2011年09月05日

科学史の本3冊

 科学の歴史の勉強といえば,南郷継正先生や瀬江千史先生が推薦されているシュテーリヒ『西洋科学史』(現代教養文庫)に勝るものはないだろう。しかし,この書は全5冊と膨大である。今まで何度か通読したが,全然頭に入らない。
 そこで,まずは『西洋科学史』を否定して,もっと薄い科学史の本を読んで全体像をアバウトに描いた上で,さらにそこを否定して『西洋科学史』に戻るという計画を立てた。否定の否定の実践である。
 そこで,以下の3冊をとりあえず読んでみた。


 

 1冊目は,中山茂『パラダイムでたどる科学の歴史』(ベレ出版)である。単純に新しかったのと,「パラダイムでたどる」というのに惹かれたから買ってみた。クーン『科学革命の構造』の訳者でもある中山氏によると,パラダイムとは「一定の期間、科学上の問い方と答え方のお手本を与えるような古典的な業績」ということである。
 認識論的にいうならば,パラダイムとは科学界の社会的認識ということであろう。あるいは,その社会的認識の「前提」といえるかもしれない。こういう観点から科学史を眺めると,膨大な事実もある程度整理できそうである。
 唯物史観の批判もあり,なかなか興味深かった。



 

 2冊目は,八杉龍一『図解 科学の歴史』(東京教学社)である。これはずっと以前から持っていた。120ページとコンパクトな上に,ページの上半分以上は図解が占めており,文章が少ない。目次は以下である。

序 章 歴史の概観
第1章 宇宙観の歴史
第2章 物質観の歴史
第3章 生命観の歴史
第4章 技術の歴史
第5章 日本の科学の歩み

 見ていただければ分かるように,通史ではなく,テーマ別の構成となっている。「○○観の歴史」というのが主要な柱になっているのが興味深い。
 これはレジュメ代わりに使えると感じた。ここに載っている科学者やその業績くらいは,しっかり流れてとしてイメージできるようにしなければならない。
 ちなみに著者の八杉龍一は,『学城』第7号,第8号でも取り上げられているほどの有名人。生物学史研究の第一人者ということである。




 最後は,磯直道『科学思想史入門』(東京教学社)である。東京教学社のHPでその存在を知った。アマゾンの紹介には以下のようにある。
「新しい目で科学思想の流れを眺めた、「科学概論」あるいは「科学思想史」の入門書。自然科学・社会科学・人文科学の三分野の相互理解と共同の必要性を踏まえて、人間の思考の歴史を眺めたものである。」
 ここにあるように,自然科学だけでなく,社会科学・人文科学も,さらには哲学をもその射程に入れている。これを一人で書いて,さらに引用文献は,邦訳のあるものは全て読んだというからたいしたものである。
 構成は通史であるが,それぞれの章のはじめに年表があり,各節の最後には簡単なまとめがついている。これが歴史の流れを理解する助けになる。また,節以下の見出しも秀逸で,これだけを抜粋してレジュメを作ろうかと思っている。


 他にもたくさん購入したが,それは追々紹介することにしたい。とりあえずこの3冊くらいでレジュメを作って,科学史の大雑把な流れをしっかり描けるようにしたいと思う。

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2011年08月28日

『学城』第8号

 『学城』第8号,まさに畏るべき内容だ。

 ドイツ観念論が19世紀ドイツの精神的な支柱となり,その後のドイツにおける科学革命を準備したように,『学城』はまさに21世紀日本における精神的支柱として,当面の間我が国の文化をリードすることになるのは間違いないだろう。何よりも,その論理的一貫性に震えるほどの感動を覚える。

 今回一番印象に残ったのは,討論の重要性である。日本弁証法論理学研究会の先生方は,何十年にもわたる学的討論を積み重ねてこられた結果の,現在の実力の高みなのである。それはまさに,古代ギリシャからの学問の発展過程を論理的に辿り返された結果であろう。阿呆みたいな者とくだらぬやりとりをしても全く学問的討論とはならないが,責任ある立場の人間との命がけともいえる討論は,論理能力の養成にとって必須であるということが,悠季論文・本田論文を通して実感的につかめた。これが今回の一番の収穫であるといってもいいかもしれない。

 それにしても,私にとってここまで強烈なあこがれを抱かせる存在というのは,人類の全歴史を振り返っても存在しないといえる。なんなの,瀬江千史先生のあの流れるような,1oの引っかかりもないようななめらかな論理の展開は! 西田幾多郎・田邊元の伝統を引き継ぐはずの大学ですら全く見られなかった本物の哲学を説くところのあの悠季真理論文の見事さ! こういっては失礼に当たるかもしれないが,北島先生・志垣先生には,どことなくシンパシーを感じる。ダーウィンやオパーリンを手玉に取る浅野先生・本田先生の実力の高み! そして,こういった学者先生を育て上げられた南郷継正先生の偉大さ!!

 『学城』第8号掲載論文についての感想は,わが京都弁証法認識論研究会のブログに近々公開したい。われわれは日本弁証法認識論研究会に一歩でも近づくべく,研鑽あるのみである。
posted by 寄筆一元 at 22:27| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月10日

ノートカバー購入



 いつも持ち歩いているA5ノートが終わりに近づいたので,新年度ということもあって,新しいノートを購入した。購入したのは,今まで使っていたものと同じ,ライフのノーブルノート(A5横罫)である。線の幅が8oで,中字の万年筆でも十分書ける。紙質は万年筆のインクとも相性がよく書きやすい。

 今まではA5のブックカバーをつけて使っていたが,今回はノートカバーもセットで購入した。キングジム レザフェスノートカバー(A5 黒)である。これはなかなかいい。まず,カバー自体がけっこう分厚くてしっかりしているので,モールスキンのカバーのように硬くて,台がなくてもノートに字がきちんと書ける。次に,付箋を貼るためのプラスチックボードがついている。これは栞代わりにもなる。もっとも,栞も2本付いているが。第3に,ファスナーつきのポケットが付いており,付箋やちょっとした小物を収容できる。けっこう気に入った。

 ところで,ライフのノーブルノートは100シートである。今使い終わったノートは2009年3月から使っているから,ほぼ2年使ったことになる。この機にぱらぱら読み返してみると,単なる事実の記載もあるが,いいことも書いてある。やはり,ノートなど自分の書いたものは読み返して,そのレベルをしっかり自分の常識としていく必要があると実感した。

 「心に青雲」2011年4月8日付の記事「落ちては登る」では,南郷先生の言葉が引用されている。南郷先生は日記について,次のようにおっしゃっているそうだ。

「日記は2〜3ヶ月後に読み返せ。そうすれば今の自分が書いた時より落ちていることがわかる。そして落ちては登るものだ」

 なるほど,もっと短い間隔で読み返して,書くという労働(自己疎外)によって一時的に高まった自分の実力を,しっかり定着化させる努力も欠かせないようだ。

 新年度になり,仕事場のパソコンで古いファイルを整理していた。すると,約一年前に書いた心理検査の所見が目にとまった。自分でいうのも変だが,かなりハイレベルの所見だった。それに比べて最近は,単なるルーティン的に所見を書いているような気がする。しっかり反省して,「登る」努力が必要だ。

 今回購入した発見の手帳=書き慣れノートは,最低でも1年間で使い切ろう。寝る前か,朝起きてすぐにでもノートに向かい,思索を綴っていくことを量質転化させていきたい。

posted by 寄筆一元 at 13:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月18日

誤字の指摘を自分の「成果」と強調する椿君

 相互浸透しないように上から目線でいこう。

 天寿堂の掲示板に自らの作文を投稿し続ける椿君。読むつもりはなかったが,たまたま目に入った箇所で面白いことを書いていた。

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「最後に、少々場違いではありますが「心に青雲」から来られた方も多くいるようなので、少しあのブログについての注意を促したいと思います。

というのも、彼は平然と「捏造」をし「他人の成果を盗む」ような人間のようなのです。以前、1月24日付け「漢字は魂を創り仮名は心を創る」の記事で、
『外国人には、「日本に来たいのなら日本語を理解できるようにしろ」で良いではないか。』
という一文が投稿された当初は「理解」が「理系」になっていました。日本語の大切さを語る内容の記事にそのような誤植があっては締りが出ませんよ、という旨のコメントを書いたのですが、そのコメントは掲載もされず、ただひっそりと誤植が訂正されていました。

そして今回の記事「感情の癌化(下)」でも「内弁慶」なる人物がコメントしていますが、どう考えても「物理系」の人間ではありません。何せ、一つ前の記事書かれている科学的な内容は科学界では「常識」であり、それを否定するような研究者はそもそも仕事が出来るレベルではない事になります。恐らく、全く物理を知らない人間が成りすまして書き込んだのかと。」

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 彼は誤字の指摘を自分の「成果」と呼んでいる。彼の「成果」とはこの低度のものらしい。また,かのブログに対して誤字を指摘する人が他にもいるのではないか,などと想像をめぐらすことは,彼の能力を超えているようだ。ブログ筆者本人が読み返して気が付く,ということも,彼にとっては思いも浮かばないことらしい。

 自分の想像力のなさを棚に上げて,自分の恥ずかしい「成果」のみを主張する彼は,滑稽を通り越してもはや哀れである。

 また彼は次のようにも書いている。

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「それから、私は私自身しっかりと「結果」を残していますよ。大した結果ではないですが、他人の批判的な目を持ってしてもそこに確かにある「結果」です。しかし、南郷学派の人間は・・・南郷先生や、愚按亭主様は、本当に「結果」を残しているのでしょうか?そもそも「結果」とはその組織や団体に所属していない人間が見て初めて判断できるものです。考えてもみてください。「私は透明人間になれるが、誰も見ていないときしか出来ない」という人間が、「結果」を残したといえるのでしょうか?

もちろん、南郷学派の出している「学城」という雑誌があるのは知っています。しかし、それを評価する他の組織や団体はあるのですか?それ以外に南郷先生自身を評価する南郷学派に所属していない人間は?」
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 実際にそういう人が登場しているにもかかわらず,先の引用部分にあるように,その人を「成りすまし」と判断している。彼には「南郷先生を評価するのは南郷学派のものだけ」という妄想が存在するため,南郷先生を評価する部外者が現れれば,事実を認めることなく,自分の妄想を大切にしてウソだと断定するわけだ。

 自分が「成りすまし」をしたり,ウソをついたりしているからこそ,相手の意図を誤解して,いわゆる下種の勘ぐりによって,相手も「成りすまし」ているのだ,ウソをついているのだ,と判断してしまうのである。認識論的にいうと,自分の自分化である。これについては,われわれ京都弁証法認識論研究会のブログにおいて説いておいた。

 あるいは,彼の頭の中では南郷先生を評価する人は自動的に南郷学派と規定されるのだろう。私は南郷先生をこの上なく尊敬し,憧れを持って学びつづけているが,玄和会会員ではない。その私も,彼から見れば南郷学派,ということになるのかもしれない。南郷先生を評価する人,すなわち南郷学派という等式が成り立つのなら,確かに「南郷先生を評価するのは南郷学派のものだけ」ということになるわけだ。面白い屁理屈だ。

 誤字を指摘するという「結果」を残して,それを誇らしげに作文に書く椿君は,私の予想では一流大学受験に失敗した上に,心機一転入会した玄和会でも挫折した(だから筋違いの恨みをもち執拗に南郷先生を否定する作文を書く)引きこもり君だろう。現実世界では誰も相手にしてくれないのに,ネット上では相手をしてくれる人物がいるものだから,ブルーバックスか何かで仕入れた知識を元に,恥知らずな作文を書き続けているものと想像される。

 おそらく,以前このブログに阿呆なことを書いてきた上に,私が否定しても私が玄和会会員であると頑なに主張していた妄想君と同一人物であろう。こういったら差別になるかもしれないが,精神病の方は自分が恥ずかしいことをしているという自覚がない。「恥ずかしい」というような社会性が欠如しているのだ。

 不快この上ない彼であったが,認識論の材料としては1つのケースとして役に立ったかもしれない。

posted by 寄筆一元 at 18:52| Comment(4) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月14日

日本酒を楽しめるお店の条件

京都には日本酒を楽しめるお店(居酒屋)がたくさんある。関東から来られた方にうかがうと,日本酒に関しては,関東ではあり得ないくらいの充実度のお店が多いということである。十四代や東一など,全国的に有名な銘柄を揃えているお店も多いし,こだわりの地酒を置いている店や,隠しメニューを用意している店もある。このような多様な銘柄を揃えているというのは,日本酒を楽しむ際の最低条件といえるだろう。いくらおいしい地酒でも,1種類しかないとなれば飲み比べることができないので。では,それ以外に,日本酒を楽しめるお店の条件としてはどんなことが挙げられるだろうか? 個人的には,次の3つの条件はクリアーしてほしいところである。

第1に,テーブルまで瓶を持ってきて,その場で注いでくれる,ということである。これはきわめて常識的でありながら,非常に大切な点である。もし店の奥で注いで持ってくるのであれば,それが本当に注文したお酒であるかどうか,確認のしようがない。もちろん,飲み慣れているお酒であれば,味でもってその銘柄を判別することも可能である。しかし,はじめて味わうお酒であるとか,季節限定のお酒であるとかいった場合は,実際に瓶で確認しないことには本物であるかどうかしっかりと確認することができないのである。さらに,瓶に貼ってあるラベルも重要だ。「黒龍」とか「臥龍梅」とかいった銘柄名が,見事な筆さばきで書かれていれば,それだけでその酒のレベルが分かるというものである。ラベルはその酒の顔であり,杜氏や酒蔵の思想性の表現という一面を持っているのである。これを味わうためにも,テーブルまで瓶を持ってきて,その場で注ぎ,しばらく瓶をテーブルにおいていてくれるお店が理想的である。

第2に,日本酒と同時にお冷やを持ってきてくれるという点である。日本酒というものは,水と交互に飲むものなのである。なぜか? 一つには,酔わないように,酔いを穏やかにするように,するためである。特にこだわりのお店がおいている「原酒」と呼ばれる種類の日本酒は,通常の日本酒よりもアルコール度数が高く,適宜水を飲んでいかないと,すぐに酔ってしまうことになる。また,日本酒を飲む場合は,がつがつと料理を食べるというようなことはないから,余計に酔いやすい条件がある。したがって,この意味からも水を飲むことは大切だということになる。水を飲む2つ目の理由は,違う種類のお酒を飲む際に,一度舌をリセットする必要があるからである。続けて別の種類のお酒を飲んでしまうと,舌に前のお酒の余韻が残ってしまっており,後に飲んだお酒の純粋な味がよくわからなくなってしまうのである。そのために,一度水を口に含んでリセットする必要があるのである。

日本酒を楽しめるお店の条件の第3は,日本酒に関しての社員教育を徹底しており,店員が日本酒について知識を豊富に持っている,ということである。注文をとりに来る店員に,「お勧めの日本酒は?」とか,「フルーティーな感じのを飲みたいのですが」とかいった場合,「では,これがお勧めです」と自信を持っていえるようでないと,安心して日本酒を楽しめない。「ちょっと分かる者に聞いてきます」とかいわれるようでは,白けてしまう。店に置いているお酒の特徴をしっかり把握して,適切に言語表現できる,店員の1人1人がそのようなレベルのお店は,店主の教育が行き届いているといえるだろう。そのようなお店なら,店員の方と相談して,今まで飲んだことのないお酒でも安心して挑戦できるし,日本酒の奥深さ,文化の高みといったものを,新たに発見できる可能性も広がるというものである。

以上,日本酒を楽しめるお店の条件を3つ挙げた。テーブルまで瓶を持ってきて注いでくれること,お冷やを一緒に持ってきてくれること,店員が日本酒に関しての知識を十分に持ち合わせていること,の3点であった。昨日例会後に行った行きつけのお店は,見事にこの3つの条件を満たしている。何年か前に初めて行ったときには,お冷やは持ってきてくれなかったのだが,こちらからの注文ということで指摘すると,すぐに取り入れてくれたようだ。次からは,何も言わなくてもお冷やを持ってきてくれるようになった。当然,瓶はテーブルにしばらく置いていてくれるし,店員の知識も十分だ。昨日も,斉藤酒造の「やどりぎ」という,そこら辺には売っていないお酒を勧めてくれた。しかも,酵母だけ違う二種類の「やどりぎ」を飲み比べてみてはどうか,と提案してくれたのである。この2つを飲み比べることによって,酵母の違いによる特殊性と同時に,「やどりぎ」一般のイメージもヨリ広がった。その後,「やどりぎ」とは全く別の,逆系統のお酒を注文したところ,「しっかりとした味の辛口のお酒ですね」といって,「花垣」という福井のお酒を持ってきてくれた。この言葉を聞いただけで日本酒が分かっている人だと安心したことであった。案の定,初めて飲んだ「花垣」はしっかりとした味わい深いお酒だった。お漬け物などのつまみと,日本酒を計3合飲んだにもかかわらず,3000円ちょっとというかなり良心的な値段で,その点でも好感が持てた。

このお店のようなレベルのお店を他にも開拓していきたいものである。
posted by 寄筆一元 at 20:48| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月01日

本物と偽物

1日2食健康法というサイトの「豆腐を食べる」というページに,豆腐の選び方が書いてあった。簡単にいうと,原材料が「大豆,にがり」だけのものを選ぶように,とのことである。「原材料に2つしか書いていなければ,その豆腐は味も品質も保証できる」ということである。

今までに購入していた一丁40円程度の安い豆腐は,この基準を満たしていなかった。豆腐とはいえない代物を食べていたわけだ。日本酒でいうと,紙パックに入っているようなアルコールを,「日本酒」だと思って飲んでいたようなものだろう。これらのニセモノは確かに安いが,しかしそれらは豆腐ではないし日本酒でもない。缶コーヒーが本物の珈琲ではないのと同様である。

ニセモノの日本酒は紙パックに入っていることが多いし,缶コーヒーも缶に入っているから,現象的にも本物との違いが明確である。しかし,豆腐はニセモノでも本物でも現象的な違いはない(といってよいくらいだろう)。これはタチが悪い。「ガラスの玉は,本物の真珠をきどるとき,はじめてニセモノとなる」とは,ディーツゲンの名言だが,「大豆,にがり」以外も含めてつくった「豆腐」は,豆腐をきどらずに,「ガラスの玉」的な自称を,きちんと名乗ってほしいものだ。

恥ずかしながら豆腐に本物とニセモノがあることを知らなかったが,日本酒に関しては長年親しんでいる関係上,本物とニセモノが存在することをよく知っていた。このようなよく知っているものごとに引きつけて考えると,よく理解できる。これが論理的に考えるということの一例であろう。これからも,日本酒で一点突破的に創り上げた論理でもって,さまざまな対象の本物とニセモノを見分ける努力をしていきたい。
posted by 寄筆一元 at 18:02| Comment(0) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月28日

大学院生活1年目

本当に久しぶりの日記。忘れないうちに大学院一年目の日常生活がどのようなものであったかを記録しておく。

後期の基本的な時間割をまずは提示する。なお,1限は9:00〜10:30,2限は10:40〜12:10,3限は13:00〜14:30,4限は14:40〜16:10,5限は16:20〜17:50である。

○月曜
 2.心理療法の授業
 3.ロールシャッハの授業
 4.臨床心理面接の授業
 5.ゼミ
 夜 某心理療法の勉強会@他大学

○火曜
 1.S1小学校での実習
 2.声・体・言葉の授業
 3.S2小学校での実習
 4.同上

○水曜
 2.情報の授業
 3.某先生のスーパーバイズ
 4.いろいろな分野の実践研究の授業
 5.ゼミの勉強会

○木曜
 1.精神医学の英語文献を読む授業
 2.ロールプレイの授業
 3.ケース・カンファレンス
 4.同上
 5.S1小学校の実習のシェア

○金曜
 1.ロールプレイ勉強会
 2.精神保健学演習の授業
 3.集団スーパーバイズ

以上,週1.5時間×21コマである(独自にやっている勉強会も入れているが)。大学院でこの授業コマ数,異常ではないか。しかもほとんど必修。授業に関しては,その日のうちに一時間以内で授業再現レポートを書いている。

土曜には会合や学会・研修会など,なんやかんやが入ってくる。学費を稼ぐためと一般教養の学び,認識論の学びのために家庭教師もやっている。

それでも土日の空いた時間や,平日の夜などには,主にレポートの作成やゼミ資料の作成を行ったり,カウンセリングや臨床心理学の本を読んだりしている。前期には心理テストの授業があって,これは毎週自分が被検者になってその心理テストを受け,それを解釈するレポートが課された。後期はロールシャッハ一本に絞られた授業であったが,2回ほどグループで発表する機会があり,その資料も作った。ゼミ資料というのは,修士論文作成のための先行研究のまとめや研究デザインの提示などである。ロールプレイの授業や勉強会では,カウンセラー役とクライエント役に分かれて模擬カウンセリングを行い,それを撮った映像をもとに逐語録をおこす。これもけっこう時間がかかる。

2月末から3月初めにかけては(つまりちょうど今頃は),授業のレポートや実習の記録のまとめが山のように課される。最高7つくらい課題がたまったこともある。またこの時期は,実際に相談にくるクライエントを,2年生から引き継ぐため,膨大な記録を読まなければならない。てんやわんやである。

何か,学部の時とは比べものにならないくらいに授業をこなすだけでいっぱいいっぱいの感じであった。

posted by 寄筆一元 at 23:38| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする