2006年05月21日

大村はま『新編 教えるということ』(ちくま学芸文庫)



本物の国語力をつける「大村単元学習」で知られる国語教育家・大村はま氏の4つの講演をまとめた本。本書の裏表紙には、次のような紹介文が載っている。

「プロの教師としてあるべき姿、教育に取り組む姿勢について、厳しくかつ暖かく語る。教育にかかわる人をはじめ、教育に関心をもつすべての人々、とくにこれからの社会を担う若い人々に贈る一冊。」

まさにその通りに、専門職としての教師、あるいは教師の面目にこだわり、決して生徒の責任にせず自ら責任を負い、工夫に工夫を重ねる大村氏の教育者魂をひしひしと感じる本である。教師の技術を重視する点はTOSSに通じるものがあるし、「一人で判断するようにしつける」という点は、原田隆史の自立型人間の育成に通じるものがあると思った。

自分の教育実践にも参考になりそうなところというか、自戒しなければならないところがあった。少し引用しておこう。

「育てようとねらう力によって、対象と生徒を見つめながら、さまざまな方法を考えることができる、そこで初めて玄人、つまり専門職の教師ということになると思います。」(p.142)

「まず説明をして、『やってごらん』、これでおしまいになるような行き方は、魅力を生まないと思います。
 教室は、『やってごらん』という場所ではないからです。それを自然にやらせてしまう場所だからです。『もっとよく読んでみなさい』『詳しく読んでごらん』そういう場所ではなくて、ついつい詳しく読んでいた――そういう自覚もないぐらいに――詳しく読む必要があるのでしたら、その場で詳しく読むという経験そのものをさせてしまうところです。……学習そのものを、やらせてしまわないとだめだと思います。」(p.207)

ただ、「仏様の指」の話をもってきて、教え子が、困難を突破したのは「自分の力だと信じ、先生のことなんか忘れてしまってくれれば本懐である」(p.159)という主張は、先に紹介した杉浦容疑者と同じもので、何となく違和感があった。
posted by 寄筆一元 at 23:00| Comment(3) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 大丈夫、寄筆一元先生に指導されたことは、先生の面影と共に生徒たちの脳裏に刻み付けられていることでしょう(笑)
Posted by ディーツゲン宗家 at 2006年05月25日 09:56
うーん、おっしゃっている根拠が不明ですが、まあ、多少覚えている生徒はいるでしょうね。

ただ、本当に力を付けていただいたと感謝している先生のことは、絶対に忘れるはずがありません。南郷師範が三浦さんや滝村さんのことを忘れるでしょうか? 原田隆史に指導してもらって日本一になった生徒が、原田先生のことを忘れるでしょうか? そんなはずはありません。それなのに、わざわざ教師の方から、「自分のことは忘れろ」なんて、ちょっとおかしい気がするのです。わざわざ言うようなことではない、という気がします。
Posted by 寄筆一元 at 2006年05月26日 01:43
「先生のことなんか忘れてしまってくれれば本懐である」

忘れるというと、覚えていたものを忘れるという意味に聞こえるので違和感があるのだと思います。
そうではなく、
「先生のことなんか“気に留めないで”いてくれれば本懐である」
となれば、ニュアンスは変わって深く頷けるのではないでしょうか。

わたしは、このp158から始まる「教師の本懐」の項が大好きです。

Posted by 千歳 at 2011年07月23日 11:16
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。