2006年03月28日

TOSS、あるいは教育技術法則化運動

先日、前々からメールのやりとりをしていた方と直接出会って、いろいろ大志を語り合った。というより、いろいろと語っていただいた。

この方は学校の先生で、TOSS(教育技術法則化運動)いう団体で熱心に教育技術を磨いておられる。TOSSでの模擬授業の様子や、教師の段位について、いろいろと教えていただいた。何でも、有段者になると、おそろしいまでの実力を把持されているそうだ。模擬授業に臨む際には、「身の丈の本」を読んでくることが要求されるという。しかも、本を一冊ずつ積み上げて、「身の丈」にするのではない。本をぎっしり詰めた段ボールを積み上げて、「身の丈」になるまで、本を渉猟し、研究して、その成果を教え子に還元するのである。

せっかく身の丈の本を読んで模擬授業に臨んでも、わずか5秒(?)くらいで、ストップがかかってしまうことがあるという。技を見る目を持つ達人が見れば、5秒でその人の実力が読み取れるのであろう。視線の配り方、立ち方、歩き方、声の出し方、生徒の引きつける技術、等々、基本的なポイントから高度な技術に至るまで、達人は無意識のうちに実践できるし、他人の実践も、そのような様々な観点から、バシッと評価できる。達人になるまでには、どれほどの意識的な修行が積み重ねられたのか、想像を絶するほどであろう。

原田隆史氏とは違うが、向山洋一氏も強烈な理念を持って教育に携わってこられたのだと思う。一般の塾講師のニーズには、原田隆史氏より向山洋一氏の方がぴったり合う気がした。

それにしても、人に語れるものをたくさん持っている人間というのは、非常に魅力的だと感じた。今回出会った方は、話が尽きることなく、次から次へと興味深いお話をしてくださった。酒に酔っておられたからであろう、おそれおおくも、「ビートルズのことであれば、向山先生にも、○○師範(怖くて書けない)にも負けない!」と豪語しておられた。事実かどうかはともかく、それくらい自信を持って語れるものがあるというのは凄いことだ。非常に有意義だった。と同時に、それほど語れるものを持っていない自分が、何か情けないというか、個性に欠けるというか、そんな惨めな感じもしないでもなかった。

(自分用メモ)
南郷継正『武道広義第四巻 武道と弁証法の理論』(三一書房、少し前まで品切れで入手困難だったと思うが、最近はアマゾンで普通に入手できる)pp.340-342で初めて向山洋一氏の存在を知ったわけだが、その後私は、氏の著作で基本書的なものとして位置付けられている『授業の腕をあげる法則』と『子供を動かす法則』(ともに明治図書)しか購入していなかった。ところが最近、『武道広義第四巻』で触れられていた「上達論の先駆者・南郷継正」なる小論の内容を知る機会があった。衝撃の事実が説かれていた。なぜもっと早くにこの小論を読まなかったのか、少々後悔した。
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2006年03月26日

モンゴメリー『アンの愛情』(掛川恭子訳、講談社)

※今回も、『アンの愛情』の内容について触れていますので、未読でその内容を知りたくない方はご遠慮ください。

『赤毛のアン』シリーズ第三巻、『アンの愛情』を読了。18歳〜22歳のアンが描かれている。ルビー・ギリスが死ぬ第14章と、アンがギルバートへの愛を悟る第40章、読みながら泣きっぱなし。

この巻を通じて、アンのギルバートにたいする心情と態度の描写が、非常に面白い。ロイと付き合っている間も、ギルバートと、ギルバートと噂になっていたクリスティーンのことが何となく気になるアン。アンは、ロイからのプロポーズを突然断り、ギルバートの病気をきっかけに彼への愛を悟る。そして最後の第41章、アンは「愛の王国に入る」のである。

アンがロイのプロポーズを断ったということを知った病床のギルバートは、医者もビックリするくらいの回復をみせる。この辺り、認識論的にも非常に興味深い。まさしく認識=像の持つ凄まじいまでの威力が発揮されたといえそうだ。もっとも、ギルバートが病気になったのも、認識=像の影響だと思うが。

