対談本ということもあって、普通の論文よりも滝村氏の人柄がにじみ出ているような気がして、興味深かった。また同じ理由から、滝村氏の著作にしては分かりやすい内容となっているともいえる。
思い出話になってしまうが、僕が初めて滝村氏の著作を読んだのが大学一回生の頃で、読んだのは、というより、読もうとしたのは『増補マルクス主義国家論』だった。初めの数ページで、早くも挫折してしまった。何が書いてあるのかさっぱり分からない。あれは衝撃だった。そのころ僕はマルクス『資本論』も読み進めていたが、『資本論』の方がまだ分かる、というくらいだった。それくらい滝村氏の著作は難解で、慣れていないとなかなか読み進められないのだが、この『世紀末「時代」を読む』は違う。滝村国家論の初学者でも、それなりに読めるだろう。
閑話休題、対談相手の芹沢氏だが、どうも少しかみ合わない発言をしているところが多かったように思われる。そのためか、滝村氏が「あとがき」でも述べているように、この種の対談本は「同一テーマを論文にしたばあいと較べて、移し換えられる理論的な容量は、せいぜい三割程度」である。すなわち、齋藤孝的にいうと意味の含有率が低い。それでも興味深い発言が数多くあった。そのうちいくつかを紹介したい。
「田中美知太郎という人はやっぱりすごいですね。……田中美知太郎に次ぐのが福田恆存。あのへんがやっぱり、賛成反対はべつとして、対抗するのにそうとう骨が折れますよ。それぐらいの力をもっています。石原・江藤・渡辺昇一といった人たちは軽く切れのいいぶんだけ打ち破りがたいような重厚さというのはない。」(pp.49-50)
「規範論は要するに経済学における価値論にあたるものなんです。」(pp.143-144)
なるほどね!
「なにも社会的事象にかぎらず対象の本質を対象が十分に発展開花した段階に即して把握しておけば、未発展な段階における対象の多様な特殊性を、いわば応用問題的に解決できるんです。ところが未発展な段階で対象の内的特質を把えようとしてもなかなかむずかしいから、むりしてそれをやると、たいていその未発展な段階だけの多様な特殊性のいくつかが対象の本質として不当に押し出される。もちろんそんな代物は科学としての理論的な普遍性はもたないです。」(p.170)
ここは、マルクス的にいうと、「人間の解剖は猿の解剖のための一つの鍵である」という内容であるし、滝村氏の「世界史」概念の内容でもある。
「信じられないかもしれないけれど、羽仁五郎だって当時(戦前――寄筆註)はまあまあのものを出していましたし、戦後はなんといっても石母田正、かなり落ちて永原慶二と太田秀通。もうひとつ落ちて芝原拓自、熊野聡、原秀三郎かな。別格としては原口清。……特に、『明治前期政治史研究』は、マルクスの『ブリュメール十八日』や『革命のスペイン』と比べても遜色ないほどの傑作だと思います。経済学でいうと、宇野弘蔵なんかじゃなくて、たとえば河上肇とか、櫛田民蔵とか、そのへんはかなりおもしろいんです。」(p.178)
原口氏の著作は『明治前期地方政治史研究』だと思うが、凄まじいまでの絶賛だ。経済学で評価されている人物は、三浦つとむの評価する人物と重なっている。
「あれ(林健太郎の『史学概論』――寄筆註)は水準が高いです。……彼は<世界史>を個別歴史に解消していない。個別歴史じゃないといっています。」(p.180)
「ぼくは経済学はド素人なんです。『資本論』もきちんと読んでいないし、政治学に関する万分の一の研鑽もしていないけれども、それがみても、ちょっと読んでられない。」(p.210)
おそるべき科学者魂! 世界一の経済学者を目指している友人の話によると、『国家論大綱』におけるケインズ理論のまとめはなかなかいいということだし、滝村読者にとっては「『資本論』もきちんと読んでいない」なんて発言は、ビックリ仰天ものだ。それくらい、専門たる政治学の研鑽は凄まじいということだろう。
「対象の内的特質〔本質〕を把握するためには、まずその直接の現象上の多様に錯綜した具体的な諸形態や諸態様を可能なかぎりおさえながら、それら個別的、特殊的諸契機の背後の、直接眼にはみえない内的な論理的連関を探り、統一的な論理構造としての把握を踏まえた、構造論的な把握と抽象を通じて、本質規定〔概念〕を導きだすわけです。ですから本質規定というのは、対象の構造論的な把握と抽象を通じて絞りだされた、いわばエキスのような代物であって、それ自体をふり回しても、ほとんど意味はありません。たとえ偉大な先人・大家のものを借りてきても、自分でつくったものでないから、とくに応用的な問題をつきつけられれば、まったく対処するすべがありません。
さてこうして本質概念に到達すれば、つぎには人々にそれを伝えねばなりませんから、これを叙述するという作業がまっています。……対象の単なる外面的な特徴や実相をたんねんに拾いあげ、つぎにはそれらを内的深部で規定している構造論的諸契機へと、だんだんに分析を深めていく、研究主体としての人間の認識の進展過程とはちょうど逆の順序で、いわば結論から、つまりもっとも本質的で一般的かつ抽象的な諸概念から、より具体的で特殊的、個別的な諸概念へと論理的に移行していくという順序で、叙述していくことになります。これがいわゆる上向法とか上向的論理展開といわれるものです。」(pp.249-250)
前半部分は、構造論がなければ科学的学問体系とはいえないとする瀬江千史氏の論と、同じことをいっているような気がする。ともかく学問とは自分で創るものだ、という点が非常に大切だ。後半の「上向法」に関する説明は、簡潔で分かりやすい。略した部分には、なぜ上向法で叙述しなければならないかが説かれている。
「その無知とずうずうしさをみると、気の弱いおれなんか、ほとんど眼が点になっちゃうよ。」(p.261)
こういうの好き。
「ぼくは二十五年ほど前の六六年の暮れに『歴史哲学』をみてわかったんです。」(p.266)
22歳前後でヘーゲル『歴史哲学』を理解できたということ。
「『資本論』が<商品>→<貨幣>→<資本>という論理的な展開と構成をとったこと、とりわけ原基形態Elementarformとしての<商品>から出発したことが、……」(p.269)
やっぱり『資本論』ちゃんと読んでるし。それはともかく「原基形態」という言葉、滝村氏も使っていたのは知らなかった。
長くなってしまったが、滝村国家論の初学者は、この本も十分読みやすいが、どちらかといえば対談本ではない、しかし一般向けの著作である『ニッポン政治の解体学』の方が、より適しているような気がする。