2005年12月23日

滝村隆一「国家論と唯物史観」「狭義の国家と広義の国家」

滝村読書会を京大周辺で行った。今回も前回に引き続き、『増補マルクス主義国家論』所収の二つの論文を扱った。

もう何度も読んでいるので、何となくは分かるのだが、しかし細かくみていくと、よく分からないところも未だに多い。たとえば、p.72の表題、「soziale Machtとpolitische Machtの相互浸透」がよく分からないという声が、読書会でも出た。politische Machtではなくて、Staatsmachtなら本文とも合致するので納得できるのだが。

また、p.80からの「国家的活動の二重化」の箇所は、スッキリとしない。「二重化」というのは、滝村国家論を学ぶ際の最重要キーワードだと思われるが、ここではおそらく<共同利害>と<特殊利害>の二重化だろう、というくらいしか分からない。

まあそのあたりは今後の課題として、2時間弱で読書会が終了。その後、京大近くにある飲み屋に行った。おそらく3年ぶりくらいだったが、店のおばさんを僕を覚えていてくれた。「弟さんのほうやね」などといっていた。ちなみにこの店、昔東京から来たOさんが、「小汚い店」と称したことがある。冷や奴を頼んだのに「今切れている」と断られたといって、ずいぶん不満げだったことを思い出す。

その後はマンガ喫茶で朝まで過ごし、早朝、帰途についた。京都の朝は寒かった。

以下、今回僕が用意したレジュメ。


滝村読書会   『増補 マルクス主義国家論』  2005年12月22日

          「国家論と唯物史観」
(1)国家の発展
(A)国家権力の特殊性
国家権力=イデオロギー的な権力
Machtの総体としての社会全体に対して、国家意志への服従を迫る

(B)soziale Machtとpolitische Machtの相互浸透
soziale MachtのStaatsmacht化とStaatsmachtのsoziale Macht化
国家における<社会的=経済的>機能=社会全体の<共同利害>に関する業務

(C)国家における二つの機能
<政治的=イデオロギー的>機能
<政治的=イデオロギー的>性格の強いsoziale Machtの関与
<社会的=経済的>機能
   各種の特殊法人を生み出し、<国民経済>との結びつきが緊密になる

(D)国家的活動の二重化
<共同利害>の<特殊利害>化 ex.<公共事業>
<特殊利害>が幻想上の<共同利害>として押し出される ex.<財政投融資>
  ※幻想的=形態+内容 <階級制>と<幻想性>の同一性

(2)狭義の国家と広義の国家
(A)狭義の国家としての把握
狭義の国家=国家権力  ←国家の実体論的規定

(B)広義の国家とは何か
広義の国家=イデオロギー的な支配の及ぶ範囲

(3)唯物史観とMacht論
(A)歴史における原動力の問題
唯物史観=市民社会の中に歴史発展の究極の原動力として<階級闘争>を探し求めた
歴史における個人の役割はMacht論を踏まえて理解する!

(B)MachtとAutorität
Macht=自然・社会・思惟にわたって、人間に能動的に働きかける力を
その過程的構造において把えたもの
Autorität=人間の意志関係を<支配的意志>の面から把握したもの


          「狭義の国家と広義の国家」
(1)狭義の国家
(A)国家権力の生成
原始公権力:soziale Macht、氏族社会内部へのGewaltとしてたちあらわれることはない
  ↓社会的分業の登場
国家権力:イデオロギー的な第三Macht、社会内部の被抑圧階級に対してはGewalt

(B)国家の論理構造
狭義の国家とは
 それ自体として→Macht, Organisation
全体の部分として→Organ
 過程的構造において→Gewalt(国家的支配の過程それ自体)
           Maschine, Werkzeug(経済的支配者による国家的支配の全過程)

(C)国家的支配とは何か
国家的支配=イデオロギー的支配+暴力的支配(直接的な統一)
狭義の国家の本質=特殊な抑圧強力

(2)広義の国家
(A)ヘーゲル的な広義の国家
ヘーゲルのいう国家=<神の意志>→<法>→<個人の意志>という意志の過程的構造
マルクス主義の国家=<経済的に支配する階級の意志>→<法>→<個人の意志> 〃

(B)マルクス主義の広義の国家
<広義の国家>の実体構造は、厳密な意味での<政治構造>という概念と一致
広義の国家とは
 それ自体として→Die Zusamenfassung der Gesellschaft
過程的構造において(本質)→Maschine zur Niederhaltung

(C)この論文の反響について
滝村論文はこっそりと受け入れられている
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2005年12月16日

現代社新刊情報

現代社に新刊の発行時期について問い合わせたところ、以下の回答をいただいた。

『“夢”講義(1)』 来年2月頃の発行予定です
『教育講座(1)』 まだ原稿をいただいていないため未定(来年中)
『いのちの歴史』 まだ原稿をいただいていないため未定(来年中)


南郷師範の『“夢”講義』が2月ということで、非常に楽しみだ。また新たな気持ちで読み返したい。

そういえば、季節社の『三浦つとむ文庫』はどうなっているのだろう? 0巻の予告もなされているが、なかなか刊行されない。今度、3年ぶりくらいに問い合わせてみようか。以前聞いたときには、ディーツゲンの著作の訳も、既に原稿はできあがっているということだったが、やはり出版は難しいのだろうか。
posted by 寄筆一元 at 21:38| Comment(8) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月04日

兄の結婚式

昨日、兄の結婚式があった。来ていただいた方、ありがとうございます。

入籍してからもう半年以上経っているためか、それもとカメラマン役で忙しかったためか、特に感慨深いということもなかった。全体の流れとしては、親族紹介→結婚式→披露宴→二次会→三次会(→四次会)→友人の家でお泊まり、という感じだった。

地元から遠いため、親戚一同はバスをチャーターして、会場に向かった。祖父は体調を崩して欠席、弟は大学のサークルの用事で欠席だった。親戚の方に「弟はどうした?」と何度も同じ質問をされてしまった。

会場のホテルに到着後、親族紹介、結婚式という流れだった。結婚式は、神父さんか牧師さんかは知らないが、とにかく片言の日本語が笑えた。披露宴では、新郎新婦の上司がそろって兄の名前を間違える始末。しかも新婦の上司の挨拶、長すぎるし、しかも二人とは無関係の話を延々とされていたのには少し参った。兄の大学時代の友人と現在の職場の同僚の挨拶・余興は、なかなか面白く、爆笑をとっていた。

披露宴終了後、少し時間をつぶして二次会に行った。実は披露宴の途中で、二次会の幹事さんから、「二次会で、乾杯の音頭をとってくれませんか」と頼まれていた。僕は小心者だから、「そういうのはちょっと」とお断りしたのだが、「よく似た弟がいるということを皆さんに知ってもらいたいので、是非に」と再度頼まれて、しぶしぶ承諾したのであった(ちなみに、兄と僕は双子)。すると、二次会の会場で、さらに、「新郎新婦が二階から登場するので、その間にこっそり新郎用の席に座っておいてもらえませんか」と頼まれた。どうやら、「そこは俺の席だ、どけ」などと兄にいわせて、僕があわてて席を立つ、みたいなコシバイをやるみたいだ。そして、「実は双子の弟でした」ということで、そのまま僕が乾杯の音頭をとる手はずらしい。こうなりゃやけくそでやってやろう、などと腹を決めた。

しかし、今振り返ってみると、結婚式の後や披露宴の最中に、「これが弟か。そっくりやね」みたいな視線を感じ続けていたのだった。だから、今さら「実は双子の弟でした」も何もない。しかも、そういうことなら、せめて服装を同じにするとか、髪型をそろえるとか、あるいは下に座っているのが兄で、二階から新婦とともに登場するのが僕、くらいの段取りがあってもよかった気がする。

ともかく、二人が登場して、各テーブルのろうそくに点火してまわっている間に、僕はこっそり新郎用の席にスタンバイした。そして、すべてのろうそくに点火し終えて、僕の座っているテーブルに二人がやってきた。ところが、二人も、他の方々も、大してなんの反応もない。司会の人が「ここに座っているのは実は新郎の弟さんでした」みたいな紹介をされたときもやや受け、という程度。軽く自己紹介して、乾杯の音頭をとって、そそくさと自分の席に戻った。

やはり断るべきだった。見ようによっては、調子に乗った弟が、ウケを狙って独断であの席に座っていたが、滑ったね、みたいな状況になってしまった。この出来事を忘れるためと、頭痛(昼間から酒を飲んでいたためか、少し頭が痛かった)を治すために、二次会ではけっこう飲んだ。すると案の定、頭痛がおさまり、本来ならこれで帰る予定だったが、思い切って大学時代のサークルの方々と三次会に行くことにした。

このサークル出身の方々は、みんな優秀で、いっしょにいると自分が少し情けなくなってくる。内閣府で働いている官僚さん(もう部下が3人いるといっていた)とか、朝日新聞の記者さん(地方回りをさせられているらしい)とか、科学哲学を研究されているドクターさん(道徳性の進化について修論を書いたという)とか、宇宙船をつくっているIHIの社員さん(あ、つくってはいないか)とか、どこかで研究をされている方とか、どこかで働いている人とか(だんだん適当になってきた)、である。いろいろな方面でご活躍のお話、肩身の狭い思いをしつつ、なかなか興味深く聞かせていただいた。

三次会終了後は、IHIの社員で、近くに実家がある友人の家に泊させてもらった。この友人は、短大卒で中途採用の妹とボーナスの金額が同じだったといって嘆いていた。この友人宅に着いたとき、兄から電話がかかっていたのに気付いた。兄は、僕らとは別に、職場の人たちと三次会をやっていたのだが、終わったので、できれば合流しようか、ということだった。しかし、わざわざタクシーでこの友人宅まで来ていたので、断った。兄は、僕が先ほどまで飲んでいたサークルのメンバー(この方々は、兄と同じホテルに一泊することになっている)と四次会に行ったようだ。友人宅でもビールを飲みながら、少しお話をして、それから寝た。長い一日だった。
posted by 寄筆一元 at 17:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月01日

書くことの意味――湯浅俊夫『合格小論文の書き方』他



目的は過程の質を決定する。これは人間の実践一般に当てはまる命題である。したがって、何かことを行う場合、目的を明確にして、目的意識的に行わないと、思い通りの成果が上がらないことにもなってしまう。

では、人間は何のために「書く」のであろうか? 「書く」ことにどんな意味があるのだろうか? 僕もこのブログやノートに自分の考えを書いているわけだが、その目的は一体何か? これを明確にして、常にその目的を意識しつつ、「書く」という作業を行わなければならない。

このブログの目的は、最初の記事でも書いたように「文章修行を通して、事実を事実として見る目を養うこと、論理能力を鍛えていくこと」である。しかし、これではやや抽象的であるから、今回は今まで読んできた本の中で、「書くことの意味」について触れられている箇所を抜粋しつつ、何のために書くのか、という目的を再確認しておきたい。それによってこの目的的像がより厚みのある像になるはずである。

まず初め紹介したいのは、湯浅俊夫『合格小論文の書き方』(旺文社)である。これは大学受験用の小論文の参考書であるが、大学の卒業論文執筆にも十分役立つ。論文の書き方の基本書といってもよい。蛇足だが、僕はこの本の著者である湯浅先生に、直接小論文の指導・添削をしていただいたことがある。『合格小論文の書き方』の中には、その時に僕が書いた文章が解答例として載っている。湯浅先生によって多少手直しされてはいるが。

『合格小論文の書き方』では、一章を設けて「日常のトレーニング方法」が説かれている。そこには次のように書かれている。

「『書き続けること』、『考え続けること』、『書きながら考え続けること』。それらを日常生活の一部としてこなすことが、自分の考えをより精密にし、想像力を強化させる有力な方法である。頭の中だけで考えているというのでは不十分なのだ。その考えがどのような形であれ表現されることによってはじめて意味を持ってくる。考えは形をとることではじめて明確なものになるのだ。」(pp.164-165)

ここで述べられているのは、書くことは考えることであるという考え方である。しかも、書くことを、朝食を食べたり歯を磨いたりお風呂に入ったりするのと同じように、生活化するべきだと説かれている。そのための手段として「書き慣れノート」なるものが紹介されている。つまり、何でもかんでも書き込んでいくノートである。本の感想や、他人から受けた印象、時事問題に関するコメント、ちょっとした気付き・発見、等々を、どんどん書き込んでいくのである。もちろん、僕も実践している。

次に、「書くことは考えることである」ということを明確に説いている本があるので、それを紹介したい。南郷継正監修『空手道綱要』(三一新書)である。これは玄和会の教科書であるが、その最後の章は「指導者の論文はいかにあるべきか」というタイトルになっている。その部分から一部抜粋してみる。

「まず一つのテーゼをあげておこう。

《書くことはすなわち考えることである》

 このテーゼは正確には、次のごとく読むべきであろう。すなわち、発表するべき状態におくべく、まっとうに書くことは、まっとうに思考することにつながるのであり、単に真剣に思考する、苦しんで考えるというレベルのみの頭脳を活動させることでは、まっとうなる思考には育たないものである。
(中略)
 いずれにせよ、〈書く〉ためには、自らの思想をとりわけ整理・吟味してかからなければならない。これは別の観点から見れば、自らの思想を整理することによって、認識の精緻なる改造が着実に行われていることが明らかになる。」(pp.232-234)


つまり、書くことと考えることを対立物の統一として、弁証法的に捉えているわけである。さらに補足しておくと、《書くことはすなわち考えることである》というテーゼは、その対立物たる《考えることはすなわち書くことである》というテーゼと、統一して考える必要があろう。このように、書くと直接に考える、考えると直接に書く、というプロセスを経て、認識の発展がもたらされるのである。

さて、以下しばらくは、論文の書き方関係の本から抜粋し、それに関するちょっとしたコメントを書いてみたい。

「文章が論理をドライブするとは、文章を書いている内に、新しい論理を思いつく、論理の筋が見えてくる、という現象が書き手の頭の中で起きて、その結果、そうして見えてきた論理が実際の文章として書かれる、ということである。文章を書くことによってそれまではっきりとは見えていなかった論理が見えてくるのである。」(伊丹敬之『創造的論文の書き方』(有斐閣)pp.216-217)

この『創造的論文の書き方』は、帯に「新・学問のすすめ」とあるように、論文の書き方に限定されておらず、大学での研究の方法が詳しく、分かりやすい比喩を多用して説かれている。ここで述べられている「文章が論理をドライブする」という現象は、それなりに考えながら文章を書いたことのある人なら、だれもが体験しているであろう。

「論文を書くというのは、実は『論証』を行うことなのだ。論証のない文章は、いくら新発見であっても、論文にはならないのだ。そして、論証があるからこそ、その発見は、多くの人が共有できる知識となる。要するに、論文を書くこととは、知の共有に至る道なのである。」(山内志朗『ぎりぎり合格への論文マニュアル』(平凡社新書)pp.30-31)

「ぎりぎり合格への」といいつつ、けっこうハードルが高い。このマニュアルに書いていることをすべてクリアーできたら、大学の卒業論文は文句なく「優」がもらえるはずだ(僕の卒業論文「三浦つとむの規範論」の場合は、このマニュアルを全然クリアーできなかったためか、「良」だった)。ちなみにこの本はかなり面白い。知的好奇心を刺激する、とかそういう高尚な面白さではなく、単純にギャグが面白い。本当に声を出して笑ってしまう。これも、電車や図書館などでは読むべきではない本の一つだ。

「でも、考えるというのは、やってみるとわかりますが、なかなかに幸い。ニーチェは人は同じことを五分と続けては考えられない、とどこかで言っていますが、ニーチェがそう言っている以上、我々はまあ、一分続けて同じことを考えられるのか、これは難しい、と思ったほうがいい。
 たとえば、ピクルスの瓶のふた、特に外国のもの、これ、開きませんよね。ウーン、と渾身の力を込めて、一回。ダメ。もう一度ウーン、とやって、こりゃだめだわ、と僕たちは匙を投げます。渾身の力をこめるというのは、五秒と続けられないものだ、ということがわかるでしょう。考えるというのも、このピクルスの瓶開けと似ています。ウーン、もう一度、ウーン、こりゃだめだわ。ぎりぎりのところで僕たちの考えというのは、そういう汗かきの仕事になります。書くというのは、そういうところまで、考えるということをもっていく、一つの場です。何か読んでいたら村上春樹氏が自分は書かないと何も考えられない、と言っていました。でも、ものを書くようになる人というのは、頭がいいから、書くんじゃ決してないんです。考えるために書かないといけない、という面倒なサイクルを自分の身体に引き込んでしまった人が、考えるために書く。僕もそうです。考えるために書く。書いてみると、どこまで自分がわかっていて、どこからわからないのか、わかる。なぜわかるか。書けなくなるから。あるいは調子に乗って書いていて急に自分が馬鹿に思えてきて、その先を続けられなくなるから。
(中略)
 ですから、皆さんは、書けなくなると、そこでやめるかも知れないけれども、僕などは、書けなくなると、そこから書くという仕事がはじまる。書けなくなるところまで行くため、勉強して、もう勉強じゃダメ、という八合目から、山頂めがけ登るんです。
 売文業というのは、ですから、なかなか大変です。でも、書くことがそうなんです。いいですか、知っていることを書く、んじゃないんですよ。書くことを通じて何事かを知る、んです。ここを間違わないようにして下さい。」(加藤典洋『言語表現法講義』(岩波書店)pp.12-13)


少し長いが、なかなか興味深い内容だ。

「論文を書くためには,二桁×二桁の暗算に必要な情報量よりもはるかに多い情報を処理しなくてはいけない.だから,論文で用いる全情報を一どきに頭の中(作業記憶領域)で操って,全体の論理性を確かめることなどできるはずもない.結局,少しずつ小出しにして考えていくことになる.しかしこれでは,この部分を考えていたら,あっちの部分はどういうことだったっけとなってしまう.つまり,頭がこんがらがる.だから,頭の中だけで,論文で主張したいことを体系立てて整理するのは所詮無理なのだ.二桁×二桁の掛け算も,紙に書いて計算すれば簡単にできる.紙に書けば,作業記憶にそれほど多くの情報を保持しなくてすむからだ.同様に,論文を書くときも,全体の道筋を流れ図に描いてみる.そしてそれを見てみる.それを文章にしてみる.そしてそれを読んでみる.全体の道筋(論理の流れ)を確かめるには,頭の中で考えていることを直接吟味するのではなく,考えを読める(見える)形にし,そちらを使って吟味することである.そうすればきっと,自分が考えていたことについてずいぶんと気づくことがあると思う.『この論理の流れはおかしい,こう直すべきだ.』『こういうことも主張できるのではないか.』このように,書くことは,研究成果の質を高めることにつながる.」(酒井聡樹『これから論文を書く若者のために』(共立出版)pp.8-9)

この続きには、論文を書くことのもう一つの効用についても触れられている。それは、自分自身を変えるということ、すなわち「データがあって、それを論文にまとめる」という思考から、「書きたい論文があって、そのために必要なデータは何かを考える」という思考への転換である、とされている。

「論文というのは、自分の頭でものを考えるために長い年月にわたって練り上げられた古典的な形式なので、ビジネスだろうと、政治だろうと、なんにでも応用がきくのです。いいかえれば、優れた論文作成能力を獲得している人は、優秀な学者になれるばかりか、優秀なビジネスマンにも、優秀な政治家にもなることができるのです。」(鹿島茂『勝つための論文の書き方』(文春新書)p.221)

論文の生成発展の過程を踏まえている点が興味深い。

ここから三冊は、直接論文の書き方の本ではないが、同じようなことが書いてある。

「考えたことを文字にしていく場合、いい加減であいまいなままの考えでは、なかなか文章になりません。何となくわかっていることでも、話し言葉でなら、『何となく』のニュアンスを残したまま相手に伝えることも不可能ではありません。それに対して、書き言葉の場合には、その『何となく』はまったく伝わらない場合が多いのです。身振り手振りも使えません。顔の表情だって、読み手には伝わりません。それだけ、あいまいではなく、はっきりと考えを定着させることが求められるのです。そのような意味で、書くという行為は、もやもやしたアイデアに明確なことばを与えていくことであり、だからこそ、書くことで考える力もついていくのです。」(苅谷剛彦『知的複眼思考法』(講談社+α文庫)pp.130-131)

この本は名著だ。大学生必読の本であると思う。僕がこの本の存在を知ったときには単行本でしか刊行されていなかったが、今では文庫で手に入る。

「ところが『発見の手帳』の原理は、そういうの(そらで文章をくみたてること――寄筆)とは、まったく反対である。なにごとも、徹底的に文章にして、かいてしまうのである。ちいさな発見、かすかなひらめきをも、にがさないで、きちんと文字にしてしまおうというやりかたである。
 このやりかたは、すこし努力を必要とするので、そらで数や文章をあつかうようなたのしさはない。しかし、それだけに、暗算では気のつかなかった、おおくの問題に注意をはらうようになる。『発見の手帳』をたゆまずつけつづけたことは、観察を正確にし、思考を精密にするうえに、ひじょうによい訓練法であったと、わたしはおもっている。」(梅棹忠夫『知的生産の技術』(岩波新書)pp.26-27)


この「発見の手帳」が湯浅先生の「書き慣れノート」の原形だと思う。梅棹氏は、どんな些細なことでもノートにメモしたというレオナルド・ダ・ヴィンチを真似て「発見の手帳」をつけはじめたのだ。これにちなんで、湯浅先生は以前この「発見の手帳」のことを「レオナルドの手帳」と呼ばれていた。「書き慣れノート」や「発見の手帳」より「レオナルドの手帳」の方が、どことなく格好いい。梅棹氏自身は、京大型カードに辿り着くと、この「発見の手帳」もカードで代用させたそうである。僕も京大型カードは、たとえば塾で教える英文法の情報を一項目ずつカードに書き込むなどして利用しているが、この「発見の手帳」=「書き慣れノート」は、A5のノートを利用している。

「人は『考えたことを書く』のではなく,いわば,『考えるために書く』のである.書くということを通じてこそ,人は自分の考えを進めたり,新しい考えを出したりできる.逆に言うと,考えがまとまらないとか,進まないというときには,書いてみるのがいちばんなのである.
(中略)
 じつは,これは書くことだけに限ったことではない.一般に,『表現する』というのは,心の中にすでにあるものを外に表すことだととらえられているようだが,じつは,表現するという行為を通して心の中にあるものが変化していくのである.それは,自分でももやもやとしていたことがらが形をなしてくるということもあるし,思いもかけなかったような新しいアイデアに思い至るということもある.作曲にしても,絵画にしても,研究発表にしても,その制作過程を通じて自分自身が変化していくことを感じることができるし,それがまた表現することの醍醐味なのである.」(市川伸一『勉強法が変わる本』(岩波ジュニア新書)p.186)


有名な心理学者による勉強法の本。高校生向け。途中に挿入されている文献紹介も役に立つ。

さて、書くといっても、以上見てきたように論文、あるいは文章という形で書くとは限らない。最初に引用した湯浅先生の言葉にもあるように、ある考えは「どのような形であれ表現されることによってはじめて意味を持ってくる」のであるから、逆にいうと、文章という形にこだわる必要はない。ここでは、文章以外の形式を二つ取り上げたい。

一つ目はマンダラートである。3×3の9つのマス(マンダラ)の中心にテーマを書き、その周りの8つのマスにテーマに関連することを書き出していくのである。超シンプルな方法である。しかし、開発者の今泉氏は断言する。

「考えるとは、マンダラをつくってみることだ。」(今泉浩晃『「成功」を呼び込む9つのマス』(ぜんにち)p.169)

このシンプルさがいい。もちろん、僕の「書き慣れノート」にはたくさんのマンダラートが書かれている。

次は、たびたびこのブログにも登場しているマインドマップである。最新刊のトニー・ブザン他『ザ・マインドマップ』(ダイヤモンド社)から引用してみよう。

「マインドマップは放射思考を外面化したものであり、脳の自然な働きを表したものである。脳の潜在能力を解き放つ鍵となる強力な視覚的手法で、誰もが身につけることができる。あらゆる用途に使用でき、学習能力を高めたり、考えを明らかにしたりするのに役立ち、生産性の向上が可能になる。
(中略)
 マインドマップは思考を直線形式(1次元)から一歩前進させ、平面(2次元)、そして放射的で多次元的なものへと進化させる。」(pp.59-60)


伊丹氏の表現を借りるなら、「マインドマップは思考をドライブする」という感じか。マンダラートとマインドマップに共通するのは、文章とは違ってノンリニアな形式であるという点である。最近、個人的にはマンダラートの方に親しみを覚えて、何かと活用している。開発者が日本人であることに関係しているのかもしれない。

書くことの大切さといえば忘れてはならないのが原田隆史先生である。原田先生は、実践的認識論を独自に創出されていると僕は思っているのだが、次の部分などは、認識論的にも非常に興味深い。

「実は、オリンピックの金メダリスト、偉人、成功者がやっていたのほ、ただ思うことだけではありませんでした。『成功のプロ』はみんな、思い描いていたことを書いて≠「たのです。
 なぜ、思っているだけでは十分ではなくて、書かなければならないのでしょうか。それは書くことにはイメージを強化する効果があるからです。
 書くということについて考えてみましょう。
 頭の中で考えていなければ、文字に表すことはできません。書いた文字は思考の表れなのです。そして、思考の量と文字数は正比例します。たくさん考えている人は、たくさん書けます。あまり考えてない人は少ししか書けません。つまり、イメージが具体的かつ鮮明になっているかどうかは、文章にしてみれば一目瞭然で分かるのです。
 そして、何度も書くことによって、セルフイメージはどんどん高められ、強化されていくのです。イメージを文章化した後で読み返してみると、あれが足りない、これが足りないということに必ず気づきます。そこでもう一度考えて書く。さらに考えて書く。これを繰り返すたびに、イメージは前よりも具体的かつ鮮明になり、潜在意識の中にたたき込まれていくようになります。
 『よく考えることで文字数が増える。すると、足りないものに気づく力が高まる。そこでものごとに気づく力が高まれば、行動の質が高まっていく』。原田塾ではこのサイクルを『意識の高まり』と呼び、書くことを重視した指導を行っています。『成功の技術』を作動させるための長期目標設定用紙や日誌も、書くことの大切さに気づいた結果取り入れたものなのです。」(原田隆史『成功の教科書』(小学館)pp.40-41)


書くという必死の労働によって、自己の認識が厚みのあるものに育っていく。厚みのある認識=像は強烈に自己を駆り立てる原動力にもなるし、他の人は気付かないようなことまで気付かせてくれる問いかけ像にもなる。そういった内容が説かれているのだと判断した。

以上、いささかしつこいくらいに見てきたように、書くことの意味に関して、様々な人が同じようなことを主張している。以上のようなことを常に念頭において、目的意識的に書くという実践をこれからも行っていきたいと思う。最後に、やはり湯浅先生の魂を揺さぶる文章を紹介して纏めとしたい。

「書くことはおそろしい。あいまいさ・貧しさも含めて書き手の思考のすべてを明らかにしてしまうからだ。『そんなことを言われれば何も書けなくなってしまいます』という弱々しい抗議の声がどこからか聞こえてきそうだ。だが、はやまらないでほしい。私には、君の書くことを抑圧しようなどという意図は毛頭ない。ただ私は君に、書いてしまった言葉をよくみつめながら、〈書くこと〉の〈スリル〉と〈効用〉について考え抜いておくべきだ、と言いたいだけだ。
 そのためには、書くことのおもしろさについても触れておこう。『書くことはおそろしい。あいまいさ・貧しさも含めて書き手の思考のすべてを明らかにしてしまう』と書いた。だがそれは言い換えれば、書くことによって自分の貧困を対象化し、脱ぎ捨てることが可能だ、人は書くことによって今までの自分から脱出できる、少なくともその可能性を持っている、ということと同義でもある。
 書くという行為は自分の思考を外化し、対象化することだ。自分がここにいて、すでに書きあげてしまった文章がそこにある。それはちょうど鏡を見ることに似ている。人間は自分で自分自身の姿を直截は眺めることはできないが、鏡という媒介物を通じてなら、自分の姿を映してみることができる。他人の目の位置から、自分自身を客観的に眺めることが可能になる。文章もまったく同じ事なのだ。われわれは文章という鏡に、自分の考えを映してみてはじめて、自分の考えを対象化し客観視することができる。その時、文章のこちら側にそれを対象化するもうひとりの自分がいる、ということこそが大切なことだ。その、もうひとりの自分とは、文章を今まで書き続けていた自分とつながりをもちながらも、すでにほんの少しだけ異なっている自分、今までの自分から離脱し始めている〈新しい自分〉であるはずなのだ。
 そのとき生まれてくる〈未知の自分〉を信じよう。まだ何者ともわからないが、自分が書きあげてしまったものを見つめて、すでにそこに〈物足りなさを感じている自分〉、今までとは〈ほんの数ミリ突出した自分〉にかけてみよう。〈書くこと〉の効用とは、自分の分身としての文章とそれを見つめている自分、この分裂した二つの自分がつくりあげる、往復運動から生まれる緊張(スリル)とそれゆえの生産性(可能性)のことを言うのだ。
 書け! 書き続けよ! 書くことによって絶えず自分の考えを対象化し、今までの自分を乗り越え続けよ。とりあえずそれだけが、自分自身の〈貧困の現在〉から抜け出すもっとも効果的な方法なのだ。」(湯浅俊夫『小論文の料理法』(旺文社)pp.94-94)


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