2011年02月18日

誤字の指摘を自分の「成果」と強調する椿君

 相互浸透しないように上から目線でいこう。

 天寿堂の掲示板に自らの作文を投稿し続ける椿君。読むつもりはなかったが,たまたま目に入った箇所で面白いことを書いていた。

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「最後に、少々場違いではありますが「心に青雲」から来られた方も多くいるようなので、少しあのブログについての注意を促したいと思います。

というのも、彼は平然と「捏造」をし「他人の成果を盗む」ような人間のようなのです。以前、1月24日付け「漢字は魂を創り仮名は心を創る」の記事で、
『外国人には、「日本に来たいのなら日本語を理解できるようにしろ」で良いではないか。』
という一文が投稿された当初は「理解」が「理系」になっていました。日本語の大切さを語る内容の記事にそのような誤植があっては締りが出ませんよ、という旨のコメントを書いたのですが、そのコメントは掲載もされず、ただひっそりと誤植が訂正されていました。

そして今回の記事「感情の癌化(下)」でも「内弁慶」なる人物がコメントしていますが、どう考えても「物理系」の人間ではありません。何せ、一つ前の記事書かれている科学的な内容は科学界では「常識」であり、それを否定するような研究者はそもそも仕事が出来るレベルではない事になります。恐らく、全く物理を知らない人間が成りすまして書き込んだのかと。」

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 彼は誤字の指摘を自分の「成果」と呼んでいる。彼の「成果」とはこの低度のものらしい。また,かのブログに対して誤字を指摘する人が他にもいるのではないか,などと想像をめぐらすことは,彼の能力を超えているようだ。ブログ筆者本人が読み返して気が付く,ということも,彼にとっては思いも浮かばないことらしい。

 自分の想像力のなさを棚に上げて,自分の恥ずかしい「成果」のみを主張する彼は,滑稽を通り越してもはや哀れである。

 また彼は次のようにも書いている。

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「それから、私は私自身しっかりと「結果」を残していますよ。大した結果ではないですが、他人の批判的な目を持ってしてもそこに確かにある「結果」です。しかし、南郷学派の人間は・・・南郷先生や、愚按亭主様は、本当に「結果」を残しているのでしょうか?そもそも「結果」とはその組織や団体に所属していない人間が見て初めて判断できるものです。考えてもみてください。「私は透明人間になれるが、誰も見ていないときしか出来ない」という人間が、「結果」を残したといえるのでしょうか?

もちろん、南郷学派の出している「学城」という雑誌があるのは知っています。しかし、それを評価する他の組織や団体はあるのですか?それ以外に南郷先生自身を評価する南郷学派に所属していない人間は?」
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 実際にそういう人が登場しているにもかかわらず,先の引用部分にあるように,その人を「成りすまし」と判断している。彼には「南郷先生を評価するのは南郷学派のものだけ」という妄想が存在するため,南郷先生を評価する部外者が現れれば,事実を認めることなく,自分の妄想を大切にしてウソだと断定するわけだ。

 自分が「成りすまし」をしたり,ウソをついたりしているからこそ,相手の意図を誤解して,いわゆる下種の勘ぐりによって,相手も「成りすまし」ているのだ,ウソをついているのだ,と判断してしまうのである。認識論的にいうと,自分の自分化である。これについては,われわれ京都弁証法認識論研究会のブログにおいて説いておいた。

 あるいは,彼の頭の中では南郷先生を評価する人は自動的に南郷学派と規定されるのだろう。私は南郷先生をこの上なく尊敬し,憧れを持って学びつづけているが,玄和会会員ではない。その私も,彼から見れば南郷学派,ということになるのかもしれない。南郷先生を評価する人,すなわち南郷学派という等式が成り立つのなら,確かに「南郷先生を評価するのは南郷学派のものだけ」ということになるわけだ。面白い屁理屈だ。

 誤字を指摘するという「結果」を残して,それを誇らしげに作文に書く椿君は,私の予想では一流大学受験に失敗した上に,心機一転入会した玄和会でも挫折した(だから筋違いの恨みをもち執拗に南郷先生を否定する作文を書く)引きこもり君だろう。現実世界では誰も相手にしてくれないのに,ネット上では相手をしてくれる人物がいるものだから,ブルーバックスか何かで仕入れた知識を元に,恥知らずな作文を書き続けているものと想像される。

 おそらく,以前このブログに阿呆なことを書いてきた上に,私が否定しても私が玄和会会員であると頑なに主張していた妄想君と同一人物であろう。こういったら差別になるかもしれないが,精神病の方は自分が恥ずかしいことをしているという自覚がない。「恥ずかしい」というような社会性が欠如しているのだ。

 不快この上ない彼であったが,認識論の材料としては1つのケースとして役に立ったかもしれない。

posted by 寄筆一元 at 18:52| Comment(4) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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