2005年11月16日

田邊元『哲学入門 哲学の根本問題』(筑摩書房)

本書は、昭和23年に小学校の教員に対しておこなわれた一連の講義をまとめたものである。この講義という形態について、「後記」の中で唐木順三が次のように書いているのは興味深い。

「かつてヘーゲルの『歴史哲学講義』を編集したガンスは、講義するものは講述という機会を通じて、これに著書では持ちえないところの生命を吹きこむ。若い聴講者にじきじきに語る場合、おのずからそこに脱線、敷衍、くりかえし、類例の挿入等が行われ、はじめから体系的な厳密さをもって書かれる著書ではとうていもちえない長所をもつという意味のことを言っています。そうしてまた『歴史哲学講義』は、ヘーゲル哲学への最も容易な入門書となるだろうとも書いています。」

また、帯にもいいことが書いてある。

「優れた入門書は真の大家をまって初めて可能となる。深い学殖と多年の講壇の体験に裏打ちされて、明快な論理と平易な用語で、読者を哲学の本質的な問題へと導く本書こそ、今日望みうる最良の哲学の入門書である。」

本書の内容としては、哲学概論の限界=無意味性と哲学史を学ぶことの重要性の指摘、ゼノンの運動否定論やマルクス『資本論』に見られる弁証法について、そして唯物弁証法の限界について、などである。特に興味深かったのは哲学史についてである。

田邊元は、「哲学史を研究するときには、ただ漠然と時代から時代へと記録してあるところの哲学の思想の変遷を見るだけでなく、それの環境、時代にたち入って、そしてそれを最後の完成にまで到達せしめているところの哲学者というものを通して哲学史を研究するということが必要であります。」(pp.96-97)と述べた上で、哲学史上最小限の古典として次のものを挙げている。

@プラトン『国家篇』
Aアリストテレス『形而上学』
B新約聖書
Cアウグスティヌス『告白』
Dエックハルトの説教書
Eデカルト『省察録』
Fスピノザ『倫理学』
Gライプニッツ『単子論』
Hカント『純粋理性批判』
Iヘーゲル『精神現象学』
Jマルクス『資本論』

これらが、「西洋の哲学者のすぐれた人々に手を引張ってもらって自分で哲学の山を踏査しようというときに、ぜひ登ってみなければならない峰の最小限」(p.99)ということである。この中で読んだのは『資本論』だけだ。いつかは他のものも読んでみたい。

最後に、哲学に関する田邊元の言葉を二つばかり紹介しておこうと思う。引用ばかりになってしまうが、やはりまだまだ哲学を語れる実力はないため、田邊本人に語ってもらった次第である。

「しかし、今日、最後に申したいことは、哲学史は自身が哲学するときの、哲学的探求の手引であって、哲学史が自身の哲学の代わりにはならないということであります。このことを特に強く念頭においていただきたい。歩くにはやはり、いかにそれが細い、力の無い足でも、自分の足で歩かなければならない。どんなに偉い人といえども私を歩かせることはできない。歩くのは私です。ただ手を引いて、躓いたり転がりそうになるとき、そうならないように、無駄な骨を折らないように、常に励まし慰めてくれる力は先達が与えてくれるが、歩くのは私です。歩くのはあなたがた自身です。」(pp.100-101)

「われわれはすぐれた大きな思想の前に立てば、いかにも自分の惨めさを感じて自分の努力の不甲斐なさを感じさせられるのは当然なことです。しかし、すぐれた思想の中に入ってそこで満足し、それで陶然として酔うという状態になったら、もはやそれは哲学ではない。芸術的な鑑賞であります。哲学は自分が汗水垂らして血涙を流して常に自分を捨てては新しくなり、新しくするというところに成立つのですから、楽に、貰ってきたものの上に乗っておればいいというわけにはゆかない。」(pp.102-103)
posted by 寄筆一元 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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