それにしても、物語の中でも、時間はあっという間に過ぎてしまう。この巻では、アンの大学での4年間が描かれているわけだが、ついこの間、11歳のアンがグリーン・ゲイブルズにやってきたばかりの感じがするのに、もう大学卒業である。アン自身も感じているように、時の経つのは速い。歴史性を持って生きられるように、もっとアンのように勉強しなければ、などと思った。
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滝村隆一「俗流政治学の妄想とマルクス主義政治学の方法的構想」「国家と社会との構造的連関」

滝村読書会のとりあえず最終回があった。『増補 マルクス主義国家論』の最後の二つの論文を扱った。大きな論点は二つ。「歴史的=論理的」とはいかなることか? と、「<広義の経済学>確立のためには、何よりもまず<狭義の経済学>の体系的な創出が要求される」というのはどういうことか? である。

前者に関しては、エンゲルスが『経済学批判』への書評で述べている、以下の言葉が鍵となる。

「論理的なとりあつかいは、じつはただ歴史的形態と攪乱的偶然性というおおいをとり去っただけの歴史的なとりあつかいにほかならない。」(『経済学批判』国民文庫、p.263、ただし、訳は『増補 マルクス主義国家論』からの孫引きで、武田・遠藤・大内・加藤の共訳)

ここでいわれていることは、要するに、「論理的なとりあつかいは、……歴史的なとりあつかいにほかならない」ということである。換言すれば、ある対象を論理的に把握するとは、その対象の生成・発展・消滅の全過程を一般的な歴史的過程として把握することである、ということであり、端的にいえば、弁証法的に把握することである、ということであろう。

後者に関しては、<狭義の経済学>確立のためには、アバウトであっても<広義の経済学>の確立が必要なのではないか、少なくともそういう側面もあるのではないか、という気がするのだ。ちなみに、<狭義の経済学>とは、近代的な経済的社会構成の解明に限定されるのに対して、<広義の経済学>は歴史的=世界史的に規定された経済的社会構成の生成・発展の全過程を対象としている。「人間の解剖は猿の解剖にたいする一つの鍵である」から、<原始的>→<アジア的>→<古代的>→<封建的>という、それぞれの歴史的段階における経済的社会構成の一般的特質を析出するためには、資本制的生産様式の特質が、前もって定立されていなければならない、というのは確かに分かる。だが、それでも、資本制的生産様式の特質を解明するためには、そこに至までの過程を分かっていなければならないという気も、同時にするのだ。つまり、より一般的にいえば、「結果だけでなく、結果に至る過程も分からなければ、分かった気がしない」、あるいは「過程も含めて全体である」ということである。別の例でいえば、人間とは何か、を分かるためには、生命の歴史が分からなければならないのではないのか?

<狭義の経済学>と<広義の経済学>は、学問の構築過程における一般論(本質論)と構造論の関係と同様、一方的な媒介の動きだけで片づけることはできず、相互作用というか、否定の否定的に発展するのではないか、というようなお話になった。現時点では、この解釈でいいような気がするが、こういった解釈はだいたい間違っているというのが、今までの経験上確かめられている気がする。

終了後、近くの大衆居酒屋みたいなところで飲んだ。けっこう飲み食いした割には安かった印象がある。ここでは、三浦つとむ没後20周年の記念行事を行おうという話が出た。三浦つとむ没後10周年の記念鍋会をやってから、6年以上の年月が流れているとは信じられない、などと昔話もした。

次回からは、ディーツゲン『人間の頭脳活動の本質』(岩波文庫)を読み進めることになった。ディーツゲン読書会、楽しみだ。

以下は、今回のレジュメ。O作。


滝村読書会 『増補 マルクス主義国家論』                    2006年3月23日
                                          
「第V部 思弁的=文献学的政治学批判」
1.俗流政治学の妄想とマルクス主義政治学の方法的構想
 はじめに
  社会科学の方法、経済学大系の方法的特質などを解明しながら、新たに構築さるべきマルクス主義政治学の体系的・方法的構想に関する見解を提示

(1)唯物論的方法とは何か
  唯物論的方法:当該対象の特質の分析・精査・解明  →  体系・方法の総括(成果として抽象)
  観念論的方法:対象に関する<原理><方法>の設定 →  対象の究明
    *先人によって定立された<原理><方法>は仮説としての意味しかもちえない

(2)個別科学における方法の特質
  個別科学の方法論は、独自の特質に規定されているため、それぞれ独自の具体的な方法論として把握されなければならない
    ex.政治=<特殊意志>の幻想的「共同」形態支配の過程
           → <意志>論を政治学固有の具体的な方法として想定
  “マルクス主義者”の傾向
     ・社会科学一般の抽象的な方法から演繹的に導き出す
     ・『資本論』の方法(=経済学の方法)を政治学の具体的方法論としてアプリオリに採用する

(3)広義の経済学とは何か
政治学と経済学は<広義>の理論体系と<狭義>のそれとの統一において構成され、歴史的=論理的に展開されねばならない
   <広義の経済学> = 歴史的=世界史的に規定された経済的社会構成の一般的および特殊的な諸法則を解明する科学

(4)狭義の経済学・その方法と体系
  <狭義の経済学> = 近代的な経済的社会構成の解明(歴史的=論理的な再構成)する科学
    近代社会の論理的な体系的再構成は、資本制的生産様式の生成・発展・消滅の全過程を、一般的な歴史的過程として論理的に把握することによってのみ可能
   ○宇野弘蔵らによるエンゲルス批判:歴史主義的傾向が強く、マルクスとかけ離れている
          ↑
     ・『資本論』は歴史的=論理的に構成された<狭義の経済学>の体系的プランの一環
     ・『資本論』の論理構成全体の基本的構造は、歴史的=具体的な発展過程に対応
     ・『資本論』における抽象的な基礎カテゴリーは、全て歴史的な規定性を内に含んでいる
   ○経済学(政治学)と歴史学(経済史学や政治史学)の区別と連関
      経済学・・・高度に抽象化された<世界史>的な意味での<歴史性>(=論理)が前面
      ↑ ↓
      歴史学・・・<個別歴史>(=事実)そのものが前面
   ○<広義の経済学>と<狭義の経済学>の相互関連
     <広義の経済学>確立のためには、<狭義の経済学>の体系的な創出が要求される

(5)狭義の政治学・その方法と体系
  ・経済的社会構成に対する経済学の関係とほぼ同様のことが、<政治的社会構成>に対する<政治学>の関係についてもいえる
  <広義の政治学> = <政治的社会構成>の一般的および特殊的諸法則を解明する科学
    <狭義の政治学> = 近代的な<政治的社会構成>の全歴史過程を、歴史的=論理的に再構成する
  ・<広義の政治学>と<狭義の政治学>との関連も、経済学の場合とほぼ同様のことがいえる
        <狭義の政治学>の体系化 → <広義の政治学>の確立
  ・マルクスの近代国家論プランは、<狭義の政治学>としての<近代国家論>の理論体系を、歴史的=論理的な体系として構想している

(6)広義の政治学・私の構想
   エンゲルスによる<広義の政治学>の体系化の試みを、私たちがおしすすめていかねばならない


2.国家と社会との構造的連関
 はじめに
  <国家>と<社会>との構造的関連上の原理的把握の問題に対するマルクス=エンゲルスの見地と、古典市民主義政治・社会理論から、近代政治学に至る市民主義の見地との異同について論究する。

(1)マルクス主義における国家と社会との関連把握
  ・従来のマルクス主義者 → <共同体−内−国家>という発想のみ
<国家>と<社会>を実体的に把え、直接的かつ実体的に対立 
・マルクス=エンゲルス → <広義の国家>という発想
<国家>と<社会>との構造的関連を、当該<社会構成体>における<政治的社会構成>と<経済的社会構成>との原理的・構造的な二重化として把握

(2)古典市民主義政治理論における国家と社会との関連把握
  ○ホッブズ
    ・<国家>と<社会>との原理的および実体的な区別は殆んどみられない
    ・<国家>と<国家機関>との区別が殆ど問題にされていない
  ○ロック
    ・「国家」と「社会」とが、原理的にも実体的にも殆んど区別されていない
    ・<国家>の諸機関が、「政治社会」や「市民社会」と原理的かつ実体的に区別されはじめている
  ○ルソー
    ・<国家>と<社会>との原理的かつ実体的な区別が完成される直前にある
         ( → <国家>と<国家>の機関としての「政府」との原理的かつ実体的な区別)

(3)ヘーゲル以後における国家と社会との関連把握
     ヘーゲル:<国家>と<社会>とをはじめて原理的に峻別し、実体的には同一の存在として把握
        *ラスキ・パーカーもヘーゲル以来の見地を忠実に継承

