2007年03月30日

高木彬光『密告者』(光文社文庫)



久々に高木彬光の推理小説を読んだ。高木彬光といえば、今までは神津恭介ものしか読んでいなかったが、この『密告者』の探偵は、検事・霧島三郎である。

内田康夫に比べると、高木彬光はいかにも社会派という感じである。この『密告者』は当時(1965年頃)はやっていたという産業スパイ物であり、しかも検事が探偵役なので、自ずと現代社会のこころのようなものが描かれている。

しかも本格ミステリである。アッと驚く結末にも、内田康夫小説に時々感じるような、不自然さがない。なるほどね! という感じだ。推理小説独特のスリルとサスペンス満ちた作品だった。

気軽な気分でスラスラ読めて、日本各地を案内してくれる内田小説もいいが、こういった少し重い社会派推理小説も非常に面白いと改めて思った。高木彬光の検事・霧島三郎シリーズのみならず、松本清張や森村誠一作品も、どんどん読んでいきたい。
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2007年03月24日

山村修『<狐>が選んだ入門書』(ちくま新書)



お父さんたちが通勤電車で手にする夕刊紙「日刊ゲンダイ」で22年間の長期連載となった<狐の書評>を書いてきた匿名の書評家<狐>が、初めて覆面をとって各分野から選んだ25冊をめぐって読書の愉しみを説いた本。

<狐>こと山村修氏は昨年に亡くなったそうだ。僕は日刊ゲンダイも読んだことがないし、当然そこに連載されていた<狐の書評>も読んだことはないが、この本を読むと、さぞかし面白い書評だったのだろう、と想像してしまう。

そもそも本を読むというのは、ある種、新しい世界との出会いでもあるわけだが、山村氏はその新しい世界を愉しく紹介してくれる人だと思った。

たとえば、僕は今まで「美術」というものに、それほど関心がなかったけれども、武者小路路穣『改訂増補日本美術史』の書評を読んで、速攻でこの本を注文してしまった。この本は、「日本美術の全史を平明・簡潔にガイドする『早わかり』の傑作」(p.183)なのあるが、ふつうの歴史教科書のような無味乾燥さを免れているそうだ。海外との文化的なつながりに目配りがなされており、「没個性どころか、この本には著者ならではの見解が、しばしば文面にさりげなく浮上してきます」(p.186)と解説されている。また、引用箇所が絶妙なせいもあるかもしれない。とにかく、読んでみたくなる書評なのだ。

他にも、武藤康史『国語辞典の名語釈』、萩原朔太郎選評『恋愛名歌集』、内藤湖南『日本文化史研究』、岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』などなど、読んでみたい! と思わせる書評が多かった。

また、文章の書き方、もっと限定して、書評の書き方、という点でも、学ぶことがあったように思う。というより、書評書きというのも面白い仕事だと思わせる何かがあったという気がする。

僕も、人を新しい世界に誘う<狐>氏のような仕事がしたいと思ったしだいである。
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2007年03月06日

木村達雄『透明な力』(講談社)



知人に勧めていただいた木村達雄『透明な力』(講談社)を読んでみた。副題には、「不世出の武術家 佐川幸義」とある。何でも佐川幸義という人物は、大東流合気武術宗範で、11歳で大東流・武田惣角に入門後、長い修行を経て師を越えたといわれているらしい。その佐川幸義の略伝と語録を、弟子の木村達雄がまとめたのが本書である。

恥ずかしながら、この佐川幸義なる武術家を、僕は全く知らなかった。しかし、この本に書いてあることが事実であれば、佐川幸義は間違いなく、名人・達人レベルの武術家であろう。相手を無力化する技術=合気を師・惣角から唯一受け継いだ人物だそうだ。合気なる技術を習得した唯一の人物だから、どんな人間が本気でかかってきても、あっという間に吹き飛ばしてしまうという。それも、かなり高齢(90歳くらい)になってからも、かなう者はいなかったらしい。それどころか、70を越えてからも、どんどん進化していったという。

この合気という技術は、植芝盛平が創始した合気道とはあまり関係がないというか、全然別物であるようだ。最初はこのことが分からなくて、ちょっと混乱してしまったよ。

「略伝」では、昔の武術家の生き方が描かれており、興味深かった。佐川の師である武田惣角は、全国を巡りながら金持ちに指導して回るという生活を送っていた。佐川も助手として、一緒に廻っていたようだ。

本書の中心は、何といっても「佐川先生語録」であろう。さすがに「不世出の武術家」と評されるだけあって、含蓄のある言葉が多い。主な内容は次の4点といってよいと思う。

@頭を使え
考え続け、工夫し、反省することが大切だ。

A執念が大切だ
意志、気持ちが何よりも大切で、だめだという時にナニクソとがんばる「ヤマト魂」がなければだめだ。


Bこれでよい、ということはない
人間、現状に満足すれば進歩が止まってしまうから、一生修業だと思って、いくつになっても進化し続けなければならない。

C自分で責任をとれ
何でも教わろうという他者に頼る気持ちではだめで、自分で開発していこう、自得しようという心構えがなければだめだ。誰かが強くしてくれるのではないのだ。

要約してしまうと平凡な感じがするが、本人の言には、武術家魂が溢れている気がする。これからの老人はかくあるべし、という見本であろう。

ただ、かなり精神論に偏っているきらいがある。しかも上達論などないし、「語録」もエッセイのような断片的なもので、全く体系的ではない。結局彼の合気も、だれひとり受けつくことができないまま、彼はこの世を去ってしまった。要するに、彼の業績が文化遺産としては、あまり形あるものとして残っていない。せいぜい、この本の語録と、弟子たちの技に残るのみ、という感じであろうか。

それでも佐川の、何としてでも合気を修得しようという執念や、そのために考え続け、工夫し続け、鍛錬を怠らなかった姿勢、すべてを自分の責任ととらえて反省し、研究して、高齢になってからも進化を続けた人生は、多くの見習うべきものがあると思った。やはり、どんな世界でも一流になるには、このくらいの執念と研鑽が必要になるのだろう。
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2007年03月03日

狼少女の再来か?

僕がほぼ毎日欠かさず見ているテレビ番組に、「ムーブ!」という関西ローカルの番組がある。2時間くらいの番組だが、録画しておいて、CMと芸能コーナーをカットし、ちょっと早送りで見ると、1時間くらいで全部見ることができる。

そのムーブ!のあるコーナーで昨日、一ヶ月半ほど前に話題になった、カンボジアの“ジャングル・ウーマン”の話が取り上げられていた。

ムーブ!によると、問題の女性が発見されたのは1月13日。カンボジアのとある村で、食料の盗難が続いていたことから村人が警戒していたところ、全裸の女性が製材所に侵入して、四つんばいで米を食べているところを発見され、捕らえられたという。

その女性の特徴は以下。

1.クビを突き出し、猿のように屈んで歩く
2.全身やせ細り、あかまみれで悪臭
3.毛髪はボサボサで、ひざくらいまでの長さ
4.奇声を発するが、言葉は話せず理解もできない

この女性に対して警察官のサル・サーさん(45)が、1989年に家畜である水牛の世話をしていて行方不明になった自分の娘(当時8歳)かもしれないと名乗り出た。右腕の傷が一致したことから、本人だと確信したという。

それ以来一ヶ月半の間、家族と共に生活を送っているが、人間生活への適応が進んでいないという。彼女は、警戒心が強く夜行性で、時々四つんばいで行動する。すぐに服を脱ぎたがり、何度も脱走を試みたらしい。また、野菜は食べずに豚や牛の生肉を好むという。当然、いまだに言葉も話せない。

8歳の時に行方不明になった少女が、「野生動物の宝庫」ともいわれる人跡未踏のジャングルでどのようにして18年間も生活してきたのか? ムーブでは、4つの可能性を指摘する。

@ジャングルで一人で生き抜いた?
Aジャングルで動物に育てられた?
B奥地の少数民族と暮らしていた?
C何者かに監禁・虐待されていた?

@は爪がきれいに切ってあり、手も比較的きれいだったということなどいろいろな理由を考慮すると、ありえない。

Aはインドで発見されたというカマラ・アマラが有名だが、これも現在では、「自閉症児が捨てられ短期間だけ狼と暮らしているところを発見された」との見方が有力。狼のミルクと人間のミルクの成分があまりにも違うから、狼に育てられることはあり得ない。今回のケースも同様に、動物に育てられたとは考えられない、という。

Bは、言語を全く話せないということからして考えられない。

それで、一番可能性があるのはCであるという。先ほども指摘したように、手足の爪が切られており、手もあまり荒れていなかったこと、腕に動物用のワナにはさまってできた傷があり、これから自力で脱出したとは考えられないこと、などから、何者かに連れ去られたという可能性が強いという。

インドの人権団体幹部の「この女性が、性的もしくは他の目的による虐待の犠牲者である可能性は高い」というコメント、さらに、動物行動学が専門の長谷川寿一東大教授の「何者かが人里離れた場所に少女を監禁し、食物を与える以外の一切のコミュニケーションを絶つなどの虐待をおこなっていたのでは」というコメントが紹介された。

MCの関根さんが「それならどうして女性は、その虐待の事実を話さないのか?」という意味の質問をしたところ、このコーナーを仕切っていた若一光司氏が「性的虐待で一種の人格転移がおこり、自分であることを否定してしまっているからだ。トラウマがあるから話すことができなくなってしまった」というようことを言った。ここで、このコーナーが終わった。

確かに心理学の世界では、アマラ・カマラが狼に育てられたことを否定する見解が主流であるようだが、はたしてそうなのか? 今回の女性が言葉を話せないのは、虐待によるトラウマが原因なのではなく、ただ単に、ジャングルで動物と共に生活を18年間も送っていて、言葉を話す必要性がなかったから忘れてしまっただけなのではないか?

だいたい、何者かに監禁されていたのなら、生肉を好むことだとか、すぐに服を脱ぎたがるだとか、四つんばいで行動するだとか、夜行性であることなどが、説明できない気がするが。

どうしても、アマラ・カマラの再来と考えたくなる。今後も、このニュースには注目していきたい。
posted by 寄筆一元 at 11:59| Comment(4) | TrackBack(0) | 時事問題 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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