2005年11月30日

滝村隆一「マルクス主義の市民社会論」「マルクス主義の国家論」

先日、滝村国家論の読書会第3回を行った。今回は、『増補マルクス主義国家論』(三一書房)所収の最初の二つの論文、すなわち「マルクス主義の市民社会論」と「マルクス主義の国家論」を扱った。レジュメ担当は、O。相当苦戦したようだ。それもそのはず。最近の記事でも書いたように、僕が大学一年生の頃に初めて読んだ滝村論文が「マルクス主義の市民社会論」であり、数ページで撃沈したのであった。S君も、初めて読んだときはわけが分からなかった、といっていた。

しかし、滝村論文は難解ではあるが、自称哲学者が書くような無意味な難解さ、非論理的な難解さとはほど遠い(参考までに指摘しておくと、某有名マルクス主義哲学者で、某有名出版社版『哲学事典』の編者であるH.W.は、その娘婿の証言によると、「哲学者たる者、どんな簡単なことでも難しく表現しなければならない。難しければ難しいほどよい。自分にも分からないくらいがちょうどよい」などと、およそ学問というものを勘違いした発言を堂々と行っていたらしい)。滝村論文は非常に論理的であるために、くり返しくり返し読み込めば、徐々に分かってくる、というより、滝村の実力により分からされてくる、という性質の論文である。

実はこの『増補マルクス主義国家論』は、学生時代、社研というサークルで取り上げたことがある。このサークルは主にマルクス『資本論』を読み進める研究会と、現代社会の諸問題を取り扱う研究会と、科学的方法論を扱う研究会に分かれていたのだが、最後の科学的方法論を扱う研究会(略して科方研)で、僕とS君が主導して滝村隆一の学的方法に学ぼうという名目のもと、滝村国家論研究会に近いものを立ち上げたのだ。その時、科方研に参加していない一般会員向けに書いた文章=科方研ニュースがあるので、思い出とともにその文章をここに載せたい。まあ、今読むとおかしなことも書いているので、半分ネタだと思って読んでいただきたい。以下、Oのレジュメのあと、「科方研ニュースを読む」をクリックしていただけると、その科方研ニュースが読める。



読書会                                      2005年11月25日     O
                                          
 『マルクス主義国家論』p13−68
1.マルクス主義の市民社会論
 (1)マルクス主義の市民社会論(その一)
  (A)「国家と市民社会」論のプラン
 「国家と市民社会」論のプラン
   =近代の政治構造全体の分析、究明であり、近代国家と近代社会のトータルな止揚を目的とした革命家の理論的プラン

   『ドイツ・イデオロギー』以後のマルクス=エンゲルスの作業
     ・近代市民社会のより立ち入った分析
     ・近代の国家および政治の分析

   マルクス=エンゲルスの政治理論上の活動は、プランの構想に大きく依拠しながら遂行された
    →近代国家と市民社会のトータルな分析と究明のための歴史的=論理的な方法(視角)をさし示している

  国家権力の把え方
    従来のマルクス主義者・・・実体的に取り出し、機構的・機能的に論じる=形而上学的
    マルクス      ・・・公的権力と市民社会の様々な権力との関係において考察する
=対立物の統一・弁証法的
                  →「近代における国家と市民社会の分離=二重化」
                    =「公的権力と<社会的権力>との分離=二重化」

  現代革命論の確立のためには
   →近代国家論を、公的権力と社会的権力との不可分の関連において分析・究明


  (B)Kraft,Macht,Gewalt
 『ドイツ・イデオロギー』においてKraft,Macht,Gewaltを峻別し、連関を明確化

 Kraft ・・・社会的諸力としての生産力や、その構成要素としての生産手段、労働力、あるいはMachtとして組織され結集されていない即自的な状態におかれた人間集団、、さらに自然の諸力などといった物理的に作用する諸力
 Macht ・・・Kraftのうち、意志関係の創造を媒介にして、諸個人との有機的な関連において組織され構成され、社会的な力として押し出されたもの
 Gewalt・・・人間に対して暴力あるいは強力として作用する状態におかれたすべての諸力


 (2)マルクス主義の市民社会論(その二)
  (A)Machtの総体としての市民社会
 市民社会・・・生活資料を生産するためのMacht、人間を生産するためのMacht(2つを含めて生産の歴史的組織)および、この<生産の二種類>を媒介するところの物質的交通に従事するMachtといった諸Machtの総体によって構成される

唯物史観の定式(『経済学批判』序文)
市民社会=生活諸<関係>の総体・・・Macht的な構造をも含んだ関係を指す
                  意志関係を媒介にしない自然的関係の場合とは本質的に異なる
      →19世紀の社会主義者:経済諸関係をMachtとして把えることは常識
−現実を正視し、ここから学ぶことを義務づけられる
  cfレーニン・・・経済的権力の問題提起

  市民社会の諸Machtは、何よりも諸階級のMachtとして把握されねばならない
    支配階級・・・物質的生産・精神的生産においてMachtとして構成・支配
    被支配階級・・一大Machtとしてブルジョアジーの諸Machtと対立・抗争→国家を組織(プロレタリア独裁)


  (B)ökonomische Machtとしての資本
 資本=社会的生産の内部において生産条件の所有者(資本家)が、生きた労働力の所有者(労働者)との間にとり結ぶ、意志関係の成立(契約)を媒介にした一の社会的関係の表現であり、<対象化された労働>が生きた労働を支配し搾取する手段になっている<関係>
       意志の支配=服従関係の成立を前提→資本のMacht

 資本のMacht・・・資本家のMachtとしてたちあらわれる

 すべての権力がもつ2つの側面・機能
   ・分業に基づく倍加された力の獲得 ← 資本のMacht(ökonomische Macht)
   ・イデオロギーによる秩序の獲得  ← politische Macht(政治権力)とりわけStaatsmacht(国家権力)


  (C)soziale Machtの発展
 貨幣のMacht・・・高利貸→金融資本

 資本家階級としての一大Macht ← 諸Machtの系列化・連合
   Machtの縦の系列化・・・中小資本の小Machtを、下請け工場として系列化
   Machtの横の系列化・・・電鉄会社によるスーパー経営などへの進出
   巨大資本同士のMachtの連合・・・カルテル・トラスト・シンジケート
   階級としての共同利害を押し出すための階級の連合Macht・・・経団連・日経連

 経団連・日経連
   内部・・・階級としての秩序の維持と実現を目指す
            →<イデオロギー的>な性格が強い、soziale MachtとStaatsmachtとの中間
   外部・・・階級としての共同利害を強力に主張する機関=Gewalt
     近代国家の本質:資本家階級の共同利害を、社会全体の「共同」利害として強力に貫徹せしめる


2.マルクス主義の国家論
 (1)国家と革命
  (A)国家論における二つの見方
 ・マルクス以前の支配的な見方
→国家や国家権力が能動的な存在であり、現実的な諸関係としての社会は、それによってつくりだされるもの
 ・マルクス主義
→Machtとしての現実的な諸関係が、同じくMachtとしての国家をつくりだす


  (B)政治革命と社会革命
 <経済的>に支配する階級は、国家に対する支配を媒介にして<政治的>にも支配する階級としてたちあらわれる
 政治的権力の獲得には、まず自己を市民社会において最も有力なMachtとして組織し結合しなければならない
 政治革命の問題は同時に社会革命の問題として究明され提起されなければならない

 (2)国家の生成をめぐって
  (A)問題の所在
 Politische Machtとしての国家の生成・発展についても、自然発生的な分業の発展とそれにもとづくsoziale Machtの形成・発展という現実的過程との関連において考察しなければならない

  ・「原始公権力→政治権力としての国家権力の成立」の過程の歴史的=論理的概括
  ・この移行の歴史的=具体的な形態および過程についての特殊的かつ各論的な分析と究明

 →前者の作業は国家理論の低迷・混乱となって現出
   原因は
   ・レーニン:氏族制度・原始公権力扱わず→無視して構わないという習慣
   ・意志論、Macht論の欠落
   ・原始公権力の理解へと進む人々が存在しなかった


 (B)soziale Machtとしての原始公権力
氏族のサケムや隊長の権力は限られており、必要時に<氏族の意志>に従って行動するよう義務づけられていた
→原始公権力・・・soziale Machtの総体としての全氏族員によって構成
         ≠<イデオロギー的>Macht