(4)日本的多元的国家論における国家と社会との関連把握(その一)
  日本の多元的国家論:<国家>と<社会>の峻別を主張
   ○西欧の多元的国家論との相異
       ・<国家>と<社会>を実体的に区分(↔ 西欧:原理的に異なるが実体的には同一)
       ・<国家権力=社会権力>説
     *<国家権力>と<社会権力>の原理的区別は、自己以外のあらゆる<社会権力>に対する<政治的=イデオロギー的>な支配・統制により、社会構成全体の秩序を維持する点

(5)日本的多元的国家論における国家と社会との関連把握(その二)
  西欧の多元的国家論との相異は何故うまれたか?
     当時の政治的・思想的背景:天皇制イデオロギーに忠実な学者が<広義の国家>論を主張
→ 「進歩的学者」が<広義の国家>観を<狭義の国家>観として解釈

〔増補版へのあとがき〕
  自らの原理乃至一般理論を打ち立てることに専心せよ、他説はその限りにおいて副次的に扱えばよい、間違っても、先行所説の批判的検討を通じてのみ自己の論を提出しうるなどというべきではない、自己の原理を持たぬ者に、どうして他説を評価することができるというのか!
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2006年03月19日

モンゴメリー『アンの青春』(掛川恭子訳、講談社)

※今回も、『アンの青春』の内容について触れていますので、未読でその内容を知りたくない方はご遠慮ください。

『赤毛のアン』シリーズ第二巻、『アンの青春』を読了。16歳〜18歳のアンが描かれている。この二年間、アンはアヴォンリーの学校で教師をしているが、最後は大学に入るために教師を辞めることになる。アンが辞めることを知った生徒たちは、泣いて悲しむ。別れる時に泣いて悲しんでもらえるなんて、教師冥利に尽きる。こんな教師になりたいと思った。

今回の主要登場人物の中に、双子の兄妹、デイビーとドーラがいる。兄のデイビーはいたずらっ子で、問題ばかり起こしている。妹のドーラはおとなしい。問題を起こしたあとの言い訳が、小さい頃のアンにそっくりな気がした。

また、アンにいわせると「天才」のポール・アービングという少年も登場する。アンと同様、非常に想像力豊かで、普通の人から見ると「頭がおかしい」と思われるような作り話をする。しかし、アンから見ると「天才」なのだ。この第2巻『アンの青春』では、ポールとその家族が一つの大きなポイントになっていると思う。

一番感動して涙した場面は、やはり最後の結婚式で、太陽の光が差し込む場面。ゾクゾクッとした。一番壮絶な場面は、雹が降って村を破壊する場面。

第三巻以降では、いよいよアンとギルバートの関係が深まっていくはず。非常に楽しみだ。
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2006年03月17日

WBCその2

奇跡が起きた。

昨日の韓国戦で敗れた日本は、今日、メキシコが2点以上とってアメリカに勝利しなければ、準決勝進出はできないことになってしまった。全くの他力本願である。しかも、メキシコにはもはや準決勝進出の可能性がなく、アメリカにとっては勝ちさえすれば準決勝進出できる。全くモチベーションが違うことが予想された。

しかし、本日、何と、メキシコが2−1でアメリカを破ったのである。これで日本の準決勝進出が決まった。日本時間の19日(日)に、三度韓国と対戦する。

今日のメキシコvsアメリカ戦でも、例の審判が誤審をやらかした。三回、メキシコの選手が打った打球がポールに当たった。この場合はホームランのはずなのに、何を思ったか、インプレーと判断し、結局2塁打になってしまったのだ。さらに、二回の米国の攻撃でも、無死一塁から左飛で飛び出した一塁走者の帰塁が遅かったにもかかわらず、セーフの判定。要するにアメリカびいきの判定をして、注目を集めたいだけのようだ。準決勝、決勝は、この審判にジャッジさせるべきではないだろう。

それにしても、準決勝に進出してしまえば、一位通過だろうが、ぎりぎりの二位通過だろうが、何の関係もない。今度こそ韓国を破ってくれると信じている。イチローがスッキリと屈辱を晴らしてくれるだろう。
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2006年03月14日

F1、WBC、and『エンジェル・ハート』

13日(月)の深夜に、F1の開幕レースがあった。スーパー・アグリの佐藤琢磨は「奇跡の完走」。よくここまで辿り着いたといいたいが、如何せん、マシンの能力が低すぎる。F1経験のないスタッフも、ミスを連発。若いチームだけに、今後に期待である。優勝は昨シーズンの覇者アロンソ、2位は落日の皇帝ミハエル・シューマッハ、3位は最後尾からスタートのライコネン。何となくライコネンがお気に入り。

13日朝6時からは、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)。イチローが先頭打者ホームラン。やってくれた。若い川崎と西岡が大活躍。しかし、3対3の同点で迎えた8回、疑惑の判定。1アウト満塁で、岩村のレフトフライ。西岡がタッチアップでホームイン、勝ち越し! と思ったのもつかの間、西岡のスタートが早かったというアメリカ側の抗議で判定が覆る。試合後、王監督も言っていたが、一番よく見えるはずの二塁塁審がセーフだと言っているのに、遠くで見えづらい主審が判定を覆すなんてことはどう考えてもおかしい。

野球解説者の話を総合すると、これは西岡の一流のプレイが生んだ錯覚だという。つまり、西岡はレフトがまだ打球に触れる前に、上半身を動かし重心をホームベース側に移し始め、キャッチと同時に足を三塁ベースから離すのだという。スロー映像で見れば明らかなごとく、レフトがキャッチしたときは、まだ西岡の足が三塁ベースについている。しかし、既に走る体勢に入っているというか、走り始めている。ホームベース付近にいた主審の目には、キャッチの前に上半身が動き、走るモーションに入っているので、当然ベースから足も離れているように見えるのだろう。そこで「アウト」と判定を覆したようだ。

この主審は何でもマイナー・リーグの審判らしい。いわゆる二部リーグの審判が国際試合をジャッジしたり、試合をしている国の審判がその試合を裁いたりすることは、サッカーの世界では考えられないことだという。WBCの審判は、アメリカ人が大多数だということは問題である。

結局日本は、9回裏にサヨナラを許してしまって敗北。後味の悪いゲームで、一日中、何とも気分が悪かった。

14日(火)になってからは、テレビでやっていた『エンジェル・ハート』を見た。これは北条司原作のマンガのアニメ化である。作者は頑なに否定しているが、『シティー・ハンター』の続編的マンガである。『エンジェル・ハート』は、去年マンガ喫茶で、初めから当時出ていた最新巻まで読んだが、非常にいいお話である。涙なしには読むことはできない。未読の方は是非!

蛇足ながら、『エンジェル・ハート』の30分くらい後には、『アカギ』という麻雀マンガのアニメがある。『アカギ』も去年全巻読了したが、割と面白かった。アニメにするにはちょっと無理があるような気がするが、そこそこ格好良く仕上がっている(無理のあるアニメといえば『スラム・ダンク』のアニメはひどかった。全くバスケを知らない人間がつくったとしか思えない、不自然極まりないものに仕上がっていたのだ。マンガ自体は名作であるだけに、非常に残念だったのを覚えている)。
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2006年03月12日

モンゴメリー『赤毛のアン』(掛川恭子訳、講談社)

※今回は、『赤毛のアン』の内容について触れていますので、未読でその内容を知りたくない方はご遠慮ください。

最近、DVDで世界名作劇場『赤毛のアン』を観た。非常に感動的な作品で、涙あり、笑いありのストーリーに引き込まれていった。小説と違って、映像として直接提示されているので、その物語の世界により容易に入り込むことができた。

アニメを観ると、小説の『赤毛のアン』を読み返したくなってきた。そこで、以前読んだことのある新潮文庫の村岡花子訳をもう一度読もうかと思った。しかし、よく調べてみると、この村岡花子訳には省略部分が多いということが分かった。『赤毛のアン』シリーズが完訳で読めるのは講談社版だけらしい。そこで今回は、講談社の掛川恭子訳を読むことにした。近所の図書館に、掛川訳の『赤毛のアン』シリーズ全10巻がそろっていたので、順番に読むつもりである。なお、集英社からは松本侑子訳が刊行され始めている。これは、アンのセリフ部分が、どういった古典からの引用であるかを詳しく調べた注がついているようだ。

さて、『赤毛のアン』第一巻を読み終えたわけだが、アニメを観たすぐ後だったためか、それとも、アニメより具体的に場面を想像できなかったためか、アニメを観たときほどの衝撃・感動はなかった(アニメでは、何回涙したことか)。それでも、アンの成長、アンの認識の変化は、大変興味深いものがあった。

