2007年11月19日

マラソン完走

シティマラソンに参加した。10kmの距離で、目標は50分だったが、結果は48分台で見事達成できた。

実は一ヶ月ほど前に、走っている途中、突然ひざに激痛が走り、全く走ることができなくなったことがあった。一週間ほど前のリハーサルのときも、3kmくらい走ったところで同じ症状が出て、走れなくなった。本番でもこのひざの激痛だけが問題だった。

本番では、走り始めたときから少しひざに違和感があり、1kmくらい走ったところで痛みが出はじめた。「やばい!」と思ったが、少し走り方を変えてみると痛みは引いた。が、またしばらくすると痛み出し、またおさまるといったことをくり返した。ペースを落として4kmくらい走ると、痛みは消えていった。

ペースアップしようかとも思ったが、例の激痛が走るともう走ることもできなくなるので、そのままのペースで走った。8〜9km付近で、もう大丈夫だと判断して、ペースアップ。競技場に入ってからはさらに加速して、ゴールイン。目標を達成できたので、少し嬉しかった。

実は一年前から友人にマラソンを誘われていたのだが、そのときはとても10kmも走れる気がしなかった。今年になってから、初めて5kmのジョギングを始めた。最初は走れずに、その後、何とか走れるようになり、次第次第に、5kmくらいなら平気で走れるようになった。院試で少し中断したが、その後10kmにも挑戦し、60〜70分前後では走れるようになっていた。

そして本番。はっきりいってひざの心配さえなければ、10kmなんてなんでもないと思えるまで認識が変化していたし、実際に走ってみても、ほとんど疲れていない自分を発見した。

一応50分に目標を設定したが、速く走ること自体はそれほど重視していなかった。それでも、同じくらいの年の女性や、60を越えているのではないかというくらいのお年寄りに次々と抜かれていって、もう少し速く走れたほうがいいかもしれない、とは思った。

終了後、駐車場に向かって歩いている途中に、例の激痛が走って、しばらく歩けなくなった。ランナーズニーとかいうらしいが、ふくらはぎや太ももの筋力を鍛えるといいらしい。ちょっと筋トレでもやってみようかと思う。
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2007年11月14日

『弁証法はどういう科学か』読書会のレポート

先日行った『弁証法はどういう科学か』読書会のレポートをS君が書いてくれたので、ここに紹介したい。




京都弁証法認識論研究会(仮称)

2007年11月4日の学習会で出された論点についてのレポート



2007年11月9日 S



目次



〈出された論点について〉



1、「ヘーゲル弁証法の改作」(64ページ)に関連して:「弁証法性」と「弁証法」を区別する意味とは何か?

2、歴史観に関連して:

(1)「鳥がまた卵をうむように、新しい社会のあとにはまた古い社会があらわれる」(51ページ)という結論があやまっていることをどうすれば説得力がある形で説明できるか?

(2)「資本主義の成立の必然性」をあきらかにすることが同時に資本主義の没落の必然性をあきらかにすることでもある(69ページ)というのはなぜか?

3、古代ギリシアにおける「弁証法」(ディアレクティク)はどういう意味で大切か?

4、フランスで機械的な唯物論が発達しドイツで観念論と弁証法が発達したのはなぜか? また、大陸で合理論が、イギリスで経験論が発展したのはなぜか? 当時の社会状況全般とのかかわりではどうなのだろうか? 

5、世界観の発展と弁証法の発展の関連について:

(1)世界観は大きく唯物論と観念論に分けられるが、「弁証法的世界観」とはどういう世界観なのだろうか?

(2)「思惟法則としての弁証法」とは何か?――次回学習会での課題として問いを立てる

(3)世界観の発展と弁証法自体の発展は、どのように関連しているのか?




〈感想〉



・・・・・・・



〈出された論点について〉



1、「ヘーゲル弁証法の改作」(64ページ)に関連して:「弁証法性」と「弁証法」を区別する意味とは何か?



 弁証法性と弁証法の関係は、法則性と法則の関係である。法則性とは対象の持つ基本的・普遍的・必然的な関係のことであり、法則とはそれを認識の中にすくいあげたものである。弁証法性とはこの世界のあらゆる事物・事象が持っている性質であるのにたいして、弁証法とはこの弁証法性を認識の中にすくいあげたものである。

 弁証法はもともとこの世界に存在しているものではない。現実の世界には、ただ運動・変化する事物・事象が存在しているだけである。人間が自らの頭の中に、対象の運動・変化するという性質を反映させて、意識的に創りだしたものが弁証法である。弁証法を創ることによって人間はより的確に対象の運動・変化をとらえられるようになり、その結果として、より的確に対象に働きかけることができるようになる。弁証法性から弁証法を学ぶとともに、弁証法から弁証法性へと適用する、ということを繰り返しながら、現実に役立てることができるような弁証法を自分の頭の中に創っていかなければならない。

 もともとこの世界に存在する運動・変化という性質としての弁証法性と、人間の頭の中に新たに創りださなければならない弁証法とは、きちんと区別しなければならない。この世界の部分として存在する事物・事象についてきちんと起源を確定するのが唯物論の立場であるし、人間性のすべてにわたって創って使うという論理構造がつらぬかれているというのが唯物論の立場である。





2、歴史観に関連して:

(1)「鳥がまた卵をうむように、新しい社会のあとにはまた古い社会があらわれる」(51ページ)という結論があやまっていることをどうすれば説得力がある形で説明できるか?



 「直観的に大づかみに全体の一面をとらえた」レベルにとどまっていれば、「古い社会から新しい社会への発展」も「卵から鳥がうまれる」のも同じようにみえてしまう。この結論が間違っていることをあきらかにするためには、ただ全体の一面をとらえるだけでなく、個々の物ごとのありかたの研究が必要である。古い社会から新しい社会への発展がなぜおきるのか、それはどのような過程的構造のもとにおいておこなわれるのか、対象の持つ構造に分け入って、卵から鳥がうまれるのとはどう違うのかを論じなければならない。

 鳥は卵をうみ、その卵からまた鳥がうまれるが、親としての鳥と子としての鳥は、まったく別の個体として存在する。社会の場合はそうではない。古い社会そのものが新しい社会に変わっていくのであって、古い社会からもう一つ別個の新しい社会がうまれてくるわけではない。古い社会から新しい社会への発展は、あくまでも一つの大きな流れである。古い社会での文化の蓄積をすべてふまえて、その蓄積の上に立って新しい社会が築かれるのである。歴史が流れれば必ず文化は蓄積していくのだから、そうした文化の蓄積をすべてなかったことにしてしまって、また古い社会に戻ります、とはならない。



(2)「資本主義の成立の必然性」をあきらかにすることが同時に資本主義の没落の必然性をあきらかにすることでもある(69ページ)というのはなぜか?



 歴史の流れのなかで新しいものが生成してくるにはそれだけの理由がある。それ以前に存在していたものでは解決できない問題が生じるからこそ、新しいものがうまれてくるのである。これが生成の必然性である。しかし、その新しいものが解決すべきであった問題が解決されることが、同時にまたさらに新しい問題を生みだすのであり、そのさらに新しい問題を解決するために、またさらに新しいものがうまれてくる必然性があるのである。

 つまり、歴史の大きな流れのなかで見ると、ある発展段階は、いわばある特定の問題の解決を託されているとみることができる。ところが、その問題を解決することが、同時に、その発展段階では解決できないさらに新しい問題を生み出すことを意味しているのであるから、新たな問題の発生とともに、その発展段階は歴史的な存在意義を失って没落していかざるをえない。

 したがって、大きな歴史の流れのなかで、ある発展段階がどういう問題の解決を託されて登場したかをあきらかにすることが、その成立の必然性と同時に没落の必然性をあきらかにすることにほかならないのである。資本主義についていえば、マルクスは、生産力を飛躍的に発展させて世界中の人々を文明化していくところに資本主義の歴史的な存在意義をみた。マルクスの立場からすれば、生産の社会化と生産手段の私的所有という根本矛盾を持った資本主義的な生産のしくみは、この課題を達成すると同時に、格差と貧困の拡大や恐慌による労働者大衆の生活破壊という新たな問題を引き起こすのであり、この問題を解決できない資本主義は、その歴史的な使命をはたしおえて没落していく必然性があるということになる。





3、古代ギリシアにおける「弁証法」(ディアレクティク)はどういう意味で大切か?



 対話・問答こそが弁証法の原点である。古代ギリシアにおいて、言葉でのコミュニケーション自体がままならず、相手が何を言いたいのかということのみならず自分が何を言いたいのかということすら定かではなかった状態から、しだいしだいに自分の言いたいことと相手の言いたいことのどこが同じでどこが違うかが明確になっていく中で、これまたしだいしだいに論点が整理されていくという過程をたどって、きちんとした討論ができるようになっていったのである。その結果として、「討論することが真理に到達する一番よい方法であることを知って、これを重要視しました」ということになったのである。

 人間の認識は問いかけ的反映であるから、たとえ同じ対象を反映しても、各人は自分のそれまでの経験をふまえて、それぞれなりに異なった感情をともなった像として描いてしまう。反映像と過去の経験による像とが合成されて一つの感情像として描かれるから、事実とその解釈の区別をきちんとつけることもできがたくなる。複数の人間の間で討論をおこない、おたがいの認識を交通させることでこそ、こうした個々人の認識のもつ限界を突破することが可能になる。同じ対象についてのそれぞれに異なる問いかけ的反映の像を交流することは、その対象をより的確に把握することを可能にするのである。「革命運動の指導者たちは、ロシアあるいは中国にあってマルクス、エンゲルスの著作を全面的に手に入れることができず、手に入った著作をさえ徹底的に研究し討論する条件にめぐまれていなかったために、原理的な把握に不充分なところがありました」とあるように、討論しなければ、原理的な把握が不充分なものにとどまってしまうのである。まさに「討論することが真理に到達する一番よい方法」なのである。

 認識ほどに運動・変化するものはないから、その激しく運動している認識どうしを交通させることほどに、認識を大きく発展させることはない。討論のなかで、問題を提起しそれを解決するということを繰り返すことで、認識と認識のあいだで劇的な相互浸透的発展がおこなわれうるのである。

  



5、フランスで機械的な唯物論が発達しドイツで観念論と弁証法が発達したのはなぜか? また、大陸で合理論が、イギリスで経験論が発展したのはなぜか? 当時の社会状況全般とのかかわりではどうなのだろうか?



 言語の問題、宗教の問題、気候風土の問題など、いろいろと理由は考えられる。こうした問いに答えていくためには、学問の歴史をたんに学問の歴史だけから見るのではなくて、大きな歴史の流れの一つの部分としてとらえていく必要がある。こうした問いかけをもって、『歴史の流れ』『世界の歩み』『世界史概観』『世界の思想史』などを読んでいくと、答えにつながるヒントが見出せるかもしれない。ともかく、このような大きな問いを創っておくことそのものが、とても大切なことである。



*「世界歴史とは弁証法的一般性レベルでは、人類の社会としての認識(戦争・商業・政治・文化をすべてふくんでの社会的労働)の発展の歴史である」(南郷継正「武道哲学講義〔T〕PART3」『学城 第2号』223ページ)。





6、世界観の発展と弁証法の発展の関連について

(1)世界観は大きく唯物論と観念論に分けられるが、「弁証法的世界観」とはどういう世界観なのだろうか?



 世界観というからには、世界全体のありかたをどう見るかというレベルの問題である。世界観における最も根本的な対立は、世界の起源をどう見るのかという対立であり、世界の創造を認めるのが観念論、世界の創造を認めないのが唯物論である。弁証的世界観と形而上学的世界観の対立は、世界の起源をめぐる対立ではなくて、世界のあらゆる事物・事象が絶えず運動・変化していると見るのか、そうは見ないのか、という対立である。

 実際には、世界のあらゆる事物・事象は絶えず運動・変化しているのだから、すなおに、ありのままにこの世界を眺めるならば、弁証法的な世界観になる。これに対して、形而上学的な世界観は、個々の物事の研究の飛躍的な発展を前提としなければ成立しない。直観的に大づかみに全体をとらえているだけでは、個々の物事を研究することはできないから、自然科学の発達は、自然の全体のつながりから部分をきりはなし、運動を静止においてとらえ、変化しているものを固定したかたちにおいてしらべるという形而上学的な方法によってこそなしとげられた。このような個々の物事の研究のしかたが、世界全体のみかたにまでもちこまれて成立したのが、形而上学的な世界観である。



(2)思惟法則としての弁証法とは何か?――次回学習会での課題として問いを立てる



 南郷継正は、新・旧二つの弁証法という言い方をしている。古代ギリシアにおける「弁証の方法」としての弁証法と、エンゲルスによって創始された「科学としての弁証法」である。それでは、この中間段階にあるカントやヘーゲルの弁証法は、弁証法の歴史のなかではどのような位置づけになるのであろうか? 三浦つとむは、カントやヘーゲルが弁証法を「思惟法則として理論化」したとして「弁証法の復活」という見出しをつけている(59ページ)が、この復活した弁証法は、新・旧二つの弁証法とはそれぞれどういう関係にあるのだろうか?



