2006年08月09日

牧野紀之批判@



け、傑作な著書を発見してしまった。牧野紀之『哲学の演習 考える悦び』(未知谷)である。発見にいたるまでの過程を説くと長くなるので詳細は次回以降にしたいが、簡単にいうと彼のブログの「自著紹介」のような記事で、本書が三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』を扱っていることを知ったので、買ってみたわけである。

問題の、『弁証法はどういう科学か』に触れている箇所は、「論理的に考える」という章の中にある(噴飯ものである)。まず、『弁証法はどういう科学か』の「まえがき」が引用されたあと、次のように述べられている。

「一読して、この人の頭はどうなっているのだろうかと考え込んでしまうほどひどいものです。しかし、このような事は誰も気付かず、大いに売れているようです。
 この『まえがき』での『科学』と『哲学』の区別(あるいは定義)はどこがどうおかしいのでしょうか。これが問題です。この定義とこの文章とはどう矛盾しているか、と言ってもいいと思います。又、その他のあいまいな叙述、または矛盾した叙述なども、気付いたら挙げてください。」(p.158)

その後「講師の考え」として、自己の三浦つとむ批判を展開していく。次に、「Gさんの答案」として、教え子の1人による三浦つとむ批判があり、最後に「Gさんの答案を読んで」の牧野のコメントが載っている。

高校生レベルの論理能力を把持していれば、このあとの彼の文章を読んで、「この人の頭はどうなっているのだろうかと考え込んでしまう」はずである。そして、「これでは売れないだろうな」と確信するだろう。

具体的な批判は、私と同じく三浦つとむ主義者であるS君が行ってくれたので、後ほど掲載するとして、全体的な印象としては、大学教授(三浦さん)に対して中学生(牧野)が愚にも付かないイチャモンをつけている感じである。

一番噴飯ものだったのが、「Gさんの答案を読んで」の最後にあるコメントである。教え子たちの答案を読んでの全体的な感想を記している。

「全員について言えることですが、『あまり』関心をもたなくなったとか、『ほとんど』役に立たないといった不正確な表現に三浦さんの自信のなさ、曖昧さが出ていることに誰も気付かなかったようです。」(p.164)

そんな奇想天外な気付きは、たとえ弟子といえども、不可能であったようだ。科学に志す人たちが哲学にあまり関心をもたなくなったとか、哲学書を読んでもほとんど役に立たないとかいうのは、客観的な事実をありのままのとらえて、それを表現したものである。それを牧野は、三浦さんの自信のなさという主観的な原因に取り違えているのである。ハダカの王様もビックリ仰天の、逆立ちぶりである。

しかも、である。「自信のない三浦さん」というのは、「円い四角」と同じように、形容矛盾である。三浦読者ならば、ここから「三浦さんの自信のなさ」を読み取ることが、如何に甚だしい勘違いであるか、すぐに了解できるはずである。

さてお待ちかね、いよいよ具体的な牧野批判に移ろうと思う。今回は、友人のS君が文章を寄せてくれたので、S君の許可のもと、それをそのまま掲載したい。今後、同じく『哲学の演習』に載っている『新しいものの見方考え方』批判批判、あるいは、牧野による「科学とは事実を説明することである」という科学の定義批判、でも行おうかと思っている。


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 牧野紀之なる人物が三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』の「まえがき」を批判した文章(『哲学の演習 考える悦び』所収)を読んだ。一読して、この人の頭はどうなっているのだろうかと考えこんでしまうほどひどいものであった。

低劣な詭弁

 牧野はまず「机の前で頭をひねって考え出した、現実との対決で証明されていない原理原則」という三浦さんの哲学の定義を問題にする。牧野は三浦さんの言葉を細かく切り刻み、「机の前で考える」のが悪いのか、「頭をひねって考える」のが悪いのか、それとも「現実との対決で証明されていない」のが悪いのか、と順に問うていく。前の2つについての牧野の言及は、三浦さんも机の前で考えていたはずだとか、頭をひねらずには考えることはできないはずだ、など、完全に詭弁の類でありアホらしい以外の何物でもない。あきれるほどに低劣なケチつけであると言う他ない。一応検討してやってもよいかなと思わせるのは、「現実との対決で証明されていない」についての言及だけである。そもそも、少し考えてみれば、三浦さんが、机の前で考えるのが悪いだの、頭をひねって考えるだのが悪いなどというアホらしいことを主張しているわけではなく(*)、「現実との対決で証明されていない」ことを問題だといっているのはあきらかである。三浦さんを批判したいならここを正面にすえて、自らの論を展開すべきである。しかし、牧野は、正面にすえて批判すべき論点とお粗末極まりない詭弁の類を同列に平面的に並べて恬として恥じないのである。まったく、この人の頭はどうなっているのだろうかと考えこんでしまう。

(*)机の前「だけ」で考えるのは悪いとはいえるだろうが、これは結局、「現実との対決で証明されていない」ということにつながる。

唯物論が崩れる??

