2005年08月20日

『綜合看護』2005年3号(現代社)

ショッキングな事実が説かれている。『育児の認識学』の著者、海保静子氏が急逝されたというのだ。

海保氏は、南郷継正氏の学問上の弟子の第一号であるとともに、南郷氏の業績に大きく寄与したという偉大なる理論的実践家である。南郷氏は今回の論文で、海保氏のことを次のように紹介している。

「海保静子は、私が海保に学問を教えているのか、私が海保に実力をつけてもらっているのかわからないほどの学問的実力を積んで、海保の専門であった認識論の分野では、世界トップといってよいほどの理論的実践家に育ったのでした。」

その一番弟子の突然の死に直面した南郷氏の無念さは想像するにあまりあるが、僕のように直接の面識はないものの、『育児の認識学』のすばらしさに感動して、次の論文・著作を楽しみにしていたはずの読者にとっても、残念で仕方がないことだ。謹んでご冥福をお祈りしたい。

さて、今回読んだ論文は以下。

瀬江千史「脳の話(18)」
神庭純子「初学者のための『看護覚え書』(6)」
瀬江千史・本田克也他「医学概論教育 講座(10)」
南郷継正「なんごうつぐまさが説く看護学科・心理学科学生への“夢”講義(27)」

「脳の話」では、個体発生と系統発生のつながりが説かれており、何となくわかってきたような気がする。
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2005年08月15日

日本弁証法論理学研究会編『学城(ZA-KHEM,sp)第二号』

『学城(ZA-KHEM,sp)第二号』を読了。全体的に、学問の香りが漂っており、読んでいると、相変わらず背筋が凍るというか寒気がするというか、そんな震えにおそわれる。魂が震えるという感じである。思えば、大学一年生の頃から「まだか、まだか」と待ちわびていた雑誌だけに、読んでいるときの幸福感はひとしおである。

それにしても、日本弁証法論理学研究会の実力は凄すぎる。それこそ南郷継正氏が統括しているのだろうから、氏の実力、その上達論、が凄いということもできる。一体何人の弟子がいるのか。ここまで弟子が育っているのだから、南郷氏の上達論がホンモノであるのは誰の目にも明らかだといえよう。

一回読んだくらいでは、何も分からないに近いが、一読後の各論文の感想や要約を簡単に書き留めておこう。読んだ順である。


13 南郷継正  武道哲学講義 〔T〕 PART3
        ―学問としての 「世界歴史」 とはなにか

まずは前回の復習ということで、「地球の歴史をみることによって、人類の歴史をアバウトにみることができる」という弁証法的な見方が解説されている。すなわち、世界歴史を理解する鍵は、地球の生成発展であるとし、「生命の歴史」を導きの糸とすることによって初めて、「世界歴史」が措定できたということが説かれている。「導きの糸」という言葉は、昔マルクスの唯物史観について学んでいたときによく聞いた言葉だが、はっきり言ってマルクスとはスケールの大きさが違いすぎる!!

その後は、学問としての「世界歴史」物語のサワリの概略が、ヘーゲルや滝村隆一氏を引用しつつ、説かれている。滝村隆一氏の世界歴史概念は、非常に高く評価されており、次のようにもいわれている。

「もしマルクスがわが師滝村隆一のこれを読んだら、どう思ったであろうか。おそらく、さぞくやしかっただろうと私には思える。ではカントのばあいはどうであろうか。カントもおそらく、わが師に感嘆しきったに違いないと思う。」

ヘーゲルは少し違うようだが、それでも凄まじい業績であったことがうかがえる。また、「滝村隆一」という言葉の前にはほとんど枕詞のように「わが師」という言葉が付いており、その学恩に対する敬意がしっかりと表されているように思えた。

肝腎の「世界歴史」であるが、これは「人類(として)の社会的認識=社会的労働の発展形態の歴史そのもの」と規定されている。劇画レベルも含めて、詳しく解説してあるので、何となくのイメージは描けたような気がしている。


6 瀬江千史  「医学原論」 講義 (第2回)
        ―時代が求める医学の復権

瀬江氏の論文は、「論理的とはこういうことをいうのだ!」というお手本に思えてならない。感動的なくらい気持ちよく読める。今度は瀬江氏の論文なり著作なりを、今回購入した万年筆で筆写していこうと思う。

さて内容であるが、特に興味深く読めたのは「医学教育における教科書の重要性」についてである。ここは僕が行っている英語教育の事実と重ねて読むことができた。最近、高校生が使っているような総合英語の教科書(『総合英語Forest』や『基礎からの新総合英語』など)は、英文法事項の、それなりの共通性に着目して、それらの文法事項をそれなりに整然と記載している。やはり、こういった教科書中心に学ばせる必要性を感じた。特に塾に来ている高校生は、学校の先生と、塾の先生が教えているわけで(しかも、毎年先生がかわりうる)、それぞれの先生はふつう多少なりとも違った説明の仕方をする。その時、教科書を使わないで学んでいけば、まさにバラバラな、何のつながりもない知識として蓄積されていく(あるいは忘却されていく)だけである。教科書を中心とした学びをすることによって、すなわち各先生の説明を教科書の全体像の中に位置付けながら理解することによって、それなりに筋の通った、一つのまとまりのある知識として定着していくのではないかと思った。基本の重視ということに関しても、最近、三年生の英文法の学び方(問題集中心)を観察していて、「これは違うのではないか?」と疑問に思っていたことと、まさに二重写しになった。詳しくは、また別の機会に書きたい。

今後、僕自身が心理学を学んでいく際にも、ここで紹介されていた教科書中心、基本中心の学び方を参考にさせてもらおうと思う。


3 本田克也  エンゲルス 『フォイエルバッハ論』 にみる、
               ヘーゲル哲学の真の学問的意義とは
        ―自然科学の新時代はいかにして拓かれたか

自然科学の革命的発展に、ヘーゲル哲学が大きく寄与したいたことが説かれている。すなわち、「あらゆる個別科学の土台になることこそが、いわゆる哲学の意義なのである」として、19世紀の三大発見を例に挙げて、詳細に説明されているのである。

『ヘーゲル論』ではなく『フォイエルバッハ論』である理由、19世紀の三大発見は、エンゲルスのいうように純粋な自然研究から出てきたのではなくヘーゲル哲学の偉大なる精華であること、「ヘーゲルとともに哲学は終結する」のではなく、エンゲルスこそ「ヘーゲルとともに哲学を終結させた」張本人であること、『フォイエルバッハ論』の最後の部分「ドイツの労働運動は、ドイツ古典哲学の相続者である」が苦しまぎれの弁明であること、などがよく分かった。

かつてヘーゲル哲学の上に自然科学が花開いたように、21世紀には南郷哲学の上にあらゆる個別科学が花開く予感がする。


1 近藤成美  マルクス「国家論」の原点を問う(2)
        ―ヘーゲルから継承した市民社会と国家の
         二重性について

クノーの『マルクス歴史・社会・国家学説』を取り上げて、<市民社会>とは何かを問う展開になっているが、難しい。まずヘーゲルの論が理解できないから、それがどうマルクスに継承されているのか分からないのだと思う。

全く内容とは関係ないことだが、僕は何故か近藤成美氏がけっこう若いのだと勝手に思いこんでいたのだが、このクノーの著作を初めて手にしたのが30年以上も前ということであるから、僕の想像よりは上なようだ。


2 加納哲邦  学的国家論への序章(2)
        ―滝村国家論を問う

この論文は、ヘーゲルを全面的に取り上げているためか、ちょっと分かりにくい。すっと入ってこない感じが何となくする。文章は、どことなく自信なさげな気がする(こんなことをいうと前蹴りを食らわせられるかもしれないが)。ともかく、くり返して読み込むほかない。


4 悠季真理  古代ギリシャの学問とは何か(2)
5 悠季真理  古代ギリシャ哲学、その学び方への招待(2)

「お前などに分かるわけがない」と言われるかもしれないが、この悠季真理氏、凄まじいまでの実力を把持されている気がする。「編集後記」には、学問的古典の「新訳(正訳)をと志している」とあり、自身の論文の中に引用しているクセノフォン、プラトン、ディオゲネス・ラエルティオス、カント、ダーウィン、ゲオルグリス(現代のギリシャ人研究者)などは全て古代ギリシャ語、ドイツ語、英語、現代ギリシャ語の原書から直接訳している(引用後の「筆者訳」の文字が格好いい)。しかし僕のいう「凄まじいまでの実力」とは、こういった語学力のことではない。直観的に、何か凄まじい哲学力といったようなものを感じるのだ。

それはともかく、前者の論文からは、古代ギリシャにおける「テオーリア」が実践と切り離されたものではなかったことを学んだ。すなわち、「あくまでも、日々生じるポリスにかかわる諸問題を扱う過程で、それらの問題解決に成功したり、あるいは失敗し、さらなる問題が生じてきたりするなどということを連綿と続けていくなかで、徐々に思索を深めていった」ということである。このことが、認識論的にも説かれている。

後者の論文には、古代ギリシャにおける対話とはいかなるものであったかが説かれている。これを読んで、長年の疑問が少し解消した。その疑問とは、「ソクラテスはあえていいますと、文章を書くほどの頭脳になっていなかった」、プラトンで「やっと学問としての言葉を書く文字に転化できるレベルの発展を自分の脳細胞にもたらした」、そしてアリストテレスのは「見事な論文体」(以上、南郷継正『弁証法・認識論への道』pp.158-159)である、というのはどういうことか、ということである。ところが、紹介されている三つの対話を読むことによって、文章を書くほどの頭脳になっていなかったというソクラテスのレベルが、アバウトにイメージできたのである。

悠季真理氏の論文は、次回も非常に楽しみだ。僕が(現在の)京都大学では見出すことができなかった真の哲学が、ここにはある!! そんな気がしている。


7 諸星史文  学問形成のために問う医学の歴史(2)
        ―医学史とは何か

現在「医学史」とされている書物の中身は、医療史レベルでしかないという内容。


8 小田康友  日本近代医学教育百五十年の歴史を問う
        ―医学教育論序説

読みやすかった。戦前日本における西洋哲学者の実力が高かったことにも触れられている。田邊元(これは悠季氏の正訳を待つまでもなく、日本人であるから、その著作は日本語で書かれており誤訳の心配はない)を読まねば、と思った。


9 北嶋  淳  人間一般から説く障害児教育とは何か

心理学ともかぶりそうな内容で興味深い。『育児の認識学』の論理でもって、視知覚異常と、その指導方法の意味を説いている。筆者は、歳をとってから空手を教わり始めたらしい。


10 横田政夫  近代建築運動における機能主義重視の欠陥
        ―機能主義とは何か
 
創って使うの論理が、見事に建築一般論に適用されている。ヘーゲル『美学』の引用もある(さすがに筆者訳ではないが)。


11 井上真紀  施身聞偈(悟りへの道を考える)

『本生譚』の一話を改作した物語。論文ではない。小説形式で、悟りへの道が考察されているという感じか。


12 田熊叢雪  現代武道を問う 〔T〕 ―居合とは何か(2)

技を見る実力について触れられている。素人には見えないものが見える、それが専門家である。居合をやりたくなる論文だ。
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2005年08月11日

セーラー万年筆 銘木シリーズ 黒檀

セーラーの銘木シリーズ「黒檀」(中字)を購入した。

kokudan.jpg

特製の桐箱に入っている。

kiribako.jpg

おもむろにコンバーターを装着して、ジェントルインク「ブルー」を吸入する。失敗。。。少しこぼれてしまった。

こぼれたインクを拭き取り、いざ書いてみる。初めは南郷継正師範の文章を、と決めていたので、今日届いたばかりの『学城(ZA-KHEM,sp)第2号』の巻頭言を写す。初めの印象は「太い!」である。これまで使っていたパイロットのカヴァリエ(細字)よりも、かなり太い。そして「暗い!」。パイロットのブルーインクよりも、かなり黒っぽい。下の文字で、右が今回購入したセーラーの黒檀、左が以前から持っているパイロットのカヴァリエである。

hisseki.JPG

書き比べると、黒檀の書き味の滑らかさが際だつ。まるで紙に触れていないかのような感触である。滑るようだ!! それに比べてカヴァリエは、ガリガリ感がある。

この黒檀は、セーラーが出している35万〜100万の最高級万年筆のベースとなっているものである。これらの万年筆は蒔絵が施されており、その芸術性故にそこまで高額となっているのだが、芸術性を無視すれば、最上級の万年筆と同じといってもよいと思う。最上級モデルのベースとなっているのだから、黒檀の基本性能や品質に、メーカーとしても相当の自信があるに違いない。今回黒檀を購入した理由もそこにある。

自分にあった万年筆になるように、しっかりと使い込んでいきたい。毎日の思索をノートにまとめたり、南郷師範や三浦さんの論文を筆写したりする際に使うつもりである。

折を見て、セーラーのペンクリニックに持っていきたいと思っている。また、自分の字が下手すぎるので、通信講座でペン習字でも始めようかと、現在思案中である。
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2005年08月06日

夏休み講習――英文法の構造

塾では夏休み講習の真っ只中。夏休み講習から参加している生徒もいるが、元から塾に来ている生徒との差が大きく、非常にやりにくい。

例えば品詞。英語では動詞の他に重要な品詞として、名詞、形容詞、副詞があり、この三つがしっかり区別できるかどうかが、英語が読めるかどうかの分水嶺となるといってもよい。単に単語レベルで識別できるだけでなく、カタマリとして、すなわち句や節のレベルでも、しっかり区別できることが重要である。句や節のレベルに限定するなら、名詞とは主語や目的語、補語(すなわち文の要素)になるカタマリであり、形容詞とは直前の名詞を修飾(詳しく説明)するカタマリであり、副詞とはそれ以外のカタマリ(主に動詞を修飾するカタマリ)である。今日の授業で、新しく入ってきた生徒はこれらの区別がしっかりとできていないことが判明した。

念のために確認しておこう。句とはカタマリとして名詞、形容詞、副詞の働きをするものの中で、主語・述語の関係を含まないものである。準動詞句と前置詞句がある。準動詞とは、動詞であるにもかかわらず、名詞、形容詞、副詞として働くものの総称であり、不定詞、分詞、動名詞に分類される。不定詞は名詞、形容詞、副詞の働き、分詞は形容詞、副詞の働き、動名詞は名詞の働きをする。前置詞句は形容詞か副詞の働きをする。

節とはカタマリとして名詞、形容詞、副詞の働きをするものの中で、主語・述語の関係を含むものである。名詞節を導くものとしては、that、if、間接疑問文を導く疑問詞、それに関係代名詞のwhatなどがある。形容詞節を導くものは、大半の関係詞である。残りの接続詞はほぼ副詞節を導くと考えてよい。

こういった英文法の基礎的部分がしっかり理解できていないと、英文法=暗記になってしまう。これでは英語嫌いになるのも当然だ。

持論では、英文法は二種類に大別される。一つは英文読解に必要な英文法であり、もう一つが大学入試の文法問題を解くための英文法である。前者は英語という言語の基礎的なルールのことであり、その中でも五文型と品詞の知識が特に重要となる。後者は「受験英語」として非難の対象となっているような些末な文法知識のことであるが、大学受験のためには必須である。

ここで重要な視点は、前者を基本技としてとらえ、後者をその変化と見ることである。大学受験という敵に立ち向かう際に、数多くの技を丸暗記して臨むのではなく、基本技を徹底的にくり返して完璧にマスターした上で、その基本技を変化させて対応するのである。

まだ具体的には説けないが、英文法の分厚い問題集などをくり返して憶えようとしている受験生を見ると、ちょっとかわいそうになってくる。確かにそういう問題集は、文法問題を解くための文法事項が網羅してあり、憶えることができれば文法問題で高得点が期待できる。しかし、そんなに大量の知識を丸暗記する必要はないのである。事実僕は、文法の問題集としては予備校の薄いテキストを完璧にこなしただけで、センター試験は満点、二次試験の英文和訳・和文英訳でも、文法的に困ることは全くなかった。簡単にいえば、基礎(この基礎も、応用が利く基礎、使える基礎、ということだが)をしっかりとしていれば応用が利くのである。このことを僕の教え子にもわかってもらいたいと思って、授業をしている。

ところで、夏休み講習では、休んだ生徒の補習をしている。補習は、二回目の授業ということで、かなり余裕を持って、しかも前回の反省を活かした授業ができる。補習をしている間に、「ああ、一回目の授業のときは、ここを丁寧に解説していなかったから、分かりにくくなっていただろうな」などと気づくこともしばしばである。立て続けに二回も同じ内容を教えると、その単元の教え方がそれなりに洗練されて、定着する。一年目の僕にとっては、いい修行になっていると思う。
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2005年08月03日

セーラーの万年筆

セーラーの万年筆を買おうと、近くにある文房具屋に行った。僕と同じくらいの若い店員が熱心にいろいろと解説してくれた。万年筆に対するこだわりや愛情が感じられて、好感を持った。

セーラー万年筆には、長刀研ぎといって、通常のペン先に比べ刀の剣先のように長く研ぎ出したペンポイントを持つものがある。ペンポイントにはイリドスミンなど、非常に硬く磨耗に強い白金族系の合金が使われている。通常は丸いこのペンポイントを研磨して少し尖った形にするのだという。熟練した技が必要で、これができる職人はセーラーにも一人か二人しかいない。長刀研ぎは、漢字、ひらがな、カタカナと様々なタイプの文字を持つ日本語を書く際に適しているといわれているが、人によっては書きにくく感じる人もいるらしい。残念ながら店頭にはなかったので、試し書きができなかった。まあ、長刀研ぎにすると、かなり費用がかさんでしまうので、まずは普通のタイプにしようかと思う。

なお、そのほかに、エンペラーやコンコルドなどといった特殊仕様のペン先もあるが、あまりお勧めできないとおっしゃっていた。

セーラーは今年になってから極黒(きわぐろ)という顔料系のインクを出したので、これについても伺ってみた。インクは昔、ブルーブラックが主流だった。これは顔料を含むインクということで、耐水性や防水度がすぐれているものの、かなり粒子が粗く、固まりやすかった。目詰まりも多かったらしい。こういった問題点を改善すべく登場したのが極黒である。しかし、顔料系なので、水性のインクよりはケアがたいへんなことに変わりはないということだった。

この店員さんのお話の中で、一番印象に残ったのは、軸が純銀でできている万年筆についての話だった。こういったタイプのものは、使い込んでいくうちに、燻し銀のように灰色っぽく味わい深いものになっていくのだという。想像しただけで楽しくなってくる。この店員さんも愛用されているらしい。定価が35000円と少し値が張るが、思い切って買ってみようかと思っている。

今回は万年筆の購入は見送ったが、以前から使っているパイロットのガヴァリエ用に、コンバアターとボトル入りのブルーインクを購入した。カートリッジもまだまだ残っているが、ちょっとチャッチイので、吸入式を試してみたい。
posted by 寄筆一元 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする