2005年10月28日

中谷巌『痛快!経済学』『痛快!経済学2』



小渕内閣の「経済戦略会議」議長代理も務めた中谷巌による経済(学)の解説書。ミクロ経済学とマクロ経済学の基本が、高校の「政治・経済」の参考書より詳しく、分かりやすく解説されている。内容はかなり重複しているが、大雑把に分けると、『痛快!経済学』の方が基礎理論、『2』の方がその基礎理論の現実への適用・応用となっている。時事問題の理解に必須の経済知識を求める社会人や、一般教養として経済学を学びたい大学生、経済学部への入学を希望している高校生などには最適の入門書であるといえる。

『2』の帯には、本書で取り上げられている「生き残りへのキーワード」として次のものが挙げられている。これらを知らない人は速攻で購入して読むべきだろう。

情報の非対称性、中国経済、IT革命の真意、ワンツーワン・マーケティング、カスタマイゼーション、労働市場のモジュール化、水平分業、ロジスティック革命、アカウンタビリティ、ガバナビリティ、厚生経済学の命題、拡大EU、暗黙知、プロフェッショナリズム、アウトソーシング、FTA、貯蓄率の劇的低下


『2』のみで扱われている大きなテーマとしては、「情報の非対称性」「IT革命」「FTA」「貯蓄率の低下」などが挙げられる。この中で、「情報の非対称性」とは、「需要側と供給側の情報の質や量の差」のことである。これがあるために、しばしば市場は失敗する。しかし、IT革命によって情報の非対称性が急速に解消されつつあり、アマゾンやデルに見られるように、ITを活用した「顧客データ」の蓄積と分析、そしてその情報を利用した「ワンツーワン・マーケティング」によって、急成長する企業も誕生している。このような議論がなされている。

どちらか一冊だけ買うとしたら、『2』ではなく元祖『痛快!経済学』の方がいいような気がする。文庫ということもあって、コストパフォーマンスにすぐれている。『2』の方は、282ページ中、約36ページほど意味不明な写真や絵が占めており、これだけはどうにかならなかったものかと思えてくる。ちょっと詐欺に近いものを感じる。また、元祖の方が基礎理論を詳しく説いているので、経済「学」を学びたい人にはこちらの方がよかろう。

最後に、『2』の方をマインド・マップにまとめたので、それを載せておこう。

keizaigaku2.JPG
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2005年10月23日

比較の構造

英語講師らしく、久しぶりに英語の話でも書いてみよう。今回のテーマは「比較」である。

英語で<比較級>や<原級>を用いた文が、二つの文を合体させてつくられているということはよく知られている。しかし、合体のさせ方が二種類あるということは、あまり知られていないような気がする。まずはよく知られている方から紹介してみたい。

Tom is stronger than Mike.
(トムはマイクよりも強い。)

Tom is as strong as Mike.
(トムはマイクと同じくらい強い。)

この二つの文、すなわち<比較級>と<原級>を使った文が、どのようにしてつくられたのか見てみよう。

両者はもともと次の二つの文が合体してできた文である。

Tom is X strong.
Mike is Y strong.

XとかYとかいうのは、直後のstrongという形容詞の程度を表す副詞であると理解していただきたい。つまり「トムはXくらいの強さだ。」「マイクはYくらいの強さだ。」という文である。

ここで、X>Yのとき、X strongを比較級にかえ、Y strongをthanにかえて前に出す。そして両者を合体させるのである。そうすると、

Tom is stronger than Mike (is).

という文ができあがる。最後のisにカッコがついているのは、省略可能という意味である。

ではX=Yのときはどうするのか。今度は、X strongの部分をas strongにかえ、Y strongをasにかえて前に出した上で、二文を合体させるである。そうすると、

Tom is as strong as Mike (is).

という文になるわけである。同じく最後のisは省略可能である。

このタイプの合体のさせ方を「関係詞型」と呼んでおこう。二つ目の文に存在する、一文目と共通する語を何らかの語にかえて前にもってきた上で合体させる、という点が共通だからである。念のために関係詞の例を出しておこう。

I'm reading a book.
I borrowed it from the library.