 牧野は「現実との対決で証明されていない」ことが悪いのか、として、次のように述べている。

「思考は現実の反映だと主張する唯物論は、現実といかなる意味でも全然対決していない思考は一つも存在しないという考えなのではないでしょうか。つまり、現実と対決していない原理原則とやらを認めるとすると、三浦さんの主張するはずの唯物論そのものが崩れるのではないでしょうか。」

 ここで牧野はちょっとしたトリックを施している。三浦さんは「現実と対決していない原理原則」というような奇妙な言葉使いはしていない。あくまでも「現実との対決で証明されていない原理原則」を問題にしていたはずである。「対決」と「証明」はセットなのである。三浦さんは、現実を反映した認識を材料にして頭の中で原理原則をつくりだし、それを現実との対決で証明する、という過程を問題にしている。つまり、ここでいう「対決」は「反映」とは違うものであり、反映よりも後の段階で問題になるのである(*)。それを牧野は、「対決」と「証明」を切り離し、「証明」をこっそり引っ込めて「対決」だけを残し、それをあたかも「反映」と同じような意味で使うことによって、たんなる「現実の反映」だけが問題になっているかのように問題をすりかえている。その上で、おそらく彼は唯物論を機械的な反映論として捉えることで三浦さんの論に必死でケチをつけようとしているのである。曰く、唯物論とはどんな思考も現実の反映だという考えだから、現実の反映でない原理原則を認めると唯物論が崩れる、と。しかし、憐れむべきことに、牧野は、現実の反映でない原理原則を認めると唯物論が崩れる、という論理で三浦さんの論を突き崩すには、自らが機械的反映論の立場に徹することが不可欠だという、ごく簡単なことすら理解できないお粗末な頭の持ち主であったようだ。

(*)三浦さんは、対象と現実との間のダイナミックな過程的構造を捉えているのである。現実の反映→原理原則の確立→現実との対決=証明(直接的統一)。
 反映:客観的な現実が感覚器官をとおして脳細胞に像として描かれる過程【対象→認識】
 対決:原理原則と現実とをつき合わせる過程【認識→対象】
 証明:現実とつき合わせることで原理原則の正しさを確認する過程【対象→認識】
    対決と証明は直接的同一性において存在する

 牧野は、唯物論とは「現実といかなる意味でも全然対決していない思考は一つも存在しないという考え」だという。言葉を変えれば、唯物論とはあらゆる思考は多かれ少なかれ現実と対決しているという考え、ということになるだろう。先に論じたように、ここでの「対決」という語の使い方は不適切だが、牧野の主張を検討するためだけに、一万歩ほど譲ってやって、牧野のいわゆる「対決」をたんなる「反映」の意味に解してやることにしよう。
 さて、牧野自身の言葉を使っていえば、「現実と…全然対決していない思考は一つも存在しない」ということは「現実と少ししか対決していない思考が少しは存在する」ということでもある。つまり牧野の主張は機械的反映論の立場に徹しきれていないのである。問題点はまさにここにある。
 三浦さんの唯物論は、機械的反映論の立場に立つ形而上学的な唯物論ではなく、人間の認識の能動性を認める弁証法的唯物論である。つまり、人間の認識は能動的だから、現実についての認識を材料にしながらも、頭の中でそれを加工して現実には存在しえないものつくりあげていくことができると考えるのである。そのわかりやすい例が、神、仏、幽霊などである。これは原理原則についても同じことである。てるてる坊主をつるしたという現実およびその翌日は晴れになったという現実についての認識を材料に、てるてる坊主をつるせば天気は回復するという原理原則をつくりあげることもできる。このような例は何を示しているか。まさに「現実と少ししか対決していない思考が少しは存在する」ということなのである。「現実と対決していない原理原則とやらを認めるとすると、三浦さんの主張するはずの唯物論そのものが崩れる」という牧野の主張は全く成立する余地がない。
 「現実との対決で証明されていない原理原則とやらを認めるとすると、三浦さんの主張するはずの唯物論そのものが崩れる」と言えば、牧野の主張のお粗末さはあきらかである。牧野は、これを恥ずかしげもなく「現実と対決していない原理原則とやらを認めるとすると、三浦さんの主張するはずの唯物論そのものが崩れる」にすりかえ、機械的反映論の立場からの反論の余地を何とかつくりだそうとしたが、結局、何のまともな反論もなし得ず、自分の頭の不様な混乱ぶりを我々に見せつけてくれるだけに終わったのである。
 
