2008年04月04日

河合栄治郎『学生に与う』(現代教養文庫)



電子書籍版


いよいよ
4月。入学のシーズンである。私が教えた生徒も大学生活への期待に胸を弾ませているに違いない。私自身もこの4月から大学院生である。再び学問に専念できることを非常にありがたく、喜ばしく思っている。入学に先立って、どのように学生生活を送ればよいかを、教え子のために(そしてもちろん自分自身のためにも)確認しておこうと思った。そこで名著・河合栄治郎『学生に与う』(現代教養文庫)を再び繙いた。脳細胞が揺さぶられるほどの強烈な感動!! 背中から頭の中までがしびれる感じである。この書に感動しない学生は、学生たる資格はないと断言できるほどの中身を、本書はもっている。


著者・河合栄治郎は
1891年生まれの経済学者。マルクス主義とファシズムを批判して自由主義の立場を貫いたため、1939年に東京大学教授の職を追われ、起訴された。教育に心血を注いでいた河合栄治郎が職を追われたときの心情は、察するにあまりある。


翌年、
2月から3月にかけての20日間あまりの時間を、当初、河合栄治郎はミル『自由論』の翻訳に充てる予定であった。しかし、「当時の私の心境は、外国書の翻訳をするにたえなかった。何か漏らしたい感慨に満たされていた」(p.4)のである。そこで出版社の人間の勧めに従って、学生向けの単行本を一気呵成に書き下ろす決心をしたのである。結果、『学生に与う』は、まさに河合栄治郎その人を反映した歴史的名著となって誕生した。


本書のテーマは、端的に言えば、「人間いかに生くべきか」である。これを教養ということを中心にして説いていく。教養とは、「自己により自己を教育する」(
p.50)ことであり、「自己が自己の人格を陶冶すること」(p.51)である。また、「現実の自我と対立して、理想の自我すなわち人格が与えられたならば、現実の自我は理想の自我たらねばならない、たるべく努力せねばならない。これが『教養』(culture, Bildung)ということである。」(p.67)とも説かれている。要するに、真・善・美の調和した理想の人格たるべく研鑽するのが人生であり、人間である、ということである。人格へ向けての自我の成長・発展、これこそが最高価値であり、全てはこの目的に収斂せねばならず、全てはこの目的から判断されるべきなのである。第一部で「価値あるもの」として自我の構成要素たる学問(その理想が真)・道徳(その理想が善)・芸術(その理想が美)などが語られたあと、第二部では「私たちの生き方」として、道徳の各論が具体的に説かれる。「読むこと」「考えること、書くこと、語ること」「講義・試験」「修養」「親子愛」「師弟愛」「学園」「社会」「職業」などである。その中から、河合栄治郎式の「毎日の生活のプラン」を紹介しておこう。少し長いが、あるべき学生生活の一例だと思う。

「毎日の生活のプランも、おのおのが自分で工夫せねばならないものだが、仮に私にいま一度、学生生活を送らせるとしたら、こんなプランで毎日を暮らしてみたいと思う。これは高等学校の寄宿舎にいるとしてのプランである。朝はなるべく早く起きる、六時か六時半である。顔を洗ってから二、三十分朝の爽やかな空気を吸いながら校庭を散歩する。朝飯を食べてから、ざっと新聞に眼を通す、ここでゆっくり読むのは無駄だと思う。授業の始まるまで約一時間、本でも読む暇ができる。学校の講義が正午に終わったら、中食を食べてから、新聞を少しくわしく読む。三時に講義が済んでから一時間か一時間半、前項に書いた復習をする。それから六時まで運動をしてぐっしょり汗をかく。戻ってから湯風呂か水風呂に飛び込んで、汗を流して夕飯につく。食後に友人と一緒にぶらりと散歩に出て買物でもする、これは三十分くらいである。そして七時から十一時まで、真剣に読書にかかり、十一時には寝床にはいって、前後不覚の眠りに落ちる。いろいろの会合や催しがあれば、その時々に変更するのは当然である。土曜の午後か夜は、映画、芝居、音楽会、展覧会等々の芸術の観照に費やし、日曜は朝から夕方まで、ひとりか友達とともに、弁当を持参してピクニックに出かける。もし雨でも降れば部屋に閉じこもって、会心の小説でも読み、夜は先生、先輩、友人などを訪問して、ゆっくりした話をする。これが一日のまた一週間のプランである。」(p.240

こんな学生生活に憧れないだろうか?


ところが、現在の大学はこの憧れを十分には満足させてくれない。大学に期待している新入生に冷や水をかけるようで申し訳ないが、現在の大学は(そして河合栄治郎が批判した当時の大学も)一般教養を無視、ないし等閑視し、知識偏重で学問の薫りはどこにもない。さらに加えて、教授の教育能力が甚だ低い。「教授」という肩書きなのに、教える仕事は片手間で、できればやりたくないくらいに考えているのではないか、というセンセイが多いように思う。そこで学生はいかにするべきか、これに対する解答が『学生に与う』である。


端的に言えば、他人からの教育に期待できないのであるから、自分で自分を教育するしかない、ということである。これが教養ということであった。何を目指して教養に取り組むのか? 人格の陶冶である。すなわち、歴史性を持つべく、昨日の自分、先月の自分、去年の自分を常に超えていくべく努力するのである。少しわかりやすくいえば、『学生に与う』の内容を、自力で説けるほどに研鑽を重ねるということである。

こうして、全てを最高善たる人格の陶冶につなげて、日々生活を送る。学問にしても、単なる知識として学ぶのではない、主体的に把握する必要がある。

「理想主義は高遠なる哲学である。しかし高遠なるが故にこそ、われわれの日常生活の隅々にまで、浸透せしめなければならない、実にわれわれのあらゆる生活場面にまで、漏らすことのなき指導の原理となりうること、ここに理想主義の哲学としての特質がなければならない。」(p.3

「少なくとも自我の構成要素たる学問、道徳、芸術に関する知識だけは、単に知識としてでなしに、これを自我にまで還元せしめ、主体的に把握せねばならない。」(p.97

要するに、河合栄治郎の精神に生きる! わけである、南郷継正師範が実践したように。新入生の諸君には、まず何よりも『学生に与う』を直に読んでいただきたい。これは以上説いたように、学生生活の送り方が説いてあるだけでなく、学問用語の基本がきちんと説いてあるので、学問の入門書としても非常に優れている。そしてできればその次に、瀬江千史『医学の復権』(現代社)も読んでほしい。血湧き、肉躍る、学問への情熱がかき立てられることまちがいなし、である。




なお、最後に私と友人が学生時代に書いた『学生に与う』の紹介文も載せておく。
Bildungという学術サークルを創ったときの新入生に向けてのメッセージである。



◇河合栄治郎『学生に与う』の紹介◇

 

 

 『学生に与う』は1940年、今から60年も前に執筆された著作です。当時の社会と比較すると、現在の社会は大きく発展しており、当然学生のあり方にも大きな変化が見られます。しかし、『学生に与う』は、その妥当性を現在も失ってはいません。それどころか、年代と共にその重要性が増しているといっても過言ではありません。ここに、私たちが「大学入学と同時に第一に読んでほしい名著」として強く推薦する理由があるのです。以下、『学生に与う』の冒頭部分の内容を、河合栄治郎自身の言葉を借りながら紹介していきたいと思います。そして、この内容は同時に私たちBildungの活動理念にも繋がっていくことになるはずです。

 

 「はしがき」で著者は、当時の歴史的状況を踏まえて、「祖国の難局を克服しうる精神的条件」として、「大局を達観する洞察の明、大事を貫徹せずんばやまない執拗な意志、自己の持ち場を命を賭して守る誠実と真剣さ、小異を捨てて大同につく和衷協同の心、何よりも打てば響くがごとき情熱」を挙げています。これはより一般的に、人間が困難を克服するための精神的条件である、ともいえると思います。特に最初に挙がっている「大局を達観する洞察の明」というのは、Bildungが直接にめざしているものです。学問の世界でも日常生活の上でも、小さな部分を見ただけでは正解を得られないが、より広い観点から全体を見直すと正解に到達できるという場合は、決して少なくありません。

 

 「はしがき」の次に来る「社会における学生の地位」という節では、学生の特殊性とは何か、社会における学生の地位はどのようなものであるか、といった問題が、主観的立場および客観的立場からそれぞれ論じられています。著者は、学生の特殊性として、親の仕送りで生活していること、精神労働者のいわば卵であることを挙げたあと、次のようにまとめています。

 

「要するに社会は、文化の相続と創造とを必要とする、これなくして社会の維持もできないし、いわんや社会の進歩もできないからである。ところで初等・中等の教育だけでは、この任務を負担するに足らないとすれば、社会は一群の成員をして、さらに高等の教育を修めさせねばならない。彼らと同年輩の青年が、現に労働に従事して社会の生産力を増しつつあり、さらにその方面の労働人口を増加することは、それだけ生産力を加えることにはなるが、それでは文化の維持と発展とが望まれない。ここにおいて一群の青年を労働から解放し、いかに生きるかの自然的生活の配慮から脱却せしめて、専心教育に没頭することにさせなければならない。これが学生が父兄の仕送りによって、学窓に勉強をなしうる社会的理由である。」

 

 次に著者は、「教育」について論じます。ここで、現代教育の根本的欠陥は、一般的教育と特殊的教育の乖離にあると指摘して、両者の区別と連関を正しく説いています。

 

「一般的教育とは、フィヒテのいうがごとくに、人間自身を形成すること(die Menschen selbst zu bilden)、また人間を彼自身たらしめること(die Menschen sich selbst zu machen)であり、また、パウル・ナトルプのいうがごとくに、人格を陶冶することである。」

 

「人格を構成する要素として三つのものが考えられることである。その三つとは学問、道徳、芸術である、そしてこの各々の理想が、真、善、美であるから、人格の陶冶とは真と善と美との三者の調和ともいうことができる。」

 

「特殊的教育とは一般的教育を前提として、人格の構成要素たる学問、道徳、芸術などを教授し修得せしめることをいうので、その目的は人格の各要素を捕えて、これを開発することにより、人格の陶冶に参与するにほかならない。」

 

 このように、一般的教育と特殊的教育とは立体的な関係になっているので、両者を切り離して片方だけを採ったり、平面的な関係だと考えたりしてはならないのです。この著者の現代教育批判が現在にも通じることは、受験制度一つを反省してみても分かることですし、大学の講義に出れば分かるはずのことです。

 

「ここにおいて今日の学生は、自己のうけつつある教育について、従来の謬見から脱却しなければならない。たとえ社会がなんと期待しようとも、父兄が何を意図しようとも、真正の教育観念を把握すること、それが自己に期待する社会と父兄とに、報ゆる所以であることを考えて、毫も躊躇すべきではないのである。」

 

 ところで、教育する主体としてはいろいろなものが考えられますが、その中心を担うのは「学校」における教師です。河合栄治郎も一流の教師でした。その著者が、研究者と学者と教師を、次のように区別と連関において説いています。すなわち研究者は「必ずしも学問の全体系の展望をもたなくても済みうる」が、学者は「学問の全体系における自己の専門の地位を明らかにし、隣接した専門との連関をあざやかに意識している」必要がある、さらに教師は「学者であるとともに教育者でなければならない」つまり「自己の担任した学科の全貌を要領よく展開」し「その成果に到達した方法を教えて、未来に無限の成果を生むべき創造的能力を涵養しなければならない」と説いているのです。このような文章を読むと、河合栄治郎が教壇に立って、「自己の専門の全学問における地位と、他の専門学科との連関を、さらに一歩進めては、学問の人格における意義と価値とを、学生に対して明白に説」いていた姿が、ありありと浮かんできます。

 

 翻って現在の大学に目を移してみると、河合栄治郎が指摘した通り、「今日の多くの教師は、研究者ではあるが学者ではない」という状況が見てとれます。京都大学における「全学共通科目」も一般教養課程とは名ばかりで、実際にはそれぞれの教官の狭い狭い専門分野を、ごく簡単に紹介しているだけのものが多いのです。

 

 大学がこのような状況であれば、私たち学生は一体どうすればいいのでしょうか? その答えの一つが「教養」ということなのです。教養とは「自己が自己の人格を陶冶すること」です。教育においては主体と客体とが同一ではありませんでしたが、教養においてはこれは同一であり、ともに自己自身です。人格の成長が教養の目的なのです。最後にここに関連した文章を引用して終わりたいと思います。

 

「成長のためにわれわれはどうしたらよいか。ここに生きたる教師と、死せる教師─書物─や親や友が助けになる、しかしこれも助産婦か慰安者であって、われわれの成長の代理はなしえない。成長はわれわれ自身がなさねばならない。」

 

「ゲーテのいうがごとく、『人は努力すればするほど過ちに陥る』。飛ぶ鳥は落ちるが飛ばざる鳥は落ちない。過ちのないことを求めるならば、何事もなさないに限る、その代わりに人格の成長は停止する。」

posted by 寄筆一元 at 00:00| Comment(4) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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