(この知人には、交換にディーツゲンの何らかの著作(改造文庫)をお貸ししたはずだが、もはや何をお貸ししたのか忘れてしまった。)
さて、一読後の要約・感想的なメモを、読んだ順に記しておこう。
[連載]
なんごう つぐまさ が説く看護学科 ・心理学科学生への
“夢” 講義(31) ―看護と武道と認識論 /南郷継正
「足のウラのヤケド、ヤケドの連続の夏の鍛錬」は是非やりたいと思った。『武道講義第4巻 武道と弁証法の理論』のあとがきを読んだ時は意義が分からなかったが、ようやく分かってきた気がする。それにしても「意義」と「意味」はどう使い分けられているのだろうか? 三浦つとむ的使い分けではないような気がする。
魚類の脳の統括について4つ挙げられている。
1.食事をとるための運動能力
2.食事のための内蔵の運動(消化・吸収活動)
3.脳を含めた体全体の生理面の構造的統括
4.以上の三つを永続的にしっかりと保持するための睡眠の統括
さらに、動物のばあいは本能によって統括されているが、人間のばあいは大きく二つに分けなければならない、とされている。その二つとは、以下である。
1.脳自身をも含めた体全体の運動的活動と生理的活動の統括
2.脳が自身の中に描く像である認識活動の統括
うーん、まだまだ脳の統括について、自分の中で整理できていない。今後、瀬江先生の論文なども含めて読み返し、整理しておく必要があろう。
なお、8年前の連載開始時から登場している看護学生Dさんは、本年からある大学の看護学科の正式の講師になられたようである。師範の連載が始まってからもう8年も経つのかと思うと、かなり焦らなければならない。
[新連載]
ナイチンゲールの思想に立脚した精神看護学教育のため
の課題と提言 (1)
―ナイチンゲールの人間観の継承・発展と精神看護学の
カリキュラム構築 /高橋美紀
FN(ナイチンゲール)から受け継ぐべき内容として、FNの人間観、FNの健康観・疾病観、FNのとった研究方法(科学的抽象法)の三つに焦点をあて、順に説いていく。今回は、FNの人間観についてである。
FNの人間観として継承すべき具体的な内容としては、以下の三つが挙げられている。
1.人間のからだ(実体)とこころ(認識)をつながっているものとして捉えること
2.人間のこころ(認識)とそのととのえについて唯物論の立場から考えること
3.社会関係の中でつくりつくられる存在として人間を捉えること
看護学生にこれらの内容を説く際には、同じようなことが論じられている一般向けの書籍から抜粋して解説するそうである。そうすると、自然と薄井先生の「人間とは」のモデルにつながっていくという。「精神看護学担当という立場だし、特に特定の看護理論を教えるということは基本的にはしていない」が、「実体の一部である脳と、認識とのつながりに関する講義をうまく運用してしまえば、伝えたい看護理論の伝えたい本質は伝わるのである」という記述は、興味深い。真理は一つということか。
それにしてもこの論文で一番面白いのは前半部分である。高橋先生のこころに火をつけた「優れ過ぎていた」教師たる薄井先生の話や、「(実は)フロイド著作集を愛読し、(密かに)タロット占いを趣味としている」という高橋先生の私生活に関する話などは、高橋先生の意地とユーモアが読み取れる。以前、「意地」が如何に大切かを教えてくださったのも高橋先生であったが、その高橋先生自身も、強烈な意地の持ち主であるのがよく分かった。
薄井先生の『看護学原論講義』を「対象の性質を見抜く力」、すなわち科学的抽象の能力を修得させるためのテキストとして読み直したという話や、人間が「社会関係のなかで互いにつくりつくられる」存在であるという点について、FNがどのように考えていたのかという問いをもって『ナイチンゲール著作集』を読み返したという話は、読書論として参考になる。やはり、このような強烈な問題意識を持って著書を読み返すと、得るものが非常に大きく、新たな発見もあるのだろう。アホみたいに、漫然と、のっぺらぼうに読む僕の読み方を大いに反省させられた。
脳の話(22・最終回) ―[連載] 看護のための生理学・22
/瀬江千史
脳を鍛える「計算ドリル」や「音読ドリル」は、ほとんどなんの役にも立たないことが、弁証法と認識論に基づいた科学的脳論から説かれている。
脳の統括については、それぞれがどういう関係になっているのかまだ理解できていないのだが、次の4つが挙げられていた。
1.内界の統括(代謝)
2.いうなれば外界の統括(感覚と運動)
3.それぞれの器官を維持するための統括(血液循環、睡眠など)
4.脳自身の統括(像の形成)
また、人間の特殊性として、「人間の脳は、外界からの反映と内界からの反映を統合して、合成像をつくる過程までは、だいたい魚類と同じといってもよいのですが、人間のばあいには、その像を原基形態として、そこからその像とは相対的独立(思いこみをまぜたり)に、時には絶対的独立(完全なつくり話)といってよいほどに、それらの像を無限的に発展させることができるようになっていった」とか、「人間のみが、関わっていく外界および内界の反映像を原基形態としながらも、それとは相対的に独立に、時には絶対的独立といってよいほどに、像=認識を発展させることができ、その像=認識によって、外界へはたらきかけ、外界を変化させることができるようになった」とかいうようにまとめられている。ここもしっかり押さえておかなければ。
しかし、今回一番衝撃的だったのが、以下の記述である。以前からいだいていた疑問に対する、明確な解答になっていたからである。
「…いかなる対象でも原基形態から完成形態へ、完成形態から原基形態へと、何回も辿りかえすことによって、ようやく対象の構造が究明されていくことを、しっかりとわかっておいてほしいと思います。」
なるほどね!!
次代を担う看護学生・医学生への医学概論教育 講座(14)
―[連載] 第2部・第3回 /瀬江千史・本田克也・他
前回、人間は、自然的外界および社会的外界と二重の相互浸透をすることによって生きて、生活しているということが、〔図1〕として示された。これは非常にイメージが湧きやすい、優れた図だ。
「人間の病気」は、この図に描かれている社会との相互浸透で日々つくられていく人間の個性的な認識によって、正常な生理構造が歪んでいく過程であるという。したがって、人間の病気がわかるためには、人間社会とは何かが、一般的に、また構造的、具体的にわからなければならない。それを教えるのが、本来の教養課程の社会・人文科学のそれぞれの科目なのである。この図の社会の中身を、具体的でイキイキとした像で埋めていくのが、本来の教養課程の科目でなければならない、ということである。なるほど。
フリーター医師は絶対に医師としての実力がつかないと説かれている部分は、僕にとっては耳が痛かった。「医師は、患者に全的に責任をもちつづけることによって、初めて実力がつくのです」という文章の、「医師」を「教師」や「カウンセラー」に、「患者」を「教え子」や「クライエント」に置きかえても、当然同じことがいえるだろう。
「新連載・器官レベルでの病態の把握」 について
/薄井坦子
関山先生の論文も読んでみようかと思った。
[連載]
初学者のための 『看護覚え書』 (10) /神庭純子
―看護の現在をナイチンゲールの原点に問う
神庭純子氏は高校教師をやめて看護大学へと転進されたようだ。南郷継正師範をして、「弁証法の達人」といわしめる神庭氏であるから、弁証法関連の記述を引用しておこう。
「過程というものは弁証法的に説けば、生成発展という中身、プロセスであり、文章でいえば起承転結です。
なぜかというと、過程というものは、あるものが別のものへと変化する途中段階だからです。もっといいますと、『あるもの』から『別のもの』へという途中の段階は、『あるもの』でもなければ、『別のもの』でもないということです。より正確には、『あるもの』がしだいしだいに『別のもの』へと変わる途中ですので、『あるものでもあり、かといってあるものではない』段階と『別のものでもなく別のものでもある』という段階を内に含む(過程的構造といいます)ものです。これが弁証法的にいう過程なのだとわかることが大切です。」
[看護教育者の眼] 大学教育が担うもの(1)
/三瓶眞貴子
「看護教育制度の充実の歴史的構造」と「教育制度の充実を支えたもの」が説かれている。