(3)世界観の発展と弁証法自体の発展は、どのように関連しているのか?



 (1)と(2)を踏まえて初めて、「弁証法的世界観→形而上学的世界観→弁証法的世界観」という世界観の発展と、「弁証の方法→思惟法則としての弁証法→科学としての弁証法」という弁証法自体の発展が、どのように関連しているのかという問題を考察することができる。





〈感想〉



 前回の学習会は、短時間でしたが、かなり深い討論ができたのではないかと思います。

 このレポートをまとめてみて、現実の世界の事物・事象の発展過程が問題の提起とその解決の過程としてとらえられるということを明確にすることができたことにより、なぜ弁証法の原点が問答・対話であるのかということについて、より深く認識することができました。根本的に言えば、「世界が過程の複合体であり、それぞれの過程が矛盾を原動力として発展していることは、とりもなおさず世界が矛盾の複合体であり、世界に多種多様の特殊性が発生し消滅するのはそれぞれ特殊の条件によって特殊な矛盾が発生し消滅していることを意味します」(『弁証法はどういう科学か』290ページ)ということなのでしょう。

 また、学習会後の飲み会の席で話題になった、偉大な人物はほぼ同時代・同地域に登場する(ドイツ観念論哲学におけるカント、フュヒテ、シェリング、ヘーゲルや、江戸時代中期の京都における伊藤若冲、円山応挙、曾我蕭白など)ということも、認識どうしの交通ほど認識を大きく発展させるものはない、ということにかかわっているのでしょう。

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2007年11月12日

弁証法・認識論の実験一つ、二つ

最近、立て続けに弁証法・認識論の実験に二つほど成功した。一つは先日このブログでも紹介した院試の合格である。もう一つはダイエットである。

まず結果をお伝えすると、一ヶ月で8kgの減量に成功した。同じ8kgといっても、元の体重しだいでその評価は大きく異なることになると思うから、大雑把な目安を言っておくと、体重が70kg台から60kg台に変化したのである。

ではどうやって減量に成功したのか? 物理的には、食事制限と運動、これだけである。食事制限といっても食べないわけではない。食べないために食べるとでもいおうか。具体的にいえば、一日のうち一食は必ず原始長命食を中心とする食事、その他は玄米、味噌汁、野菜等のいわゆる粗食。肉や油は極力食べない。酒もほとんど飲まない。運動は、ジョギングorウォーキングと腹筋である。一ヶ月で80km走り、20km弱歩いた。走った回数は9回、一日10kmか5kmずつ走った。歩いたのは3回、距離は毎回5キロメートル強。腹筋は、一日60回を1〜2セットくらい。これだけやれば、70s台の人間は、一ヶ月で8sは減量できる。

しかし問題は、僕は人間だということである。「人間を動かすものは、すべて人間の頭脳を通過しなければならない。」(エンゲルス『フォイエルバッハ論』国民文庫、p.62)のである。すなわち、人間は目的的存在であり、自らの描いた目的像に従って行動するのである。したがって、減量とは自らの行動のコントロールの問題というよりはむしろ、認識のコントロールの問題なのである。

認識論を学んでいますという人間が、自らの認識すらもコントロールできないようでは、他人の認識をコントロールすることなど絶対にできず、ましてや認識論の再措定や認識学構築など、夢のまた夢であろう。認識論を学んでいる人間が自殺をするなんてことは、いったい何のための認識論の学びであったのか、わけが分からないというものである。簡単にいえば、認識の法則性の基礎を学べば、ダイエットくらい極簡単にできるのである。

ではその認識のコントロールとはどのようなことか? この点については、前回院試合格体験記で述べたことと論理的にはまったく同じなので、そちらを参照していただこう。要は、目標を達成したときの有様をリアルに描くということである。(念のために述べておくと、前回の院試合格体験記のエッセンスは、勉強方法自体にあるのではない。認識論の適用という点にこそ、その価値があると思っている。)

すなわち、僕の頭の中ではすでに一ヶ月前に目標を設定した段階で、もう目標は達成してしまっているのである。現実がこの目的像を後追いしただけである。したがって、「やったー!ダイエットに成功した!」とか「うれしい!」とかいう感情は、あまりないものである。院試合格のときもそうであったが、そういう感情は目標を設定した段階ですでに味わっている。もちろん、未来像として描いている場合と、直接の反映像として描いている場合とでは、やはりリアルさが違い、当然感情も違ってはくるが。

もう少し具体的に認識のコントロールについて学びたい方には、次の本を推薦しておこう。それは、原田隆史『カリスマ教師 原田隆史の夢を絶対に実現させる60日間ワークブック』(日経BP社)である。私の認識論の学びの成果と、原田隆史の言うリーチングの理論とは、結論的に同じである。したがって、原田隆史方式で院試合格やダイエットに成功したといってもよい。もっといえば、臨床心理学指定大学院の合格や、8sの減量くらいなら、この原田隆史のワークブックほど徹底しなくても、難なくクリアーできる、認識論的にエッセンスを踏まえさえすれば。

原田隆史の本の中に、マンダラートを使って目標を具体化するワークがある。これは特に有効である。たとえば僕の場合であれば、ダイエットするための方法・手段をまずは8個考える。さらにその8個について、より具体化した手段をそれぞれ8個ずつ考えるのである。合計64個の具体的な行動目標を考え出せば、もう目標は半分実現したようなものである。具体的な手段を64個も考え出せれば、できない気がしなくなる。具体的な像は現実に近いから、すぐに行動に移せるのである。

なお、変な批判を避けるために一言追加しておくと、ダイエットというのは、あくまで弁証法・認識論の実験の一つの指標として取り上げただけである。自分自身の努力によってコントロールできることであれば、目標は何でもよかったといってよい。ただ、最近太り気味であったし、太り気味ということは食生活が乱れているとか運動不足とかいう要因が考えられ、それが病気の引き金にもなりかねないので、この際きちんとした食生活を確立して適度な運動をすることによって、より健康的な生活を送ろうとしたわけである。その一つの指標として減量を考えたまでである。

もう一つ蛇足を述べておくと、上記のダイエット生活と入浴の際に粗塩で体を洗う、さらに一日1gのアスコルビン酸をとる、という実践をしたおかげで、持病であったアトピーが劇的に改善した。3年ほど医者にかかっていたにもかかわらず、まったく回復しないどころか、時によっては悪化さえしていたのだが。おそらく、酒を控えたことと長命食を中心とした健康的な食事の影響が特に大きかったように思う。当然、これも想定通りであった。まさに量質転化である。

あと一ヶ月ほどでさらに5sの減量と、アトピーの完治が次なる目標である。もう僕の頭の中では実現してしまっているが。

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2007年11月11日

『弁証法はどういう科学か』第2章

先日、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書)の第二章「弁証法はどのように発展してきたか」を読書会で扱った。レジュメ担当は僕だったので、そのときにつくった「要約」と「重要用語解説」、それに「重要哲学者解説」を載せておく。なお、「〜解説」は、ほぼ参考文献からの引用になっている点をお断りしておく。



要 約

<1>古代ギリシアからヘーゲルまで

原始的で素朴だが正しい世界観


 古代の人たちは、世界をすなおに、ありのままにとらえた。全てのものは運動し互いにつながり合っているという、原始的で素朴だが、本質的に正しい世界観を持っていた。しかし、この世界観は直観的に大づかみに全体の一面をとらえただけであるから、それだけでは部分のありかたを正しく説明するには不充分であった。
 とはいっても、古代ギリシアの学者は個々の物ごとのあり方も研究して、量的な変化が質的な変化をもたらすという事実にも注目していた。


ゼノンの詭弁

 古代ギリシアの哲学者ゼノンは、運動に関する難問を提出した。そこでは、可能性と現実性とのつながり、連続と非連続との統一、限界を越えることによって反対物に転化すること、運動は矛盾であることなど、現実の持つ重要な性格を問題にしていた。しかし、これらの運動の認識も、科学が未発達の時代には研究の方法としては役立つものとなりえなかった。
 ただ、古代ギリシアの哲学者たちは、二つの相いれない意見がたたかわされるというかたちで、矛盾が思惟において発生することを注目し、この思惟における矛盾をあばきだし、討論することが真理に到達するいちばんよい方法であることを知って、これを重要視した。そして矛盾を克服することによって真理に到達する技術を「弁証法」と呼んだ。
 この思惟の矛盾が外的世界の矛盾とのつながりにおいて正しく理解され、弁証法が現実の矛盾を研究する科学となるまでには、二千年にわたる自然科学と哲学との発展が必要だった。


形而上学的な見かたの妥当性

 変化しているものを一応変わらないものとして、つながっているものを一応別のものとして扱う見かたを、形而上学的な見かたという。形而上学的な見かたは、世界をせまい範囲で・短期において・見るときには妥当である。しかし、世界を広い範囲で・長期にわたって・見るときには、弁証法的な見かたが必要となってくる。


形而上学的な世界観の成立

 自然科学の研究は、形而上学的な方法で行われた。そのためこの方法を、世界全体の研究に持ちこんだり、この一面的な世界のありかたを世界全体のありかたとして考えたりするような傾向が生まれてきた。こうして18世紀の古典力学が完成した時代には、形而上学的な世界観がつくりあげられた。


弁証法の復活

 18世紀フランスの進歩的な思想家は、機械的な唯物論の立場に立っていた。これに対して、反動的なドイツでは、唯物論が排撃されたために、また、機械的に形而上学的に解釈するのでは人間の認識を正しく説明できないために、哲学は観念論の方向へ進むとともに、弁証法をふたたびとりあげ、これを思惟法則として理論化した。
 ドイツの哲学者カントは、二律背反を論じて、それが認識にとって必然的なものであることを主張した。ただカントは、この二律背反が客観的な矛盾に原因があるとは考えずに、何の性質も持っていない物自体に認識が諸性質を与えるのが原因であると解釈した。


ヘーゲル哲学の特徴

 ドイツの哲学は、カントからフィヒテ、シェリングを通ってヘーゲルにおいて完結する。ヘーゲルはカントの物自体論を反駁し、いわゆる「二律背反」は世界自体の持っている性質であると主張した。そして、客観的な矛盾が運動の原動力であることを見やぶった。かくして、世界全体を一つの過程として理解するとともに、その運動の内部のつながりを明らかにしようとする努力がなされた。
 しかしヘーゲルは観念論者であったために、努力があやまった方向へ持っていかれた。ヘーゲルは、個々の人間の精神に対する自然の先行を認めつつ、その背後に、それをうみだす精神として「絶対理念」の存在を主張したのである。そして、「絶対理念」→自然→人間→精神→「絶対理念」という精神の自己発展が弁証法であるとした。


<2>ヘーゲルからマルクスへ――唯物弁証法の成立

ヘーゲル学徒から唯物論者へ


 1840年代になると、ドイツでも宗教と封建制度に対する闘いが公然化した。ヘーゲル学徒は、宗教との闘いの中で唯物論の側へ導かれた。そしてフォイエルバッハ『キリスト教の本質』があらわれたが、これはヘーゲル哲学を廃棄していたため、内容的にはヘーゲルから後退していた。


ヘーゲル弁証法の改作

 ヘーゲル学派から生まれたマルクス・エンゲルスは、ヘーゲルを破りすてずに、その弁証法をとりあげ、これを唯物論の立場からつくりかえた。
 ヘーゲルのいわゆる「客観的弁証法」は、実は弁証法ではなく、全自然がそれ自身として持っている法則的な性格である。ここを批判し訂正することによって、弁証法は運動の一般的法則に関する科学にまで還元されたのである。こうして観念論的な弁証法が唯物弁証法に改作された。
 唯物弁証法は、マルクス・エンゲルス、それにヘーゲルとさえも無関係に、ディーツゲンによっても発見された。


唯物史観の確立

 マルクス学派は唯物弁証法を武器として、フォイエルバッハでは不可能だった、唯物論の立場から社会についての科学的な理論をつくりあげる仕事をし、唯物論的な歴史観が確立した。
 唯物論は物質的な生活が精神的な生活の土台であることを教え、弁証法は人間のありかたを一つのダイナミックな過程としてとらえることを教える。動物は自然から与えられているものを消費するだけであるが、人間は生活資料を生産しそれを消費することによって人間自身を生産するのである。この物質的な生活の生産の過程こそ、歴史を動かす原動力であり、現実の生きた人間を理解する基礎であることを唯物史観は主張する。


科学的社会主義

 資本主義的生産様式を廃棄することを目的とした社会主義運動は古くからあったが、資本主義そのものの深い分析なしにはこの運動も空想的なものに終わってしまう。マルクスは唯物弁証法を使って経済学を研究し、経済学の革命をもたらすと共に社会主義を科学としてうちたてた。


弁証法的世界観の復活

 19世紀になると、自然科学からうみだされた形而上学的な世界観は、自然科学そのものの前進によって個々の分野から崩されはじめ、ついに全自然がやむことのない運動の中に存在するという新しい自然観に実証的に到達した。これは弁証法的な世界観のヨリ高い段階における復活である。マルクス学派は、2000年来哲学者の獲得してきた貴重な成果を正しくうけつぎ、弁証法を方法としてのみ理論的な困難を突破できることを論じ、自然・社会・精神の各分野を科学的に結びつけて具体的な統一された世界観をまとめあげた。これは人間の思想の歴史が新しい段階にはいったことを意味する。


<3>現在はどうなっているか

観念論との闘争


 哲学一般はヘーゲルと共に終結する。唯物論はもはや哲学ではなく科学的な世界観となったからだ。しかし古い哲学もまだ生きのこっている。これらの観念論哲学と、マルクス学派の世界観および弁証法との間には、公然のあるいは隠然の闘いが続けられている。


マルクス主義の前進と後退

 マルクス、エンゲルス以後、唯物弁証法とその応用になる社会科学は、一方では目覚しい前進が見られると同時に、他方では停滞もあれば原理的な後退もあるという、不均衡的な発展を示している。革命運動の指導者たちはマルクス、エンゲルスの著作を徹底的に研究し討論する条件にめぐまれていなかったために、原理的な把握に不充分なところがあった。しかし、革命の功労者であった彼らのことばは絶対化されてしまい、その原理的な後退がほとんど指摘されていない。
 マルクス、エンゲルスの唯物弁証法を正しく理解できないために、マルクス以前の唯物論やヘーゲルと同じような弁証法を説く人もいる。あるいは原理的な修正を行ったり弁証法を否定したりする人もいる。


形而上学を否定する傾向

 マルクス主義では、弁証法も形而上学もあれもこれも必要だが、弁証法のほうがはるかに役立つのだと主張する。しかしソ連や中国ではこの形而上学の妥当性を一切認めない傾向がある。これもマルクス主義の修正の一つである。



付録1:重要用語解説

@弁証法
 新、旧二つの弁証法がある。旧弁証法は、古代ギリシャ時代に姿を現した「弁証の方法」である。弁証の術、哲学的問答法などとも呼ばれる。これは、弁論すなわち問答・議論・討論・論争を通じて相手の論の欠陥を暴きだし、自分の論の正しさの証をたてること、すなわち、弁じて証明することであった。新弁証法は、エンゲルスが創始した「科学としての弁証法」である。

Aゼノンの詭弁
 学的には「ゼノンの絶対矛盾」というべきもの。ゼノンは、学的=弁証法的論理で森羅万象=万物=世界の運動を止めてみせた。これが「飛んでいる矢は止まっている」の学的構造論であり、ここを理解できた学者は、歴史上ヘーゲルくらいとされる。

B形而上学
 エンゲルス→三浦つとむの流れにおいては、この言葉はアリストテレスの代表作たる『形而上学』に直接関わることはない、エンゲルスの、いわば哲学上の概念。事物を静的・固定的・絶対的にとらえる見かた・考えかたを形而上学的という。つまり、「形而上学的」とは対象を変化しない静止したものとしてのみ考えるのであり、「弁証法的」の対義語である。

C二律背反
 あることを証明するのに、一方ではAと証明でき、他方では非Aと証明できるといったぐあいに、正反対のことが同一のことでしっかりとまちがいなく証明できることをいう。律とは法則レベルのことであり、正しいもの同士が相反しているので二律背反なのである。
 弁証法ではこれを対立物の統一として解決できるのであるが、カントはそこが及ばず、結果として<物自体論>までいって観念論レベルで解くことになる。

D物自体
 カントは二律背反に悩んだあげく、二律が相反するのは、対象のゆえではなく自分の観念、すなわち頭脳活動のゆえとした。つまり、対象が二律になるのは、対象の性質が無なるがために、頭脳のはたらきで、どちらにもなる、としたのである。対象の性質は吾人の認識が与えるのであり、物自体の本質は無としたのである。

E絶対理念
 訳者によっては絶対精神、絶対概念などその人によって異なる。この「絶対精神」はヘーゲル哲学の本質そのものといってよい。「絶対精神」とは、ヘーゲルにあっては宇宙の根源であり、かつ、直接に全世界そのものである。自然の歴史も人類の歴史もすべて絶対精神自身の発展段階なのである。
 絶対精神は自らの内に発展の契機をはらんでおり、やがて自己転生して自然となり、また社会、そして精神へと転生して後、当初の絶対精神へと大いなる回帰をする。これが絶対精神の自己運動である。絶対精神の自己運動がヘーゲル哲学の根源であり、大道であり、歴史そのものである。


付録2:重要哲学者解説

@ヘラクレイトス(B.C.535頃-475頃)
 「万物は流転する」という金言を残した哲学者。彼は「有と非有とは同一のものである、すべてのものは有ると共に無い」といった。ヘーゲルは彼を讃え、「ヘラクレイトスの命題で、わたしの論理学にとりいれられなかったものはない」とまでいっている。万物の変化を論理的に否定する人々(パルメニデスなどのエレア派の人々)がいたからこそ、逆に変化を本質的なものとするヘラクレイトスの考え方が生まれた。

Aゼノン(B.C.490頃-430頃)
 エレア派の哲学者でパルメニデスの高弟。論理的な思索を得意とし、師の「すべての存在は一へ収斂する」「モノが運動することは不可能である」という説を擁護して、師の考えを否定すると、不合理な帰結が生じることを示すために四つのパラドックスを提出したとされる。ある命題を仮定し、そこから生じてくる矛盾を指摘することにより、相手を反駁する方法は弁証法の先駆として名高い。すなわち、ディアレクティケーの創出者はゼノンであり、かつ、カントの「二律背反」はこのゼノンが先駆者である、とヘーゲルは説く(ヘーゲル『哲学史』)。

Bカント(1724-1804)
 ドイツ観念論の創始者。自然哲学者として出立、太陽系の生成を説明した星雲説を発表。その後イギリス経験論やルソーの思想などをとりいれ、近代自然科学を基礎とした独自の哲学を樹立。

Cフィヒテ(1762-1814)
 カント哲学に感動し、論文をカントに贈呈して認められ、それを無署名で発表するや、カント自身のものと誤解され名声を得る。後に、カント哲学の徹底化を試み、またフランス革命の理念化と社会秩序の再構成をめざす。1806年ナポレオン軍の占領下で、祖国への情熱をもって『ドイツ国民に告ぐ』を講演し、ドイツ国民の士気を高揚させた。

Dシェリング(1775-1854)
 その大著『学問論』の中で、学問構築、哲学構築に弁証論(弁証法)の必須性をはっきり強調した。しかし、同時に哲学を「知識に向かう愛」のように説いて、ヘーゲルに批判されることとなる。

Eヘーゲル(1770-1831)
 ドイツ観念論哲学の完成者というより、人類史上初の学問としての哲学の完成間近まで到達した、世界最高の哲学者。全世界を絶対精神の自己発展から説く学問としての哲学体系を創る。

Fエンゲルス(1820-1895)
 従来の弁証法を、法則レベルの「科学としての弁証法」すなわち、弁証法の三法則に仕上げた創始者。

Gディーツゲン(1828-1888)
 ドイツの哲学者。独学により独特の弁証法的唯物論哲学を創造した。エンゲルスに「唯物論的弁証法」の発見者の一人と賞讃される。

H西田幾多郎(1870-1945)
 西洋哲学の「有」の立場を批判して「無」の哲学を説き、いわゆる「西田哲学」として、わが国の哲学界に大きな影響を与えた。観念論哲学を説いたとされるが、彼の論文は、哲学というよりは学問的には「認識論」としての構造をもつ。

I田辺元(1885-1962)
 日本における学問的レベルでの哲学の実力があるとされる唯一の哲学者。『哲学の方向』において、大哲学者カントの「二律背反」を見事に駆使して、哲学と科学の構造を論じきった。

<参考文献>
南郷継正『武道講義第四巻 武道と弁証法の理論』(三一書房)
南郷継正『武道哲学 著作・講義全集』第一巻、第二巻、第六巻(現代社)
加藤幸信「学問の発達の歴史」(『綜合看護』1996年3号所収)

posted by 寄筆一元 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 京都弁証法認識論研究会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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