2006年01月24日

『蒼天航路』(講談社)



『蒼天航路』の35巻と36巻が同時に発売された。これで完結である。早速購入して読んだ。知人がブログで紹介していたのをきっかけに、面白そうだと思って第1巻から全部購入していたマンガである。

『蒼天航路』の舞台は中国の三国時代。僕は、小学生か中学生の頃、近所の友達に、横山光輝の『三国志』を借りて全巻読んだ記憶がある。その後、PCエンジン(懐かしい!)で、横山版三国志をゲーム化したソフトが登場し、結構楽しんだものだ。その後は、PSでコーエーの三国志Xを買って、遊んだこともある。パソコンゲームでも、同じくコーエーの三国志Zも持っている、あまりやっていないが。

以上のような「三国志」は、たいてい『三国志演義』を元にして作ったものである。『三国志演義』は、明代に羅貫中が書いた小説である。蜀を正統と定め、劉備その配下の者を中心に描いている。蜀に対立する曹操は、奸雄として描かれている。

これに対して『蒼天航路』は、同じ三国志でも、陳寿の書いた正史『三国志』を元にしている。ここでは三国の中で魏を正統の王朝として扱っている。いわば、曹操が主人公である。その通りに、『蒼天航路』でも曹操の活躍が中心に描かれている。曹操の中国文化に及ぼした影響などがよく伝わってくる。かなり壮大なスケールの作品である。

『蒼天航路』を読むと、いろいろな意味で、この三国時代が、中国にとって大きな結節点であったことがよく分かる。『三国志演義』の世界に慣れている者にとっては、多少の違和感がある世界であるが、三国時代の英雄の新しい人物像や、時代に対する新しい解釈を見出すことができ、それがまた楽しみの一つにもなる。

また読み返して、壮大なスケールを再び味わいたいと思っている。
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2006年01月22日

センター試験英語

昨日、塾でセンター試験の英語の問題をもらったので、帰宅後、お酒を飲んで酔っぱらった状態でチャレンジしてみた。

最初にリスニングをやった(ネット上に音声がアップされていた)。TOEICと較べると驚くほど簡単。以前、高校入試対策としてリスニングの授業をやっていたが、その時の教材と較べても、まだ簡単な気がした。もちろん語彙レベルはセンター試験の方が上だが。形式も、試行試験と同じ。しっかりリスニング対策をしてきた生徒にとっては、かなりやさしく感じたのではないだろうか?

次に筆記試験の方をやった。80分の試験だが、60分かかった。最初にも強調しておいたように、酔っぱらっていたから。

設問別に分析してみよう。同時に、勉強法や解き方のテクニックなども紹介したい。

第1問のアクセント・文強勢問題。それほど難しくはないと思う。アクセントなどは、日頃からCDなどを使って単語を「音」として覚えていれば、それで十分。アクセントの規則などに頼ってもいいが、負担が多くなる割には実用的ではない。あくまで補足として、最低限のルールを覚えておけばいいだろう。文強勢。これは簡単。下線を引いた英文の中で、もっとも強調して発音される単語を選ぶ問題だが、これは、「文ではなく、一単語で言うとすると、どの単語になるか?」を考えればいい。これが一番重要な単語になるから、当然強く発音される。もう少し正確にいうと、新情報や対比されている単語が強く読まれる。

第2問。Aは文法・語法問題。基本的な文法事項や熟語を問うものが多い。ただ、問5だけはかなりマイナーか。こんな問題だ。

How did it (      ) about that summer in Tokyo is hotter than it used to be?

1.come 2.take 3.happen 4.occur

これは、“How did it come about that+平叙文?”で、「どうして〜?」というある程度決まり切った言い方である。メジャーな“How come+平叙文?”はこれの短縮形である。したがって、1.comeが正解となる。おそらくこんな知識を持ち合わせている受験生は少ないのではないか。しかし、こんな知識がなくても、この問題は解ける。

まず、文の主語がitであることとthatの後ろが完全文であることから、it……thatの、仮主語・真主語構文であることが分かる。次に動詞の部分。bring about〜=「〜をもたらす」という基本の熟語さえ知っていれば、その自動詞形がcome about=「〜がもたらされる、生じる、起こる」だと分かるはず。したがって、選択肢1.comeを入れたら、「that以下のことがどのようにして起こったのか?」という意味になり、これでいけそうである。

選択肢3.happenと4.occurはいずれも「起こる」という意味であるが、これだと後ろのaboutの説明が付かない。しかも、両者とも同じような意味である(もちろん、仮主語・真主語構文でhappenを使うと「たまたま〜する」という意味になるが、これも元の「起こる」から説明できる)から、片方が正解なら、もう片方も正解、よって、両者とも不正解、と推測できる。選択肢2.takeは他動詞であるから、入りようがない。

以上のように、基本知識を元に考えることができれば、正解に到達できる。だから、基本知識をこのような形で使いこなせるように、活性化した状態で頭に入れておくことが大切である。もっとも、満点を狙うのでなければ、こんな問題は間違えてもいいが。

ついでに蛇足ながら述べておくと、基本の熟語であるbring about=「〜をもたらす」すらも、丸暗記する必要はない。bring=「〜を持ってくる」、about=「あたりに、周りに」であるから、bring about=「〜をあたりに持ってくる」となり、「〜をもたらす」という意味になるということは、容易に推測できるのである。選択肢にも出てきたtake〜aboutは、同じように考えるなら、「〜をあたりに連れて行く→〜を案内する」という意味である。基本動詞や前置詞などのイメージを豊富にしておくと、わざわざ熟語として覚える量も減ってくるし、覚えるのもイメージの助けを借りてヨリ容易になるというものである。

第2問のBは対話文完成問題。会話でよく使う特定の言い回しをしっかり押さえておけば問題ない。

Cは語句整序問題。パーツの与えられている英作文である。この種の問題は、文型の知識と句・節の知識を、活性化した状態で把持できていれば、非常に易しい問題といえる。逆にいうと、英語が本当に分かっているかどうかを見極めるためには、この語句整序問題が非常に都合がよい。テクニックとしては、並び替える語句の中でつながるものは先にセットにしておくことと、後ろから判断して、一番最後に入るものを確定できれば確定することである。こうすれば順列の数が減る。5つの語句の並び替えだが、ワンセットできて、最後に入るものが確定すれば、残り3つの順列は、3!=6通りである。これなら、片っ端から並べても、そんなに時間はかからない。

第3問は、語句補充・文整序・文補充である。ここははっきり言って、一定以上の英語力があれば、あとは国語力の問題である。論理展開の流れが分かるかどうかの問題である。それも、それほど高級な能力はいらない。高校入試の国語の問題で9割くらいとれるの実力があれば、十分である。端的に言えば、言い換え・具体化、対比関係、因果関係、並列関係がしっかり把握できればよいのである。

第4問、第5問、第6問は長文読解。第4問が図表読み取り、第5問が会話文、第6問が物語文である。共通していえることは、先に設問をさらっと読んでおく方がいいということである。そうするメリットは二つある。

まず第一に、おおよそのテーマが分かる。新聞で言えば、見出しを見てから本文を読むようなものである。そうすると、だいたいの全体像が押さえられているから、本文が格段に読みやすくなる。逆に見出しを見ずに、いきなり本文を読む場合を想定して欲しい。一体何について書いてあるのか、探りながらの読解となり、読むスピードも遅くなるし、理解も悪くなるはずだ。

先に設問を読む第二のメリットは、「何のために読むのか」という問題意識が明確になることである。要は設問を解くために読むのである。設問を解くのに必要な情報は、詳しく・正確に読まねばならないが、そうでない部分はだいたいでいいのである。設問を先に読んでおき、把握すべきポイントがはっきりしていれば、読みにメリハリがつき、速読ができる。設問に関係する重要な部分は、ゆっくり落ち着いて正確に読めばいいし、関係のないところはとばし読みでいいのである。そして読みながら、解ける設問には答えていく。こうすると、ワーキングメモリに余計な負担をかけずに済む。

今回の問題でいえば、たとえば第5問のBとCを見れば、Owenが今日車で来て、絵にあるどこかに駐車してきたということが分かる。さらにBの車の絵をよく見ると、すべての車に熊のぬいぐるみらしきものが乗っているが、その場所が違う。さらに傷が付いている車と付いていない車がある。だから、本文中で絶対にこのことに言及されるはずである、ということが事前に分かる。

また第6問では、設問Aを読んでいけば、おおよそのストーリーが分かってしまう。若い男と妹がプールを作る、母と子どもたちがどこかへ向かおうとしているときにピールさんに出会う、ピールさんはその三人が医者のところへ行くのを助ける、といった具合である。これらの情報と、この第6問の物語は概していいお話であるということを踏まえて、本文を読み進めるのである。おおよそのことが分かっているから、かなり読みやすくなる。

僕自身がセンター試験を受けたときは、上記のテクニックを巧みに活用した。何しろセンター試験の英語は時間が足りないから、テストの問題冊子が配布された時点で、その冊子を裏返すのである。すると、最後の第6問の、最後の設問がうっすら透けて見えるのである。最後の設問は当時から、「次の10個のうち、本文の内容とあっているものを4つ選べ」みたいな問題であった。その10個の選択肢を文字が反転して読みづらいのを覚悟の上で、しっかり読んでいくのである、テストが始まる前に。この10個の選択肢の英文は、もちろん正解が4つしかないのであるが、不正解の英文でも、本文とまったく関係のないことが書かれていることはない。したがって、10個も読めば、そのストーリーがだいたい分かってくるのである。こういった予備知識をもって本文を読めば、先ほどから何度も主張しているように、格段に読みやすくなる。しかも、その設問を読む時間はテストが始まる前なのであるから、その時間も節約できるのである。こうして僕はセンター試験に臨み、時間ぎりぎり一杯で最後の問題を終え、見事(?)満点を獲得できたのである。不正行為だと言われるかもしれないが、問題冊子をひっくり返してはいけないとか、問題冊子に目をこらしてはいけないとかいう指示はどこにもなかったし、ばれなければいいということもあるので、問題はなかろう。残念ながら、現在では、問題冊子の白紙部分を二重か三重かにして、裏からも読めないようになっているらしいので、この不正行為らしきものはできないようだ。

設問別に分析してみたが、全体としてはセンター試験英語はやさしい。しかし、時間が足りない。だから対策としては、文法・語法問題の典型的なものは、見た瞬間に答えが分かるという状態にしておいて、とにかく最後の方にある長文問題にできるだけ多くの時間が割けるようにしておく。また、英語長文(やさしいものでよい)にできるだけ親しんで、なるべく速く読めるようにしておく、ということが肝心であろう。
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2006年01月21日

岩橋文吉『人はなぜ勉強するのか――千秋の人 吉田松陰』(モラロジー研究所)



塾で教えていると、生徒に「なぜ勉強をしなければならないのか」ということを説かねばならないことが多い。その際の参考にしようと思って、本書を読んでみた。

「人はなぜ勉強するのか」に対する本書の答えを端的にまとめていうならば、夢を見付け、そしてそれを社会と調和する志に変え、その志を遂げるために、人は勉強するのである、ということになる。その実例として吉田松陰の他に、興味深い人物が紹介されている。松陰の弟子の中で一番長生きしたという天野清三郎である。

松陰の死後、天野は高杉晋作の下で勤王倒幕の政治運動に参加する。しかし、自分には政治運動は不向きだと悟る。そんな時、松陰がかつて、ペリー来航の時に語った言葉を思い出すのである。それは、「お前たちの中で黒船を造る者はおらんか。あれを造らなければ日本は植民地にされてしまう」という言葉である。この言葉を思い出し、「船造りなろう!」と決意した彼は、上海からロンドンに渡り、そこで造船術を学ぶのである。これは、松陰が鎖国の禁を犯してまで海外に出ようとした志を、まさにそのまま受け継いだ壮挙といえる出来事であった。天野はその後アメリカに渡り、そこでも血を吐くほどの苦しい思いをしながら勉強を続けたという。そして、1874年に帰国。明治政府の要人となっていた松下村塾の同輩の計らいで、明治新政府の工部省に入り、長崎造船所の建設に尽力して、世界に冠たる日本造船業界の草分けの偉業を成し遂げたということである。

天野の決死の勉学を支え続けたのが彼の立志であり、また彼の志を遂げさせたのが決死の勉学であったわけである。松陰は「凡そ空理を玩び実事を忽せにするは学者の通病なり」と当時の学者を批判しているが、松陰に批判された当時の学者と、天野あるいは松陰との決定的な違いは、「立志」にあったのである。

天野や松陰の生涯から学ぶことを一般化していえば、知識というものは「〜したい!」という夢・志・目標があってこそ真に自分のものとなり活用できるものとなるということであり、端的に言えば、論理能力の核は大志であるいうことである。松陰の教育はまさに大志を育てる教育だったのであり、大志を育て得たからこそ、短期間にすばらしい教育的効果を生み出し、明治維新の原動力となる多くの若者を輩出することができたのであろう。

吉田松陰の偉大さを再確認させてくれる、なかなかいい本であった。「あとがき」には、一般の書店では入手不可能な『脚注解説 吉田松陰撰集』(松風会)の案内もある。またいずれ、吉田松陰を読んでみようと思った。
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2006年01月20日

呉智英『読書家の新技術』(朝日文庫)



本書は1982年、呉が30代半ばの頃書いた読書論。第1部が「知の篇」、第2部が「技術篇」、第3部が「ガイド篇」となっている。

第1部「知の篇」では、当時の知の状況が解説され、当時メジャーであった読書論が批判的に検討されている。具体的には、谷沢永一と山本七平の読書論である。ここは僕の問題意識とあまりかみ合っていないので、さらっと読んでしまった。

僕の問題意識と一番合致していたのは第2部「技術篇」である。自然と線を引く量も増えてた。ここではまず、「何を読むか」として、読むべき本を見付ける方法が紹介されている。中心となるのが新聞書評である。書評に表れている評者の真意を的確に読み取る方法が説かれている。これは結構参考になった。今後は積極的に新聞書評を読んでいこうと思った。

しかし、その後に紹介されている「探書手帳」の作り方などは、時代を感じさせるものがある。新聞書評から得たデータを、手帳にまとめておいて、その手帳を元に書店や古本屋で本を探すというものだ。しかし、現在のようにインターネットが普及した時代にあっては、本を探すのにそんな手間をかける必要は全くない。パソコンに入力すれば、一発である。便利な時代に生まれたものだとつくづく思う。

「何を読むか」の次には、「どう読むか」が説かれていた。出だしに面白いことが書いてあったので引用しておこう。

「私の経験では、本は、500冊読むと新しい世界を展望できるようになる。つまり、500冊の蓄積ごとに、読書の“段位”というものが昇段する。そして、昇段するごとに、本を読む速度が早くなる。」(p.131)

「しかも、私が速読に自信を持ってからも、柳田国男の著作は速読できなかった。速読しにくい文章なのである。
 いずれにしても、速読は、その時期が来れば自然に速読するようになるものであるし、速読に適さない本も存在するのである。」(p.133)

これを読んで安心した。呉は当時でさえ、「岩波文庫の特に厚くない本は、私は、三、四時間から、七、八時間ぐらいで読む」(p.141)という人物である。これは僕にとっては超人的な速さである。大学に入るまで、本など片手で数えられるくらいしか読んでこなかった僕は、読書スピードが遅いことに悩み続けてきた。それで、速読関係の本を読んだり、様々な工夫をしたりして、何とか速く読む努力を重ねてきたが、呉にこう言われて、このまま読み続ければよいのだと、妙に安心感が出てきたのである。

閑話休題、呉は(岩波文庫の白帯・青帯にあるような)基礎文献の読み方に関して、辞書と入門書を利用してキーワードやタームをよく理解した上で、アクセントをつけながら読むべきであるとしている。こうすれば速読もできるし、内容もしっかり理解できるという。また、一冊を一週間も10日もかけて読むと、著者の思考の流れが分かりにくくなるから、時間のあるときに半日ぐらいかけて速読するのがいいとしている。

第2部「技術篇」の最後は、「本を吸収する」方法についてである。ここでは、読書カードから項目カードを作る方法が詳しく紹介されている。読書カードは、本の要約ではなく、一枚のカードでその本の全体像と覚えておきたいことが分かる、そういうカードである。本のいわば「地図」である。これを作っておくと、本に書いてある内容を忘れることがなくなるという。忘れたら、カードを元にして、本を読み返せばいいのだから。この読書カードがある程度の量になったら、今度は項目カードを作る。この項目カードは、「読書カードに記載した事項を、小さなテーマごとにまとめた、いわば、自分の頭の最終索引である」(p.170)という。「自分用の百科事典を作る作業」(同)ともいわれている。たとえば、「天皇」という項目カードを作る場合には、今まで読んできた本の中で、「天皇」に関連することが書いてあった本と、その内容を、その項目カードに書き込むわけである。

これは非常にやってみようという気にさせる方法である。しかし、よく考えてみたら、改訂作業が面倒な、紙ベースのカードではなくて、マインドマップやマンダラートの作成ソフトなどを使って、パソコン上で、ある項目に関連する情報を整理していった方がいいのではないかという気がした。読書しながら、必要な情報をマンダラートにまとめていくという手法は、以前考えたことがあるので、今度やってみようかと思う。

第3部「ガイド篇」は書籍の紹介である。ふつうの単行本から、全集やシリーズもの、文庫や新書、それに辞書・辞典に至るまで、様々な書籍が紹介されている。さすがにもう古くなっている情報もあるが、それでも買ってみようと思うものがたくさんあった。中でも、ある全集は、古本屋で調べると2万円くらいで買えそうなので、本気で購入を考えている。

まあ、この手の評論家の著作もたまにはいいかなと思った。
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2006年01月18日

吉田たかよし『最強の勉強法』『最強の勉強法―究極の鉄則編』(PHP文庫)



タイトル通り、勉強法の本。著者・吉田たかよしは、日本初のNHKアナウンサー出身の医師で、加藤紘一衆議院議員の公設第一秘書として、科学技術政策の立案にも携わったという異色の人物。この経歴からも分かるように、NHKの入社試験や医学部の入試、医師国家試験や国会議員政策担当秘書の資格試験に合格している。他にも、東京大学大学院工学系研究科に在籍中に、国家公務員試験T種経済職に、二年連続で合格したり、東京大学大学院医学博士課程に合格したりしている。こうした難関試験に挑む中で編み出してきた勉強法が、この二冊の本にまとめられている。

今回は、いつものように齋藤孝式に、三色ボールペンで重要箇所や面白い箇所に三色の線を引きながら読むだけでなく、数々の勉強テクニックを付箋にまとめながら読んでいった。その付箋の数は計45枚になった。どれも非常に具体的で、すぐにでも始めることができ、またすぐに効果が実感できそうなものばかりである。基礎思考ではなく、実践思考による産物という感じがする。

たとえば、「お気に召すまま勉強法」である。これは、テキストを初めから読んでいくのではなく、自分が興味を持てるところからランダムに読んでいく方法である。本は始めから終わりまですべて読む必要などないということは分かっていても、案外通読にこだわってしまうものである。しかし、通読しようとすると結構大変な本もあるし、初めの部分が面白くなければ、その本を読むのをあきらめてしまいかねない。これではもったいない。そこでこの勉強法である。せめて面白そうなところだけでも読んで、本の代金分くらいは情報を得たいところである。

また、暗記対策としては「ベットでごろ寝勉強法」というのが紹介されている。これは寝る準備を整えた上で、暗記用のメモを使ってベットで寝ながら勉強するというものである。眠たくなったら寝ればよく、眠くならなかったら、そのまま勉強を続けるのである。

さらに、詳しくは紹介しないが、記憶したいことを映像化することによって脳細胞を総動員して、記憶の効率化を図るというユニークな方法なども数多く説明されている。

著者が医師であるため、こういった勉強法には医学的裏付けもされている。「お気に召すまま勉強法」に関していうと、興味を持つと活性化する脳の扁桃体という部分と、記憶を司る海馬が割と近くにあるために、扁桃体が活性化されれば、海馬もそれにつられて刺激される。したがって、興味を持って勉強すれば、記憶の能率も上がるという。逆に、興味が湧かない内容を嫌々勉強しても、はなはだ効率が悪い。

あるいは「ベットでごろ寝勉強法」では、睡眠と記憶の関係について説かれている(もっとも、これは既に一般常識化しているともいえるが)。寝る直前に海馬に記憶された短期記憶は、眠りの浅いノンレム睡眠の間に整理され、大脳に移されて長期記憶となる。したがって、寝る直前には暗記物の学習が効率的なのである。実験的に英単語の暗記でもやってみようかと思った。

塾での教育に活用できそうなテクニックもあった。たとえば、眠そうな生徒の眠気を覚ます方法。深呼吸やうそアクビによって体内から二酸化炭素を追い出すと頭がスッキリして眠気が吹っ飛ぶらしい。また、光を見ると、睡眠を誘発するメラトニンから脳を活性化させるセロトニンに、ホルモンが切り替わるという。大声を出すことも眠気を飛ばすのに効果的なようだ。塾で眠そうにしている生徒がいたら、光を直視しながら深呼吸させ、大声で英語短文でも読ませてみようか。

二冊の本を通して、進化の過程を踏まえて説かれている箇所がいくつかあったのも興味深かった。たとえば、ライバルの必要性を説いている箇所では、次のように述べられている。

「スピードスケートの選手が、二人で滑って初めて、よい記録が出せるのは、ライバルとの競争を敵との生存競争に置き換えているためです。敵と争うときは、能力を最大限まで発揮しやすい。……
 ライバルがいれば学習がはかどるのも、まったく同じ仕組みです。長い進化の歴史の中で、脳を最も活性化させなければならなかった瞬間。それは、やはり、外敵と戦うときや獲物を追うときでした。」(『究極の勉強法』p.60)

他にも、先の尖ったものを見ると集中できるのはなぜかとか、興味というものがどのような役割を果たしてきたかとかが、進化の過程を踏まえて説かれている。

さて、本は読み終わった。しかし、こういった勉強法の本は、読むだけでは何の意味もない。実際に実践しないとダメだ。既に、「キッチンタイマー勉強法」など、いくつかは実践し始めている。そして効果も実感できている。今後も、45個あるユニークな方法をどんどん自分で使ったり、教え子に使わせたりしていきたい。そして勉強が効率的になるように、吉田たかよしと同じように工夫し続けていきたいと思う。
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2006年01月17日

シュテーリヒ『西洋科学史』全5巻(現代教養文庫)

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以前にも少し紹介したシュテーリヒ『西洋科学史』を通読した。人類の認識の発展が、自然科学・社会科学・精神科学の発展史として、分かりやすく説かれている。とにかく壮大なスケールである。

科学の発展史の大まかな流れを掴むために、各巻の副題と各章のタイトルを列挙してみよう。

●第1巻 揺籃期の科学◎ギリシア・ヘレニズム・イスラム
第1章 科学史の意義
第2章 基本概念――方法序論
第3章 予備条件、発端、あけぼの――史的序章
第4章 ギリシア科学の誕生
第5章 最初の継承者――ヘレニズムの科学とローマの寄与
第6章 もう一つの遺産――イスラムの科学

●第2巻 保存と復興◎中世の秋とルネサンス
第7章 保存と潜伏――西欧中世の科学
第8章 大復興――近代科学の開始

●第3巻 理性の時代◎数学的世界像の形成と啓蒙主義
第9章 普遍数学――17世紀の科学
第10章 自然と摂理――18世紀の科学

●第4巻 科学の大転回◎物理的世界像の形成と進化思想
第11章 進化――19世紀の自然科学

●第5巻 歴史と人間◎ドイツ歴史学派の興隆と精神分析学
第12章 精神と歴史――19世紀の精神科学


本来ならこうして目次を眺めた時点で、人類の認識の発展が、たとえ漫画ちっくであっても像として、頭の中でサーッと流れないといけない。しかし、まだまだその域には達していない。当面はそれぞれの時代精神を代表するような科学者に着目して、各時代の大まかな特徴をしっかりと把握するとともに、時代ごとのつながり、すなわち発展の流れも、アバウトに描けるようにしていきたい。そのために、もう一度読み返しながら、時代の特徴を端的に表している箇所に赤線を引いたり、大雑把な内容をノートに纏めたりしていきたい。もちろん、通常の世界史と重ね合わせながら学習することが大切だと思っている。

(ちなみに、『西洋科学史』の概要と各巻の詳しい目次は、Logic Board ―どう考えるのが正しいかで紹介されている。)

ところで、僕は本書のドイツ語原典も持っている。

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日本語訳を読んでいて、時々、論理的につながらない、おかしいと感じた時があった。そのような場合は、できるだけ原典を参照した。日本語訳で、いくつか誤訳・誤植を発見したので紹介しておこう。

・第1巻p.230 l.13
 「250倍」→「20倍」 原文はzwanzigmal
・第3巻目次
 第9章の「T数学」の最後に「c ライプニッツ」が抜けている
・第4巻p.225 l.15
 「生活物質」→「生命物質」 原文はder lebenden Substanz
・第4巻p.275 l.9
 「近代科学」→「近代外科学」 原文はder modernen Chirurgie
・第5巻p.286 l.6
 「知覚」→「視覚」 原文はdem Gesicht

気付いたのは以上であるが、おそらく他にもたくさんあるだろう。もっとも、些末なことだが。

なお、本書には、商工出版社版もある。

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学生時代には、大学の図書館にこの商工出版社版しかなく、現代教養文庫版はまだ入手できていなかったので、専ら商工出版社版を読んでいた。現代教養文庫版は、商工出版社版の再版である。訳がところどころ改訂されているほかに、図表や写真が豊富に取り入れられている。また、文庫サイズと手軽になっている。読むなら現代教養文庫版の方がいいだろう。
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2006年01月16日

思想の科学研究会編『新版 哲学・論理用語辞典』(三一書房)



辞書・事典は何かと重宝する。最近はネット上で使用可能な辞書も増えてきたし、電子辞書もかなり普及してきた。僕は両方ともかなりお世話になっている。ネット上では、Yahoo!辞書を頻繁に使う。電子辞書としては、パソコンにインストールしている平凡社の百科事典はたいていのことを調べられる。また、シャープの携帯用電子辞書も常に持ち歩いている。これには、英語関係の辞書がたくさん入っており、塾の授業にも手軽に持って行けるので、大変役立っている。

紙の辞書としては、南郷師範お薦めの国語辞典『例解国語事典』(三省堂)や瀬江先生お薦めの医学事典『暮らしの医学』(大門出版)の他、英語関係の辞書(15冊くらいある)、それに心理学系の辞書(2,3冊。うち1冊は電子辞書としてパソコンにも入っている)などを活用している。

ところが、学問用語というか哲学用語というか、そういうもののごく基本的な意味を調べるときは、所持している辞典類では少し不十分だと感じていた。『広辞苑』のような辞典では、ごく簡潔に説明してあるためか、非常にイメージしにくくなっているし、百科事典にしても、哲学専門家が書いているためか、チンプンカンプンのことが多い。

そこで今回、哲学辞典としては異色で、とにかく分かりやすいという定評のある思想の科学研究会編『哲学・論理用語辞典』(三一書房)を購入してみた。そして前書きとか付録とか、いくつかの項目の解説を読んでみた。思った以上にいい感じである。

まず、執筆者の中にアカデミズムの中で哲学を専門としている人間が一人もいない点がいい。大学の先生には哲学を習わないというのが僕の信条である。そして評判通り分かりやすい。原稿を高校生に読んでもらって、分かるまで書き直したということである。哲学者は不要だが、哲学そのものは今日ますますその必要性を増しているとして、哲学のシロウトにも分かるように説かれている。

もちろん、この辞書の概念規定でもって、三浦つとむや南郷継正を読んでいこうとしているわけでは断じてない。そんなことは不毛だし無駄である。三浦つとむを理解するには三浦つとむの論理で読まねばならないし、南郷継正を理解するには南郷継正の論理で読まなければならない。要するに再措定するしかないのである。

しかし、再措定の端緒として、辞書の定義が役立たないこともない。概念は、まずは使える形でやさしい定義をしておく必要がある。その際、辞書の定義が役立つこともあるのである。あとは実践によって、その定義を豊富化し、厳密化し、洗練化していく、つまり量質転化を待つだけである。一応の柔らかい外枠を辞書の定義によってシンプルに創っておき、その中身を、自らの五感器官を通した反映によって埋めていくと直接に、その外枠を精密化・概念化していくというようなイメージで理解している。

ともかく、再措定に際しては、まず、やさしい定義が必要である(そうでないと使えない、したがって再措定などできない)から、その最初の定義には、結構使えそうな辞書であるといえる。

また、自称哲学者や哲学専攻の学生がいっていることの意味がまったく分からないままでは癪に障るので、そういったことを調べる際にも活用したい。どうせ本物の哲学は、アリストテレス→カント→ヘーゲルという人類最高の認識の発展史の中からしか、あるいは同じことであるが、南郷継正からしか学べないのであるから。現代の自称哲学者のいっていることなど、せいぜいこの辞書レベルで理解しておけば十分であろう、などと勝手に判断している。

さて、実はこの辞書の『新版』の他に、旧版にあたる『増補改訂』版も古本で入手した。両者の違いについて、ネット上でもあまり情報がないので、ここで紹介しておこう。

@『新版』のまえがきによると、旧版の項目の60%はほぼそのまま『新版』に受け継がれているという。逆から言うと、40%は新たに追加されたり、全面的に改定されているということになる。

A『新版』は、旧版読者が、旧版に対する不満を解消するために執筆したものである。そのため、特にマルクス主義理論に係わっては、大幅な書きかえがなされている。

B活字が『新版』では大きくなっている。したがって、ページ数も増えているものの、情報量は同じくらいであると思われる。

C旧版にあった「哲学名著百選(および主要哲学者紹介)」と「哲学系統図」、それに欧文索引が、『新版』ではカットされている。それに伴って、旧版には登場していたディーツゲンが、『新版』には登場しない。
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2006年01月15日

社会派推理小説を読む目的――森村誠一『棟居刑事の「人間の海」』(角川文庫)



久しぶりに森村誠一を読んだ。やはり森村は「社会派」という感じだ。非常に興味深かった。

そもそも僕が社会派推理小説を読むのには、理由がある。読む目的があるのである。それは、端的に言えば、観念的二重化の能力を涵養するためである。相手の立場に立てる実力を育てるためである。

相手の立場に立つこと、相手の気持ちを理解することは、学問的には観念的二重化そのものである。三浦つとむによると、観念的二重化とは、世界の二重化と自分の二重化がセットになっている。しかし、論理的には世界の二重化が自分の二重化に先行するはずだと僕は理解している。簡単にいえば、相手が生活している世界がどのようなものかが描けて初めて、その相手の気持ち(=認識)を追体験することができる、ということである。

これは、僕が国語の授業で、小学生・中学生に物語・小説の読解方法を教えていたときに発見したことである。物語・小説においては、登場人物の気持ちを問う問題が必ずといっていいほどある。その登場人物の気持ちを把握するプロセスは、一般的に次のように解説されている。すなわち、場面設定の把握→出来事の把握→登場人物の気持ちの把握、である。これはつまり、登場人物の置かれている世界を把握して(まずはマクロ的に、その後ミクロ的に)、初めてその人物の気持ちが把握できるということを意味している。すなわち、世界の相手化→自分の(認識の)相手化、という順序である。

これはよく考えてみると当たり前である。認識の論理的な位置というのは、「対象→認識→表現」であるから、対象、すなわち自分の置かれている世界から(その反映として)認識が誕生するのである。登場人物の気持ちを理解したいのなら、その人物が置かれている世界をまずは描くことである。そうすれば自然と、その立場に置かれたときの気持ち=認識が分かってくるというものである。だから物語・小説の読解においては、まずはマクロ的に小説の世界全体を把握して(これが場面設定の把握)、次にミクロ的に、どんな出来事が起こってそれに対して登場人物はどのような反応を示したのかを把握する(ここが出来事の把握)、そうすればその人物の気持ちも分かる、と指導されるのである。最初の二つを統一して、世界の二重化と捉えてよいと思う。このように相手の世界を描くことができれば、その世界の反映として成立する登場人物の気持ち=認識も、自然に分かるはずである。

以上のようなことは何も小説の登場人物の理解に限らず、現実に存在する人間を理解する際にもいえることである。生徒の気持ちを理解するには、その生徒がどんな世界で生活しているかをしっかり把握しなければならない。たとえば、家庭生活はどうか、両親との関係はどうか、兄弟姉妹はいるのか、学校ではどうか、どのような友人関係を持っているのか、先生との関係はどうか、等々である。これを本人から直接聞いたり、周りの人間からきいたり、実際に家庭訪問をしてみたり、生徒の机に座って教室を眺めたりすることによって、その生徒の世界を描いていくのである。これがしっかり描ければ、その生徒の認識も追体験できる、その生徒に二重化できるわけである。

しかし、である。相手の世界を描こうにも、自分の個人的経験にだけ基づいていては限界がある。『あしながおじさん』の主人公である想像力豊かなジルーシャでさえ、一度も足を踏み入れたことのないふつうの家の中が想像できなかったのである。

個人的経験だけでは限界があるのなら、他人の経験に頼ってその限界を突破すればいい。ここで役立つのが小説なのである。特に社会派推理小説は、現代日本に存在する様々な世界を、生き生きと描いてくれている。こういうものをコツコツと読むことによって、次第次第にどんな世界でも描ける柔軟な想像力、実力ある厚い認識が育っていくと思っているのである。長くなってしまったが、これが僕が社会派推理小説を読む理由である。

以上は僕の理解でしかないが、学問的には既に次のように指摘されている。

「人間とは何かをわかるための社会と歴史の学びは、学校の教科書とか副読本とか参考書とかを合わせた程度では大きく不足しているのです。何が大きく不足するのかといえば時代の心、社会の心、人の心です。そのための学びとしては三つあります。
 一つは、歴史を題材とした時代小説です。日本のでいえば、『大仏開眼』とか『新平家物語』とか『大菩薩峠』とかのような時代が大きく主人公になっている小説です。二つは、人間の心を主題にしている小説です。舟橋聖一や丹羽文雄や夏目漱石などの小説です。三つは、社会派とされている推理小説です。松本清張や高木彬光や森村誠一などです。……
 こういった小説にしっかり、時代の心とか社会の心とか人間の心とかいったモノを学び続けて力を養ってこそ、相手の立場に立てる自分の心ができあがってくるのです。」(南郷継正「なんごうつぐまさが説く看護学科・心理学科学生への“夢”講義・4」、『綜合看護』1999年4号、p.97)

実は、ここで南郷師範が森村誠一の名をあげておられるので読み始めた、というのが実際なのである。しかし、それではあまりにも主体性がないので、自分を納得させるためにも、自分なりにこういった小説を読む意味を考え続けてきた。そして到達した一応の結論が、上で書いた内容なのである。

最後に『棟居刑事の「人間の海」』に戻って、その「解説」に書かれていた興味深いお話を紹介しておこう(有名な話なのかもしれないが)。森村誠一は、特注のガラスペンで執筆しているということである。本人談によると、「私のペンは特注のガラスペンで、総体二グラム。今は生産中止で、二万本特注し、年間消費量約六百本、すでに一万二千本を消費して、残り八千本は銀行の貸金庫に保管しています」とのこと。面白いこだわりだと思った。
posted by 寄筆一元 at 18:03| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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