2007年05月24日

ZA-KHEMじゃない『学城』(第四号)

『学城』の最新号が届いた。嬉しくて死にそうだ。

今朝、現代社のHPで、昨日『学城』が出たことを知った。昨日出たのだから、ひょっとして今日届くのではないかとの期待を抱いた。それにしても、ZA-KHEMの文字が消えているのが気になった。

そうこうしているうちに、午前中に届いた。実物を見てみると、やはりZA−KHEMの文字がない。表紙には、「学城」という文字の背景にDAS REICH VON WISSEN SCHAFT(「学問の王国」という意味か?)の文字が。

悠季真理氏による「編集後記」によると、「『弁証法はもやは常識』として次のレベルに昇っていくことにした」とある。つまり、弁証法の発展史としてのZA−KHEM=ゼノン・アリストテレス−カント・ヘーゲル・エンゲルス・三浦つとむはもう卒業ということだろう。それにしても、一度もZA−KHEMの意味を説かないのはいかがなものか、とか思ってしまわなくもない。熱心な南郷信者なら、わざわざ説かなくても分かるだろう、との思惑か?

パラパラと眺めてみると、p.70の「図2」、やはりそう来たかという感じだ。瀬江千史、畏るべし。僕が南郷学派で南郷継正を超える可能性が一番あると思っている、語学の達人と論理能力の達人の媒介的統一(?)たる悠季真理、実は僕が勝手に設定した、僕の最大のライバルである。すなわち、僕はやはり、どうしても哲学への憧れが捨てられない。

前から分かっていたが、南郷継正、弁証法の復興者=カントや、弁証法の達人=ヘーゲル・マルクス・エンゲルス・三浦つとむをはるかに凌駕している。学派を総括ならぬ統括している様は、見事としかいいようがない。ちなみに、僕は岩波書店の古代ギリシャ関係の誤訳を読んだことがない(念のためにいっておくと、岩波書店の翻訳文が誤訳ではない、などと主張しているのではなくて、そもそも岩波書店の翻訳文を読んだことがない、というだけのこと)。全集第7巻は、もう既に原稿ができているようだが、第3巻の上梓を強く望む。


P.S.

どうでもいい(ということもないが)が、『弁証法はどういう科学か』は絶版になるのか? 現行の講談社現代新書版より、初版の方がいいのか?
posted by 寄筆一元 at 23:21| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月15日

最近のこと、いろいろ

日本神話をマインドマップにまとめた。一般に、未知の分野を学ぶ時、全体から入っていくというのが弁証法的である。というわけで、ネット上のウィキペディアや平凡社の『世界大百科事典』を参照して、日本神話、すなわち『古事記』の上つ巻の内容を、アバウトにマインドマップにまとめた。その後、高木彬光『古代天皇の秘密』を読んだ。マインドマップのおかげで概略はつかめたが、前二作のベッド・ディテクティブシリーズほどの感動は、正直なかった。課題が曖昧ということが大きかった気がする。

僕の専門たる臨床心理学のマインドマップも既にできあがっているが、これを元に自己講義法で知識を定着させていく作業はまだできていない。やばいな、何やってんだ。

古代史に関して八切止夫を読んでいるが、文章下手すぎ。読んでいてイライラする(南郷師範の文章が下手だとか悪文だとかいう話を聞いたことがあるが、僕はそう思ったことは一度もない。瀬江さんの文章はうますぎるが)。『古代史入門』は何とか読了したが、『天の日本古代史研究』は途中で挫折。『野史辞典』と『庶民日本史辞典』を比較すると、明らかに後者の方が初心者向けのようだ。後者の興味深い記事を読みつつ、初期の『日本原住民史』でも読んでいこうと思っている(『野史辞典』か『庶民日本史辞典』か忘れてしまったが、「私には『○○』や『××』という名著があるが」というような記述があった。笑った。しかしその大言壮語、嫌いではない)。それにしても八切止夫、通説と全く違ったオリジナルの論を展開している。文章が下手すぎるせいか、はたまた僕の読解力不足か、イマイチどういう主張なのか、完全には把握してはいないが、通説(=学校で教わる日本史)とは全然違う、奇想天外な物語であることは確かだ。それにしても文章が下手すぎる。本当に作家か? 口述筆記でも、ここまではひどくならないだろう、とか思ってしまう。

エレナ・ポーター『少女パレアナ』(角川文庫)を読んだ。南郷師範は取り上げていないようだが、認識論の教材として、非常に面白い。端的にいえば、我々の認識というのは、脳細胞が描く像であり、もっとも弁証法性豊かな・変化性に富む・存在であるから、いかようにも変化するし、変化させることができるという論理が、「喜び探し」ゲームという形で説かれている小説である。あるいは、対象の多様性=弁証法性が、説かれているといってもいい。我々は、我々が生活している世界の断片しか捉えられていないのであって、世界は無限の広さを持っており、さらに無限の多様性を持っている。我々が捉えているのは、対象のほんの一面であって、その捉えた対象の一面=認識=像によって、我々は感情的に支配されている。アホみたいな表現でいってしまえば、対象にはマイナスの面もあればプラスの面もある、ということだ。マイナスの面しか見えていないから、悲しくもなり辛くもなるのだが、プラスの面を積極的に探すことによって、嬉しくなり楽しくなる。観念論的にいえば、世界とは我々が創り出したものであり、我々の経験とはすべて主観的経験なのである。そのようなことが、感動的な物語として説かれている。さらに、社会的認識の変化・発展という点でも興味深かった。すなわち、パレアナという個人が、一つの村(?)の社会的認識を、一変させてしまうのである。歴史を動かす個人のミニマム形態といったところか。

友人から教えてもらった幸田真音、お兄ちゃんと同じ高校出身と判明。さっそく一冊小説を注文した。一日分の酒を控えれば、文庫本一冊を余裕で買うことができることに気がついた。

コーチング。最近流行だが、バカにできない成果を残している気がする。こういった分野で説かれている内容も、弁証法・認識論的に捉え返すことによって、しっかり論理化する、自分の実力と化す、ということが重要であるように思う。「論理的に捉え返す」ということが非常に大切だ。どんな対象であっても学ぶべき点がある。

5月になったので、灼熱の砂利道ジョギング再開。既に十分すぎるほどの熱さだ。昼間は灼熱の砂利道ジョギング、夜は普通に5キロ強のジョギングを生活化したい。

『「いのちの歴史」の物語』読書会、終了。次回からは、統計学読書会。大学院では、統計学をしっかり身につけることを第一の目標として研究したい。そのような研究ができる大学院を選ぼうと思う。

佐藤琢磨がポイントゲット。かなり運もよかったが、フィジケラを抜いて8位になった時、普段は冷静沈着な僕もほんのちょっとだけ興奮してしまった。
posted by 寄筆一元 at 02:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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