三浦つとむの名言
「政治の分野であろうと学問の分野であろうと、革命的な仕事にたずさわる人たちは道のないところを進んでいく。時にはほこりだらけや泥だらけの野原を横切り、あるいは沼地や密林をとおりぬけていく。あやまった方向へ行きかけて仲間に注意されることもあれば、つまずいて倒れたために傷をこしらえることもあろう。これらは大なり小なり、誰もがさけられないことである。真の革命家はそれをすこしも恐れなかった。われわれも恐れてはならない。ほこりだらけになったり、靴をよごしたり、傷を受けたりすることをいやがる者は、道に志すのをやめるがよい。」(『レーニン批判の時代』勁草書房、p.206)
「孤独を恐れ孤独を拒否してはならない。名誉ある孤独、誇るべき孤独のなかでたたかうとき、そこに訪れてくる味方との間にこそ、もっとも深くもっともかたいむすびつきと協力が生まれるであろう。また、一時の孤独をもおそれず、孤独の苦しみに耐える力を与えてくれるものは、自分のとらえたものが深い真実でありこの真実が万人のために奉仕するという確信であり、さらにこの真実を受けとって自分の正しさを理解し自分の味方になってくれる人間がかならずあらわれるにちがいないという確信である。」(『新しいものの見方考え方』季節社、p.85)
「けれどもこの<自己本位>の生きかたは、人間としての果たすべき義務と正しく調和するものであってはじめて、正しい生きかたといえるのだと私は思う。私はそのような一生を曲がりなりにもおくって来たのだから、人生の終わりが近づいてもすこしも後悔することがないし悲しいこともない。学問の仕事はここまで行けばそれで完了するというものではなく、九十歳になろうが百歳生きようがまだまださきの仕事が控えているから、私のできなかった仕事はあとの人びとに期待しなければならないし、それらの人びとにできるだけ協力することも私の現在の仕事の一つのありかたである。」(「若さがゆえに可能性があるか」、『現実・弁証法・言語』国文社、pp.62-63)
「くだらない人間やよくない人間が生まれたのにもそれなりの理由があって、その理解は、自分が知らずに同じ道を進むのを防ぐのに役立ちます。彼らの一面にはまじめさも善良さもありますから、それを見のがして不当に評価しない心がまえも必要です。善悪を問わず具体的な人間から学ぶのは、たいへん興味深く、またたいへん役に立つことなのです。」(『生きる・学ぶ』季節社、p.32)
「精神のありかたの安らかなことを、ひいては自己のありかたの安らかなことをのぞんでいる人びとは、自己の精神に敵対的矛盾をつくり出しその安らかさが攪乱されることを嫌って、疑惑を持つまい、他の人間が疑惑を持っても自分はそれをとりあげまいとする。つまりなまけ者は疑惑それ自体をのぞましくないものと思うようになる。」(『認識と言語の理論 第一部』勁草書房、p.81)
「完全な真理というのは、真理をつかんだ人間が自分の実践をとおしてその正しいことを証明し、自分の身につけて、いつでも実践の指針として役立てられる状態におかれている真理であり、宙に浮いて逆立ちしている真理というのは、ことばで教えられ本で読んで頭の中にうつしかえられただけの真理、真理をつかんだ人間の実践とむすびつかずにまだ身についていない真理である。」(『人生――人間のありかたと生きかた』青春新書、pp.68-69)
南郷継正の名言
「いかなる道にせよ、怠け者にたやすく学べるものは存在しない。特にそれが価値あるものであればある程、必死の努力を必要とするものである。武道とて例外ではないのである。武道のための王道はありえても、それは怠け者のための王道では絶対にないのである。そういった意味からは、如何に精神力を強調の上に強調しても、強調しすぎるということはないのである。
だが、われわれはまた次のことをも知らねばならないのである。ものごとの上達は、ただ精神力を強調するだけでは決してまともな上達は望みえないものであると。」(『武道の理論』三一新書、p.110)
「自分に魂レベルの認識があるのかどうか、つまり、認識のなかで魂レベルに育ったものがあるのかどうか、魂を賭けて何事かを実行できるのか、魂を賭けられるなにかがあるのか。もっといえば、自分の意志で魂を賭ける存在に自らをなしえているのか、をつねに問わなければならない。そのためには目的意識的に己が人生をとらえかえし、そこから自己の人生のありかたを反省し、その上で己が魂を賭けた人生を創造すべく魂をこめて人生の設計図を措定し、その措定した設計図にもとづいて、魂を賭けて実行するなかで己が魂をより見事なものとして再措定していくという過程の絶えざる発展過程こそが、自らの願った一流への道の人生過程であるということを自覚しつづけなければならないのである。」(『武道と弁証法の理論』三一書房、pp.320-321)
