2013年04月11日

読者アンケート

 読者アンケートを実施いたします。ご協力いただければ幸いです。








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2013年01月18日

『三浦つとむ 意志論集 ――20世紀マルクス主義が欠落させたもの――』

 横須賀壽子さまより,『三浦つとむ 意志論集』(績文社)を贈っていただいた。かねてから予告されていた津田道夫編集・解説の新刊である。この時期に出版されたことは,私にとってなんらかの意味があるものと受け取って,しっかりと学んでいきたい。

 私にとって初見の論文が多数収録されているものと期待していたが,10論文のうち,初見は一つだけであった。それは,『試行』に掲載された「上部構造とはなにか」という論文である。他の9つは,すでに私が持っている著作に収められている。

 とはいえ,この時期に三浦つとむの意志に関する論文集が発刊された意味は大きい。意思は言うまでもなく,認識論の体系化を志す私にとっては,非常に重要なテーマである。さらに,心理臨床の仕事にとっても,意志の重要性は大きい。いわゆる「動機づけ」といって,クライエントが心理面接にどのくらい「やる気」をもって取り組んでくれるか,ということが,治療効果にも大きな影響を与えるからである。意志とは何かをふまえた上で,しっかりと相手の意志を評価し,相手の意志を育てていく働きかけが,心理臨床の実践においては不可欠なのである。

 三浦つとむの主著たる『認識と言語の理論』とともに,本書にしっかりと学び,人類の文化遺産をしっかりと修得したうえで,新たな知見を一つでも二つでもつけ加えたいと思う。
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2012年09月10日

現状

 非常に久しぶりの更新である。

 過去のブログ記事を読み返してみると,自分の辿ってきた道の記録として,それなりの意味があるように感じた。今後は,現状の記録と,「京都弁証法認識論研究会のブログ」に投稿した自分の小論を,そのまま掲載したり,新たに説き直したり,解説を加えた記事を書いてみたりすることも試みたい。あるいは,心理臨床の分野で読了した書籍の紹介をしたり,現状の日記を物したりすることも,後々の役に立ちそうだ。

 現在は,大学院時代の恩師から,ワークショップの講師に誘われて,非常にありがたいと思っているところである。やはり,何事も指導することによって分かってくるということは多い。このような機会を与えていただいたことに,感謝あるのみである。

 また,病院でのカウンセリングの件数が多くなってきたのもありがたいことである。何事も目的意識的に行う必要があるが,そうはいっても,経験も重要である。その意味で,自分の目的にかなった実践を積み重ねられるということは,とても有意義なことである。仕事が増えたといって愚痴るというようなことはなく,あくまでも自分の目的実現に有益だという観点で,仕事に励みたい。

 カウンセリングでは,特に不眠に対する介入を行って,かなりの成果を上げている。いままで全く眠れずに困っておられた患者さんの笑顔を見ることができて,心理臨床家冥利に尽きるというものである。今後とも,一人でも多くの患者さんの困りごとを何とか解決するための援助を行っていきたいものである。

 非常に個人的な出来事としては,結婚して新しい家を建てた。恵まれた環境に感謝したい。

 仕事は忙しく,様々な施設に出張することも多いが,それも貴重な経験である。ありがたいことに,いろいろな研修会や勉強会に,出張として出してもらっている。なかなか学生時代のように本を読むことに時間をとることはできないが,諸々の経験自体が貴重な経験であり,学びの場であると自覚して,一日一日の体験を大切に,目的意識的に過ごしていきたいと考えている,このごろである。
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2011年09月05日

科学史の本3冊

 科学の歴史の勉強といえば,南郷継正先生や瀬江千史先生が推薦されているシュテーリヒ『西洋科学史』(現代教養文庫)に勝るものはないだろう。しかし,この書は全5冊と膨大である。今まで何度か通読したが,全然頭に入らない。
 そこで,まずは『西洋科学史』を否定して,もっと薄い科学史の本を読んで全体像をアバウトに描いた上で,さらにそこを否定して『西洋科学史』に戻るという計画を立てた。否定の否定の実践である。
 そこで,以下の3冊をとりあえず読んでみた。


 

 1冊目は,中山茂『パラダイムでたどる科学の歴史』(ベレ出版)である。単純に新しかったのと,「パラダイムでたどる」というのに惹かれたから買ってみた。クーン『科学革命の構造』の訳者でもある中山氏によると,パラダイムとは「一定の期間、科学上の問い方と答え方のお手本を与えるような古典的な業績」ということである。
 認識論的にいうならば,パラダイムとは科学界の社会的認識ということであろう。あるいは,その社会的認識の「前提」といえるかもしれない。こういう観点から科学史を眺めると,膨大な事実もある程度整理できそうである。
 唯物史観の批判もあり,なかなか興味深かった。



 

 2冊目は,八杉龍一『図解 科学の歴史』(東京教学社)である。これはずっと以前から持っていた。120ページとコンパクトな上に,ページの上半分以上は図解が占めており,文章が少ない。目次は以下である。

序 章 歴史の概観
第1章 宇宙観の歴史
第2章 物質観の歴史
第3章 生命観の歴史
第4章 技術の歴史
第5章 日本の科学の歩み

 見ていただければ分かるように,通史ではなく,テーマ別の構成となっている。「○○観の歴史」というのが主要な柱になっているのが興味深い。
 これはレジュメ代わりに使えると感じた。ここに載っている科学者やその業績くらいは,しっかり流れてとしてイメージできるようにしなければならない。
 ちなみに著者の八杉龍一は,『学城』第7号,第8号でも取り上げられているほどの有名人。生物学史研究の第一人者ということである。




 最後は,磯直道『科学思想史入門』(東京教学社)である。東京教学社のHPでその存在を知った。アマゾンの紹介には以下のようにある。
「新しい目で科学思想の流れを眺めた、「科学概論」あるいは「科学思想史」の入門書。自然科学・社会科学・人文科学の三分野の相互理解と共同の必要性を踏まえて、人間の思考の歴史を眺めたものである。」
 ここにあるように,自然科学だけでなく,社会科学・人文科学も,さらには哲学をもその射程に入れている。これを一人で書いて,さらに引用文献は,邦訳のあるものは全て読んだというからたいしたものである。
 構成は通史であるが,それぞれの章のはじめに年表があり,各節の最後には簡単なまとめがついている。これが歴史の流れを理解する助けになる。また,節以下の見出しも秀逸で,これだけを抜粋してレジュメを作ろうかと思っている。


 他にもたくさん購入したが,それは追々紹介することにしたい。とりあえずこの3冊くらいでレジュメを作って,科学史の大雑把な流れをしっかり描けるようにしたいと思う。

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2011年08月28日

『学城』第8号

 『学城』第8号,まさに畏るべき内容だ。

 ドイツ観念論が19世紀ドイツの精神的な支柱となり,その後のドイツにおける科学革命を準備したように,『学城』はまさに21世紀日本における精神的支柱として,当面の間我が国の文化をリードすることになるのは間違いないだろう。何よりも,その論理的一貫性に震えるほどの感動を覚える。

 今回一番印象に残ったのは,討論の重要性である。日本弁証法論理学研究会の先生方は,何十年にもわたる学的討論を積み重ねてこられた結果の,現在の実力の高みなのである。それはまさに,古代ギリシャからの学問の発展過程を論理的に辿り返された結果であろう。阿呆みたいな者とくだらぬやりとりをしても全く学問的討論とはならないが,責任ある立場の人間との命がけともいえる討論は,論理能力の養成にとって必須であるということが,悠季論文・本田論文を通して実感的につかめた。これが今回の一番の収穫であるといってもいいかもしれない。

 それにしても,私にとってここまで強烈なあこがれを抱かせる存在というのは,人類の全歴史を振り返っても存在しないといえる。なんなの,瀬江千史先生のあの流れるような,1oの引っかかりもないようななめらかな論理の展開は! 西田幾多郎・田邊元の伝統を引き継ぐはずの大学ですら全く見られなかった本物の哲学を説くところのあの悠季真理論文の見事さ! こういっては失礼に当たるかもしれないが,北島先生・志垣先生には,どことなくシンパシーを感じる。ダーウィンやオパーリンを手玉に取る浅野先生・本田先生の実力の高み! そして,こういった学者先生を育て上げられた南郷継正先生の偉大さ!!

 『学城』第8号掲載論文についての感想は,わが京都弁証法認識論研究会のブログに近々公開したい。われわれは日本弁証法認識論研究会に一歩でも近づくべく,研鑽あるのみである。
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2011年04月10日

ノートカバー購入



 いつも持ち歩いているA5ノートが終わりに近づいたので,新年度ということもあって,新しいノートを購入した。購入したのは,今まで使っていたものと同じ,ライフのノーブルノート(A5横罫)である。線の幅が8oで,中字の万年筆でも十分書ける。紙質は万年筆のインクとも相性がよく書きやすい。

 今まではA5のブックカバーをつけて使っていたが,今回はノートカバーもセットで購入した。キングジム レザフェスノートカバー(A5 黒)である。これはなかなかいい。まず,カバー自体がけっこう分厚くてしっかりしているので,モールスキンのカバーのように硬くて,台がなくてもノートに字がきちんと書ける。次に,付箋を貼るためのプラスチックボードがついている。これは栞代わりにもなる。もっとも,栞も2本付いているが。第3に,ファスナーつきのポケットが付いており,付箋やちょっとした小物を収容できる。けっこう気に入った。

 ところで,ライフのノーブルノートは100シートである。今使い終わったノートは2009年3月から使っているから,ほぼ2年使ったことになる。この機にぱらぱら読み返してみると,単なる事実の記載もあるが,いいことも書いてある。やはり,ノートなど自分の書いたものは読み返して,そのレベルをしっかり自分の常識としていく必要があると実感した。

 「心に青雲」2011年4月8日付の記事「落ちては登る」では,南郷先生の言葉が引用されている。南郷先生は日記について,次のようにおっしゃっているそうだ。

「日記は2〜3ヶ月後に読み返せ。そうすれば今の自分が書いた時より落ちていることがわかる。そして落ちては登るものだ」

 なるほど,もっと短い間隔で読み返して,書くという労働(自己疎外)によって一時的に高まった自分の実力を,しっかり定着化させる努力も欠かせないようだ。

 新年度になり,仕事場のパソコンで古いファイルを整理していた。すると,約一年前に書いた心理検査の所見が目にとまった。自分でいうのも変だが,かなりハイレベルの所見だった。それに比べて最近は,単なるルーティン的に所見を書いているような気がする。しっかり反省して,「登る」努力が必要だ。

 今回購入した発見の手帳=書き慣れノートは,最低でも1年間で使い切ろう。寝る前か,朝起きてすぐにでもノートに向かい,思索を綴っていくことを量質転化させていきたい。

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2011年02月18日

誤字の指摘を自分の「成果」と強調する椿君

 相互浸透しないように上から目線でいこう。

 天寿堂の掲示板に自らの作文を投稿し続ける椿君。読むつもりはなかったが,たまたま目に入った箇所で面白いことを書いていた。

−−−−−−−−−−
「最後に、少々場違いではありますが「心に青雲」から来られた方も多くいるようなので、少しあのブログについての注意を促したいと思います。

というのも、彼は平然と「捏造」をし「他人の成果を盗む」ような人間のようなのです。以前、1月24日付け「漢字は魂を創り仮名は心を創る」の記事で、
『外国人には、「日本に来たいのなら日本語を理解できるようにしろ」で良いではないか。』
という一文が投稿された当初は「理解」が「理系」になっていました。日本語の大切さを語る内容の記事にそのような誤植があっては締りが出ませんよ、という旨のコメントを書いたのですが、そのコメントは掲載もされず、ただひっそりと誤植が訂正されていました。

そして今回の記事「感情の癌化(下)」でも「内弁慶」なる人物がコメントしていますが、どう考えても「物理系」の人間ではありません。何せ、一つ前の記事書かれている科学的な内容は科学界では「常識」であり、それを否定するような研究者はそもそも仕事が出来るレベルではない事になります。恐らく、全く物理を知らない人間が成りすまして書き込んだのかと。」

−−−−−−−−−−

 彼は誤字の指摘を自分の「成果」と呼んでいる。彼の「成果」とはこの低度のものらしい。また,かのブログに対して誤字を指摘する人が他にもいるのではないか,などと想像をめぐらすことは,彼の能力を超えているようだ。ブログ筆者本人が読み返して気が付く,ということも,彼にとっては思いも浮かばないことらしい。

 自分の想像力のなさを棚に上げて,自分の恥ずかしい「成果」のみを主張する彼は,滑稽を通り越してもはや哀れである。

 また彼は次のようにも書いている。

−−−−−−−−−−
「それから、私は私自身しっかりと「結果」を残していますよ。大した結果ではないですが、他人の批判的な目を持ってしてもそこに確かにある「結果」です。しかし、南郷学派の人間は・・・南郷先生や、愚按亭主様は、本当に「結果」を残しているのでしょうか?そもそも「結果」とはその組織や団体に所属していない人間が見て初めて判断できるものです。考えてもみてください。「私は透明人間になれるが、誰も見ていないときしか出来ない」という人間が、「結果」を残したといえるのでしょうか?

もちろん、南郷学派の出している「学城」という雑誌があるのは知っています。しかし、それを評価する他の組織や団体はあるのですか?それ以外に南郷先生自身を評価する南郷学派に所属していない人間は?」
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 実際にそういう人が登場しているにもかかわらず,先の引用部分にあるように,その人を「成りすまし」と判断している。彼には「南郷先生を評価するのは南郷学派のものだけ」という妄想が存在するため,南郷先生を評価する部外者が現れれば,事実を認めることなく,自分の妄想を大切にしてウソだと断定するわけだ。

 自分が「成りすまし」をしたり,ウソをついたりしているからこそ,相手の意図を誤解して,いわゆる下種の勘ぐりによって,相手も「成りすまし」ているのだ,ウソをついているのだ,と判断してしまうのである。認識論的にいうと,自分の自分化である。これについては,われわれ京都弁証法認識論研究会のブログにおいて説いておいた。

 あるいは,彼の頭の中では南郷先生を評価する人は自動的に南郷学派と規定されるのだろう。私は南郷先生をこの上なく尊敬し,憧れを持って学びつづけているが,玄和会会員ではない。その私も,彼から見れば南郷学派,ということになるのかもしれない。南郷先生を評価する人,すなわち南郷学派という等式が成り立つのなら,確かに「南郷先生を評価するのは南郷学派のものだけ」ということになるわけだ。面白い屁理屈だ。

 誤字を指摘するという「結果」を残して,それを誇らしげに作文に書く椿君は,私の予想では一流大学受験に失敗した上に,心機一転入会した玄和会でも挫折した(だから筋違いの恨みをもち執拗に南郷先生を否定する作文を書く)引きこもり君だろう。現実世界では誰も相手にしてくれないのに,ネット上では相手をしてくれる人物がいるものだから,ブルーバックスか何かで仕入れた知識を元に,恥知らずな作文を書き続けているものと想像される。

 おそらく,以前このブログに阿呆なことを書いてきた上に,私が否定しても私が玄和会会員であると頑なに主張していた妄想君と同一人物であろう。こういったら差別になるかもしれないが,精神病の方は自分が恥ずかしいことをしているという自覚がない。「恥ずかしい」というような社会性が欠如しているのだ。

 不快この上ない彼であったが,認識論の材料としては1つのケースとして役に立ったかもしれない。

posted by 寄筆一元 at 18:52| Comment(4) | TrackBack(0) | エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする