2006年02月28日

滝村隆一「国家論における共同体論の復権」「現代世界と国家の原理」

先日、例によって、滝村読書会を行った。今回は僕がレジュメ担当。終了後は飲みながら、「心情とは何か?」と「態度とは何か?」に関して討論した。次回で『増補 マルクス主義国家論』は終了予定。次はディーツゲン『人間の頭脳活動の本質』を読もうかという話になった。



滝村読書会       『増補 マルクス主義国家論』      2006年2月24日

「国家論における共同体論の復権」
(1)共同体と国家の問題
<国家>把握の二つの原理的=方法的発想
  @<狭義の国家>→<共同体―内―国家>という原理的=方法的発想
  A<広義の国家>→<共同体―即―国家>という原理的=方法的発想
国家<生成>の問題…@Aを歴史的・論理的に区別して統一的に解明しなければならない

(2)原始的・アジア的共同体と国家
<原始的>共同体
 内部的には、氏族的=血縁的に構成
 他<種族>との直接的接触により敵対関係が顕在化→<共同体―即―国家>として現出
<アジア的>共同体
 内的構成としては、ほぼ純粋の血縁的=氏族制的に構成された<原始的>共同体
 <デスポット>との関係においては全ての構成員が<奴隷>(総体的奴隷制)
 支配共同体が被征服<共同体>に対しては<国家>として対峙・君臨

(3)古代国家の根本問題
<古代国家>:微弱ながら<共同体―内―国家>が原理的・構造的に確立
       最大かつ最強の<都市共同体>が支配的共同体として君臨→奴隷制

(4)国家の生成とは何か
<共同体―即―国家>生成→<共同体―内―国家>生成
            ↑基礎づけ
<共同体―間―社会分業>→<共同体―内―社会分業>
<個別歴史>―<世界史>的な構造論―<唯物史観>というレヴェルの違いを混同するな

(5)国家の提起する現代的課題
<広義の国家>:@<国家>の内的な<実存>形態としての<政治的社会構成>
        A<国家>の外的な<実存>形態としての<共同体―即―国家>
<ナショナリズム>も<帝国主義>もAの問題

(6)国家の死滅と革命戦略
<共同体―内―国家>死滅→<共同体―即―国家>死滅
            ‖
<共同体―内―社会分業>止揚→<共同体―間―社会分業>止揚
<一国社会主義革命>    →<世界革命>

(7)<政治>・<国家>とは何か
政治=特殊性の幻想的「一般」形態支配、ないし特殊性の幻想的「共同」形態支配。
   当該Machtの特殊利害が幻想上の「一般」利害ないし「共同」利害として
   形成されて君臨・支配するに到る過程。
国家=<政治的支配>。<政治>の<実存>形態。
   支配階級の特殊利害が、様々に媒介されて、何よりも社会の
   <法的秩序>維持という普遍的な形式とともに、内容的に貫徹される。

「現代世界と国家の原理」
(1)共同体と国家の原理
    @狭義の国家→<共同体―内―国家>→a. Staatsmachat
<国家>  =国家権力 b. Staatsgewalt
    A広義の国家→内的<政治的社会構成> →主としてStaat
      =国家  外的<共同体―即―国家>→主としてNationalität

(2)資本主義の世界性と国民性
「世界経済」は「国民経済」間の世界的連関においてしか<実存>しえない
     <経済的社会構成>を<共同体―即―国家>レヴェルから把握
資本の<世界性>は、資本の<国民性>を前提とし、それによって媒介されている

(3)世界革命と一国革命
<世界革命>の原理が貫徹されていることのメルクマール
  =<原則綱領>において<一国社会革命>綱領を<世界社会革命>綱領との関連で、
   理論上正当に位置付けているか
<共同体(民族)―内―社会革命>といっても、ここでいう<民族>とは、現在確定されている<国境>によって囲い込まれた「民族」を、そのまま意味するものではない

(4)「アジア革命」論の陥穽
・日本帝国主義復活論が暗黙の前提←<帝国主義>を経済主義的にのみ理解
・<共同体―即―国家>としての解体が前提であることを理解できていない
・政治的な危険性(<超国家主義>にからめとられかねない危険性)が内蔵されている

