「内的本性」を持っているとか、まったくの偶然による突然変異の積み重なりとか言うような、要するにはっきりとした仕組みが説明できないものだった。それが、本書では、地球自体の変化との相互作用によって、そのように進化しなければ生きていけない必然性をしっかりと説ききっている。

 私は、学生時代、自分が日本人に生まれて、したがって英語が不得意であることを呪ったものでした。ほとんどの専門書は、まず英語で出版され、訳書が出るのはそれから数年後であり、しかも原書よりも高価だからです。今、私は、自分が日本語をどの国語よりも得意とし、世界中の他の国語を母国語とする誰よりも先に、本書を読める幸せをしみじみと噛みしめております。
Posted by フンフン at 2007年01月24日 11:55
フンフンさん、コメントありがとうございます。

生命の誕生を明確にできたことは、唯物論的に生命を考えるに当たって、これ以上ない大きな業績ですね。

地球の特殊性(月の存在)ゆえに、地球だけの自然現象として誕生した生命現象が、自然の一般的な変化・発展の流れのために、実体化した、細胞膜をもつに至った、という論理は、見事としかいいようがないと、感動しきりでした。特に、化学的変化が何億年もくり返された結果、代謝の原基形態を誕生させる実力を備えていったというような内容(不正確な理解かもしれませんが)は、私のように弁証法の実力が未熟な者にとっても、「なるほど!十分あり得る話だ!」と思えるものでした。

その後の生命の歴史も、おっしゃる通り、地球と、その一部である生命体との相互浸透によって発展していく様子が、文字通り「物語」として、具体的にイメージしやすい形で説かれており、「これこそが対立物の相互浸透の典型例だ!」と思ったものです。南郷フリークにとっては、もはや常識中の常識なのですが、魚類段階で、運動器官(柔軟性=筋肉と硬質性=骨の調和的矛盾)と代謝器官(食専門の内臓)が分化し、さらに両者を統括するための統括器官(中枢としての脳と、脳と運動器官・代謝器官を媒介する神経)が誕生した(ここに、海=海流の誕生が絡んでいる)という論理も、世間一般では、こんなにもスッキリとは整理されていないのでしょうね。

最後に説かれてある人間の認識の誕生の謎解きも、唯物論ならではの解明といえるでしょう。ヘーゲルは観念論の立場でしたから、認識(=絶対精神)はもともと存在するものであって、認識誕生の謎解きなんて問題意識すらなかったはずですから。


>今、私は、自分が日本語をどの国語よりも得意とし、世界中の他の国語を
>母国語とする誰よりも先に、本書を読める幸せをしみじみと噛みしめております。

私は学生時代に三浦つとむ・滝村隆一や南郷師範の著作に出会ったときから、日本人でよかったと思っていました。観念論的にいうならば、こういった偉大な学者とほぼ同時代の日本に生まれたことを、神様に感謝しきりです。神様、ありがとう!(笑)
Posted by 寄筆一元 at 2007年01月24日 14:55
私は『「いのちの歴史」の物語』は、いってみれば21世紀における南郷学派の『弁証法はどういう科学か』なのではないかと思ったしだいです。全編これ弁証法という、これは《生命の歴史》を説きながら、実は弁証法とはどういうものかを、物語風にしたためたものではないか、という感想を抱きました。むろん《生命の歴史》そのものを説いてはいるのですが、なにせ「看護のための」という限定がついているのですから。
とくに最後の章で、弁証法の学び方と使い方を説いているところ。あそこが本書の要ではないでしょうか。
本書の感想を第一に、感性レベルでいうなら、壮大なパノラマ図を見ているような、あるいはすべてがつながっている、すべてが変化している、すべてが流れている、なにもかもは激動レベルで変化しているのだと目の前に繰り広げられた衝撃を感じました。つまり、これが弁証法なのだ、と見せつけられた感じがするのです。
本書の説き方が、「夢講義」もそうなのですが、まるで音楽の「ボレロ」を聴いているかのように、くり返しのうえのくり返しをしつつ徐々に分からされていく手法にも圧倒されましたね。これもまた弁証法そのものが、まるで息づいているかのようでした。
いのちとは何かを知らなければ、私たちは人生そのものを充実させることも輝かせることもできないゆえに、「いのちの歴史」を知らねばならないわけですが、と同時に弁証法もしらなければ(技化できなければ)自分の人生を輝かせることはできないと、しみじみ分からされた著作だと思いました。
Posted by 流蛍 at 2007年01月26日 22:20
流蛍さん、コメントありがとうございます。

>全編これ弁証法

まさに、そうですね。「世界の一般的な変化・発展・運動の有様」が、いきいきと描かれている感じがします。これで、中岡孝『自然・人間・社会』の役割も終わったな、という感じですね。

最後の章における弁証法の学び方と使い方、念のため、私なりにまとめておきます。

具体の中で弁証法を当てはめていくことによって、頭の中の弁証法の像を具体の像から表象といわれる像へと発展させるのが学び方。そして、その表象の像で事実に問いかけると、具体の場面がある程度共通性をもった表象レベルの場面として見てとれるようになる、したがって、それを論文として世に発表することもできる、こういったことが使い方だと理解しました。

私の場合、まだまだ具体的な事実に弁証法を当てはめていく訓練が不足していると感じていますので、今度新しいブログを立ち上げて、その中で、そういった訓練をするようにしたと考えています。

Posted by 寄筆一元 at 2007年01月27日 00:11
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