「私は今の人々が、人を育てることにあまり喜びを感じていないのを不思議に思う。人類は過去の文化遺産を受けつぐことによって伸びていく。それをやらない人は独善におちいって徒花を咲かせて散りゆくのみである。徒花となるのが嫌ならば、先達の文化遺産を受けつぎ、もし能力があるならば、何程かを加えて後輩へ伝えなければならない。自分がまともになってから育てようでは日暮れて道なお遠しである。要は自分が学ぶかたわらで学んだことを教えていき、その過程で自分もまた深く学びなおすことの努力が必要である。教えることのなかには、自分を見直すということが、自分の教えていることの正否を確かめることが当然に含まれてくるから、二重の意味で自分の理解が深くなっていくものである。」(『武道の理論』三一新書、pp.23-24)
「教育というものの何たるかを知らぬ教育学者を見るにつけ、やはり彼らは、教育を学ぶ者でしかなく、しかも、他人の成果を学ぶ者でしかないと思うのである。学校教育における第一義は認識能力を育てる事にある。教えて育てる必要をさほど感じない人々を教えて育てたつもりになって、(そんな人々は放っておいても、そこまでは育つのだ)本当に教え育てなければならない人々は、彼等には才能がないという一言で片付けて、それで教育は終わりである。これは、ほとんどの教授に当てはまると私は思っている。マイクの講義が教育で、それで人間がまともに育つものならば、教師は、すべてロボット化した方がよいにきまっている。また、そういった意見もないわけではない。だが、そういった考えは、大きな欠点を含んでいるのである。人間が人を教えるということは、その知識を教え授けることにとどまるのではなく、その知識と直接に、その人間をも教え授けるのである。」(『武道の理論』三一新書、pp.66-67)
「それは、同じことのくり返しを絶対に馬鹿にしてはならず、絶対にいやがってはならず、どんなに阿呆らしきかぎりと思いに思えても絶対に尊重しすぎるくらいに尊重しきってともかくも心をこめて、心をこめぬいてくり返すことがなによりもまして、なんとしても大事だということなのである。」(『武道と弁証法の理論』三一書房、p.266)
「そもそも人格はその人の生き方が創り上げるものであり、その人の人間性そのものの表現である。すなわち、人格は自分の責任で創ったものであるからこそ尊敬されるのであって、生まれつき備わっているものには、誰も尊敬の念を抱きはしないものである」(『武道の復権』三一新書、pp.246-247)
「本質的にいって人間はすべてにわたって教育されてはじめて<人間>となりうるのであり、ここに動物との類的区別が存在する。志も論理も直観にまかせてまともに育つわけはなく、落ち行く先は小人的君子である。
それゆえ論理能力は無理としても、せめて大志をまともに育む基盤くらいはほしい。それに役立つのが、『個としての大いなる生きざまを描いた文学』であり、こまかい事象に囚われない『壮大なる人類の流れを説いた歴史』である。しかしながらこれすら見事に与えうる教師を必要としよう。」(『武道への道』三一新書、扉)
「現状に満足する事なく、常に理想を目的意識的に追って実践していけてこそ人間なのであり、そうであるからには、かくのごとき存在をより目的意識的に把えてかかる事が、より人間的なあり方なのである。もっとはっきり述べるならば、人間の目的意識的存在であるかかる事実を目的意識的に把えなおして、より見事なる目的意識を持つ事によってより目的意識的に生きよう、生きられる存在になろうとする事が見事なるほどに人間としてレベルが高くなり得る基盤であるという事である。」(『武道修行の道』三一新書、pp.274-275)
「論理も一流のレベルを目指すには、一流の人物たらんとする〈野心・野望・情熱・根性・努力〉といったとうてい並の人物では計り得ないような一流の志を要請されるものである。敢えて言えば、空想家・ホラ吹きと言われるくらいの大野心・大野望を常に持っている必要があるのである。これは歴史上名をなした人物の若輩の頃の一般的言動であるのは当然である事実を見れば、すぐに納得のいく事が可能である程度の常識である。」(『武道修行の道』三一新書、p.286)
「私は先述の『弁証法はどういう科学か』を、それこそ、何十回も何十回も、くり返しの上の、くり返しを重ねて読みに読んで読み抜くこと十年近くにわたったことである。朝に、昼に、夜に、食事中といえどもこの書を手元から離したことがなく、電車のなかでも読まなかったことがなくといった状態を十年近くつづけて、『弁証法はどういう科学か』を何冊も買ってはボロボロにしてまた買った上に学んできたのであり、その間、具体的な対象として空手を選び、空手的なすべてにわたって、弁証法的に考え、とらえするなかで、『弁証法はどういう科学か』のすべての頁を、すべての行を空手的に読みこむ修行を十数年にわたってなしとげたのである。」(『武道講義第四巻 武道と弁証法の理論』三一書房、p.276)
「後世、達人・名人と評価されうるほどの人物たらんとの目的をもつばあいには、けっして前出の高校生のごとき模範解答的な上達をしてはならない……。極言すれば、簡単に強くなってはならないということである。努力が少なくて上達する方法は、と考えてはならないのである。これにも理由は二つある。その一は上達が早いほどに、身につく技が薄っぺらに仕上ってしまうからである。……その二は、基本技を基本技として見事に創出する時間をもつほどに、逆から説けば、なかなか上達しがたい時期を意図的にもつほどに、その上達の構造が門を開けてくれる、つまり見事なる上達のしかたをする。もっといえば、魂が見事に仕上っていく、というより仕上らざるをえないので、結果として真の武道レベルの負けじ魂ができることになるということである。」(『武道と認識の理論U』三一書房、pp.66-69)
「そもそも一流を目指さない人間などあっていいわけがないのです。四十歳を過ぎてどうしようもなくなった人間ならば、ともかくです。歳をとってそこにハッと気がついたときには人生の黄昏が迫ってきているのです。気がついてみたら青春時代に掲げた目的の半分も達成できなかったことを嘆くのみとなります。だから世界一を目指していないと三流にもなれないのです。」(『武道哲学 著作・講義全集 第二巻』現代社、p.187)
「一流への人生の歩みは他人に頼ったのでは、まず無理だということです。つまり、受験勉強などのように『予備校や学習塾に行ったり、誰かに手とり足とり手伝ってもらったり、もしくは理解できないことがあると他人にすぐに教わったり』では、残念ながら不可能です。……一流への道も学問としての弁証法・認識論への道も、他人に直接教わるものではなく、すなわち、誰かの直接の門下生になったり、研究会にはいったりするのではなく、必死の覚悟をもって日夜自分自身の努力でなすものです。」(『武道哲学 著作・講義全集 第二巻』現代社、pp.11-12)
河合栄治郎の名言
「学生諸君、私は祖国の精神的弛緩に直面して、何ものかに訴えずにはいられない本能を感じる、だが諸君に訴えずして何に訴えるものがあろう。諸君は青年である、若芽のような清新と純真とに富んでいる、まだ悪ずれのしない諸君には、私の弧衷に聞くパトスがあろう。
諸君は教育の途中にある、そして教育というものこそ、あの精神的弛緩を救う唯一のものである。人はあるいはいうかもしれない、今日の学生に期待するならば、それが祖国に役立つには、遠い将来を俟たねばならないと。確かにそうである、しかし精神的再建は一朝にして成るものではない。早急に効果を期待するものは、精神的弛緩の何ものであるか、その治療がいかに困難であるかを知らざるものである。将来の日本は泡立つ浅瀬の中からは生まれない、物凄いほど静かに澄んだ深淵の底からのみ生まれてくる。それには永い歳月を俟たねばならないのである、だがわれわれの祖国のためにはこれは俟つに値する。諸君が成育して日本を指導する時は、少なくとも今から三十年はかかるだろう、だがこの使命は学生諸君を措いて、他にこれを担うべきものが見出されない。」(『学生に与う』現代教養文庫、p.15)
「成長のためにわれわれはどうしたらよいか。ここに生きたる教師と、死せる教師─書物─や親や友が助けになる、しかしこれも助産婦か慰安者であって、われわれの成長の代理はなしえない。成長はわれわれ自身がなさねばならない。」(『学生に与う』現代教養文庫、p.71)
「ゲーテのいうがごとく、『人は努力すればするほど過ちに陥る』。飛ぶ鳥は落ちるが飛ばざる鳥は落ちない。過ちのないことを求めるならば、何事もなさないに限る、その代わりに人格の成長は停止する。」(『学生に与う』現代教養文庫、pp.74-75)
出隆の名言
「ある共通の根本的仮定(独断的の信条とか憲章とか)の上に安立している当の社会の意識やその指導者から見れば、その神聖な祭壇下に坑道を通じてこれを破壊せんとする懐疑的、批判的な哲学心を危険視するのも当然である。今までよしとしまことと信じてきたものの価値が根本的に顛倒されることは古きを愛する人情としても忍びがたいことであろう。しかし真の愛は寛容であるが柔弱ではない。もし仮定に過ぎないならば、彼から絶対という迷妄を取り除くだけの真摯な愛がなくてはならない。もし全くの虚偽なりと確信する場合には、断固としてこれを破棄し去るの勇気が必要である。ある誤った仮定の破壊が、従来一般に愛好されていた思想の失墜を結果するとか、教会の所説に背反するとか、自己自党の利益を害するとか、あるいは社会国家の現状を変革するとか思って躊躇している限り、哲学的精神は駄目である。眼前の利害をのみ顧慮し、実利実用のみを口にし、現状との関係いかんをのみ意としている限り哲学は育たず真理は消える。」(『哲学以前』講談社学術文庫、pp.42-43)
「真理の価値は、一般多数が現に承認しているかいなか(すなわち多数決)によって決せられるものではない。真理は必ず万人の承認すべきものである。したがって、真理はその時代の人々に認められないこともある、のみならず認められないところに真価の決せられる場合が多い。それゆえに哲学者も時代一般に単に順応するのみをこととせず、時代において時代に生き、時代に接しながら時代を超越した理想の火をかかげ、これによって時代を照らし導くものである。これがためには時代の覇者や俗衆と戦う勇気、すなわち理想的真理への愛と現実のために――プラトンの理想国における統治者のように、しばらく現実の世に降って――反理想的なる一切と争うところの理想主義者の愛が、勇気が、必要である。」(『哲学以前』講談社学術文庫、pp.43-44)
ヘーゲルの名言
「まず第一に、諸君が何よりも学問に対する信頼と自分自身に対する信頼とをもつことを切望してやまない。真理の勇気、精神の力に対する信念が哲学の第一条件である。人間は精神であるから、最高者にふさわしく自分自身を尊敬してよいし、また尊敬すべきである。人間の精神の偉大さと力とについては、いくら大きく考えても、すぎるということはないのである。またこの信念をもってすれば、人間に自分を開かないほどに冷淡なもの、頑固なものはないだろう。最初は隠され、閉ざされている宇宙の本質も、認識の勇気に抗し得る何らの力ももたない。この勇気の前には、その宇宙の本質は必ず自らを開き、その富と深底とを、その人の眼前に現わして、享受に委ねるにちがいない。」(『哲学史 上巻』岩波書店、pp.19-20)
その他の名言
「人間社会は、その内に含む競争関係が原動力となって発展してきたのであり、歴史を進める原動力の指導的存在になった人物は、競争関係の中で辛酸をなめ、それをバネにして力をつけていった人々である。世に言う『偉人』と呼ばれる人々の過去は、たいてい『いじめ』に合いつつも、それに『偉大に』耐えた時期をもつ。『大志』『情熱』『冒険心』などの認識は、そのような競争関係の中でこそ育まれるものだからである。」(布施裕二「精神医学とは何か」第7回(『綜合看護』1987年2号))
「男だったら一つにかける、かけてもつれた謎を解く。」(TV映画『銭形平次』主題歌、作詞:関沢新一)
「一流大学を出て、一流企業に入社したような連中は、ある意味では成功体験ばかりを繰り返してきた連中だ。こういう人たちは、何か物事を起こそうとするにあたって、常にまずそれが成功するかどうかを考える。成功の確率はどれくらいあるかを、さまざまなデータを駆使して考える。始める前に、結果を考えてしまうのだ。そして、さまざまなマイナス要因を探して、確率が低いとなると、したり顔で計画の中止を訴えるのだ。確かにこれは安全な方法には違いない。しかし、データというのは過去の情報の集積なのであって、それをいかに多く集めてきたとしても未来の扉は開けない。世界をあっと驚かすような新技術や新製品の開発は望めないのである。むしろ、『成功の確率は低くてもいい。それでも一発当ててやろう』といったチャレンジ精神が大きな扉を開くことになるのである。それは、軟弱な頭脳ばかりが並べたがる安全性への道を、ブルドーザーのような強力な力で突破する力を持っている。成功はデータではなく、執念でもぎ取るのだ。」(中村修二『考える力、やり抜く力 私の方法』、三笠書房、p.100)
「あらゆる理論の実際的の効果は、我々をしてその理論の対象の体系と方法とに精通させ、従って成果の予測をもって世の中で働きうるようにするところにある。経験は確かにそのための前提にはなるものであるが、しかし経験だけでは足らない。経験から発展した理論、すなわち科学によってはじめて我々は偶然のたわむれから免れることができる。科学によって我々は意識的に事物を支配し、絶対に確実に処理することができる。」(ディーツゲン『人間の頭脳活動の本質』、岩波文庫、p.14)
「2年間よ! 2年の間あなたを待っているわ。いいこと! 途中でくじけたりしたらわたし…あなたを許さなくてよ…!もし棄権なんてマネをしたらわたしあなたを軽蔑するわよ! いいわね。2年よ! あなたはきっとわたしと『紅天女』を競うのよ!」(美内すずえ『ガラスの仮面第12巻』、白泉社文庫、p.250)