科学の定義がないか

 牧野は、「それ(哲学をさす――引用者)に対置される科学の定義なり、説明なりがない」と言って、科学の定義がないことへの不満を漏らしている。「哲学とは…」「科学とは…」とそれぞれ明示された形で定義を書くべきだ、という批判ならまだわかる。そこを批判したいのならはっきりとそのように書くべきである。しかし、ここでの牧野の文章から読み取れるのは、せいぜいのところ三浦さんの科学の定義が分からないという不満にすぎないのである。
 しかし、ここでは、牧野の言うように科学の定義は哲学に「対置される」べきものであるから、これはごく簡単に「現実との対決で証明された原理原則」以外ではありえないのである。牧野には、こんな簡単なことも分からなかったのであろうか。

哲学不要論とは何か

 牧野は「科学に志す人たちはそれらに『あまり』関心を持たなくなりました。理由は簡単で、それらを読んでも『ほとんど』役に立たないことがわかったからです」という三浦さんの文章は、「ですからわたしは哲学不要論の立場をとるわけですが、昔の哲学はナンセンスだったからみんな破ってすててしまえなどと主張しているのではありません」という次の文章とは「矛盾」するとして、これに噛みついている。
 牧野は、まず「どうして『机の前で頭をひねって考え出した、現実との対決で証明されていない原理原則』が『少しは』役立って、従って科学に志す人たちによって『少しは』関心を持たれるのでしょうか。哲学はダメだというなら『全然』関心を持たなくなるはずではありませんか」と言う。その上で牧野は「哲学不要論というのは、哲学は『全然』役立たないから、哲学には『全然』関心を持たず、そんなものは破って捨ててしまえと主張する立場だと思います」と述べている。つまり「少しは役立つ」と「全然役立たない」は矛盾すると言うのである。
 しかし、三浦さんが一体どこで哲学は「全然」役立たないなどということを主張したというのか。三浦さんは、哲学不要論というのは哲学を破ってすててしまえという主張ではない、とはっきり述べているではないか。牧野は「哲学不要論」を三浦さんがどのような意味で使ったかを三浦さんの言葉に即して検討しようとはせずに、その内容を自分の程度の低い思考能力に合わせて改ざんし、哲学は全然役に立たないから破ってしまえという哲学不要論をでっち上げ、これに噛みついているのである。これは他人の論を批判しようとする上で最もやってはいけないことである。
 不要というからには全然役立たないと考えているはずだ――これが見事なほどに形而上学的な牧野の発想である。哲学も少しは役立つが科学のほうがはるかに役立つから科学の発展によって全体として哲学はもう不要になったのだ――これが三浦さんの弁証法的な「哲学不要論」である。牧野は、「三浦さんの頭は…混乱し、矛盾に満ちています」というが、これは三浦さんの頭の矛盾(不合理なものとしての)とか混乱とかではない。全体としての理解は誤っているが、部分的には正しいことを説いているという意味で、客観的な哲学のあり方そのものが矛盾しているのである。牧野のいう三浦さんの頭の「混乱」「矛盾」なるものは、現実の哲学が持つ矛盾した性格を的確に反映したもの、つまり弁証法的に把握したものにほかならないのである。
 ところが、形而上学者・牧野は、「少し役立つ」と「不要」を絶対に両立し得ないものとして捉え、客観的に哲学が持つ矛盾を、あろうことか三浦さんの頭の混乱にすりかえているのである。牧野は、三浦さんの文章をまったく理解することができなかった己の頭の悪さにいささかも気付いていない。それどころか、哲学の指導者(『哲学の演習』!)ぶって平然と三浦さんの頭の「混乱」「矛盾」を説いているのである。おそらく三浦さんの頭の「混乱」に比べて自分の頭のはたらきはなかなか優秀だと一人悦に入っているのだろう。まことに醜悪極まりない自称・哲学の指導者である。
 牧野は「『あまり』関心を持たなくなったとか、『ほとんど』役立たないといった不正確な表現に三浦さんの自信のなさ、曖昧さが出ている」というが、この文章に滲み出ているのは、牧野なる人物のどうしようもない頭の悪さであり、自分の頭の悪さを三浦さんの頭の「混乱」にすりかえて恥じることのない人格の低劣さである。まったく、この人の頭はどうなっているのだろうか!
posted by 寄筆一元 at 00:41| Comment(6) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 お久しぶりです。
 相変わらずSさんの切れ味は鋭いですね。

<しかし、三浦さんが一体どこで哲学は「全然」役立たないなどということを主張したというのか。三浦さんは、哲学不要論というのは哲学を破ってすててしまえという主張ではない、とはっきり述べているではないか。牧野は「哲学不要論」を三浦さんがどのような意味で使ったかを三浦さんの言葉に即して検討しようとはせずに、その内容を自分の程度の低い思考能力に合わせて改ざんし、哲学は全然役に立たないから破ってしまえという哲学不要論をでっち上げ、これに噛みついているのである。これは他人の論を批判しようとする上で最もやってはいけないことである。

 ついでに思うのは、「指導者」であるためには絶対必要である、「自分の他人化」の低さですね。世間話やテレビの討論番組じゃあるまいし(愚にも付かない・あげあしを取れてもいない・非難をして)、相手の認識を理解せずいったいどんな指導ができるのか、それこそ「現実との対決で証明」してもらいたいですね。

<そんな奇想天外な気付きは、たとえ弟子といえども、不可能であったようだ。

 寄筆さんも痛快ですね。なんにしてもこの牧野というおっさん(?)はなにものなんですかね?いったい何がしたいのですかね?まあ日常生活ではこうした”牧野”が沢山いますからなかなかしんどいところはありますわね。私も”牧野”にならないよう、努力したいと思います。
Posted by ゆき at 2006年08月09日 22:22
ゆきさん、コメントありがとうございます。

>牧野というおっさん(?)はなにものなんですかね?

私もよく知らないのですが、在野の自称哲学者のようです。ヘーゲルの翻訳では、それなりに知られているようです。


>いったい何がしたいのですかね?

何か、三浦さんに個人的な恨みでもあるのではないかと推測しています。やたら、三浦さんの本が売れているとか人気があるとかいってます。あるいは、自称哲学者としては、哲学不要論を唱える三浦さんに噛みつかざるをえなかった、という感じでしょうか。

それにしても、自称哲学者が、「科学とは事実を説明すること」ですからね。「プッ」って感じですな。あと笑えるのが、あの超形而上学的認識の持ち主が、「弁証法の弁証法的理解」なる論文をモノしているのです。まったく、この人の頭はどうなっているのだろうかと考え込んでしまいますわ。
Posted by 寄筆一元 at 2006年08月09日 22:52
お久しぶりです。牧野紀之氏という人は、名前だけはネットや書店で何度か目にしたことがあるのですが(ヘーゲル関連の著作を出していたかと記憶していますが)・・・ここまでくると「最驚」ですな(==;)。その牧野紀之氏を徹底的に批判したS氏の論文にも驚きです。
Posted by liger_one at 2006年08月09日 23:37
liger_oneさん、お久しぶりです。コメントありがとうございます。


>ヘーゲル関連の著作

ヘーゲルを理解できているのは自分だけだ的な発言をしていたように記憶しています。一事が万事、『弁証法はどういう科学か』の「まえがき」をあんなふうに独創的に解釈するわけですから、彼のヘーゲル理解も、おそらくビックリ仰天の独創的珍解釈であろうという予想ができるというものですね。


>その牧野紀之氏を徹底的に批判したS氏の論文にも驚きです。

経済学の歴史に名を残すはずの人物です。また機会があれば、彼の文章をこのブログで紹介したいところです。
Posted by 寄筆一元 at 2006年08月10日 00:02
牧野紀之氏は血迷っただけでしょう。彼は小論理学や精神現象学など立派な翻訳をしている学者です。
Posted by Sigesige at 2009年04月26日 01:23
科学的や哲学的な立場をとるなら、あいまいな言葉「あまり」や「ほとんど」を使うべきではないと思います。また、言論を批判していいが、相手の人格を攻撃するのは如何なものでしょうか?
「哲学の演習」の目的は、個人の考えを発展させるではなかったでしょうか?牧野氏は自身の考えに同調してほしいなんて思ってもいないのではないでしょうか?
是非ともこのイケてる文章を牧野氏のブログコメント欄に書き込んでほしいです。
Posted by ミドリ at 2017年10月03日 13:51
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