補・ナショナリズムと国家の問題
ナショナリズム:<共同体―即―国家>の問題
        <共同体―間―共同体>ないし<世界―内―共同体>レヴェルでの問題
・自己の生活共同体を基点にして観念的=幻想的に想定された「民族」=「国家」を、
他の民族・国家に比すれば唯一至上の実在として考える<民族―即―国家>意識
・<共同体>としての自己が、何よりも他民族共同体との直接的・間接的な関係を媒介と
して、観念的に対象化され、<民族エゴイズム>として排他的に押し出される
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2006年02月22日

林健太郎『歴史の流れ』(新潮文庫)

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1年半くらい前に亡くなった林健太郎による西洋史の本。もう何回読んだか分からない。

世界史の最先端が、中世以前には、オリエント→ギリシア→ローマ、中世以後にはポルトガル→スペイン→オランダ→イギリス→……と次々と移っていく様子が分かりやすく説いてある。ある事件の背景やその影響なども論理的に説かれており、タイトル通り、まさに「歴史の流れ」がよく分かる本である。また、横のつながり、すなわち他共同体・他地域との接触による相互浸透的な発展についても分かりやすく記述されている。

このようなコンパクトで要領のよい歴史の本ができあがった事情について、林健太郎は「あとがき」で以下のように述べている。

「本書は元来一気呵成に書いたもので、格別の参考書を使った覚えはない。しかし私は昭和16年以来旧制一高で西洋史の講義をしていたので、こういった概説の輪郭は自然に頭の中に出来上がっていた。本書が西洋史の概説として比較的よくまとまっているという評を受けたのはそのためであろう。」(p.161)

ここは一般化して、教育することによって論理が洗練化されてくるのだと理解してよいと思う。僕自身も塾で英語を教えていく中で、徐々に英語の論理が整理されてくることを実感している。機会があれば、中学生に理科や社会を教えたいくらいだ。そうすれば、中学の理科や社会の内容を、論理的に捉える訓練にもなるような気がするからである。

さて、本書は「16世紀、宗教改革のあたりまでのことが比較的詳しく、それ以後のことは極めて簡単な荒筋だけになっている」ので、それ以後のことは続編的性格を持つ『世界の歩み』(上下二巻、岩波新書)を読むべきである、という主旨のことが「あとがき」に書かれている。『世界の歩み』は近世以降の西洋史が述べられているが、これも以前読んだ感じでは相当優れた著書であった。近いうちにこちらも読み返そうと思う。
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2006年02月16日

原田隆史テレビ出演

15日の夜、原田隆史がテレビ出演するというので、ビデオにとっておいて、帰宅後見た。番組のタイトルは、“今、子供たちが危ない”こんな日本に誰がした「全国民に喝!」というもの。

見てみると、原田隆史の発言はわずかに一回のみ。田嶋陽子のような単なる評論家の発言や、互いにつぶし合っている教育実践家のコメントがかなりの部分を占めていた。視聴率が全てのテレビ番組とはいえ、あまりにもお粗末な編集で、呆れかえってしまった。

ただ、大阪教師塾の紹介はあった。そこで原田隆史の教育理念として(本当はこれは教育理念ではないが)、「生徒に対しての責任感」という発言が紹介されていた。南郷継正『武道の理論』を髣髴とさせる発言だった。1月の教師塾の映像が流れていたので、必死で弟の姿を探したが見付けられなかった。さりげなく映っていたようだが。

何人かの教育実践家も登場していたが、個々人の活動はなるほど素晴らしいところもあったが、論理能力という点では原田隆史に匹敵する者はいないように感じた。発言が単なる経験の蓄積から出ているような感じがしたからである。原田隆史以外の実践家は、実践が個人的・局所的であり、広がりがない。文化遺産として残すという仕事をしているのは、あるいは文化遺産として残せる仕事をしているのは、原田隆史ただ一人であるように思った。

原田隆史本人にとってはもちろん、教師塾の参加者にとっても、不満が残る番組であったように思われる。
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2006年02月07日

一月を振り返って

一月は塾の授業が週5日あった。実はこの4月からも、週5日勤務がほぼ決定している。結構忙しくなりそうで心配だ。

週5日労働で、「忙しい」などというと、ふつうの社会人からは袋たたきにされそうだが、この一年が暇だったからその比較でいうとかなり忙しくなるのは事実だ。

もともと僕はやりたくない仕事などしたくない、というスタンスで、どうせやるならやりたい仕事、それも自分の学的研鑽に少しでも役立ちそうな仕事ということで、教師を選択した。しかも、学校の先生と違って塾の先生なら、時間的拘束も少なくてすみそうだし、いろいろな学年にいろいろな教科を、免許などというモノなしに教えることが可能であるから、塾の方を選択した。

それはともかく、この一月は週5日勤務で、結構忙しかったのだが、それでも通常授業が始まった1月10日からの三週間で、計14冊の本を読めた。僕としては結構読めた方だ。

僕のライバルであり友人であるS君などは、僕よりはるかに厳しい労働条件におかれていながら、学生の頃よりも読書量が多いようなことをいっていた。学生の頃のS君の勉強量も、僕からすれば半端ではなかった。なんせ、僕が三浦つとむや南郷継正を知ってから半年〜一年くらい経ったあとから、本格的にこれらの人物に学びはじめたのに、あっという間に三浦・南郷本などは読破して僕を追い越していった感じだったのだ。『国家論大綱』が出版されたときも、割と早めに読了していたのみならず、以前『国家論大綱』の読書会をやっていたときにはもう既に複数回通読していた様子だった。先日の滝村読書会でも、南郷師範の教えにしたがって、中学の理科や社会の教科書を、それこそ何十回と読み込んでいるということをいっていた。一般教養が半端ではない。

僕の弟も実は結構勉強をやっている。僕同様、全く受験秀才っぽくはないのだが、某一流(?)大学に一浪して入った(これは僕の指導のたまものだが、とかいってみる)あと、熱心に三浦つとむ・南郷継正に学んでいる。『弁証法はどういう科学か』の通読回数が、僕の3倍くらいであることを知ったときには驚いた。また、南郷師範の新著に登場するおそるべき心理学科学生を真似て(というより真似させて)、大学で受けた授業のレポートを毎日書いている。その他、英語と楽器で上達論を実践している。

上の二人と同じく滝村読書会を一緒にやっているKちゃんも、大学生の頃から知識量がすごい。典型的な秀才肌だと僕は思っているが、某一流(?)大学の大学院生で、好きな研究をしつつ、何とか研究生とかいう名目で、月に僕より稼いでいる(稼ぐことになる?)らしい。全く羨ましいかぎりの生活だ。

まあ、こんな人物に刺激されて、あるいは勝手に設定した他のライバルに刺激されて、とにかく週5日勤務でどのくらい読書ができるかやってみようと思って1月は読書に力を入れたわけである。これなら4月以降も結構読書できそうである。合わせて、英語のトレーニングや映画を見ることもやっていきたいと思っている。
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2006年02月02日

南郷継正『なんごうつぐまさが説く看護学科・心理学科学生への“夢”講義(1)』(現代社白鳳選書)



南郷継正『なんごうつぐまさが説く看護学科・心理学科学生への“夢”講義(1)』(現代社白鳳選書)が届いたので速攻で読んだ。基本的には連載そのままだが、編・章・節に見出しが付いているので、それだけでもだいぶ読みやすくなっている。これらの見出しが並んだ目次を眺めただけでも、大きな流れがイメージできる。それにしても、目次を見るだけでワクワクしてくるのは、僕だけではないだろう。

見出しが付いた以外に、本文も少し改訂されている。たとえば、p.54にある認識学の第三の柱の教材に、『ライジング!』(藤田和子、原作・氷室冴子、小学館)が追加されている。また、連載では当初「五感器官」と書いてあったところも、「五感覚器官」に統一されているようだ(p.58)。さらに、以前このブログでも取り上げた、人間とはなにかをわかるための社会と歴史の学びに関連して、『心では重すぎる』(大沢在昌、光文社)という本が具体的に挙げられている。

他にも、p.150の第三パラグラフのように、具体例が追加で挿入されて、ヨリ分かりやすくなっている箇所もある。湯浅先生による『育児の認識学』の書評に関しては、第三編第二章の最後に特別節として紹介されている。これは流れを考慮して、少し後ろに回されたようだ。

どうでもいいことをもう少し書いておくと、これは連載当時と同じであるが、p.91のウェブスター『あしながおじさん』に関して、南郷師範は「岩波文庫の遠藤寿子さんの訳のほうがとてもすばらしい」としながらも、「残念なことに旧漢字・旧カナ」であるから読者の便を考慮して、新しい谷川俊太郎訳を引用されている。しかし、岩波文庫の遠藤寿子訳にも新漢字・新カナで書かれているものもある。というか、僕が購入した岩波文庫版『あしながおじさん』は、しっかりと遠藤寿子訳だが、新漢字・新カナで書かれてある。おそらく1971年に改版されたとき、旧漢字・旧カナから新漢字・新カナに改訂されたのであろう。そして、師範が持っておられるのは、改訂以前の旧版なのであろう。

誤植も一つ発見した。これも連載当時のママだが、p.161の後ろから2行目、「第十一編」は「第一編」の誤り。まあ、誰でも気が付くだろうし、何の問題もないが。

くだらない些末なことを長々と書いてしまったが、本書を読むとどうしても、最後に登場する受験秀才の看護学科学生と自分の姿が二重写しになってしまう。これではイカン。p.159にある「認識=像の形成がうまくいくための条件」をしっかり踏まえて、弁証法・認識論の学習を進めていくこと、これが何にも増して、もっとも肝心なことであろうと思った。

最後に、自分の肝に銘じるためにも、師範の言葉を引用しておこう。

「ですから仮に『弁証法はどういう科学か』を何百回読んでも、あの書物のなかのすべての問題がなんなく解けても、専門分野の問題に立ち向かう実力が弁証法的についていなければ、なんの意味もありません。空手の修練が、受験国語のレベルで空手の本を読破することではないように、弁証法の学びも弁証法の本を読破することではありません。
 空手の学びと同じように自分の専門分野の本だけではなく、知識だけではなく、現実に存在する自分の専門に関わる事実という事実と格闘することによって初めて、弁証法が息をし、動きはじめることになるのです。」(p.206)
posted by 寄筆一元 at 23:50| Comment(8) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月01日

滝村隆一「マルクス主義における共同体の理論」「社会構成の歴史と論理」

月一の滝村読書会。今回も『増補マルクス主義国家論』(三一書房)所収の二つの論文を扱った。レジュメはKちゃんが担当。その他にS君が、「なんごうつぐまさが説く看護学科・心理学科学生への“夢”講義・20」の「政治とはなにか」に関する部分を抜粋してきてくれた(抜粋のプリントには、第何回の論文かが明記していなかったため、第20回だと突き止めるのに30分くらいかかってしまったぜ。もちろん、抜粋部分を見ただけで、だいたいあの辺りだなと見当が付かなければまだまだ読み込みが甘いといわれても仕方がないが、それでも引用するときは、すぐに当該部分が探し出せるように出典を明記しておくのがルールであろうという気がちょっとだけする)。

まず一つ目の「マルクス主義における共同体の理論――基礎範疇の解明と大塚共同体論の批判」。ここでは、共同体に関わる基礎範疇として、Gesellschaft, gesellschaftliche Wesen, Gemeinschaft, Gemeinwesen, Gemeinde, Gemeindewesen, sozialなどの区別と連関が説かれている。はっきりいって超難解である。詳しくは、後にあるレジュメを見ていただきたいが、ここで学ぶべきもっとも基本的なことは、次のようなことであろう。

「われわれが当該対象を弁証法的に把握するためには、同一事象・同一実体に関わる様々な概念に機械的に対応させて、実体的に区別される対象を想定したりするのではなく、かかる諸側面と関連を原理的な区別と連関において、まさに統一的に把えねばならないのである。」(『増補マルクス主義国家論』p.165)

要するに、同じ対象であっても、「対象に切り込む視点すなわち対象へのスポットのあて方(角度と局面)」(同p.164,p.125)が異なれば、違った範疇(概念)として捉えることができる、ということである。

この基本を押さえた上で、次に滝村による概念規定のやり方、すなわち対象へのスポットのあて方を学び取る必要がある。たとえば、「媒介的なものとして捉えるか、それとも直接的なものとして捉えるか」(GesellschaftかGemeinschaftか)とか、「関係性として捉えるか、それとも実体性として捉えるか」(GemeinschaftかGemeinwesenか)とか、「内的構成に着目するか、それとも外的な構成に着目するか」(GemeinschaftかGemeindeか)とかいった対象の捉え方、である。

こうした対象へのスポットのあて方(角度と局面)を学べば、たとえば、概念と論理はどう違うか、とか、性格と性質はどう違うか、とかいった問題を解決するとき、「概念」「論理」「性格」「性質」などといった概念を自分なりに区別と連関において規定するときに、ヒントになるはずである。

ただし、滝村が対象へどういったスポットを当てているのかを正確に把握することが前提となる。僕はこれがまだ不十分である。端的に言えば、共同体に関わる基礎範疇が、未だはっきりしないのである。滝村がマルクス・エンゲルスを引用した後で、「明らかなように」などといってそこから読み取れることを解説していくことが多いのだが、僕自身はその引用から、そのような内容は読み取れない、という場合がほとんどである。滝村が読み取れた論理を、僕は読み取れていないわけである。学問的な研鑽が足りないとしかいいようがない。

本論文に関連する他の論文を二つ挙げておこう。まずは滝村隆一「現代革命とサンジカリズム」である。特に『新版革命とコンミューン』のpp.305-306。もう一つは三浦つとむ「唯物史観小論」である。『マルクス主義と情報化社会』のpp.61-62。

今回扱った二つ目の論文は、「社会構成の歴史と論理」である。これは割と重要な論文である気がする。近代的社会構成の特質(すなわち近代における<二重化>)が、封建的社会構成や古代的社会構成の特質と対比しつつ説かれている。この論文を読むと、どれほど世界史を単なる知識として学んできたかがはっきりしてくる。高校での世界史の勉強など、単なる知識(というより言葉)の寄せ集めであり、薄っぺらで論理性のかけらもなかったと痛感させられる。逆に言うと、この滝村論文は事実を論理的に把握するということの好例であるといえるかもしれない。今後は歴史の学習にもさらに力を入れようと思った。

今回は約3時間の勉強会となった。共同体に関わる基礎範疇を各自が図解して発表するという時間をとってもいいと思ったが、それをやっていたらますます時間がかかっただろう。終了後はまた飲みに行った。今回は始めた時間が早かったので、その日のうちに家に帰れた。

さて最後にKちゃん作成のレジュメを載せておく。相当長い。



滝村読書会(06.1.29)

第U部 共同体と国家の理論
1 マルクス主義における共同体の理論
はじめに
・<共同体論>の原理的・理論的検討は未だなされていない

(1)Gesellschaftをどう捉えるか
#Gesellschaft<社会>
・私的個人の契約的結合体ではない
⇒生活資料(生活手段)の生産と人間自身の生産との媒介的統一としての<生活の生産>によって、相互に結合した人間集団(<広義の>生産諸関係の総体)
・人間(的諸活動)を<労働の対象化>という本質的な<関係>性において捉えたところに成立した概念

#gesellschaftliche Wesen<社会的有機体>
・gesellschaftlichな関係を直接的ではなく媒介的な社会的有機体ないし社会的組織体として、全体的かつ有機的に把握したときに成立する普遍的な概念

#Gemeinschaftとsozial
・gesellschaftlichな関係を直接的な関係性、すなわち実存的な形態において把握したときに成立する概念
・Gemeinschaftが内的構成レヴェルにおける非敵対的かつ調和的な実存的社会形態を指す一方で、sozialは全体的な社会構成レヴェルにおける実存的な社会形態一般、<社会制度>一般を問題にしている

(2)Gemeinschaftの特質
・Gesellschaftの本来的かつ非敵対的な実存的形態がGemeinschaft(Gemeinwesenはgesellschaftliche Wesenのそれに対応)

#<人間の存在>に関する二種類の区別と連関
・gesellschaftliche Wesenとしての人間が、<労働が対象化>された存在として実体的に捉えられたものなのに対し、gesellschaftliche Seinとしての人間は<関係性>すなわち<生活の生産>過程において把握されたもの

(3)GemeinschaftとGemeinwesenの内的構成
*いずれも<内的構成>原理を取上げた概念

#Gemeinschaft<協同社会>
・単一の<共通意志>による直接的な指揮監督の下に、<内部>調和的に統一(組織)された諸個人の直接的な関係
・資本的生産過程が「生産物の生産のための社会的労働過程」と「資本の増殖過程」との直接的統一として存在しているのに対応して、資本家の指導も、gemeinschftlichに構成されたあらゆるMachtに共通の<指揮・監督機能>を遂行することが同時に労働者を抑圧する機能としても現出する。

#Gemeinwesen
・gesellschaftlichな関係を直接的な内的関係性、すなわち直接的な実存形態において把握した場合に成立した概念がGemeinschaftなのに対し、gesellschaftlichな関係を直接的な内的実体性において、すなわちGemeinschaftを直接的かつ実体的に構成する内部自足的な組織体ないし有機体それ自体として把握した場合に成立した概念がGemeinwesen。

(4)GemeindeとGemeindewesenの特質と連関
*<外的な構成>すなわち<体制>に関わる概念

#Gemeinde<共同体制>
・gesellschaftlichな関係が、全体的かつ統一的また形式的かつ総体的な構成として把握されたもの→対外的諸関係のレヴェルの問題とも密接不可分の関係

#Gemeindewesen<共同体組織>
・外部構成的な<共同体・体制>それ自体を、実体的かつ具体的な<共同体組織>ないし<共同体制度>として把握したもの

#Kommune<生産組織体・協同組織体>
・Gemeinwesenとほぼ同一の概念

(5)大塚共同体論の方法的欠陥
@実体論的把握(俗流唯物論的発想)と、
A特定の歴史的諸形態のそのままの普遍化(実証史家に特有の共通した方法的欠陥)


2 社会構成の歴史と論理
(1)封建的社会構成の特質
・封建的諸権力(とりわけ封建領主権力)が相互に対立・抗争する独立的かつ閉鎖的な自給自足的共同体として散在(∵交通的諸関係の未発展)
・このアナーキーな状態は、形式的ではあるが政治的には伝統的な政治的権威としての<国王>によって一定の秩序のもとに包括

#封建的支配の歴史的特質
・<王権>は相対的に最大かつ最強の封建領主として<政治的=イデオロギー的権力>としての<第三権力>足りえたに過ぎない。<王権>の封建的諸権力に対する<国家>的支配・統括は極めて不充分かつ不安定で、<政治上>の実質的統一はついぞ実現されず
・わずかにイスラム世界に対する現実的な必要から、西欧世界の<政治的統一>が、あらゆる世俗的な封建的諸権力をより観念的かつイデオロギー的に支配・統括していたキリスト教によって、<宗教的統一>として幻想的につくりだされていた
⇒封建的アナーキーに立脚した、<宗教的・政治的>な<第三権力>としての法王を頂点とする教会的支配体制と、<現実的・政治的>な<第三権力>としての国王を頂点とする領主的支配体制との二元的支配体制

#封建的社会構成の原理的特質
・封建的諸権力が、<政治的=経済的権力>として直接的に一体化(同一性)
・<政治>と<経済>との未分化

(2)古代的社会構成の特質(その1)――都市共同体の内部的・外部的構成
・<政治>と<経済>との未分化を支える社会構成上の構造は、<中世>と<古代>とでは全く異なる
@<都市共同体>は、対外的には<宗教的・政治的・経済的権力>として、すなわち<国家>としての<共同体>として他の都市共同体に対峙
⇒<都市共同体>による他の共同体の支配は、<宗教的>・<政治的>・<経済的>支配が直接的に結合したかたちで全一的になされる
※中世の封建領主権力は、自己の共同体における内部的活動に関するかぎり、実質上の治外法権的なMachtとして公認
・これは、<アジア的>、ときには<原始的>世界でもみられたこと。<国家>としての<共同体>の生成は<共同体>における<国家>の生成よりも、歴史的・論理的に先行する(∵<共同体―間―社会分業>は<共同体―内―社会分業>に先行)

A<第三権力>としての国家権力は、<政治的=イデオロギー的権力>というよりもMachtとしての<市民共同体>における<経済的>な<自己権力>の性格が強い
∵「自由平等な私的所有者」としての「市民」によって形成されており、諸階層間の差異が本質的に和解し得ない階級闘争を展開させるほどには進展していない

(3)古代的社会構成の特質(その2)――奴隷制をどう位置づけるか
*奴隷制は、最大・最強の<都市共同体>が支配共同体として(<共同体―間―第三権力>ないし<古代世界―内―第三権力>として)君臨する際に、その他共同体に対する媒介された<政治的・経済的>支配の最も過酷かつ赤裸々な直接的形態
⇒同盟・属国形態による共同体支配と原理的に同一
・奴隷制は、個々の<共同体>が他の<共同体>に対して、敵対的かつ排他的な<国家>として構成された瞬間に発生しうる一般的な可能性を獲得するが、これが現実性に転化しうるかどうかは、<共同体>内部における一定の経済的発展段階によって、根本的に規定されている

※<アジア的共同体>における奴隷支配
・<アジア的>、<古代的>ともに奴隷支配は原理的には<共同体>全体の<奴隷>全体の支配の問題であるが、その形態は両者の内的構成上の相違に規定されて、全く異なる
・<アジア的>共同体では、共同体成員相互が<原始的>な平等関係にある一方で、<デスポット>に対しては、全成員が<奴隷>状態にある(総体的奴隷制)
→<アジア的共同体>では、奴隷所有は<デスポット>に集中・集約され、<古代的共同体>では、奴隷所有は<市民>による<私的所有>の形態をとる

(4)古代的社会構成の特質(その3)――総括
#古代的社会構成の歴史的特質
・内部的には<市民的共同体>として構成される一方で、外部的には<国家>としての<共同体>として、相互に対立・抗争する
⇒古代における<政治構造>は、厳密には、<都市共同体>の内的構造としてではなく、支配的共同体を中心とする諸共同体間諸関係において形成されていた
・支配的共同体が自己の共同利害(=古代世界における一<特殊利害>)を強力なGewaltを背景にして、古代世界における幻想上の共同利害の形態で、普遍的かつ排他的に押し出して君臨せしめる
・<都市共同体>内部の<政治的構造>が<政治構造>へと転成するには、市民共同体の徹底的な内部的解体→共同体内<第三権力>の<政治的=イデオロギー的権力>としての本質の開花、が進展する必要

(5)近代における<二重化>とは何か
#近代的社会構成の歴史的特質
*<経済的社会構成>と<政治的社会構成>との二重化
@資本制的な社会的権力が、経済的権力と政治的権力とにはじめて機構的に分化・二重化
・二大国民階級はそれぞれ<政治的階級>と<経済的階級>として二重化した形で構成
A国家権力における<政治的国家>と<社会的=経済的国家>とが、はじめて機構的にも分離・二重化


<論点>
@第1章論文の概念の確認
Ap.172 l.6 <政治上>の実質的統一とは? 
Bp.200-01 <支配共同体―内―第三権力>としての<皇帝権力>の確立過程が、<ローマ帝国―内―第三権力>として確立される過程に他ならなかったのはなぜか。
Cp.201 <広義の政治>、<狭義の政治>概念について。<政治的意思一般>とはどこまで指すのか。
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