この二文を合体させるとき、「二つ目の文に存在する、一文目と共通する語」、すなわちit(=a book)を、関係代名詞whichにかえて前にもってきた上で合体させる。そうすると、次のような文になる。

I'm reading a book which I borrowed from the library.

この合体のさせ方と、先ほどの比較における合体のさせ方の共通点を確認していただきたい。先ほどの比較の場合には、「二つ目の文に存在する、一文目と共通する語」というのは、(Y) strongである。これを、thanやasにかえて前にもってきた上で合体させていたことを思い出してほしい。

よく市販の大学受験参考書などでは、Tom is stronger than Mike is strong.という誤った文を示して、「最後のstrongは絶対に省略しなければならない」などと無根拠に解説している。しかし、「関係詞型」の接続(合体のさせ方)ということを理解していれば、そもそも「省略」という言い方自体がおかしいことに気がつくはずである。これは、先の関係詞の例文で、itがwhichになって前に出されたように、(Y) storngはthanになって前に出されただけなのであるから。

さて、いよいよもう一つの合体のタイプについてである。これを「接続詞型」と呼ぶ。たとえば、次の文の成立過程を追ってみよう。

She is more shy than modest.
(彼女はつつましいというより、はにかみやである。)
She is as much shy as modest.
(彼女はつつましけれども、はにかみやでもある。)

ポイントは、上の文でshyer(あるいはshier)ではなく、more shyになっている点である。この二つの文は、以下の二文が合体してできたものである。

X:She is shy.
Y:She is modest.

各文の前についているXとYは、その文(命題)の真実性の程度を表す。つまり、「彼女がはにかみやであるということはX程度真実である。」「彼女がつつましいというのはY程度真実である」というような内容である。

ここで、X>Yのとき、次のような合体のさせ方(接続の仕方)をする。

more <she is shy> than <she is modest>.

moreは、真実性の程度を表す副詞muchの比較級である。したがって、<she is modest>という文(命題)よりも、<she is shy>という文(命題)の方が真実性が高いということを表している。このとき、二つの文をつないでいるthanに注目である。先ほどの「関係詞型」とは違って、何らかの語がthanにかわって前に出てきたのではない。純粋に文と文をつないでいるだけである。したがって、この合体のさせ方を「接続詞型」と呼ぶのである。

しかし、このままでは英語になっていない。そこで、慣用的な英語の語順に並び替えて、省略可能な部分(言わなくても分かる部分)をカッコでくくると、次のような文になるのである。

She is more shy than (she is) modest.

次にX=Yの場合である。その場合は次のようになる。

as much <she is shy> as <she is modest>.

これは原級を使って、二つの文(命題)の真実性が同じくらいであることを表している。これも、適切な並び替えを行い、省略な納な部分をカッコに括ると、次の文になる。

She is as much shy as (she is) modest.

なお、この文の否定形が、She is not so much shy as medest.(彼女ははにかみやというよりむしろつつましい。)である。これが、熟語として扱われているnot so much A as B(AというよりむしろB)の構造である。

これで、最初に示した二つの文の成立過程が明らかになったわけである。「接続詞型」のポイントは真実性の比較という点であった。

以上のように<比較級>や<原級>を使った文の合体のさせ方(接続の仕方)には、「関係詞型」と「接続詞型」があるのである。両者の違いは比較基準の違いといえるだろう。つまり、「関係詞型」の場合は、比較基準が文の中に明記されている。先ほどの例であれば、トムとマイクを何によって、どんな点から比較しているのかといえば、それはstrongの程度であった。そして、strongという言葉は、もちろん英文中に出てきていた。これに対して「接続詞型」は、二つの命題の真実性を比較基準とするもであった。先ほどの例でmore shyとなっているのは、shyの程度を比較基準としているのではなく(もしshyを比較基準にしているならshyerとなるはず)、二つの命題の真実性の程度を比較基準としており、その程度を表す副詞muchの比較級moreが、たまたま慣用上shyの前に来ていたからであった。

では宿題。次の比較級を用いた二つの文は、それぞれ「関係詞型」か、それとも「接続詞型」か。

A whale is no more a fish than a horse (is).
You can no more solve the problem within ten minutes than I would walk around the earth on my hands.

次回は、no more thanとnot more thanの違いに触れつつ、この宿題を考えてみたい。また今後は、定冠詞theの本質、助動詞の二種類の意味、いわゆる「未来時制」、分詞の後置修飾などに触れていこうと思っている。
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2005年10月22日

滝村読書会のレジュメ

過去二回の滝村読書会のレジュメとそこで出された論点・疑問点(の一部)を紹介したい。まずは、前々回の「二重権力論」を扱ったときのもの。Kちゃん作。
   
   
滝村読書会 
「二重権力論」(『新版 革命とコンミューン』〔1977〕所収)の要約とコメント
2005.7.15
   
1.問題の提起
*権力の移行過程の構造分析の必要性
→その前提として、権力構造の原理的・具体的な分析を豊富な歴ツ的経験を媒介にして深化させる必要
   
2.二重権力成立の論理的可能性
・国家権力の構造は立体的かつ重層的に構成されているのだから、もともと二重、三重になりうる論理的可能性を含んでいる
・権力の立体的な構造は国家意志の体系的な構成とそれに基づく国家機関の立体的な構造との統一
・各国家機関は国家意志によって統一され、有機的に位置づけられている一方で、一つの機関として相互に対立し、独立した活動を行なう
⇒国家意志による統一(規定)に対して、機関の敵対的な共通の意志が成立する可能性
   
3.二重権力の歴ツ的形態
@旧権力の内側から生まれた二重権力
旧国家機構の中に強固な足場をもって相対する2つの階級が旧国家機構を真二つに分断して対峙→権力の二重化が固定
英仏:「王権」に結集した国王・封建貴族と「議会」に結集した新興ブルジョアジー
A旧権力の外側から生まれた二重権力
ロシア:ブルジョアジーを中心に旧勢力を含む「臨時政府」とプロレタリアート・農民を中心とする「ソヴェト」
臨時執行委員会は国家行政の核心を握り、臨時政府は外交権や国政の基本的方向を決定
   
4.二重権力の特質的構造
・権力構造の二重化は、国家意志とその具現としての国家機構の体系が、上から下に真二つに分割されて、2つの階級の権力関係が相互に均衡するような状態をいうのではない
・同一の領土を基礎にして相対抗している2つの権力が<第3の権力>としての国家権力の中で、全ての分野において全く均衡した権力関係をとり結んでいるとしたら、国家的指導の全体系は完全に麻テし、解体してしまうだろう。
⇒権力の二重化は実態的には2つの機構の対立であり、本質的には国家意志の立体的な二重化である
→憲法・法律などの理念的・形式的な部分(支配階級が把握)と政策・政令などの具体的かつ実質的な部分(新階級が把握)との分離・対立
   
   
5.移行過程と二重権力
・支配階級内部のあらゆる二重権力的状況を正確に把握・分析してのみ革命への移行・接近の具体的形態が可能となる
   
   
#コメント
@「二重権力」と<統治>と<行政>との対応関係
   
A全ての分野において全く均衡した権力関係をとり結ぶ「論理的可能性」(23頁)があっても、それが実際に現出しないのはなぜ?
   
B二重権力が領土の分割としても現出する場合と現出しない場合とにおける性格の違い
   
*Sさんのコメント
そもそも国家権力の構造が立体的・重層的である(=二重、三重になる論理的可能性)というが、これが実際に二重権力状態になるのは、どのような条件があった場合なのか?
   
この問題にかかわりそうな点としては、
○国家意志における理念的・形式的部分と具体的・実質的部分の区別と連関(<統治>と<行政>?)
○<政治Macht>の階級的性格と<経済的>出自のズレ
*ブルジョア独裁下での社会民主党政権の成立(労働者階級の<政治Macht>による国家の実質的部分の掌握)は二重権力状態ではないが、「労働者階級の前衛」たる共産党内での権力争いである中国の文化大革命は二重権力状態として把握される。

   
   
これに対する疑問点。By O。
   
   
2005年7月15日(金)
二重権力論
2.二重権力成立の論理的可能性
   
・「国家権力の構造は立体的かつ重層的に構成されているのであるから、そういってよければ、はじめからいつでも二重にも三重にもなりうる論理的な可能性を含んでいるのである。」とあるが、論理的とはどういうことか。単に「二重にも三重にもなりうる可能性」とするのとではどう違うのか。
   
・「<政治的=イデオロギー的権力>としての国家権力は<意志>の支配=被支配関係において成立する。それは一個の矛盾である。」とあるが、国家権力が<意志>の支配=被支配関係において存在するとはどういうことか。また、それがなぜ矛盾なのか。
→意志を支配する人間がいて、その意志に支配される人間がいて、国家権力が生ま
れる。そして矛盾とは、この2種類の人間の矛盾である、ということか。
   
・「権力の矛盾はさまざまな特殊性を持っているから、様々な現象を示してくる。二重権力もその一つにすぎない。」とあるが、では他にどのような現象があるのか。
   
・Gewalt、Machtとは何か。さらに「KraftがMachtである」(3.二重権力の歴ツ的形態 補注2)とはどういうことか。
   
3.二重権力の歴ツ的形態
   
・原口清は正しい<意志>論をふまえた政治論に立脚している(補注1)と書かれているが、「政派」の階級的性格についての引用文に含まれている正しい<意志>論とは何か。
   
→「政派の性格をその構成人の出自によって想定する」とは「こういう出自、こういう環境で育った人の集まりなのだから、政派としての性格はこういうものだ」という、人間の意志は外界によってのみ規定されるという考え方である。一方、「政派の性格は、その政治目標や政治綱領が、いかなる階級の利益を反映しているか、などによって識別すべき」とは、「政派の政治目標などが構成員の階級の利益につながるとは限らない」というもので、構成員の意志は、現実の生活から相対的に独立して規定されるという考え方である、ということか。
   
4.二重権力の構造的特質
   
・「同一の領土、同一の地域を基礎に相対抗している二つの権力が、<第三の権力>としての国家権力の中で・・・」とあるが、<第三の権力>としての国家権力とはどういうことか。
   
5.移行過程と二重権力
   
・「特殊性それ自体が他面では同時に、普遍性、一般性でもあることを忘れてはならない。」とあるが、なぜここでこの文が出てくるのか。ここでの主張は、革命には特殊性も普遍性も両方を持っているから、普遍性はどういう点にあらわれ特殊性はどういう点にあらわれるかを考えなければならない、ということではないのか。

   
   
次に、前回の「天皇制研究の視角」を扱ったときのもの。S君作。
   
   
天皇制研究の視角
   
はじめに
学者の2つの類型
「哲学者」
「実証研究家」
   
   
一 明治維新はブルジョア革命ではない
   
※革命(一般)…Machtの力関係の根本的な変革
 →革命的事象の分析と評価のためには正しいMacht論が必要
   
明治維新が「ブルジョア革命」かどうかはあくまで<政治革命>の問題。
しかし、“マルクス主義者”は、権力論の弱体から<政治革命>と<社会革命>を同一視(前者を後者に解消)。
→戦前の講座派・労農派論争以来、資本制的な生産様式の進展具合がブルジョア革命か否かを決定するものして捉えられた。
   
<社会的=経済的国家>が<ブルジョア国家>でも、<政治的国家>が<ブルジョア国家>になっていないこともありうる。
<社会革命>と<政治革命>は明確に区別して究明を!
   
「明治維新はおろか終戦に至るまで、ブルジョアジーは資本制的生産様式の高度な発展にもとづいて、国内最大かつ最強の<経済Macht>として君臨しながら、自己を最強の<政治Macht>として結集しえず、ついに<政治的国家>を獲得することができなかった」
*<社会=経済政策>の位置づけ
*対外侵略の二重性
   
   
二 土台直結論の二つの型
   
その1:階級権力の多元的存在という事実をそのまま国家権力のあり方に機械的に対応させる(「実証研究家」型)。
   
その2:社会における最強の階級の支配という文献的「事実」を機械的に国家権力の<一元的=階級性>の問題として対応させる(「哲学者」型)。
   
   
三 第三権力としての例外国家
   
 国家権力は一般的に「第三権力」なのであり、「例外国家」はその特殊な場合として位置付けられる。
   
第三権力
 階級闘争による社会の滅亡を防ぐため、外見上社会の上に立って、この衝突を緩和するイデオロギー的権力。経済的に支配する階級は国家権力への支配を媒介にしてのみ、<階級独裁>を実現しうる(「階級支配の道具」としての国家権力)。
   
例外国家
 いずれの階級権力も自己を最強の<政治Macht>として構成して国家権力を掌握するに至らない場合に現出する、階級間の政治Machtの対抗状態。
 相対抗する二つの階級権力が<経済Macht>として共に強力でも、<政治Macht>としては共に弱体・未熟なため(絶対主義)、あるいは、共に強力なため(ボナパルチズム)、生じる。
   
   
四 絶対主義のイデオロギー的特質
   
 絶対主義の強固さは、執行権力の強固さにではなく、<政治的イデオロギー>の強固さによって規定される。
*西欧絶対主義のイデオロギー的脆弱性に比較しての天皇制イデオロギーの強固さ
 封建的大・中Machtの粉砕により下部末端の微小Machtと中央国家権力を直接結合。
   
   
五 イデオロギー的権力と広義の国家
   
イデオロギー的権力としての国家権力の発展
→国家意志と社会の中の諸Machtとの間に体系的・有機的な意志関係が創出される。国家権力を機軸とした諸Machtの体系的連関が<政治体制>を成立させ、ここに<広義の国家>が確立する。
   
   
六 広義の国家の展開
   
戦前の天皇制の強固さは、天皇制イデオロギーの強固さに対応して、<広義の国家>を創出し展開させることができた点にある。
   
*半官吏的な人間
   
   
論点
 <政治的国家>と<社会的=経済的国家>という<狭義の国家>の二重性と、<第三権力>としての捉え方の関連について。

   
   
これに対する疑問点。By O。
   
   
読書会       2005年10月12日
天皇制研究の視角
   
疑問点
   
・「従来の“マルクス主義者”では・・・認識論と意志論が弱体だったため、権力論を充分に展開できなかった。」(1.明治維新はブルジョア革命ではない 6行目)
  → 認識論・意志論と権力論はどのように関係しているのか。
   
   
・「例外国家」について
  例外国家とは。例外国家の例外性とは。第三権力との関係。
   
   
・「社会から観念的に疎外された『イデオロギー的権力』・・・」
(3.第三権力としての例外国家)
  → 「疎外」とは。
   
   
・「絶対主義天皇制は現代国家における以上に下部末端の微少Machtを中心に、残余の諸Machtおよび個人に対する『規定力をミニマムにまで限定』することによって・・・」
(4.絶対主義イデオロギーの特質)
  → 具体的にはどういうことを言っているのか。
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2005年10月21日

原田隆史『夢を絶対に実現させる方法!』(日経BP社)



原田隆史氏の最新の著作。DVDによる講義+紙面による解説編という構成になっている。文句なく素晴らしい!!

まず、60分のDVD。原田式目標達成の極意と、それを可能にする「長期目標設定用紙」の書き方が、映像で、原田氏の肉声で、解説される。コンパクトに、簡潔にポイントが説かれており、原田メソッドの全体像が短時間で分かるようになっている。実は原田氏の講義・講演では、笑いをとるための冗談・ユーモアがたくさん登場するのだが、残念ながらこのDVDではカットされている。なお、原田氏自身もこのDVDを見て、「なかなかいいこと言っているな」などと感心しつつ、メモをとりながら熱心に聴いた(笑)ということである。

次に15回にわたる解説編。基本的には、長期目標設定用紙の実例とともに、各欄の意味と書き方が解説されている。以前の著作よりもかなり内容が整理されており、洗練化されてきているように感じた。毎回の解説の最後に、その回のポイントがレジュメふうにまとめられており、復習にも最適。

長期目標設定用紙自体も進化している。一目で各欄の意味が分かるように、背景にイメージが印刷されている。またルーティン目標欄は、優先順位を意識できるように、徐々に字が薄くなっている。こういった工夫を積み重ねられるところも、一流の人物である証左である。

ただ、「PDCA」ならぬ「P+C、DSS」の中身が、『成功の教科書』とは少し違っているのが気になった。たとえば、奉仕活動・清掃活動で心をきれいにする、というのは、『成功の教科書』では目次上はSHAREのところに入っているが、本書ではCHECKのところに分類されている。複数の意味があるということか? また、長期目標設定用紙には、「向上ルーティン」「切り捨てルーティン」、それに「目標のために欲しい支援者と具体的な支援内容」という三つの欄が削られているのも少し気になった。「初級コース」には不要ということか? 過去の著作を読み返して、自分なりに整理するとともに、今後の著作を待ちたいと思う。

本書を読んで痛感したのは、塾での僕の教育実践にはストロークがあまりにも不足している、という点である。ストロークとは「人と人とが関わり、相手の心に元気を与えること」(p.105)である。教える内容や技術も大切である。しかし、生徒一人一人のことに気を配って、生徒の小さな変化に気づいて声かけをする、ルールを守らない生徒にはルールの意味を教えてルールを守っている自分をイメージさせた上でしっかり実践させる、テストでいい点数をとったらしっかり誉める、等々のストロークの方もかなり重要である。思えば生徒から人気のある先生は確かにストロークが多かった。また、生徒の様子を反省してみても、ストロークを欲しているような感じがする。

原田メソッドは、抽象度の高い、厳密な意味での理論体系というのではなく、表象レベルの体系といえると思う。したがって使いやすい。これからも自分の実践に引きつけて、自分の実践を反省し改善している材料として、原田氏の著作に学んでいきたい。
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2005年10月19日

小室直樹『数学を使わない数学の講義』(WAC)、『数学嫌いな人のための数学』(東洋経済新報社)



どちらも小室直樹の数学関係の著作。後者には「数学原論」という副題が付けられている。重複するテーマも多い。存在問題、必要条件・十分条件、背理法、対偶、合成の誤謬、資本主義的私的所有、等々。後者は特に形式論理学が全面に押し出されている。

小室直樹の著作は、一般的にかなり教育的配慮が施されている。くり返しを厭わず諄々と説かれており(特に『数学嫌いな人のための数学』)、難解な言葉を使用しつつもその言葉の意味を( )内で説明している。また、難しい漢字にはルビが振ってある。こういった配慮は非常にありがたい。

また、小室直樹の博識ぶりがいかんなく発揮されている。この二著にも、数学はもちろん、論理学、経済学、社会学、心理学、そして宗教や歴史に関する知見が豊富に盛り込まれており、非常に知的好奇心をそそる面白い内容となっている。

二つの著作でともに取り上げられている、資本主義的私的所有の絶対性と抽象性という指摘は特に興味深い。絶対性とは、「所有者は所有物についてどのようなこともなし得る」ということである。それに対して抽象性とは、「所有(possession)と占有(occupation)の分離」ということであり、分かりやすくいえば「所有とは、所有権のことであって、実際に手に持っているかとか、実際に監督できるとかとは関係がない」ということである。

以上のように、近代における所有の一般的性質を明らかにした上で、小室は、日本における所有は、絶対性と抽象性という特徴を持つ資本主義的私的所有とは対極にある中世的所有であると述べている。そして、貞永式目における「悔い還し権」や江戸時代の棄損、闕所、お断り、御用金、あるいは『日本人の法意識』における川島武宜の指摘などを例に挙げながら、そのことを諄々と説いていくのである。

『数学嫌いな人のための数学』の方で説かれている古典派経済学とケインズ理論の比較も面白い。ケインズ理論の有効需要の原理(需要が供給を作る)は、Y=C+Iという数式で表現できる(Yは国民生産すなわち国民総供給。Cは国民総消費、Iは国民総投資だから、C+Iは有効需要、すなわち国民総需要になる)。これは、需要と供給とが等しくなる市場の均衡を表す式だから方程式であると説かれている。ところが、この式を、Y≡C+Iというように恒等式にしたとする。そうすると、古典派のセイの法則(供給が需要を作る)になるというのである。なぜなら、この式が恒等式であれば、「均衡であろうとなかろうと恒に成立していることを示す」のであるから、「今、国民生産Yが供給されれば、均衡であってもなくても、是が非でも、何がなんでも需要C+Iは必ずその数値に等しくなってしまう」からである。

古典派とケインズ理論の違いを、恒等式と方程式の違いとして示すこの議論は、なかなか面白いと思った。一般的にもいわれていることなのだろうか。

その後、C=aY(aは限界消費性向)という消費関数と、投資は定数であるという投資関数を示し、Y=C+Iとこの二つの関数をあわせて、最単純ケインズ模型であるとする。これは相互連関関係を説明していることになる。YとCは相互に規定しており、さらにYをIが規定しているわけである。ここから投資(I)が変化したとき、国民生産(Y)がどれだけ変わるかを説明する乗数理論を説明している。限界消費性向が0.8だとすると、Iが1兆円増えれば、波及効果によって、最終的にYは5兆円増える。直接効果が1兆円であるのに対して、波及効果による間接効果が4兆円。ちょっと驚いてしまう。(実は同様のことが以前読んだ『経済学のエッセンス』にも説かれていた。)

他にも、論理とは論争の技術であるとか、論争によって論理学が発達するとか、カントも触れているような不完全帰納法についてだとか、仏教が弁証法的であるとか、様々なテーマが説かれている。

以上のように大変興味深いことがたくさん書かれているのだが、形式論理学を全面に押し出しているため、あまり小室の考えに引きずられてしまうと、ただでさえ自然成長的に形而上学的に育ってきている僕のアタマが、ますます形而上学的になってしまいそうで怖い。

また、ロバチョフスキーによる非ユークリッド幾何学の発見によって、「公理とは自明のことではなく、仮説に過ぎない」という重大な事実が明らかにされた、そのため科学的研究の態度は、真理の発見から模型構築(model building)へとコペルニクス的転換を成し遂げた、とする小室の主張は、面白いがなかなか納得できるものではない。小室は次のようにいっている。

「公理主義のおかげで、学問とはすべて仮説であるという考え方が徹底した……。
(中略)
 他の自然科学や社会科学においてもまったく同じことで、科学は、科学者が仮説を要請するところから始まる、とされるようになった。
 この仮説とは、方法論的には公理と同じものであるから、そこから論理的に導き出された科学的知識とは、実体的、絶対的なものではない。あくまで科学者が要請した仮説のうえに立つ、仮の知識でしかないのである。」(『数学を使わない数学の講義』pp.202-203)

そうなの? という感じである。

しかしともかく面白いし、僕に欠けている政治・経済的な知識を吸収するためにも、今後も小室直樹を読んでいきたいと思う。
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2005年10月17日

滝村隆一「天皇制研究の視角」(『革命とコンミューン』所収)

僕の都合で中断していた滝村読書会を再開した。今回扱った論文は「天皇制研究の視角」である。

この論文で滝村氏は、学者の二つの類型、すなわち「哲学者」タイプと「実証研究家」タイプを批判し、正しいMacht論がなければ、明治維新や天皇制の問題を本質的に理解することはできないと主張している。

弁証法的には、<政治的国家>と<社会的=経済的国家>の二重性の把握が大切であると思った。これに対応して、国家の<政治的意志>と<社会的=経済的意志>の区別、<政治革命>と<社会革命>の区別も大切であって、これを混同ないし同一視してしまうと、革命的事象の分析と評価ができなくなってしまう。

研究方法という点に関しても示唆的である。大胆に整理してみると、「哲学者」的方法と「実証研究家」的方法を統一する必要があるということだ。つまり、一般論を仮説的であっても大きく掲げつつも、事実と向き合って、事実と格闘する中で、論理と事実の上り下りをくり返す、そうすることによって次第次第に対象の構造が明らかになっていき、最終的には仮説的一般論が本質論にまで昇華する、という感じか(ここは南郷継正氏や瀬江千史氏等が『医学の復権』等で説かれている内容を、自分なりに説明しただけなので、大いに誤解や歪曲が含まれていると思うが)。

明治維新はブルジョア革命ではないとして、絶対主義天皇制の特徴を解明しているところは非常に興味深い。「忠君一体」の天皇制イデオロギーの強固さが説かれているのである。少し長いが引用してみる。

「古典儒教においては、『孝』がすべての徳の基本であり、天地そのものの理法であるとされていた。つまり『孝』と『忠』は無関係であった。しかし天皇制イデオロギーは、国家を家と擬制し、天皇と国民との関係を親子に擬制することによって、『忠』『孝』を一体化した。日常生活において親に孝行しなければならないという、それ自体としては一応根拠のある思想から、天皇に対して忠義を尽くさなければならないということの正当化が、導き出されたのである。さらにこれと並んで直接には氏神との関係しかもたない国民(氏子)が、天皇のために死ぬ(戦死)ことによって、一躍『神』となり靖国神社に祭られて、天皇直々の参拝を受ける最高の栄誉を与えられるという、観念的(イデオロギー的)な保障の側面をも見落としてはならない。」(『新版 革命とコンミューン』p.98)

この強固な天皇制イデオロギーに比較して、西欧絶対主義のイデオロギーは脆弱であったと説かれている。

なお、この部分の「補註」に、高木宏夫『日本の新興宗教』(岩波新書)を参照せよ、とあるが、この著作は三浦つとむが全面的に協力し、合宿を行って討論しながらまとめたものである。高木氏は川島武宜氏の実弟である。

次回は『マルクス主義国家論』(三一書房)の諸論文を扱うことになった。
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教師塾に参加

先日、原田隆史氏主宰の教師塾に、オブザーバーとして参加させていただいた。

ポストイットやマンダラートを使ったプレゼンや実習によって、自分の考えや経験を表現する(他人に語る)ことの大切さ、それを相互に交流することによってフィードバックすることの重要性、さらに基礎思考から実践思考へ思考を拡散させたあとに、これまた交流によって知の移植を行い優先順位を決める=思考の収束を行うという手順などを学んだ。また、エゴグラムをいかにして生徒指導に適用するのかの具体も学んだ。原田氏独自の業績としての長期目標設定用紙は、自己分析こそが真骨頂であり、目標設定から方法にいたる過程で、自己分析を媒介することによって、方法(ルーティン目標・期日目標など)の精度が上がるということも分かった。

時事問題に関する講義もあった。そごう復活の決め手についての講義は興味深かった(あまりここで公開していいのか分からないので、とりあえず控えておく)。これからの教師は、金融や政治についても把握し、他人に説明できなければダメだとして、世の中の動きに関する講義もあった。自民党の圧勝、株価、日本の借金、郵便口座数とその額、2007年問題、カトリーナとアメリカの現状(アメリカの人種差別問題)等々。

全体の印象としては、とにかく展開が速い。とても内容の濃い時間を過ごした気がする。参加者はオブザーバーも含めて100人くらいいたと思うが、二人一組のプレゼンや班での討論、3分間作文などもあって、各々が主体的に・積極的に参加できる工夫がなされていた。参加者一人一人がとても生き生きとしており、その場にいるだけで元気をもらえる雰囲気だった。

こういった場を無料で提供されている原田氏は、本当に素晴らしい教育者だと痛感した。自らの高みを何とか社会化していこうとされているように思えた。自分のような教育者を日本で量産して、数多くの自立型人間を育成していく、これが原田氏の夢なのだろうと思った。

蛇足だが、原田氏は私の書いた『成功の教科書』の書評に対して、「あれでずいぶん励まされました」というコメントをしてくださった。未熟な者の声も素直に受け取っておられる態度がありありとうかがえた。エゴグラムでいうところのACが低いことを自覚して、意識的に素直性・順応性・謙虚性を出されているのだと思った。
posted by 寄筆一元 at 17:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする