2007年09月26日

短期間で特定の分野の知識を吸収する方法

今回は、前回予告しておいたように、院試勉強を通じて実感できた「短期間で特定の分野の知識を吸収する方法」をまとめておきたい。少し長いが、「1.前提」だけは読んでいただきたい。


1.前提

まず、何のために短期間で特定の分野の知識を吸収する必要があるのか、という目的が何よりも大切である。人間は必ず目的像を描いて、その描いた目的像にしたがって行動する存在だからである。目的が明確な人はぶれない(目的像を描き続ける力のことを、昔は思惟のMachtといったりもしたが、今では認識体力と規定されている)。描いた目的が明確であれば、その目的が人間を規定し、人間を動かすのである。ここを格好いい言葉で要約しておくと、「目的が過程の質を決定する」となる。

ここまでは一般論である。これだけでは使えない。要するに目的を明確にすればいいのだな、ということで、「よし!臨床心理士になるぞ! そのために大学院に合格するぞ! エイ!!」とばかりに、いくら強く念じても、それだけで目的が明確になることはあまりない。目的像とは、認識=像の一種なのであるから、認識の構造をふまえないとダメである。

認識は、五感情像ともいわれる。すなわち、人間は、5つの感覚器官をとおして外界を反映するのである。だから、認識=像は、目からの反映、耳からの反映、鼻からの反映、などなどが、いわば合成されているわけである。したがって、未来像たる目的像を明確にするときは、これも認識の一種なのであるから、例えば、視覚的な部分を明確にする、聴覚的な部分を明確にする、嗅覚的な部分を明確にする、ということをやっていけばよいのである。僕の場合でもう少し分かりやすくいえば、大学院入試に合格したときに、何が見えるか、どんな声やどんな音が聞こえるか、どんな匂いがするか、ということを、具体化していけばよいわけである。あたかも、もう実現してしまったかのようにリアルに、詳細に像を描くのである。要するに、認識=像は、五感情像であるという構造をふまえて、5つの感覚のそれぞれ(といっても、まずは代表的な視覚、聴覚を中心に。実は体性感覚というのも重要であるが)を明確化するとよい、ということである。

僕の場合は、自分が合格したときの姿をノートに詳細に書きまくった。そして、ことあるたびに読み返して、目的像を明確にするよう努力した。やってみると分かるが、確実にモチベーションが上がる。そして、描いた目的像は、描いたそのレベルで実現される。それが人間なのである。

以上のように、目的像を明確にすることが、何にもまして、一番大切なことである。極論すれば、目的像が明確にできれば、その目的はもう達成したも同然である。これは何も「短期間で特定の分野の知識を吸収する」場合のみに当てはまるのではなく、人間の行動一般に当てはまる論理である。なお、この論理は、原田隆史の長期目標設定用紙にも、「達成時の人間像」や「目標により得られる利益」という欄を設けることで、採用されている。また、伊藤真なんかも、勉強を始める前に合格体験記を書かせるという形で使っている。


2.方法

2.1.その世界にどっぷり浸る

ある分野の知識を吸収しようとする場合、その分野の世界にどっぷり浸ることが大切である。これは実際に勉強をし始める前の時期に、特に重要になってくる。勉強を始めれば、自然とその世界にどっぷり浸ることになるから、さして注意するまでもない。

僕の場合であれば、かなり以前から臨床心理学関係の本をたくさん購入した。別に読むわけでもない。せいぜいパラパラ眺める程度である。また、カウンセリングを実践されている人の話を聞いたりもした。あるいは、放送大学で臨床心理関係の番組を視聴したり、臨床心理士の人の本やウェブサイトを読んだりもした。臨床心理学を学んでいる院生にも直接出会ったり、メールのやりとりをしたりして、いろいろ教えていただいたりもした。

こういうことをすると、徐々に自分の認識がその世界的な性質を帯びるようになってきて、後に知識を吸収する際に、ヨリ効率的になるのである。簡単にいえば、認識がその世界になじんでいるから、その分野の知識と調和的になっているのである。知識の吸収ではないが、サッカーをやっている人が常にサッカーボールを持ち歩いたり、居合をやっている人が刀を抱いて寝たりするようなものである。その世界になじめばなじむだけ、知識や技を身につけるスピードが上がるといってよいだろう。

また、こういうことをすると、目的像をヨリ明確に描けるようにもなる。僕の場合であれば、院生の話を聞くことで、自分が院生として研究活動に励んでいる姿をヨリ具体的に描けるようになるし、臨床心理士の方の本を読むことで、自分の将来のありかたを、その人に重ねて、ヨリ具体的に描けるようになるわけである。


2.2.他の一切を犠牲にする

特定の分野の知識を吸収するには、それなりに時間がかかる。どれだけ時間がかかるかは当然、吸収したい分野の広さと深さ(+方法論の良し悪し)に規定される。しかし、われわれの目的は、短期間で特定の分野の知識を吸収するということである。「範囲も広いし、結構深く理解しなければならないので、2年かかります」というのでは、ダメなのである。

ではどうするか? 単純な話である。1日のうち、できるだけ多くの時間を知識の吸収のために使うのである。1日は誰にとっても24時間なので、その24時間のうち、知識の吸収以外のことを、極力やらなければいいのである。

確かに、知識の吸収に関係のないことを一切やらないということは不可能である。人間は寝なければならないし、食事をする必要もある。しかし、そういう生きていくために必要な最小限のこと以外は、一切を犠牲にしてでも、知識の吸収に努める覚悟が必要なのである。

こういった覚悟がないと、人間は絶対に「できない理由」を探してしまう。今日はどうしても見たいテレビ番組があるから勉強はちょっとお休みにしよう、とか、最近疲れ気味だから今日は早めに寝よう、とか、1週間がんばったんだから今日一日は思いっきり遊ぼう、とか、今日は人にこれを頼まれたから勉強はできないな、とか、である。いったんこういった「できない理由」を自ら認めてしまうと、連鎖的にいくつも認めてしまい、大きな時間の浪費になってしまう。絶対に「できない理由」を探さずに、短期間なのだから、他の一切を犠牲にする覚悟が必要である。

僕の友人に強者がいた。司法試験合格を目指して勉強していた彼は、「他の一切を犠牲にする」を文字通り実践した。人にも会わず、食事もすぐに済ませて、集中力がなくなったら、すぐに寝てしまうそうである。その時間に他のことをするよりも、睡眠時間の確保にあてるのだという。そして起きたら即勉強である。そうして、見事短期間で司法試験に合格したのである。念のために補足しておくと、彼は受験秀才とはほど遠い。なんせ、高校に行っていないのであるから。高校に行く必然性を感じられず、中学卒業後社会に出たものの、弁護士になりたいと思うようになって、大検、大学受験を独学でクリアーして、これまた予備校など行かずに独学で司法試験に受かったのである。確かそういう経歴だったはずだ。彼の目的意識が強烈だったことも明かであろう。

ここまでやるのは本当に理想で、僕のように仕事がある人は、最低限仕事をこなしながらになってしまうが、それでも、極力他のことは犠牲にしなければならない。また当然、例えば通勤しながらの学習のように、時間を作り出す工夫も必要である。


2.3.マインドマップと自己講義で全体像を把握する

知識を吸収したい分野の全体像をアバウトでいいので把握してから、細かい知識を覚えていった方がはるかに効率がよい。論理的なつながりが知識の定着を助けるからである。

したがって、まずは全体像の把握が肝要となる。そのためには、目次がしっかりしているコンパクトな本を基本書として設定し、それを何度か読んで、全体を一枚のマインドマップにまとめる。必要であれば、さらに全体をいくつかの部分に分けて、それぞれにマインドマップをつくってもいいだろう。

その後、そのマインドマップを見ながら、その分野の内容を、自分で自分に講義するのである。やってみれば分かるが、自己講義することによって、まだ自分が理解できていない点や曖昧な点が見事に浮上する。そういった点を、すかさず基本書でチェックするのである。そしてさらに自己講義をくり返す。理解できていない点、曖昧な点は、その都度、基本書でチェックする。もちろん、必要に応じて他の参考書も参照すればいい。

まあ、自己講義を20回もくり返せば、その分野のアバウトな全体像は確実に把握できるだろう。これは書くよりも、講義形式で話す方が、時間対効果(?)的に、絶対に効率的である。また、実際に話す相手がいれば、そちらの方が臨場感があり、相手に曖昧なところを指摘してもらうこともできる。だからそういう場合は、自己講義ではなく、普通にその人相手に講義してもよいだろう。

僕の場合は、通勤で車を運転している間(片道約20分)、ずっと自己講義をしていた。運転中は本を読むことはできないが、自己講義ならできる。こうして、通勤時間もしっかり活用した。また、頭のレベルが同じくらいの弟が近くにいるので、弟相手に「臨床心理学とは何か」から講義したりもして、意味不明なところを指摘してもらったりもした。これは思った以上の効果をあげたと思う。


2.4.細かい知識は問題集・用語集・事典をくり返して暗記する

全体像が描ければ、後は細かい知識を可能なかぎり覚えればよい。その際、まずは問題集をメインにするのがいいと思う。

問題集というのは、その名の通り、問題が付いている。問題が付いていると、一体何のメリットがあるのか? 人間の認識は問いかけ的反映であり、問いかけたものしか反映しない。問題というのは問いかけの一種であるから、問題を読むことによって、頭の中に問いかけができる。そうすると、問いかけがない状態では反映しなかったものまでも、反映するようになるのである。

例えば、「心理療法の立場の違いを特徴づける軸として、『指示的−非指示的』、『過去志向−現在志向』の二つがある。これらを、具体的な心理療法名を挙げて説明せよ。」という問題があるとする。そうすると、「なるほど、心理療法は、指示的−非指示的という軸や、過去志向−現在志向という軸で分類可能なのだな」というような、メタな視点が獲得できる。それを踏まえて参考書を読むと、「この療法は指示的だな」とか「この療法は過去志向だ」とかいったことが、明確に反映するようになる。さらに、問いを中心に知識がまとまり、整理されてくる、ということもいえる。

また、一般に、ヨリ明確な問いかけでもって反映したものは、明確に反映する分、記憶として定着しやすい。だから例えば、「Q:ゲシュタルト療法の創始者は誰か? A:パールズ, F」というような単純な問題でも、普通に文章を読んで暗記するより、記憶に残る。

以上のような理由で、細かい知識はまず問題集をメインに据えて、問題集から取り組むべきであろう。

ただし問題集だけでは、必要な知識を網羅していない場合がほとんどであるから、そういった際には用語集や事典を活用すべきである。用語集や事典は、問題集よりも網羅的ではあるものの、単に知識が羅列しているだけの場合が多い。しかし、すでにその分野の全体像は頭の中に入っているのだから、その全体像に位置付けながら、用語集や事典の知識を吸収していくことができるはずである。その際、問題集の代わりに自分で、問題集を応用した問いかけをもちながら読んでいけば、効果的である。また、事典の内容を穴埋め問題形式でカード化すれば、ポータブルな問題集にもなる。こういったことはいくらでも工夫できるはずだ。

いずれにしても、暗記するためには、ある程度くり返す必要がある。問題集を一回やっただけ、用語集を一回通読しただけ、で覚えられるはずがない。塾で指導しているとよく分かるが、覚えられないと文句をいう生徒に限って、くり返しが圧倒的に少ない。頭の良し悪しの問題ではなく、量質転化の問題である。覚えるまでくり返せばいいだけである。


2.5.知ったかぶりをして、他人に説明する

その分野の全体像であれ、細かい知識であれ、機会があれば、他人に説明するとよい。そうすると、自己講義の際に説明したように、曖昧な点などがはっきりしてくる。さらにいうと、説明するという行為自体が、いわゆる「エピソード記憶」となり、それが記憶を助けもする。これまた人に教える仕事をしていると分かってくるが、自分が教えたことは、かなり強烈に覚えているものである。だからこれを逆に利用して、覚えるために他人に説明するわけである。

さて、他人に説明する内容は、当然、自分が知っていることだと思うかもしれないが、そうとは限らない。あまり知らないことでも無理やり説明するのである。その際、知ったかぶりが重要である。

「知ったかぶり」とは何か? 本当はあまり知らないのに、知っているふうに振る舞うことである。知ったかぶりをすると、知らないということと、知っている振りをしたということとの間に矛盾が起こる。認識と表現の敵対的矛盾である。こういった状態は、自分にとって不快で不安であるから、これを解消すべく行動することになる。表現はもうなされてしまって、他者に対してばれているから、今さらなかったことにはできない。そこで認識のほうを「知らない」から「知っている」に変えるべく行動するわけである。これで矛盾が解消して、問題解決である。社会心理学でいうところの認知的不協和理論である。

僕の場合、塾で生徒に雑談として、心理学の知見を紹介した。例えば、僕の言ったつまらないダジャレがすべってしまったときのこと。「人は悲しいから泣くのではない。おもしろいから笑うのではない。泣くから悲しいのだ。笑うからおもしろいのだ。ジェームズさんとランゲさんが、こういうことを主張したので、これをジェームズ−ランゲ説という。だから、今笑ってみろ。おもしろくなるから。もちろん、これに対立する説もあるが。」とか何とかいうわけである。その瞬間、「イカン、対立する説ってなんだったけ?」と頭の中では焦りながらも、冷静を装う。そして、「その対立する説って何?」とか生徒にきかれる前に、「私は、いつもハッピーな気分でいたいから、鏡の前で笑う練習をしている。やれば分かるが、本当に笑うと楽しい気分になる。」と、ちょっとキモイ話題に転換して逃げるのである。そして家に帰って、対立する説(キャノン−バード説)を確認したり、もう少し正確にそれらの説はどういうことなのか、確認するわけである。


(この節、2008.2.27追記)
2.6.身近でオリジナルな具体例とセットで覚える

抽象的な内容を暗記する際は、具体例とセットにすると覚えやすい。それも、身近な、かつオリジナルな具体例である方が記憶に残りやすい。

例えば私の場合であれば、少し上で「社会心理学でいうところの認知的不協和理論である」と書いたように、自分の行動を心理学の知見で説明してみたりした。あるいは、心理学の知見に当てはまる身近な出来事を探したりしてみたりもした。そして自己講義のときや他人に説明するときに、抽象的な内容を述べてから、「例えば」といって具体例におり、具体例が終わった後で「つまり」といって再びのぼるのである。このように認識ののぼりおりをくり返すことによって、自然と知識の定着がはかれる。

英語の文法や語法が覚えられないのであれば、自分や身近な人物が登場するおもしろい例文を自分でつくってみて、それを覚えるのも手である。私が中学生に英語を教えていたときは、当時流行っていた(?)NOVAうさぎやボブ・サップを例文に登場させたものである。

要するに、具体例が身近で馴染み深かったり、インパクトがあったりすると、それとセットで抽象的な内容もしっかり記憶できるということである。


3.その他


3.1.過去問研究

以上が「短期間で特定の分野の知識を吸収する方法」のメインである。その他、少々の補足をしておく。

まず、入試や資格試験のように、ペーパー試験に合格するのが目的の場合は、当然ながら過去問研究が欠かせない。いってみれば、試験に出るところだけ覚えるのが一番効率的だからである。出題の傾向を把握して、その対策をするのである。

僕の場合は、志望大学院の過去問を入手して、過去に出題されているテーマの周辺部分は、やや力を入れて、具体的にいうと『心理臨床大辞典』(培風館)の関連箇所を読んで、勉強した。本来なら、すべてを網羅的に勉強するのがベストなのかもしれないが、我々には時間もないし、合格することが目的なのだから、こういう場合は割り切って過去問研究をするべきだと思う。


3.2.砂利道鍛錬

先ほど、「他の一切を犠牲にする」と書いたが、もちろん、知識の吸収に間接的にでも役立ちそうなことはやるべきである。たとえば、食事時間を節約するために、インスタントラーメンばかり食べるなどは、愚の骨頂だろう。人間の体は、脳細胞も含めて、食べたもので創られるのだから、しっかりバランスのよい食事をとることは、記憶に役立つと考えるべきである。また、睡眠時間を極端に削るというようなことも、やるべきではないかもしれない。実は短期間なら、一日4時間睡眠は可能ではないかとは思うが、やはり6時間くらいは眠るべきだろう。

僕の場合は、試験勉強の合間にも、灼熱のアスファルトや砂利道を裸足で歩く例の鍛錬を行ったりもした。脳細胞を刺激することによって、頭脳活動が活発化し、暗記力も上がるのではないかと思ったからである。効果はあったのではないかと思う。初めて聞く人名などが、妙にすらすら覚えられたものである。


3.3.僕の勝因

最後に、僕が院試に合格できた要因を考察しておこう。まず、なんといっても、少ないながら僕を支援してくださった方々の存在が大きかった。目標を明確にすることや具体的な勉強の仕方なども、こういった方々から学んだことが多い。原田隆史も、最後の数パーセントは他人の力が成功か否かを分けるといっていた。僕の場合は、50%位は依存していた気がするが。

次に、今まで述べてきた方法である。同じ時間勉強すれば、優れた方法を採用している方が効率がいいに決まっている。これまで学んできた弁証法・認識論を適用した簡便ながら優れた方法を創り出し、その線に沿って迷いなく勉強できたのは、怠け者の僕にとっては大きかったと思う。

最後に英語である。ほとんどの院試には英語の試験が課され、その英語の点数が合否を分けるケースが多いと聞く。その点僕はラッキーだった。仕事で大学受験生に英語を教えているくらいだから、ある程度の英語であれば、比較的速く正確に読める自信はあった。そのため、専門用語を英語で覚える以外は、全くといっていいほど英語の勉強をしなかった。その分、臨床心理の勉強に専念することができたのである。それでも英語の試験はおそらく満点に近かったはずだ。文章の内容(当然、臨床心理学に関連するものだが)は完璧に把握できたし、和訳や内容の要約も、まあ、いってみれば得意分野である。

なお念のために書いておくと、今「ラッキー」と書いたが、これは正確ではない。というのは、そもそも院試の英語対策として、大学受験生に英語を教える仕事を選んだ、という側面もあるからである(誤解のないように書いておくと、自分だけのために仕事をしているというわけではない。塾の講師であるから、第一の目的はもちろん、生徒の実力のアップである)。相当前からの準備が、非常に功を奏したといえると思う。


4.最後に

今回の院試勉強は、僕の認識論の実験でもあった。認識の構造をふまえて目的を明確化し、その明確化した目的像に向かって努力を続けることができたわけである。このように、何事も目的意識的に実践をするということを、しっかり積み重ねて、認識論の研鑽を積み重ねると直接に、目的意識的に行動することをしっかりと技化していきたいと思う。次の目標は、来年の4月に入学する際、間違いなく院生の中でトップレベルの実力を身につけていることである。また、全然違う話になってしまうが、11月に行われるシティマラソンに参加して、10キロを50分で完走する、という当面の目標も設定した。同じように目的像を明確にして、一つずつクリアーしていきたい。
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2007年09月23日

臨床心理士指定大学院合格のための参考書

最近までしばらく、二つのブログの更新をストップしていたが、その間一体何をやっていたのかというと、大学院入試に向けての勉強に専念していたのである。

僕は将来、臨床心理士として、心の問題を抱える人々を援助することを通して、認識とは何かの謎に迫っていきたいと考えている。あるいは、既に構築されている認識論の再措定を試み、その上に何らかのオリジナルなものを積み上げていきたいと考えている。これを実現するためには、まず、臨床心理士にならなければならない。臨床心理士の資格を獲得するためには、臨床心理士の資格試験に合格しなければならず、その資格試験を受けるためには、指定大学院を修了していなければならないのである。そこでまずは、指定大学院の入学に向けて、入試を突破するために勉強していたわけである。

先日、大学院入学試験が行われ、無事合格することができた。合格できたから正直に告白するが、真剣に院試勉強をした期間は、わずか3〜4ヶ月である。しかも、仕事をしながら、である。さらにいうと、僕は心理学科出身ではないので、心理学の知識は、ごく少数の一般向けの新書と教科書をざっと通読した程度で、ほとんど皆無に近かった。一例を挙げれば、今年の4月の末の時点で、「エンカウンターグループ」といわれても、「何か聞いたことがあるような、ないような、何だったっけ?」というようなレベルだったのである。一応その場では、知ったかぶりをしておいたが(念のために述べておくと、僕は意図的に知ったかぶりをすることがある。知ったかぶりは上達論の一つの要であると思っている。詳細は後ほど)。

そんな心理学の知識ゼロから3〜4ヶ月で、それなりに難易度もあり倍率も高いとされる臨床心理士の指定大学院に合格できたのである。イヤ、何も、「俺は頭がいいだろう。はっはっは。やってやったぜ!」などという、受験秀才丸出しの自慢がしたいわけではない。そもそも、僕は自分自身のことを受験秀才だとは思っていないし、大学に入ってからは、極端にいうと、新しい知識の吸収をやめてしまって、ひたすら、弁証法・認識論の勉強に関わる範囲内の知識(中学教科書レベルなど)しか、扱ってこなかったといっていい。鈍才になるための努力とでもいおうか。

それはともかく、次回は、大学院入試の勉強を通してある程度実感できた、「短期間で特定の分野の知識を吸収する方法」を公開したいと思う。受験秀才には無用のテクニックである。鈍才の皆さんは、乞うご期待、である。

今回は、院試勉強で使った教科書・参考書などを、主なものに絞って紹介しておきたい。


<基本書>

@馬場禮子『改訂版 臨床心理学概説』(放送大学)



放送大学の教科書。
コンパクトで、臨床心理学の全体像がしっかりつかめる。


<問題集>

A山口陽弘・高橋美保『試験にでる心理学 臨床心理学編』(北大路書房)



公務員心理職向けの問題集。
非常に優れており、「ブックリスト」も参考になる。


B『臨床心理士指定大学院攻略〔専門科目編〕』(東京図書)



その名の通りの問題集。
誤答が多すぎるため、ある程度の力がついてからでないと危険。


<用語集・事典類>

C坂野雄二『臨床心理学キーワード』(有斐閣)



コンパクトだが情報量が多い。
知識の総チェックに使える。


D『臨床心理学と心理学を学ぶ人のための心理学基礎事典』(至文堂)



タイトルが非論理的だが、
内容は分かりやすく、非常に明快。


E『心理学辞典』(有斐閣)
F『心理学事典』(平凡社)



心理学を学ぶ際の基本の辞事典。
EのCD-ROM版が便利。


G『心理臨床大事典』(培風館)



いうまでもなく大学院生は必読・必携の事典。
やはり、この事典がないとカバーできない範囲がある。


<一般心理学参考書>

H鹿取廣人・杉本敏夫『心理学』(東京大学出版会)



古典的教科書の改訂版。
心理学の全体が、要領よくまとまっている。


I無藤隆ほか『心理学』(有斐閣)



比較的新しい心理学の教科書。
詳細でハイレベルだが、発達心理の部分は分かりにくい。


<研究法参考書>

J南風原朝和ほか『心理学研究法入門』(東京大学出版会)



心理学一般の研究法について。
よくまとまっていると思う。


K下山晴彦『臨床心理学研究の技法』(福村出版)



臨床心理学によく使われる研究法について。
研究計画書を書く上で、非常に役立った。


<その他>
Lかしまえりこ・神田橋條治『スクールカウンセリングモデル100例』(創元社)



スクールカウンセリングの事例が100紹介されている。
擬似的にカウンセリングを体験できる。


M丹野義彦『エビデンス臨床心理学』(日本評論社)



異常心理学の教科書。
やや高度な内容だが、非常に分かりやすい。


N倉光修『臨床心理学』(岩波書店)
O下山晴彦『よくわかる臨床心理学』(ミネルヴァ書房)



臨床心理学の教科書。
基本書を補完するために使った。


P下條信輔『サブリミナル・マインド』(中公新書)



東大教養学部での講義をまとめた内容。
認知社会心理学までをおさえており、非常に興味深い。


Q岡田尊司『子どもの「心の病」を知る』(PHP新書)



新書なのに情報量が多い精神医学入門。
索引も充実しており使いやすい。。


R久能徹・松本桂樹『図解雑学心理学入門』(ナツメ社)
S松原達哉『図解雑学臨床心理学』(ナツメ社)



解説と図解のセットで、メジャーなトピックを扱った本。
バカにできない内容で、はじめの一冊にお勧め。
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2007年09月11日

鹿島茂『勝つための論文の書き方』(文春新書)



以前チラッと紹介した鹿島茂『勝つための論文の書き方』を読了した。以前紹介したときには、以下の部分を引用しておいた。

「論文というのは、自分の頭でものを考えるために長い年月にわたって練り上げられた古典的な形式なので、ビジネスだろうと、政治だろうと、なんにでも応用がきくのです。いいかえれば、優れた論文作成能力を獲得している人は、優秀な学者になれるばかりか、優秀なビジネスマンにも、優秀な政治家にもなることができるのです。」(p.221)

今回通読してみて、確かにそういう面はあると思った。というのは、本書で一番強調されているのは、「問題の立て方」だからである。

論文というのはオリジナルな・意味のある・問題を立てて、それを考察し、論証して、最終的に解答を出すという形をとっている。そうであるならば、この形式は何も学問に限ったお話ではなくて、日常生活であれ、ビジネスであれ、応用可能な汎用性を持っているといえる。

以前テレビで、廃タイヤから出るチューブをなんとかリサイクルできないものか?との問いを立てて、ゴムの弾力性に目をつけて、ノートパソコンを入れるケースの素材として採用し、成功をおさめたケースが紹介されていた。これなどは、「廃タイヤから出るチューブをなんとかリサイクルできないものか?」という独創的な問いを立てた時点で、ほぼ勝負あったという感じである。つまり、論文でもビジネスでも、一番難しく、かつ一番重要なのは、問いの立て方なのであって、ユニークな面白い問いを立てることさえできれば、優れたものを創り出せる可能性がグッと高まるわけである。

そういう観点から、本書では問題の立て方が重視され、その解説が中心になっているといってもよい。

本書でも指摘されているが、日本の学校教育の最大の問題点は、こういった問いの立て方を教えないという点だと思う。それどころか、問題はすでに存在しており、その解答も決まっている、そういう問題を解くことのみを訓練させられるのである。それゆえ、偏差値が高い者は、自分で問題を発見するとか問いを立てるとか、そういった発想を持てなくなってしまう。これでは学問ができない。自分の専門分野の全てを学んで問うてこそ学問なのだから。

さて本書では、まず、「問いは、比較からしか生まれない」として、問いを見つける基本的方法を二つ挙げている。「縦軸に移動する」と「横軸に移動する」である。これらは言語学でいうところの通時的比較と共時的比較に対応する。次に、見つけた差異と類似を分析する方法や、仮説による検討でその問いが本質的なものかどうかをチェックする方法が説かれる。

そして最後に、未聞の問いを発想する最大のポイントとして、構造把握力を挙げている。これは丸谷才一言うところの見立て力であり、レヴィ=ストロース的にいうとブリコラージュということになる。ここに関して鹿島教授は次のようにまとめている。

「ある分野で培った見立て力=構造把握力を、他の新しい分野にも応用し、そこに共通の型を見抜いて、問題を見つける。これが、前人未踏というよりも、前人未問の問いを立てるために必要不可欠の方法です。」(p.77)

ここから、複数の専門分野を持つ必要性について説いていく。

これを読むと、複数の専門分野を持つ必要性というのは、われわれの立場的には一般教養の重要性ということであるし、構造把握力というのは、弁証法的な論理能力ということになると思う。われわれはある意味、未問の問いを立てるために一般教養と直接に弁証法を学んでいるといえなくもないだろう。

鹿島教授はフランス文学及びフランス文化を専門とする人文系の人であるが、この論文の書き方の本は、人文系に限らず、自然科学や心理学の論文の書き方としても、十分通用する普遍性を持っていると思う。僕も誰も立てたことのないようなオリジナルで意義のある問いを発見して、立派な論文を書きあげたいものだ。
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2007年09月09日

V.E.フランクル『夜と霧』(みすず書房)



ヴィクトル・フランクル『夜と霧』を読了。新訳も出ているが、僕は旧訳(霜山徳爾訳)の方を読んだ。いうまでもなく、アウシュヴィッツの強制収容所における一心理学者の体験記である。

参考までに書いておくと、著者のフランクルは、ウィーン生まれの精神医学者。フロイト、アドラーに師事するも、「快楽への意志」や「権力への意志」ではなく、「意味への意志」を重視し、実存分析・ロゴセラピーを提唱した。

僕がこの『夜と霧』を読んだのは、「極限状況におかれた人と人間一般と」(薄井坦子『看護学原論講義』現代社、p.90)を学ぶためである。薄井先生は、『看護学原論講義』の同じ箇所で、次のように説いておられる。

人間に働きかける職業人にとってもっとも基本的なことは、<相手の立場をどれだけ観念的に追体験できるか>ということである。人はさまざまであり、自分は自分であるから、どんな人と向かい合っても、その人をその人として見つめ、その人のその時の実像にできるだけ近いイメージを、できるだけはやく描くことができるよう、あなた自身の「直接的・間接的経験の幅と深さ」を求める学習を重ねてほしい。


その後、三つの学習課題と『精神病者の魂への道』や『夜と霧』を含むいくつかの学習文献が挙げられている。これは、心理臨床家を目指す僕にとっても、そのまま当てはまる大切な学習課題である。ということで、さっそく読んでみたわけである。知人に勧められたということもあるが。

では、本題である。本書でフランクルは、収容所生活における囚人の心理的反応を、三つの段階に区別している。最初が、収容所に収容される段階である。この段階は、「収容所ショック」と名づけられるようなものによって、特徴づけられている。過酷を極める強制労働や拷問によって、ショックを受ける段階である。

次が、本来の収容所生活の段階である。ここでは人は比較的無感動になるという。ドストエフスキーがいうがごとく、人間は「すべてに慣れ得るもの」であるから、「苦悩する者、病む者、死につつある者、死者――これらすべては数週の収容所生活の後には当たり前の眺めになってしまって、もはや人の心を動かすことができなくなるのである」(p.102)。この無感動は、「必要な心の自己防衛であった」(p.110)とフランクルは説く。

そして最後の段階が、収容所からの釈放乃至解放の段階である。この段階について、フランクルは次のように書いている。

「この心理的な極度の緊張の後に続いたのは完全な内的弛緩であった。誰かがわれわれの間に大きな喜びが漲っていただろうと考えるならばそれは大きな間違いであった。」(p.197)
「解放された仲間の体験したものは心理学的な立場からいえば著しい離人症であった。あらゆるものは非現実的であり、不確実であり、単なる夢のように思われるのである。まだ人はそれを信じることができないのである。」(pp.198-199)

以上のような極限状態におかれた人間の認識についての記述は、実験することが非常に困難であるだけに、とても貴重な資料である。

さて、僕がこの本を読んで一番感銘を受けたのは、第八章「絶望との闘い」である。ここで僕は、人間とは認識的実在であるということをしっかりと分からされた。もう少しいえば、認識=像の威力とはこれほど凄いものなのかと思い知らされたのである。

第八章の出だしはこうである。

「収容所生活が囚人にもたらした精神病理学的現象を心理療法や精神衛生の見地から治療しようとするすべての試みにおいて、収容所の中の人間に、ふたたび未来や未来の目的に目を向けさせることが内的に一層効果をもつことが指摘されているのである。また本能的に若干の囚人は自らにこの試みを行ったのであった。彼らはおおむね何か拠り所にするものを持ち、また一片の未来を問題としていた。」(p.177)

そして、自分自身の場合について、次のように書いている。

「私のあらゆる思考が毎日毎時苦しめられざるを得ないこの残酷な脅迫に対する嫌悪の念に私はもう耐えられなくなった。そこで私は一つのトリックを用いるのであった。突然私自身は明るく照らされた美しくて暖い大きな講演会場の演壇に立っていた。私の前にはゆったりとしたクッションの椅子に興味深く耳を傾けている聴衆がいた。…そして私は語り、強制収容所の心理学についてある講演をしたのだった。そして私をかくも苦しめ抑圧するすべてのものは客観化され、科学性のより高い見地から見られ描かれるのであった。――このトリックでもって私は自分を何らかの形で現在の環境、現在の苦悩の上に置くことができ、またあたかもそれがすでに過去のことであるかのようにみることが可能になり、また苦悩する私自身を心理学的、科学的探究の対象であるかのように見ることができたのである。」(p.178)

われわれ人間が悩み苦しむのは、われわれを悩み苦しませる外的環境・状況のためではない。その環境なり状況なりを反映した認識=像が、もっといえば、その認識=像につながっている不快な未来像が、人間を悩ませ苦しめるのである。したがって、その不快な像を観念的に自分から切りはなし、いわば直接性を切りはなして媒介関係に置くことができるならば、悩みや苦しみは軽減するのである。

フランクルは、聴衆の前で収容所生活について語っている未来の自分を想像=創像することによって、この切りはなしに成功した。現在の不快な認識=像を、観念的に対象化し、客観化できたのである。もう一人の自分を創りだし、別な立場から現在の自分を眺めることができたのである。

フランクルにとってこれは、その時の苦しみをやわらげただけではない。この苦しかった体験も、将来は自分自身の研究対象となり、そのおかげで立派な業績を上げられるのだという未来像が、フランクルに目的を与え、生きる力を与えたのだと思う。

「これに対して一つの未来を、彼自身の未来を信ずることのできなかった人間は収容所で滅亡して行った。未来を失うとともに彼はそのよりどころを失い、内的に崩壊し身体的にも心理的にも転落したのであった。」(p.179)

端的にいえば、人間の体力とか、肉体的な健康さといったものではなく、人間の描いていた認識=像によって、収容所での生死が決まったのである。

認識とは対象の反映であり、像である。しかし、認識と対象は相対的に独立しており、最高の弁証法性を孕んでいる認識という存在は、訓練次第でいかようにも変化させることができるようになる。一流の認識論者を志す僕としては、フランクルの事例に倣って、自己の認識のコントロールに努めていきたい。唯一直接見える認識は、自分の認識しかないのだから。
posted by 寄筆一元 at 19:01| Comment(4) | TrackBack(1) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月07日

そこに山があるから、ではない

山に登った。日本一高い富士山の三分の一強の高さの山である。なぜ登ったのか? そこに山があるから、ではない。直接の理由は、友人に誘われたからだが、それに加えて、ちょっとした運動をしたかったのと、存在する山に登ること自体でも、それも日本一の三分の一程度の山に登ることでさえも、それなりにたいへんなのだという実感を持ちたかったからである(念のために述べておくと、僕の念頭にあるのは学の山である)。

最初は、それほどきついとは思わずに、僕が先頭になって、ハイペースで登っていった。しかし、1合目までたどり着くのに、非常に疲れてしまった。さらに、3合目にたどり着くまでに、貧血というか酸欠というか、そんなくらくらする、血の気の引いた状態に陥ってしまって、他の二人に非常に迷惑をかけることになった。

この時点で、「もう絶対頂上までなんて無理だ」と思ったが、そこは集団力でもって、何とか自分を叱咤して登り続けた。途中、三人のうち僕だけがふくらはぎをつってしまい、なおかつ、最後の方では、全く二人のペースについていけず、かなり後れをとってしまった。非常に情けない思いをしたものの、何とか頂上までたどり着けた。

山頂はあいにく雲に覆われていて、5メートル先も見えない状態だったが、充実した達成感を味わえた。昼食を食べて、一時間くらい休憩したあと、来た道を下っていった。

下りは非常に速いペースで進んで行けた。登りは3時間かかったが、下りは1時間半だった。なお、下りでも僕だけが太ももをつってしまった。日頃の運動不足が身にしみた。

自然の山道を登り下りするのは気持ちがいいし、足腰を鍛えるのに非常にいい運動になると思うので、雪が積もるまでに、是非もう2回くらいは登ってみたい。今回の一番の失敗は、ペース配分を考えずに初めに飛ばしすぎたことにあると思う。だから次回は、もうちょっと慎重に、ゆっくりとしたペースで登りたい。
posted by 寄筆一元 at 21:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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