認識は対象の反映であるから、見事な対象を反映し続ければ、それに応じて認識は見事になり、歪んだ対象を反映し続ければ、それに応じて認識は歪んでゆく。原田隆史が説く、長期目標設定用紙を目につきやすいあらゆるところに貼るということも、ニューヨーク市長だったジュリアー二が実践したブロークン・ウィンドウ理論も、この論理に棹さすものである(庄司和晃風に書いてみたが、言葉の使い方あっているのか?)。僕は昨日、アリストテレス、カント、ヘーゲル、エンゲルス、三浦つとむの肖像画をB4用紙にプリントアウトして、机の前の壁の、仰ぎ見る位置に並べて貼った。本当はアリストテレスの前にゼノン、そしてこれら6人の偉人のうえに南郷継正師範の肖像画を貼りたかったのだが、両者とも入手できなかったので諦めた。これら偉人の顔を毎日毎日反映し続けることによって、自分の認識に変化が起きるような気がしている。
面白いブログを発見した。心に青雲というブログである。「心に青雲とは青雲の志を抱くこと。弁証法、認識論を踏まえ、空手、科学、芸術、時事問題などを論じます。」とある。玄和会の師範代の方が書かれているブログで、南郷継正師範の講義の内容など、一般の者には知ることができない貴重な情報が紹介されている。痛快である。是非ご一読を!
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貴ブログも一部拝読させていただきました。三浦つとむさんや南郷師範の理論への熱い思いが伝わってきます。
玄和会内部にいる者より、南郷師範の直接の指導を受けておられない方のほうがむしろ、憧れは教烈になるのだなと、改めて感じいるとともに、「恐怖」も感じました。
弁証法の、道は苦難の道であるかと存じますが、志高く持って、がんばるしかないですね。
私は、直系の方々から「驚嘆に値する」といわれるようなディーツゲン的存在になりたい、などと考えています。
しかしそのためにも、「心に青雲」主催者様を見習って、毎日ブログを更新し、「書くことは考えることであり、考えることは書くことである」を地道に実践していかなければ、と反省させられました。
毎日の記事を楽しみにしております。今後、内容について何かお伺いすることもあるかもしれませんが、その時は可能なかぎりお答えいただけるとありがたいです。
>認識論の基本技として、徹底的に量質転化すべき論理
とのことですがここは論理を技化するのではなく自分の認識という実体の「問いかけ」、「五感情像」、「観念的二重化」についてそれこそ生命史観をふまえて、そのありかた、創り方を問いかけて基本技から無意識的に働く自分の認識という実体化すべく研鑚すべきものとでも記すべきと思いますがどうでしょうか?
「どうでしょうか?」ということですが、正直難しすぎて、意味がよく分かりません。
私がここで言いたかったことは、人間の認識といっても法則性があり、その主なものは三つくらいしかないのだから、これを使いこなせるようになれれば、自分の認識のコントロールはもちろん、相手の認識のコントロールや、認識にかかわる問題の解明が可能になる、ということです。
izayohiさんは、技化の過程を詳解されているのでしょうか?