第一巻では、11歳〜16歳のアンが描かれている。まさに思春期の真っ只中である。当初、リンドのおばさんやギルバートに赤毛のことをからかわれて激しい癇癪を起こしていたアンも、マリラやマシュー、それにミセス・アランやステイシー先生の教育を受けて、次第に社会性を身につけ、おとなしくなっていく。

アンのギルバートに対する認識の変化も面白い。アボンリーの学校に通っていた頃は、何とかギルバートを負かすために一番になりたいと、敵意をむき出しにして勉強をしていたが、クイーン学院に入った頃には、その敵意は消えていた。アンが溺れかけていたのをギルバートに助けてもらって、ギルバートが「友達になろう」と仲直りを申し出たときは、「にんじん」と赤毛をからかわれたときのシーンが、怒りの感情像としてよみがえったために、その申し出を断った。それが、アンの成長とともに、その怒りの感情も次第に薄れていくのである。

ステイシー先生の教育法も興味深いものがある。何でも、授業の前に体操をするそうだ。机に座って勉強する前に、体を動かすというのは、とてもよいことだ。アニメ版では、クイーン学院の受験当日にも、アボンリー出身の生徒がステイシー先生と一緒に体操している場面が描かれていた。ちょっと面白い場面だった。

アンは想像力豊かなだけに、アンが想像する場面がたくさん描かれている。観念的に二重化した世界で、もう一人の自分が全くの別人になって活躍しているのだが、ふとそのアンの肩に手が置かれる。それはマリラの手で、それがきっかけとなって、急に二重化した世界から現実の世界に呼び戻される、そんな場面がアニメでは描かれていた。やはり想像というのは世界の二重化なのであって、想像の世界しか見ていないわけではない。現実のマリラの手が、その想像の世界にいわば介入してくるのであるから。第27章では、マリラが様々なことを考えながらも、同時に辺りの景色を眺めている様子も描かれている。

アンの育ち方は、現代日本から見れば、一つの理想であるように思う。自然豊かで自給自足に近いアボンリーの村で育ったという点が素晴らしい。クイーン学院にトップ合格するくらいだから、アンも猛烈な受験勉強をしたことは確かだが、受験前の最後の夏休みは、教科書をトランクにしまい込み、一切勉強せずに、ひたすら外でダイアナと遊び回っている。アニメでは、裸足で浜辺を走り回る姿も描かれていた。まさに、自らの五感器官を総動員して、豊かな五感情像を育てていったのだろう。グリーン・ゲイブルズにもらわれる前は、孤児として、様々な辛い体験を重ねたが、グリーン・ゲイブルズにやってきてからは、マシューとマリラの愛情を注ぎ込まれて育つ。「心の友」ダイアナの他にも、当初は口も聞かなかったが、最後に感動的な和解に到るギルバート、口の悪いジョシー・パイなど、様々な友人関係の中で、社会というものを学んでいく。アンの成長はほほえましく、見事で、リアリティーにあふれている感じがする。

今、第二巻の『アンの青春』を読み始めている。これからのアンの活躍も、大いに楽しみである。また、英語の原文がネット上で無料で見られるので、今度は英語でも挑戦してみたい。

最後にアニメ版と小説の異同に関して少々。第8章に「子どもたちを祝福するキリスト」という絵が登場するが、原作ではこれはグリーン・ゲイブルズにあるのに対して、アニメでは牧師夫妻の家にあった。第20章の「アン、震えあがる」はアニメでは描かれていなかったように思う。アニメにあった、アンとダイアナが将来の結婚のことなどでちょっとしたケンカをする場面は、原作にはないようだ。アニメでは、マシューが子牛をアンにあげるシーンが描かれていたが、小説では第二巻『アンの青春』の冒頭部分に、回想として描かれている。その他、モンゴメリーのより自伝的な『エミリー』シリーズからとってきたエピソードも、アニメには取り入れられているそうだ。

なお、新潮文庫の村岡花子訳では、マシューの死後、マリラがアンに率直に自分の愛情を表現するシーンがカットされているほか、第12章でアンとダイアナが「心の友」の誓いを立てるときのセリフの一部もカットされていることが判明した(後者は、英語でないと意味不明になるからであろう)。その他にもカットされている所はあるような気がする。
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2006年03月10日

関係詞の基本

今回は関係詞のお話である。

高校生に英語を教えていると、関係詞がさっぱり分からないという生徒もいれば、関係詞だけは分かるという生徒もいる。どうしてこのような両極端な差が生まれるのか、疑問だったが、最近その理由がだんだん明らかになってきた。

先に結論を言えば、関係詞を理解するためには、SVOCといった文型の知識と、名詞、形容詞、副詞といった基本的な品詞の知識、それに両者の関係に関する知識が必須なので、こういったごく基本的な知識をしっかりと定着させている生徒は関係詞がすんなりと理解でき、そうでない生徒は全く理解できないということになってしまっているのである。

では、実際に関係詞の解説をしていく中で、以上のことを詳説していきたい。

まず関係代名詞である。関係代名詞には、次の三つの働きがある。

@2つの文をつなぐ接続詞の働き
A前の名詞を指す代名詞の働き
B前の名詞を修飾する形容詞の働き
(Bのみ、関係代名詞節全体の働きである)

まず、関係代名詞は、二つの文をつなぐ働きがあるという点が、一番重要である。逆に言うと、関係代名詞を使った文は、必ず二つの文に分けられるのである。では、二つの文を関係代名詞を使ってつなげてみよう。

The boy is Tom. Mary likes him.
「その少年はトムだ。メアリーは彼が好きだ。」
→ The boy whom Mary likes is Tom.
  「メアリーが好きな少年はトムだ。」

二つの文をつなげるには、まず二文目の代名詞が指している名詞を確認する。この文だとthe boyである。これが先行詞となる(念のためにいっておくと、固有名詞は普通先行詞にならない)。次に、二文目の代名詞を関係代名詞に変えて、その文の文頭に持ってくる。代名詞はhim、つまり人で目的格だから、whomに変えて文頭に持っていくのである(驚くべき事に、関係代名詞の表すらまともに覚えていない生徒がいた。これでは関係詞を理解することなどできるはずもない)。すると、二文目が、whom Mary likesとなる。最後にこの変形した二文目を、先行詞の直後に挿入すればいいのである。

ここで関係代名詞の三つの働きを確認しておこう。まず@であるが、これは明らかに二つの文をつないでいるのであるから、問題はなかろう。Aである。これは、関係代名詞whomがもともとは代名詞himであったことを考えれば容易に了解できるはずである。したがって、もともとの二文目、つまり関係代名詞節だけを見れば、

whom Mary likes
O    S    V

という構造になっているわけである。関係代名詞は、動詞likesの目的語になるから、目的格のwhomになるということが分からなければならない。最後にBに関しては、今とりだした関係代名詞節の部分が、前の名詞(先行詞)the boyを修飾しているということである。「少年は少年でも、どういう少年かというと、メアリーが好きな少年」という具合に、the boy「少年」という名詞を詳しく説明しているわけである。名詞を詳しく説明する(修飾する)品詞は形容詞だから、関係代名詞節はカタマリとして、形容詞の働きをしているのである。

なお、固有名詞が先行詞とならない理由もここにある。固有名詞を形容詞で修飾することなど見たことがないであろう。例えば、「背の高いトム」という意味で、tall Tomなんて言葉は、見たことがないはずである。要するに、固有名詞は修飾できないのであるから、もちろん、関係代名詞節でも修飾できない、つまり、固有名詞は先行詞とはならないのである。

閑話休題、以上が関係代名詞の仕組みである。これだけ読んでいただいても、(代)名詞や形容詞といった品詞の知識なしには、すんなりと理解できないことが分かっていただけると思う。

次に関係副詞を検討してみたい。関係副詞の働きは、以下の三つである。

@2つの文をつなぐ接続詞の働き
A場所・時・理由などを表す副詞の働き
B前の名詞を修飾する形容詞の働き
(Bのみ、関係副詞節全体の働きである)

ほとんど関係代名詞の働きと同じであるが、Aだけが違う。したがって、関係代名詞と関係副詞はどう違うのかと問われれば、それは代名詞と副詞の違いである、ということになる。以下、具体的な例文で考えていこう。

That is the place. I met him there.
「そこが例の場所だ。私はそこで彼に出会った。」
→ That is the place where I met him.
  「そこが、私が彼に出会った場所だ。」

二つの文をつなげる手順も、関係代名詞とほぼ同じである。すなわち、二文目の副詞が指している場所・時・理由などを表す名詞を確認する。今回の例文では、副詞thereが指しているのはthe placeである。これが先行詞となる。次に、二文目の副詞を関係副詞に変えて文頭に持ってくる。今回は場所を表す副詞であるから、whereに変えて文頭に持ってくるわけである。すると二文目は、where I met himとなる。最後にこの変形した二文目を、先行詞の直後におけば完成である。

三つの働きも確認しておこう。まず、二つの文をつなげたのだから、@は問題ない。また、Aに関しては、関係副詞whereは、もともとthereであったのだから、これは副詞の働きである。

where I met him
 M  S  V   O

関係副詞節、つまりもともとの二文目は、上のような構造になっている。最後にBは、この関係副詞節が前の名詞the placeを修飾しているのだから、やはり形容詞の働きをしているわけである。

このように見てくると、関係代名詞と、関係副詞の違いも明らかになってくる。関係代名詞節では、関係代名詞の後にくる文が、(代)名詞の欠けている不完全文であるのに対して、関係副詞節では、関係副詞の後にくる文が、(代)名詞のそろった完全文である、という違いである。もう一度関係詞節を引用してみよう。

whom Mary likes
O    S    V

where I met him
 M  S  V   O

上の関係代名詞節の方では、関係代名詞whomに続く文に着目すると、Mary likesとなっており、動詞likesの目的語となる(代)名詞が欠けている。つまり不完全文が来ているわけである。これは当然である。関係代名詞節の成立過程を理解できていれば、もともとlikesの目的語であったhimは関係代名詞に代わって前に出ているのであるから、その関係代名詞の後ろの部分だけを見れば、不完全な文に決まっている。

これに対して下の関係副詞節の方は、関係副詞whereに続く部分は、I met himとなっており、(代)名詞が全てそろった完全な文になっていることが分かる。これも当然である。もともとのI met him there.という文の副詞部分であるthereが関係副詞になって前に出ただけなのであるから。副詞というのはSOCといった文の要素にはならない修飾語であるから、これがなくなっても、文は完全に成立しているのである。

図解すると、関係代名詞と関係副詞の違いは以下である。初めにある「名詞」とは、もちろん先行詞となる名詞のことである。

名詞 関係代名詞+不完全文(=名詞・代名詞が欠けている)
名詞 関係副詞 +完全文(=名詞・代名詞が全てそろっている)

例えば良くある問題で次のように、カッコの関係詞を入れさせる問題がある。

This is the place ( ) I visited last year.

関係詞の仕組みを良く理解していない生徒は、先行詞が場所だからwhereが正解、などと単純に考えてしまいがちである。しかし正解は、関係代名詞which/thatである。なぜなら、visitという動詞は他動詞であり、後ろに目的語を必要とするのに、その目的語となる(代)名詞が欠けている。つまり、(  )に入る関係詞の後ろには不完全文が続いているから、(  )には関係代名詞が入るのである。当然、この種の問題を解くときには、visitが他動詞であること、他動詞というのは目的語をとる動詞であること、目的語というのは品詞でいえば(代)名詞であること、などといった、高校入学の初めの頃に習うはずの超基本的な知識が要求される。この超基本がしっかり身についていなければ、以上の解説をすんなりと理解することはできないのである。

これまでの説明で、「関係詞を理解するためには、SVOCといった文型の知識と、名詞、形容詞、副詞といった基本的な品詞の知識、それに両者の関係に関する知識が必須」と初めに書いたことの意味が分かっていただけたと思う。自分としても、英語は知識を基礎からしっかりと積み上げていくことなしには、理解が進まないということを再確認できた。

以上のような関係詞の基本を押さえた上でないと、その特殊なあり方である継続用法や、関係代名詞what、あるいは関係副詞の省略・先行詞の省略、さらには複合関係詞などが少しも理解できないということになる。一般性を押さえた上で、特殊性をきちんと整理しながら理解していけば、それほど難しくもない単元である。しかし、一般性がしっかりと把握されていなければ、それこそ千差万別に見えてしまって、全く論理性のない、ワケの分からない知識が平面的に並んでいるだけであるかのような観を呈することなってしまうのである。
posted by 寄筆一元 at 14:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 塾講日誌、英語の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする