一番驚いたのは、論理学と哲学の区別と連関が見事に説かれていること、そして論理学=学一般の構造論が示されていることである。まずは、論理学と哲学の区別と連関に関する記述を引用しておこう。
「一から生成発展してきた世界全体を丸ごととらえ、そこからとりだした論理を体系化した論理学、およびそれを駆使の体系においた学問体系としての哲学」(『全集』第四巻p.319)
「論理学とは実体としての世界の論理構造を観念体の論理構造として体系的に把握したものであり、哲学とは論理学を『駆使の体系』におくこと、つまり論理学の体系的論理構造を用いて世界を説(解)ききることである」(同上p.336)
実はこの内容は、『武道講義第二巻 武道と認識の理論U』で既に説かれていた。しかしこれだけでは、「像のない言葉としてしか理解することができなかったであろう」として、この講義では「その論理学=学一般の像を、運動性=弁証法性をもって、浮かびあがらせた」(同上p.361)ということである。
それでは、論理学=学一般の構造論とは何か。どうやら三本柱であるようだ。曰く、自然の弁証法的解明(「生命の歴史」)、社会の弁証法的解明(「人類の歴史」。ヘーゲルが『歴史哲学』において明らかにしようとした「世界史」に匹敵するもの)、そして精神の弁証法的解明(「学問の歴史」。ヘーゲルが『哲学史』において明らかにしたかった内容に匹敵するもの)、である。日本弁証法論理学研究会では既に自然の弁証法的解明はほぼ終了しており、現在は社会および精神の弁証法的解明が正面にすえられているという。
解明済みの「生命の歴史」については、以下のように説かれている。
「宇宙の誕生から、太陽系の誕生、そのなかの地球の特殊なありかたからの生命現象の誕生、そして地球との相互浸透による生命現象から単細胞生命体への転化、さらにそこから、カイメン、クラゲ、魚類、両棲類、哺乳類を経て、サルから人間への発展の一本の大きな道筋と、その時々の全宇宙的相互浸透のありかたが、すべてにわたって解明されているのであり、自然に関して、ここから解けない問題は現在ではなに一つない。」(同上p.356)
凄まじい内容だ。この「生命の歴史」は、以前『綜合看護』に「看護のための『いのちの歴史の物語』」として連載されていたものが、近々(年内といわれている)単行本として出版されることになっている。絶対に買いである。
その後、「学問としての『世界史』を理解する鍵は『地球の歴史』にあり」として、その二重構造が説かれていく。しかし、ここでどうしても納得できないというか、「編集のミスでは?」と思われるような展開がある。それは、この二重構造が、まず『全集』第四巻のp.357のl.8から「一つは」として説かれ、次にp.358のl.5からは「もう一つの構造」として説かれているのに、p.360のl.7ではまた「もう一つの構造」が説かれ始める点である。
同じことは、PART2の初めの部分で、PART1の内容が要約されている部分についてもいえる。『学城』第一号p.219の「弁証法とは」の図のすぐ後に、「次に『世界史』を理解する鍵は『地球の歴史』にあり、のもう一つの構造は」として説かれるのであるが、それはたった今まで説かれてきたことではないのか? つまり、p.217の上段から下段にかけて、「次に『世界史』を理解する鍵は『地球の歴史』にあり、のもう一つの構造は」と全く同じ文言があり、そこからp.219までそのことが説いてあるのである。
僕は、初めてこのPART2を読んだ時から、「あれ?何かおかしいぞ」と思っていた。今回読み返してもやはりおかしい。一体どういう論理展開になっているのか。おそらくおかしいのは僕のアタマの方であろうから、どこをどう勘違いしているのか、分かる方がいらっしゃったらご教授ください。
さて、問題の二重構造であるが、その一つ目が、まさに目からウロコであった。「自然の生成発展の論理構造、すなわち自然の弁証法性は、社会および精神の生成発展の論理構造、すなわち社会の弁証法性、精神の弁証性と同一の構造を有する」として、具体的には以下のように説かれている。
「世界史は地球の歴史である。地球の歴史をみることによって、人類の歴史をアバウトにみることができる。これが弁証法すなわち一般的な運動の法則性である。人類の歴史とは、地球の生成発展の一般性がちょっと形を変えただけである。地球の歴史、すなわち太陽系の物質としての生成発展の一般性をみれば、生命体の歴史の一般性がわかる。
両者はアバウトにみると同じで、生命体の歴史は、地球の歴史のちょっと歪んだ形でしかない。同じように、地球の歴史の一般性が、ある程度構造づけてわかれば、人類の歴史の一般性もアバウトにわかることになるのである。こういう効用を他の学者たちはわからなかったのである。」(『全集』第四巻pp.357-358)
「人類の歴史とは、地球の生成発展の一般性がちょっと形を変えただけである」の部分を読んだ時、「なるほど! 弁証法的にはこのようにとらえられるのか!! 弁証法にはこのような効用もあるのか!!」と心躍ったものである。
PART2では、弁証法でいう発展の論理構造の核心を、格言レベルで表現したものとして、"change of the place, change of the brain"という言葉が紹介されている。これが、「生命の歴史」で一番学ばなければならないことであるという。この自然で解明した弁証法性を導きの糸として、社会の弁証法性の解明に進まなければならないと説かれている。
PART3では、「学問としての『世界歴史』とはなにか」として、社会の弁証法性について説かれているといってよいと思う。ここでは、弁証法的唯物論の立場から説く本来の「世界歴史」とは、「人類(として)の社会的認識=社会的労働の発展形態の歴史である」と規定されている。また、この概念規定に至るまでの学問的系譜として、カント・ヘーゲル・マルクス・滝村隆一の説く「世界歴史」についても触れられている。
PART3で一番感動したのは、「学問としての『世界歴史』物語のサワリの概略」として説かれた、「劇画レベル」の解説である。非常にイメージが湧きやすい。像が流れる感じである。"change of the place, change of the brain"の表象像として位置付けたい感じである。
今回読み返して、やはり師範の説かれる内容は、私が高校の時以来憧れつづけている哲学そのものである!との思いが強まったことである。超壮大なスケールである。今後とも、この素晴らしい論文を味わっていきたい。特に、新旧二つの弁証法に関しては、まだまだ知識レベルの理解すら曖昧だということが判明したので、『全集』第二巻を何度も読み返そうと思った。