  (C)第三Machtとしての国家の生成
 原始公権力・・・特定の経済的発展においてのみ合理的
           →土台の変動と共に変革

 国家が形成・確立されてくる歴史的=論理的過程
   ・地域住民の共同利害の処理・管理
   ・諸階級の共同利害の保護・配慮
     ↓
   公的機関の登場
     法の成立=公的強力の成立 ex警官、憲兵
     ↓(拡大)
   <租税>登場・・・血縁的共同体にとどめ


 国家生成の一般的概括において重要な視角
   国家権力が、社会的分業による社会の諸階級への分裂とともに、第三のMachtとして形成され登場してくることを正しく把える


科方研ニュースを読む
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2005年11月29日

内田康夫『博多殺人事件』(講談社文庫)



1991年に発表された内田康夫の旅情ミステリー。「自作解説」で本人が説いているように、「旅情ミステリー」というよりは「社会派」と呼ぶにふさわしい内容となっていて、大変楽しめた。

そもそも僕が内田康夫を読み始めたのは、例によって南郷継正師範が触れられていたからである。

「これはあまり関係ありませんが、一年にわたる私の執筆の苦しみを慰めてくれた二人の方に『ありがとう』の言葉を述べます。一人は私と同じ三流出身の浅見光彦さん(内田康夫作品中の名探偵)です。武道修業中の私に代って、諸国の旅をしてもらえました(と思っています)。楽しく夢の旅を味わえて助かりました。」(『武道講義入門 弁証法・認識論への道』pp.235-236)

ちなみに「執筆の苦しみを慰めてくれた」もう一人は、北島マヤさん(美内すずえ『ガラスの仮面』のヒロイン)である。もちろん、僕は『ガラスの仮面』を全巻持っている。こんなに面白いマンガはめったにない!! 初めて読んだときは、夢中になって、気が付けば12時間が経過していたことであった。

閑話休題、名探偵浅見光彦には不可思議な能力がある。一つは「予知能力」というべきものである。これは直観力が優れているといえそうだ。そしてもう一つが、「他人の視点に意識を入り込ませる」能力である。これは、弁証法・認識論の用語でいうならば、優れた観念的二重化能力=自分の他人化能力である。

「もう一つは、これも不思議なのだが、他人の視点に意識を入り込ませる――とでもいうような能力があるらしい。たとえば、田舎の駅で線路脇の農家の庭先にニワトリが遊んでいるのを列車の窓から見ていたとする。その次の瞬間、浅見は農家の土間に立つ老人の視点で、庭先の風景を見ているのである。こちらからは死角になっている垣根の下に咲くタンポポの花が、あざやかに見えたりする。早い話、御供所町の公園の穴に、全裸の死体を埋めたときの、犯人の視点にだって、立つことができたのだ。黒々とした夜のしじまの底で、ひときわ暗い公園の、さらに深い闇の底の穴に死体を落とし込んだときの、犯人のおぞましい心の動きさえも、疑似体験できたのである。」(『博多殺人事件』pp.93-94)

俳優北島マヤも持っているこの優れた能力を、浅見光彦は事件を解決する武器として活用する。他人の視点に立つことによって、これまで見えていなかったモノが見えてくる、繋がらなかったことが繋がってくるのである。

もちろん、警察による犯罪捜査においても、犯人の立場に立つことなど常識的に行われているだろう。しかし、浅見のこの観念的二重化能力は、一般人のそれと較べて、桁外れに優れている。つまり、精度が極めて高いのである。一般人のそれが自分の自分化レベルであるのに対して、浅見のそれは自分の他人化レベルである。だから、他の者が気付かないような盲点に気付き、それを事件解決の糸口にすることができるのである。『博多殺人事件』でも、浅見のこの能力によって、事件解決の糸口の一つが得られる。

さて、ミステリーの内容をここで紹介するわけにはいかないので、最後に一つだけ、内容とは無関係のことに触れておきたい。それは、「自作解説」の中に井沢元彦が登場することである。なんでも、博多取材の際に、「作家仲間の井沢元彦氏」が便宜を図ってくれたということらしい。この二人につながりがあったとは知らなかった。「井沢氏は現在、日本推理作家協会の理事ですが、いずれ理事長になる器にちがいありません。」(p.381)と内田康夫が井沢元彦を高く評価している点も、印象に残った。
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2005年11月20日

『綜合看護』2005年4号(現代社)

今回は新刊情報がいくつか載っていた。まず、これは『学城第二号』でも案内されていたが、『南郷継正 武道哲学 著作・講義全集 第六巻』である。これは雑誌の最後の「近刊案内」に書かれてあった。しかし「頁数未定」とのこと。ということはまだ製本されていないのか? しかし「第1版 2005年」とあるから、年内には出るのだろう。内容は「『全集』読者への挨拶〔W〕」、「〔全集版〕武道への道」、それに「武道哲学講義〔V〕」である。「武道哲学講義〔V〕」は、「日本弁証法論理学研究会2003年冬期ゼミ合宿『講義録』」で、「第一部 『精神現象学 序論』を読めるためには」である。最近の講義であり、非常に楽しみだ。(そういえば、『全集』にはかなり新しめの講義が採用されているようだが、古い講義録を出す計画は頓挫してしまったのだろうか?)

二つ目は、今回の南郷師範の連載論文で予告された、『なんごう つぐまさが説く 看護学科・心理学科学生への“夢”講義――看護と武道の認識論――』第1巻である。つまり、『綜合看護』での連載論文を単行本として出版するということである。第1巻とあるのは、今までの連載を単行本化するとなると、最低でも3巻以上になるから、とのことである。僕の弟はつい最近、この師範の連載論文が読みたくて、わざわざ『綜合看護』を7年分くらい購入したのだが、もう少し待っていれば単行本で読むことができたわけだ。もっとも、下手をすればあと2、3年は待つ必要があるかもしれないし、師範の連載論文以外にも読むべき論文が多数載っているので、購入した意義はあると思う。なお、内容・順序は連載そのまま(説明不足の箇所は補足されるが)で、タイトルが一字だけ訂正してあるとのことである。どこが訂正されたかお気付きだろうか?

最後は、『看護学生・医学生のためのいのちの歴史の物語』(仮題、現代社)である。これは瀬江先生の「脳の話」で触れられていた。これも『綜合看護』に連載されていた論文の単行本化である。連載終了時に単行本になることが予告されてから2、3年たつが、もうそろそろ出していただけるのだろうか。「近く刊行される予定」とある。内容はもちろん、「地球上に誕生した生命現象が実体化して単細胞となり、ついには人間にまで発展するに至った、生命体の生成発展の歴史を論理的に措定した『生命の歴史』」(p.27)を物語風にやさしく説いたものである。もちろん連載論文は何度も読んだが、単行本の場合は、『統計学という名の魔法の杖』の例からも分かるように、大幅な再構成・加筆が行われる可能性がある(それ故に、なかなか出版されないのかも)ので、非常に楽しみである。

さて、今回読んだ論文に対して、簡単なコメントを記しておきたい。


神庭純子「初学者のための『看護覚書』・7」

「人間は育てられて人間になる」という人間の一般性を、もっと構造に立ち入って深く理解すれば、「人間は育てられることによって、育てられたように育つ、いいかえれば、育てられてこなかったことは育てられてこなかったように育っている」ということになる。これを高齢者の発達段階におきかえてみると、もともともっていた身体の各機能が、「使われていれば使われているように使い続けることができる、しかし逆に、使われていなければ、使われなかったように衰えていく」ということである。したがって、「使われないことによって使えなくなっている機能がある、それが障害として現象していることを見抜くこと、現象している障害(症状)のなかには病気や障害そのものではなく、看護されないことによって日々の生活のなかで家族や本人、医師や看護師の手によってつくられてしまった障害(症状)というものがある」ということを見抜くことが大切である。


瀬江千史「脳の話・19」

「生命の歴史」のサルの前後の過程的段階において、「問いかけ的認識」の芽生えが如何にして生じだしたのかが説かれている。ここには「木に登るための四肢の運動形態」が大きく関わっているようだ。それにしても、相変わらず瀬江先生の論文は読みやすい。読んでいて気持ちがいい。


瀬江千史・本田克也他「次代を担う看護学生・医学生への医学概論教育講座・11」

今回で第一部「医師とは何か」が終了。次回から始まる第二部は、第一部をきちんと踏まえていなければ実力化できないので、今回は第一部の復習に充てられている。いつものように最後に載っている医学生の文章が興味深い。これは、『看護学と医学』に説かれている論理のおかげで、この医学生の気付き力がアップしているというか、事実を事実として見ることができるようになっているというか、そんな例だと僕には思えた。そして、また、論理の学び方の例だとも思った。


南郷継正「なんごうつぐまさが説く看護学科・心理学科学生への“夢”講義・28」

はじめに、先ほど紹介した『なんごう つぐまさが説く 看護学科・心理学科学生への“夢”講義――看護と武道の認識論――』第1巻の目次が載っている。目次を見るだけでもワクワクしてくる。その後は、今回も弁証法の講義。弁証法の駆使を自動車の運転に喩えて説かれているのが、非常に分かりやすい。カントとヘーゲルと三浦つとむの弁証法の実力の違いが、この喩えを使って説かれているのも興味深い。ワクワクしながら読み進めていく。師範の論文はどれもそうだが、おもしろくて仕方がない。読んでいる最中に、自然と笑みがこぼれてくる。ニヤニヤしているといった方が正確かもしれない。図書館や電車など、他人がいる場所で読んでいたら、きっと変な人だと思われるにちがいない。
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2005年11月16日

田邊元『哲学入門 哲学の根本問題』(筑摩書房)

本書は、昭和23年に小学校の教員に対しておこなわれた一連の講義をまとめたものである。この講義という形態について、「後記」の中で唐木順三が次のように書いているのは興味深い。

「かつてヘーゲルの『歴史哲学講義』を編集したガンスは、講義するものは講述という機会を通じて、これに著書では持ちえないところの生命を吹きこむ。若い聴講者にじきじきに語る場合、おのずからそこに脱線、敷衍、くりかえし、類例の挿入等が行われ、はじめから体系的な厳密さをもって書かれる著書ではとうていもちえない長所をもつという意味のことを言っています。そうしてまた『歴史哲学講義』は、ヘーゲル哲学への最も容易な入門書となるだろうとも書いています。」

また、帯にもいいことが書いてある。

「優れた入門書は真の大家をまって初めて可能となる。深い学殖と多年の講壇の体験に裏打ちされて、明快な論理と平易な用語で、読者を哲学の本質的な問題へと導く本書こそ、今日望みうる最良の哲学の入門書である。」

本書の内容としては、哲学概論の限界=無意味性と哲学史を学ぶことの重要性の指摘、ゼノンの運動否定論やマルクス『資本論』に見られる弁証法について、そして唯物弁証法の限界について、などである。特に興味深かったのは哲学史についてである。

田邊元は、「哲学史を研究するときには、ただ漠然と時代から時代へと記録してあるところの哲学の思想の変遷を見るだけでなく、それの環境、時代にたち入って、そしてそれを最後の完成にまで到達せしめているところの哲学者というものを通して哲学史を研究するということが必要であります。」(pp.96-97)と述べた上で、哲学史上最小限の古典として次のものを挙げている。

@プラトン『国家篇』
Aアリストテレス『形而上学』
B新約聖書
Cアウグスティヌス『告白』
Dエックハルトの説教書
Eデカルト『省察録』
Fスピノザ『倫理学』
Gライプニッツ『単子論』
Hカント『純粋理性批判』
Iヘーゲル『精神現象学』
Jマルクス『資本論』

これらが、「西洋の哲学者のすぐれた人々に手を引張ってもらって自分で哲学の山を踏査しようというときに、ぜひ登ってみなければならない峰の最小限」(p.99)ということである。この中で読んだのは『資本論』だけだ。いつかは他のものも読んでみたい。

最後に、哲学に関する田邊元の言葉を二つばかり紹介しておこうと思う。引用ばかりになってしまうが、やはりまだまだ哲学を語れる実力はないため、田邊本人に語ってもらった次第である。

「しかし、今日、最後に申したいことは、哲学史は自身が哲学するときの、哲学的探求の手引であって、哲学史が自身の哲学の代わりにはならないということであります。このことを特に強く念頭においていただきたい。歩くにはやはり、いかにそれが細い、力の無い足でも、自分の足で歩かなければならない。どんなに偉い人といえども私を歩かせることはできない。歩くのは私です。ただ手を引いて、躓いたり転がりそうになるとき、そうならないように、無駄な骨を折らないように、常に励まし慰めてくれる力は先達が与えてくれるが、歩くのは私です。歩くのはあなたがた自身です。」(pp.100-101)

「われわれはすぐれた大きな思想の前に立てば、いかにも自分の惨めさを感じて自分の努力の不甲斐なさを感じさせられるのは当然なことです。しかし、すぐれた思想の中に入ってそこで満足し、それで陶然として酔うという状態になったら、もはやそれは哲学ではない。芸術的な鑑賞であります。哲学は自分が汗水垂らして血涙を流して常に自分を捨てては新しくなり、新しくするというところに成立つのですから、楽に、貰ってきたものの上に乗っておればいいというわけにはゆかない。」(pp.102-103)
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2005年11月07日

滝村隆一+芹沢俊介『世紀末「時代」を読む』(春秋社)

滝村隆一氏と芹沢俊介氏による対談本。『国家論大綱』が出るまでは、滝村氏の著作としては2番目に新しかった(といっても、1992年末の発刊だが)。盛田昭夫・石原慎太郎『「NO」と言える日本』、かわぐちかいじ『沈黙の艦隊』、大前研一の「日本国家解体論」、それに柄谷行人・岩井克人『終わりなき世界』などを批判的に取り上げながら、「日米関係」「マルクス主義」「現代思想」について論じていく。その中で滝村国家論のエッセンスも語られている。

対談本ということもあって、普通の論文よりも滝村氏の人柄がにじみ出ているような気がして、興味深かった。また同じ理由から、滝村氏の著作にしては分かりやすい内容となっているともいえる。

思い出話になってしまうが、僕が初めて滝村氏の著作を読んだのが大学一回生の頃で、読んだのは、というより、読もうとしたのは『増補マルクス主義国家論』だった。初めの数ページで、早くも挫折してしまった。何が書いてあるのかさっぱり分からない。あれは衝撃だった。そのころ僕はマルクス『資本論』も読み進めていたが、『資本論』の方がまだ分かる、というくらいだった。それくらい滝村氏の著作は難解で、慣れていないとなかなか読み進められないのだが、この『世紀末「時代」を読む』は違う。滝村国家論の初学者でも、それなりに読めるだろう。

閑話休題、対談相手の芹沢氏だが、どうも少しかみ合わない発言をしているところが多かったように思われる。そのためか、滝村氏が「あとがき」でも述べているように、この種の対談本は「同一テーマを論文にしたばあいと較べて、移し換えられる理論的な容量は、せいぜい三割程度」である。すなわち、齋藤孝的にいうと意味の含有率が低い。それでも興味深い発言が数多くあった。そのうちいくつかを紹介したい。

「田中美知太郎という人はやっぱりすごいですね。……田中美知太郎に次ぐのが福田恆存。あのへんがやっぱり、賛成反対はべつとして、対抗するのにそうとう骨が折れますよ。それぐらいの力をもっています。石原・江藤・渡辺昇一といった人たちは軽く切れのいいぶんだけ打ち破りがたいような重厚さというのはない。」(pp.49-50)

「規範論は要するに経済学における価値論にあたるものなんです。」(pp.143-144)


なるほどね!

「なにも社会的事象にかぎらず対象の本質を対象が十分に発展開花した段階に即して把握しておけば、未発展な段階における対象の多様な特殊性を、いわば応用問題的に解決できるんです。ところが未発展な段階で対象の内的特質を把えようとしてもなかなかむずかしいから、むりしてそれをやると、たいていその未発展な段階だけの多様な特殊性のいくつかが対象の本質として不当に押し出される。もちろんそんな代物は科学としての理論的な普遍性はもたないです。」(p.170)

ここは、マルクス的にいうと、「人間の解剖は猿の解剖のための一つの鍵である」という内容であるし、滝村氏の「世界史」概念の内容でもある。

「信じられないかもしれないけれど、羽仁五郎だって当時(戦前――寄筆註)はまあまあのものを出していましたし、戦後はなんといっても石母田正、かなり落ちて永原慶二と太田秀通。もうひとつ落ちて芝原拓自、熊野聡、原秀三郎かな。別格としては原口清。……特に、『明治前期政治史研究』は、マルクスの『ブリュメール十八日』や『革命のスペイン』と比べても遜色ないほどの傑作だと思います。経済学でいうと、宇野弘蔵なんかじゃなくて、たとえば河上肇とか、櫛田民蔵とか、そのへんはかなりおもしろいんです。」(p.178)

原口氏の著作は『明治前期地方政治史研究』だと思うが、凄まじいまでの絶賛だ。経済学で評価されている人物は、三浦つとむの評価する人物と重なっている。

「あれ(林健太郎の『史学概論』――寄筆註)は水準が高いです。……彼は<世界史>を個別歴史に解消していない。個別歴史じゃないといっています。」(p.180)

「ぼくは経済学はド素人なんです。『資本論』もきちんと読んでいないし、政治学に関する万分の一の研鑽もしていないけれども、それがみても、ちょっと読んでられない。」(p.210)


おそるべき科学者魂! 世界一の経済学者を目指している友人の話によると、『国家論大綱』におけるケインズ理論のまとめはなかなかいいということだし、滝村読者にとっては「『資本論』もきちんと読んでいない」なんて発言は、ビックリ仰天ものだ。それくらい、専門たる政治学の研鑽は凄まじいということだろう。

「対象の内的特質〔本質〕を把握するためには、まずその直接の現象上の多様に錯綜した具体的な諸形態や諸態様を可能なかぎりおさえながら、それら個別的、特殊的諸契機の背後の、直接眼にはみえない内的な論理的連関を探り、統一的な論理構造としての把握を踏まえた、構造論的な把握と抽象を通じて、本質規定〔概念〕を導きだすわけです。ですから本質規定というのは、対象の構造論的な把握と抽象を通じて絞りだされた、いわばエキスのような代物であって、それ自体をふり回しても、ほとんど意味はありません。たとえ偉大な先人・大家のものを借りてきても、自分でつくったものでないから、とくに応用的な問題をつきつけられれば、まったく対処するすべがありません。
 さてこうして本質概念に到達すれば、つぎには人々にそれを伝えねばなりませんから、これを叙述するという作業がまっています。……対象の単なる外面的な特徴や実相をたんねんに拾いあげ、つぎにはそれらを内的深部で規定している構造論的諸契機へと、だんだんに分析を深めていく、研究主体としての人間の認識の進展過程とはちょうど逆の順序で、いわば結論から、つまりもっとも本質的で一般的かつ抽象的な諸概念から、より具体的で特殊的、個別的な諸概念へと論理的に移行していくという順序で、叙述していくことになります。これがいわゆる上向法とか上向的論理展開といわれるものです。」(pp.249-250)


前半部分は、構造論がなければ科学的学問体系とはいえないとする瀬江千史氏の論と、同じことをいっているような気がする。ともかく学問とは自分で創るものだ、という点が非常に大切だ。後半の「上向法」に関する説明は、簡潔で分かりやすい。略した部分には、なぜ上向法で叙述しなければならないかが説かれている。

「その無知とずうずうしさをみると、気の弱いおれなんか、ほとんど眼が点になっちゃうよ。」(p.261)

こういうの好き。

「ぼくは二十五年ほど前の六六年の暮れに『歴史哲学』をみてわかったんです。」(p.266)

22歳前後でヘーゲル『歴史哲学』を理解できたということ。

「『資本論』が<商品>→<貨幣>→<資本>という論理的な展開と構成をとったこと、とりわけ原基形態Elementarformとしての<商品>から出発したことが、……」(p.269)

やっぱり『資本論』ちゃんと読んでるし。それはともかく「原基形態」という言葉、滝村氏も使っていたのは知らなかった。

長くなってしまったが、滝村国家論の初学者は、この本も十分読みやすいが、どちらかといえば対談本ではない、しかし一般向けの著作である『ニッポン政治の解体学』の方が、より適しているような気がする。
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2005年11月01日

なか見!検索

アマゾンが書籍購入前に閲覧・全文検索が可能な「なか見!検索」をスタートさせた。これは非常に画期的だ。

以前からamazon.comでは本の中身の一部が見られる機能があり、非常に便利だと思っていた。「なか見!検索」は、この日本版といってよい。しかも、閲覧機能に加えて、書籍の全文が検索可能なのである。

たとえば、「三浦つとむ」で検索すれば、本文に「三浦つとむ」が登場する書籍が検索でき、当該ページが閲覧できるのである。

残念ながら、この機能はまだ一部の書籍に限られているようだが、今後許可を出す出版社が増えれば、それだけ検索可能な書籍数が増えていくことになる。今後に期待である。
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