先日、ディーツゲン『人間の頭脳活動の本質』(岩波文庫)の読書会の第二回を行った。今回の範囲は「三 事物の本質」である。正直、ちょっと難しかった。ここには、三浦さんも引用している真理と誤謬に関する記述がある。このあたりはよく分かったが。。。
以下、Kちゃん作のレジュメと、僕がつくった「ディーツゲン年譜」を載せておく。ディーツゲン『人間の頭脳労働の本質』 06.6.2
3 事物の本質
#事物の本質
・科学の対象すなわち物質は感覚的現象。科学は感覚的現象によって真の存在を、すなわち事物の本質を求める
→この本質は思惟能力においてのみ表れる
・感覚的現象(世界)は物質の変化から成り立っている。永遠に変化することのない物質は、現実には移り変わる形態の総和としてのみ存在。感覚的世界すなわち実践においては、永久のもの、同一のもの、本質的のもの、「物自体」は存在しない。
・このような感覚的現象が我々の脳髄活動の材料である。思惟能力は感覚の諸現象と接触して、感覚的に与えられた多様性を抽象し、本質的・一般的なものを認め(概念)、それを体系化する。
・当初、この過程は本能的になされるものであった。だが、科学的概念はこの行為を知識と意識とをもって繰り返し遂行する。
#真理
・本質および真理は同じ事柄に対する2つの言葉であり、理論的性質のもの。
→実践は事物の現象を与え、理論は事物の本質を我々に与える。そして、実践は理論の前提であり、現象は本質あるいは真理の前提である。
・一般者(一般に存在するもの、現存〔Dasein〕、感性)が真理である。だが、それは現実では特殊な方法と様式においてのみ存在する。
→真理は何れの事物にも多かれ少なかれ含まれており、特殊な存在にもその特殊の一般性あるいは真理がある。すなわち、思惟能力はあらゆる多様な現象のなかから同一のものを認める。
#真理と誤謬
・全ての思想・認識はそれが精神の現れであるという点で共通性をもっている
⇒認識と誤認との差異は相対的なものである。ある思想はそれ自体としては真でも偽でもなく、一定の与えられた対象と関係してのみ真になったり偽になったりする
⇒完全な認識は定められた制限のうちにおいてのみ可能。感覚的現象のある与えられた範囲内における一般者が真理であり、個別的なものあるいは特殊なものを一般者と称するのが誤謬である。誤謬は、感覚的経験が教える以上の一般的存在を騙る点で真理と区別される。誤謬の本質は逸脱である。
・思弁哲学は精神にのみ真理があり、虚偽は感覚にあると考える。だが、ディーツゲンの考えでは、感覚によって真理が得られ、誤謬の源泉は精神のなかにある。
・誤謬は先天的に真理を認識し、誤謬の反対物は後天的に認識する。先天的認識と後天的認識との関係は、哲学(信仰)と自然科学(知識)との関係に等しい。信仰は怠けることであり、科学は労働である。
おわりに
・思惟能力の本質は我々がその感覚的現象から得てきた概念である。
ディーツゲン年譜
1828年12月9日
ブランケンベルクに生まれる
1845年〜1849年
父の仕事場で、なめし皮の業務を習得する
フランス語に熟達する
1849年6月
アメリカ合衆国に渡航する
日雇い労働者として各地を渡り歩く
ときどき、なめし皮職人、ペンキ屋、教師の職に就く
英語を習得する
1851年
ドイツに帰って、父の製革所で働く
1853年
熱心なカトリック信者の娘と結婚する
商売を始めて成功する
半日働き、半日学問に充てる
フォイエルバッハと文通する
『共産党宣言』に感銘を受ける
1859年
再度渡米して、アラバマ州モントゴメリで製革工場を設立する
1861年
南北戦争からのがれるために帰郷し、父の製革工場の経営を引き受ける
マルクス『経済学批判』を読む
1864年春
ペテルスブルクに、官営製革工場の技術指導者として赴任する
工場の能率を5倍に高める
1867年末
マルクスと文通を始める
1868年
書評「マルクスの『資本論』」を書く
『人間の頭脳活動の本質』を書く
ペテルスブルクを去り、ラインのジークブルグに帰る
次第に生活難に陥る
1869年8月
社会民主労働者党に参加する
9月
マルクスが娘とともにディーツゲンの家を訪れる
1872年9月
ハーグで開かれた国際労働者協会の第五回大会に出席する
そこでマルクスは「これがわれわれの哲学者だ」と紹介する
旧友フォイエルバッハの訃報に触れ、涙する
ジークブルグ時代、多数の論文を発表する
1878年
逮捕され拘置所に勾留される
1880年
生業が行き詰まり、長男のオイゲンをアメリカに渡らせる
その後4年間、認識論と経済学に関する手紙を書き続ける
1881年
ドイツ帝国議会の議員にライプチヒ地方区から立候補し落選する
この頃、社会主義者や学生がしばしば彼の家を訪れ、教えを乞う
1884年6月
アメリカに移住する
社会主義労働者党の中央機関紙『ゾチアリスト』の編集指導を引き受ける
1886年3月
長男オイゲンが住んでいたシカゴの家に転居する
1886年
『認識論の領域への一社会主義者の進撃』を書く
1887年
『哲学の実果』をまとめる
1888年4月15日
心臓麻痺によって死亡する